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痛みと記憶

痛みと記憶


 想起されたあの日の記憶のせいで、私の中でざらついた気持ちが再燃する。


 このまま彼の寝顔を見ていれば忘れてしまいそうな気もする。そうやって優しい何かに縋りたい気持ちが私の中を侵食してくる。けれど私はこれ以上はいけない。


 踏み入ってはいけないと気持ちを切り替えてレジカウンターに戻る。そのまま時間が過ぎて15時を迎えた。店舗の2階から店長が降りてきて「バイトお疲れ様ー。」と声をかけてくる。「お疲れ様です。今日はこれで失礼します。」と会釈して更衣室に向かおうとすると、店長がイートインコーナーで眠る進藤を見つける。


「あれ?なんか寝てるお客さんいるけど、あれって不法占拠とかじゃないよね?」


 その言葉に慌てて私は否定する。


「ち、違います!あの申し訳ないんですけど、友人で。雨が酷かったのでイートインで待ってもらってました。すいません!」と頭を下げると店長はニヤついた顔でこちらを見る。


「ほう?弓木さんが友人と待ち合わせ。しかも店で。ふーむ‥デートかな?」


「違いますって!!あんまり揶揄うとセクハラで訴えますよ!」


「おお!それは怖い。まあ今日は暇だったろうけど、また頼むねー。」


 そう言うと手を振って厨房の方へと消えて行った。私は急いで2階に上がり制服と帽子を脱ぎ捨てて、ロッカーに入れると、私服に着替える。


 ボーダーのカットソーに白のチノパンは少し地味だったなと、何故か服装を気にしてしまう私は頭を振る。


 何を余計なことを考えているのか。


 別に服装なんてどうでもいい相手だろうに。


 スニーカーを履き直すと1階に降りる。


 イートインコーナーで寝息を立てる進藤を軽く揺らす。


「ねぇ。もう終わったんだけど。」


 すると片目を開いてこちらを見ては瞼をピクピクと動かす。


「ふぁぁ。あーもうそんな時間か。ごめん寝てた。」


「まあいいけど。それで?どこか行くの?」


「んーん。ああ。そうそう。実は行きたい所あってさ。この近くなんだよ。そこでちょっと話出来たらなーって思って。いいかな?」

 

 背筋を伸ばすようにして立ち上がった進藤は私より少し大きい。上から見下ろされた感じはなんだか不快だ。


「いいけどさ。あんまり長い時間は無理だからね。」


「大丈夫。分かってるって。じゃあ行こうか。」


 二つの箱に分けて入れられたパンは大きめのレジ袋に纏められて入れられている。それを持った彼は傘立てに入れた傘をさすと、「こっちだから。」と顎で示してくる。


 先に歩く彼の背中を見つつ、水溜りを避けて歩く。コンクリートには大粒の雨が降り、車道を行く自動車が水を跳ねて行く。


 なんの話をするのか?と質問を投げようにも、雨が降り、背中を向ける彼には声が届きにくい。それに前を向いて歩く彼は一度もこちらを振り返らない。仕方なく黙って彼の後を付いていくと10分も歩くと公園に辿り着いた。


「ねぇ!ここ?」


 と背中に語り掛けるとようやくこちらを向いた。


「そう。ここが弓木と来たかったところ。1番好きなところがあるんだ。どうせならそこで話したくて。」


「ふーん。」と軽く返してしまったが、彼の表情はどこか憂いを帯びていた。


 公園内は雨もあって人気はない。草木の湿った匂いがいかにも公園を感じさせる。公園の外れ、少し小高くなっているところにぽつん東屋がある。


 そこに登っていくと、「足元滑るから気をつけて。」と自然と手を取ってきた。


 私は何気ない行動に、疑問を呈するような深い追及は避けた。今はただ、彼の手に包まれた私の手が汗で滲むよう気がして深く触れるのは憚れたけど、それでも手を離したいとは少しも思わなかった。


