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弓木芽衣は明日を望む

弓木芽衣は明日を望む


 夕暮れの日差しが病室の窓から差す。


 手術を終えた巧は穏やかな顔をして眠っていた。搬送される時に青ざめていた顔とは違い、温かな血色に彼の呼吸の音が確かに聞こえる。


 血の気が引いていく彼の顔を思い出す度に、私は全身が恐怖に染まる。


 巧がいなくなったらどうしよう。


 私の大切な、守りたいと誓った弟を、私のせいで殺してしまったらどうしよう。言葉に言い表せない程の恐怖と、罪の意識は私の心を責め立てる。


 手術が終わっても安心出来ない私は、眠る巧の側を離れる事が出来なかった。夜が明けてもその心はザワザワとノイズを立てて眠る事を許さなかった。疲労に意識は朦朧とするが、目を閉じていても眠りは訪れない。ただ私の中の心の水がただ溢れていく。


 すると病室の扉が開く。


 音に敏感になっていた私はすぐに振り向く。するとそこには進藤がいた。


 安堵して息を吐くと、彼は「お疲れ様。巧の容態はどう?」と尋ねてきたが、心無しか進藤の顔は窶れた表情をしていた。


「とりあえずは落ち着いてるよ。麻酔が切れればそのうち目を覚ますって医師の先生は言ってた。」


 ぼんやりとした意識で答えると、


「そっか。弓木はどう?休めた?」


 と言葉を続けるので、私は「まあまあ‥かな。」と言葉を濁す。


 進藤は病室の丸椅子に腰掛けると、私の顔を気にかけるように覗く。


「やっぱり寝れてないみたいだな‥自分が巧君を見てるから、少し寝たらどう?病室じゃ横にはなれないけど‥」


 進藤は眠る巧を見てから、私に視線をやる。


「そうだね‥じゃあ‥ちょっとだけ‥」


 私はベッドの横に顔を伏せる。白い布団は無機質に私の重みに反発する。


 決して寝心地は良くないが、他に誰かがいるという安心感は私の心を軽くする。目を閉じて意識を預けると、私はそのまま眠りに入った。


 私は夢を見た。


 父のその目。


 その目だ。


 私を憎むその目。


 怒りと憎悪の感情を私にぶつけて来た父は、私の目を見て言った。


「お前のその目だ!!その目が憎い!!あの母親と同じ、裏切り者の目だ!!何度言ったら分かるんだ!!」


 直後、大の大人が振りかぶった拳に頬を殴られて、壁にぶつかる程の衝撃に頬は青く痣になり、口の中が切れた私は血の味を知った。


 酷く不味い。


 憎しみの味だ。


 あの時の美優の目は父と同じだった。人を憎んで、怒りを抑え切れない。そんな目だ。



 私はどこで間違えたのだろう。そう思った時、ベランダに出た美優の姿を見て私は「ダメ!」と叫びそうになった。私を殺そうとした、弟を殺そうとした、そんな美優を私はどこかで憎めずにいた。


 彼女は本当は孤独だったんだ。優しさが欲しかった。幸せになりたかった。彼女の気持ちは本当は私が一番分かっていたはずなのに。そう思うと、あの時の彼女の姿が、私の姿に重なって見える。

 


 一歩間違えたら、あの日人を刺していたのは、私だったかもしれないと。


 ベランダから落ちて行く。地面はすぐだ。それでも空は遠く青い。


 引き伸ばされたその数秒は浮遊感と落下していく事実の乖離に頭は混乱した。このまま空を掴めるかもしれない。伸ばした先は遠い。手を伸ばして、もがいて、それでも遠くにある空は綺麗で、この世の嫌な事を忘れられる。そうだ。私はどこか遠くへ‥


