進藤咲空の願い
進藤咲空の願い
落ちていく東美優は人を刺し殺そうとした猟奇犯の血走った目ではなく、どこか幼い少女の目を宿していた。孤独に苛まれ、幸せを求めた彼女は、逃げようとアパートの3階から飛び降りた。
結論から言えば彼女は逃げ切る事は出来なかった。空中で体勢を崩したのか、地面に叩きつけられるように腰と頭部を強打し、意識不明の重体になった。黒土に広がる彼女の血は彼女の憎しみと共に地下へと流れて行った。
弓木の弟、巧君は右腹部を刺されていたがなんとか意識は保っていた。救急車が来るまでに青ざめて行く顔に弓木は必死に頬を撫でていた。東と巧君はそれぞれ別の病院に搬送され、自分は東の救急車に一緒に乗り込んだ。駆けつけた警察には一緒のタイミングに駆けつけた轟のビジネスパートナーを自称する高嶺潤一郎氏に任せた。
搬送されて行く救急車の中で、東の顔を見た。この世の全てを憎んだような彼女は、不思議と冴え冴えとした顔をしていた。
搬送先ではすぐに手術が行われた。手術室へ向かう彼女を見送ったのは自分だけだ。看護師に彼女の親類縁者に連絡を取って欲しいと言われたが、自分は彼女の連絡先はおろか、彼女の家族構成すら知らない。
自分は仕方なく学校に連絡し、ことの次第を話した。血相を変えてやって来た東のクラスの担任、1年6組の丸井翔子は手の震えが止まらないようで、必死に手を押さえつけていた。責任者として随伴してやって来た副校長は東の母親が入院していることから父親が来るだろう。と言ったが、その父親は日付が変わるまで来ることはなかった。
手術を終えてICUのベッドで眠る彼女を遠くに見た。彼女は一人で機械に繋がれては生と死を彷徨っていた。
副校長と担任の丸井は夜が遅くなって来たことから自分に帰るように勧めた。自分は彼女の姿に複雑な思いを抱えていた。このまま死ぬようなことがあれば、深い後悔が残る。
だから自分は嘘をついた。彼女は大切な友人で、一人には出来ないと。それを聞いた二人の教師はそれ以上口を開かなかった。
深夜になって寄れたスーツ姿の男がやって来た。男は副校長と担任に挨拶すると、ガラス越しに見える我が子を見つめた。その顔は怒ることもなく、悲しむこともない。ただ目の前の光景を見つめるばかりだった。
彼女の父親は深く頭を下げると、謝罪とお礼を述べた。そうして自分達は帰路についた。
翌日、日曜日の朝は何事もなかったかのように来る。それでも違うのは昨日は単なる過去ではなく、今に続く現実なのだと突き付けられる。
朝のニュースには殺人未遂の果てに自殺を図った女子高生として、センセーショナルな話題として耳目を集めていた。SNSには加害者の特定をしようと正義感と悪意が渦巻き、事件現場となった弓木のアパートには大挙してマスコミが訪れ、加害者と被害者の関係を洗い出そうと取材が始まった。
ジャーナリズム、報道の自由、真相究明。並び立てられる美辞麗句に包まれた醜悪な人間の本能は当事者を追い詰めていく。
自分は柊と共に東美優の病院を訪れた。ICUのガラスの向こうにいる東を見て柊は拳を握った。
「柊、この前言ったこと覚えてる?」
自分は無力感に苛まれる彼に問いかける。
「もちろんさ‥彼女は大切な人だ‥けれど‥自分は彼女を止められなかった。もっと彼女の気持ちに、彼女の心に、寄り添ってあげれば、こんなことにはなってなかったのかもしれないのに‥。」
後悔と悲しみ。痛みと不安。彼の心の内は負の感情で埋め尽くされては、深い海の底に沈んでいく。それを見た自分は彼の肩を叩く。
「東が今後どうなるかは分からないけど、最後まで、彼女の側にいてあげて欲しい‥やっぱり孤独は‥辛いから‥」
柊は口元を隠すように静かに涙を流した。彼の思いを考えるだけでどれほどの苦しみかと心は張り裂けそうになる。
沈み切った感情は底を突くまで立ち直ることは難しいのかもしれない。それでもいつか水の底に着いたら、もう一回底を蹴って水の上を目指して欲しい。
暗くて、寒くて、孤独で、光の見えない世界であっても、覚悟を持って上を向いて行けば、いつか飛び出た世界には希望の光が照らされる。
そう信じている。
自分は柊を残して弓木の弟、巧君が入院する病院へとそのまま向かった。巧君が入院した病院は奇しくも轟も入院した聖マリアンヌ病院であった。
勝手知ったる路線バスに乗り込み病院を目指す。しかしあの日と違うのは、妹も、友人も、誰もいない。
路線バスの中はがらんとしていて、自分以外には80代くらいと思しき白髪の男性が杖と花束を片手に前方の優先席に座っている以外には乗客はいなかった。
降車ボタンが押されることのないバスは停留所を通過しては、停留所の表示画面は次々と変わる。置いていかれる気持ちとは裏腹に世界は進んで行く。
最寄りの停留所に差し掛かる所で降車ボタンを押すと、車内アナウンスで次の停留所に停まることを知らせてくる。自分は近づく病院への道のりで弓木のことを思った。
彼女は今回の事件で傷ついた弟の事を思い、酷く自分自身を責めているのではないか。そして悲しみの中で、自らを傷つけるのでないか気掛かりで仕方なかった。
バスを降りようとすると優先席に座っていた男性もまた同じ病院前の停留所で降りようとしていた。おぼつかない足元を気にしつつ男性はICカードをタッチすると、ステップを降りようとする。ゆっくりとした足取りに、スマートフォンで料金を支払うと自分は声をかける。
「大丈夫ですか?」
その声に男性は目尻の下がった笑顔でこちらを見る。思わず花束を持っていた方の手に自分の手を添えると
「親切にありがとう。」と言葉を返してくれた。
自分はそのまま一緒にステップを降りる。バスを降りた男性は皺の入った柔和な笑顔で自分を見る。
「君も病院にお見舞いかい?」
「えっと‥はい。友人の弟が怪我で入院してまして。今日はそのお見舞いです。」
「そう。早く良くなるといいね。」
「ありがとうございます。あなたもお見舞いですか?」
手元の花束を指さして尋ねると、男性は口角を上げる。紫の蕾、紫と内側を彩る黄色の開いた花弁を中心に作られたその花束は華やかさよりも淑やかな印象を受ける。
「そう。妻のね。妻は花が好きでね。こうして病室に飾る花を持っていくのが私の役目でね。もうかれこれ半年くらいかな、地元の花屋には大分貢献させて貰ってるよ。」
和かに笑う男性の顔には優しい皺が浮かぶ。
「そうなんですね。とても素敵です。」
沈んでいた心が軽くなる。自分は病院の玄関へと一緒に歩いていくと、玄関の前で男性は立ち止まる。
「私は向こうの病棟なんだ。君とはここでお別れだね。」
杖の先で示した先は病院に併設された緩和ケア病棟だった。つまり男性の妻は治る見込みが少ない病魔に侵されている事を示していた。自分はその事実を知って言葉に詰まり、目を伏せる。
すると男性は皺の入った骨ばった手で自分の肩の横を優しくポンポンと触れてくる。
「なーに。人は老いて、いつかは死ぬものさ。気に病む事はない。存外妻は前向きな人でね、残りが限られていると実感がある方がかえってやりたい事が明確になって良かったっていつも言ってるよ。」
そう言うと男性は思い出したように背負ったリュックの中を探すと、一冊の本を取り出す。そして本の間に挟んでいたラミネート加工された栞を手渡してくる。
「これはね、妻の手作りなんだが、先程のお礼に良ければ受け取ってくれないかい?自分はもう本を読むのも大変でね、自分では使うこともなくなるだろうから、君に使ってもらえると嬉しい。」
渡された栞は白い型紙の上に三つ葉のクローバーが綺麗にラミネート加工されたシンプルなデザインだった。自分は思わず「四葉ではなく三つ葉ですか?」と聞き返してしまった。
すると男性は嬉しそうにクスッと微笑む。
「君もそう思うかい?妻に言わせればね、四つ目の葉である、幸運は必要ないらしい。幸運は気づかないだけで、すぐ近くにあるのだから、わざわざ幸運の四葉を探して栞にするほどではない。というのが妻の主張なんだ。」
そう言って男性は昔を懐かしむように微かに口元を綻ばせる。
「でもね、本音は彼女が探すのが面倒だっただけなんじゃないかと自分は思っているんだよ。変なところにこだわる割には雑なところもあるのでね。まあそこが妻らしくて、自分は好きなんだがね。」
大切な人を思って話す男性の視線は優しさと、慈しみの心に溢れていた。
自分は手元にある栞を見つめては何十年と大切に築かれた思い出の重さを感じ、受けることを躊躇していると、男性は自分の手を包むように栞を持たせる。
「いいんだ。君のような人に出会えた事にこれぐらいの対価は当然だよ。出来れば君がこの栞をまた次の人に託して、妻の思い出を話してくれると嬉しいよ。」
その言葉に自分は心にスッと、二人の思いが入ってくる気がした。軽く頭を下げて「ではお言葉に甘えて有り難く使わせてもらいます。」と答えると、男性は柔和な笑顔を作る。
「じゃあね。あなた達の幸せを私は祈ってますよ。」
弱々しく片手を顔の横で振ると、男性は緩和ケア病棟へと向かう。年老いて小さくなった背中に、確かな優しさと、亡くなった父の面影を見た。自分は目を擦るとその姿はやはり年老いた男性の背中だった。
この回は物語の中で伏線が含めてあります。
この物語を読み終えた時にあのシーンとの繋がりを感じて、次元を超えた物語である事を確信出来ると思います!