 強い衝撃を感じる間も無く私は目覚める。


 薄目を開くと私は蛍光灯の光が灯っている事に気づく。


 ゆっくりと上体を起こすと、進藤は両手を組んで目を閉じていた。窓の向こうは闇夜が広がり、街明かりがぽつぽつと見える。私の動きに気づいた進藤は目を開ける。


「起きた?もう大丈夫?」


 その言葉に私はまだどこかふわふわとした落ち着かない脳内を誤魔化す。


「うん。少し寝たら大分ね。」


 私は病室に掛けられていた時計を見る。時刻は既に21時を指し示していた。


「まずい!もう面会時間終わってる??」


 私の慌てて立ち上がる姿に進藤は余裕の表情で微笑む。


「大丈夫。看護師さんには許可取ってるから。あんまり遅くならないうちに帰るようには言われたけどね。」


「そうなのね。なら‥いっか‥」


 私はまた丸椅子に腰を下ろす。わずかな上下運動も、この体は鉛のように重い。吐き出した深い溜息は心の中に引っかかる憂いと一緒に吐き出てくれる事はない。


 むしろ積み重なるその感情は私の心をそのまま潰してしまいそうだ。


「なあ、今日も病院に泊まる気か?」


 進藤の言葉に私は頭が回らずに「うん‥そうかな‥」と返すと、進藤は心配そうに顔を顰める。


「なあ。さすがに二日連続で病院はきついだろ。行く当てとかないのか?」


 何気ないその言葉は私の心に突き刺さる。潰れかけた私の心は余裕なんてない。


「ないよ‥ないからここにいるんじゃん‥」


 棘のある私の言葉はどう聞こえただろう。可愛げのない奴と思われただろうか。私は怖くて進藤の顔を見れなかった。太ももの上で握り締められた私の手は震えていた。


 そう、私は酷く弱く、脆いのだ。


「ならさ‥」


 私は彼が続ける言葉を遮る。


「大丈夫!やっぱり今日はホテルにでも泊まる!さすがに明日は休むけど、明後日ぐらいからは学校行けるようにするから。大丈夫!ほんと‥大丈夫だからさ。」


 私はこれ以上この場に居たくなかった。これ以上居れば私の弱さを、脆さを、進藤に晒してしまうから。


「じゃあさ、また連絡するから!私は今日はこれで帰るね。お先に!」


 私は彼の返事を待たずに立ち上がると、逃げるように病室から出た。そうして速足で廊下を歩いて行く。立ち止まってはダメだ。今立ち止まったら、その場で動けなくなる事は分かっていた。もう心は限界だ。


 今すぐにでも、消えたい。


 この世から消えて、無くなりたい。


 私という存在がいない世界で、私の存在が忘れ去られた世界で、私が居ない事が当たり前の世界で、私は、私は‥



 夜道の住宅街を一人歩く。ほんとはホテルに行くお金なんてない。行く場所なんてない。このまま消えて無くなりたい。その一心で、私は駅へと向かう。


 駅にはまだ電車が通る、あの駅には通過電車が通るだろうか。一思いに跳ねてくれれば苦しむのも一瞬で済みそうだ。


 そう考えて私は坂道を下る。コンクリートのその道は滑り止めの為の丸いくぼみが施工された道だった。


 疲労でふらふらとおぼつかない私は丸いくぼみに足を取られた。


 前のめりに倒れた私はそのまま路傍にへたり込んだ。


 膝には血が滲み、手のひらには砂利と血が混じる。情けなさと悔しさと、悲しみ、苦しみ、孤独。


 色んな感情は私の心で溢れた。


「弓木!!」


 坂の上から声が聞こえた。暗がりに遠くの街灯から照らされた人影が私に近づいてくる。


「大丈夫か?バス停にいなかったから探したよ。転んだのか?今、手当を‥」


「どうして?」


「ん?どうしてって。そりゃ心配だから探しに‥」


「だから!どうして??」


 声を荒げた私に彼は呆気に取られたように目を見開いた。


 けれど、彼は怒ることも、見捨てることもない。そこで優しく口角を上げると無言で私の手のひらの砂利をペットボトルの水で洗い流すと、リュックから持ち出した絆創膏を貼る。


「あんまりさ、強がらなくていいよ。困った時、辛い時、疲れた時、しんどい時は誰にでもあるから。頼って良いんじゃないかな。少なくとも、自分は弓木に頼りにして欲しい。」


 私は進藤の顔を見れなかった。彼の胸に頭を着ける。


「本当は‥行くところない。ホテル行くお金もない。このまま死のうと思った。けど‥本当は、本当は、助けて欲しい‥」


 ポツポツと彼の服に落ちる涙が滲んで広がる。止められない涙は心の全てを吐き出していく。彼の肩口をぎゅっと握ると、彼は優しく私の手を包む。


 彼の手の感触が私の心に染み込んでいくようで、私の罪を許してくれるようで、私は彼の温もりに頼った。


 

「一緒に帰ろう。弓木の居場所はあるよ。だから絶対‥諦めないで。」


 私は無言で頷いた。溢れた涙を彼の服になすりつけては、彼に泣き顔を見せないようにした。


「立てる?」


 優しく手を取る彼に私は子供みたいに甘えた。


「無理!おんぶ!」


「え?」


 彼が困惑するのは分かっていた。それでも私は甘えたかった。優しい彼ならきっと叶えてくれる。分かっていてそれをする私はずるい。


 でも今日の私はずるい私を許せた。


 困ったように苦笑いを浮かべた彼は頭を掻いていたが、「じゃあ。」としゃがんで背中を向ける。


 私は彼に体を預ける。男の人の背中は初めてだ。幼い時にもしてもらった記憶もない。


 あるべき親子の姿や、愛情に憧れていた。当たり前にある愛情が欲しかった。


 私はその代わりを彼に求めている。それが歪んでいることは分かっている。


 けれど、彼の背中に私の全てを預けているこの時間が、とても愛おしくて、心の水が満ちては、澄んでいくのが分かった。月明かりに照らされた彼の影に、私の影が重なっているのが嬉しかった。

芽衣はきっと咲空に父親のような優しさを感じているんでしょうね。異性という概念よりも、より優しい父という存在への憧れが、この回には表れている気がします。

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