 東屋に着いた私はコの字に作られたベンチを見やる。雨の日に二人きりで座るのはカップルなら隣同士なのだろうが、私と進藤はあくまで友人レベルのクラスメイト。


 適切な距離感があるのだろうと思ったが、対面に座るには少し距離がある。そんなことを考えていると、進藤は握っていた私の左手を離してバックを漁る。


「良かった。ここはあんまり濡れてないね。一応タオル持った来たから。これ敷いて。濡れたり汚れると大変でしょ?」


 進藤がスポーツメーカーブランドのタオルを手渡してくる。


「ありがとう。でもこんなタオルあるならお店来た時に使えばよかったのに。」


「いや、そうしたらタオル濡れちゃうからね。自分の為じゃなくて弓木の為に持って来たものだから。遠慮なく使って。」


 そう言われた私は東屋に着いたは街を見下ろすように吹き抜けた方向を見て座る。徐々に雨は弱まってきていたが、雨の降る街はどこか見通しが悪い霧の様な状態だった。


 見通せないその先は何があるのか。見ているだけでどこか憂鬱な気分になる。


 進藤は私が敷いたタオルの外に腰を下ろした。関係としては真横に座る形だが、スポーツタオルだったが故に微妙な距離感が残る。


「とりあえず食べようか?」


 と買ってきたパンの袋を持ち上げて見せてくる。


「いいの?育ち盛りの二人が怒らない?」


 冗談と皮肉を混ぜた私の言葉に彼は微笑を浮かべた。


「大丈夫。あれは口実だから。それに弓木の家の分も買ったから。後で持って帰ってね。」


「え、いいよ。そんなの悪いし。」


「いいの、いいの。どうせ早く食べないと悪くなるし。それにこれはお小遣いという名の親のお金ですからね。遠慮せず食べてください。」


 袋から出されて、私の横に置かれた白い箱には私が詰めたパンが並ぶ。


「じゃあ。遠慮なく。」


 私はクロワッサンを手に取り口に入れる。甘い香りとサクサクの食感はやはり絶妙だ。


 仕事終わりに食べる甘いものは幸せを感じる。「美味しい。」とポツリと呟くと、彼は横で微笑んだ。


「良かった。じゃあ水も。いつか奢ってもらったし。」


 手渡されたペットボトルの水は事前に買ったものらしいが、まだほんのりと冷たさを残していた。そうしてメロンパンを横で齧る彼は、味の良さに頷きながら二口めを口に運ぶ。


「ありがとう。けど進藤の分は?」


「ん?まあ大丈夫。口のパサパサもパンの醍醐味みたいなものだし。」


 口をもぐもぐと飲み込みずらそうな様子を見て、私はキャップを開けて向こうに突き返す。


「飲みなさいよ。500mlもいらないから。」


 そうすると「んーん。」と苦笑いを浮かべる。


「あのね。間接キスとか変なこと考えてるんなら、私は全然気にしないから。そんなの微々たる問題よ。ほら。」


 そう言ってペットボトルを彼の胸元に押し付ける。彼は仕方なく、それを受け取ると、軽く飲み口に唇をつけて二口ほど飲んだ。隆起した喉が動く様子を横目で見ていると、彼が男であることを否が応でも認識する。


 意識する。


 それは本当は良い事ではないのだろう。どうにも今日の私は変だ。彼の前だと調子が狂う。


 余計な事は考えない様にしよう。私は気持ちを切り替えるように視線を灰色の虚空に移す。


 すると進藤は「噂を撒いた犯人の家に行った日のこと覚えてる?」と聞いてきた。私はその問いに対して「覚えてるけど、それがどうした?」と聞き返した。すると彼は憂いを湛えた微笑を見せた。


「いやさ、あの時に亡くなった父の話をしたでしょ。ここはさ、父と来た思い出の場所なんだ。晴れた日には自分の住む街が一望出来る凄い場所なんだ。あんまり知られてないけどね。」


 両手を組んだ彼はコンクリートの地面を見つめる。横目で見る彼はこちらに視線をやることはない。まるで独り言のように言葉を紡ぐ。


「人の心に寄り添える人間になれ。って言葉の意味をずっと考えてきた。父がどんな気持ちでそんなことを言ったかは分からないけど、それでも一つ、分かったことがあるんだ。誰かの心に寄り添うことは、他の誰かの心に寄り添わないことなんだって。全ての人に寄り添うことは出来ない。どうしても選択を迫られる。」


「誰を選んで、誰を選ばないか。自分は弱いからその選択を避けてきた気がする。でも、それはもうやめる。だから弓木、弓木の考えを聞きたいんだ。弓木を陥れた犯人が、凄い身近な人間であったとしても、弓木はその人を‥を許せるのか。ってことを。」


 雨の音はこう言う時に限って、不都合な事実を掻き消してくれない。雨水は土と混ざり合い、どうしようもなく気持ちを濁らせる。


 ああ。やめてほしい。


 これ以上私を‥澱ませないで。


 これ以上私の心を‥殺さないで‥


 苦しみと怒り、落胆、失望。それが積み重なって憎しみを生む。それでも‥私は‥憎みたくない‥


 左腕を右手でぎゅっと握ると彼に問われた答えを出す。


「私は‥許したい。多分今まで通りの関係という訳にはいかないけど‥それでもちゃんと向き合って私の気持ちを伝えたい。この事は私に任せてくれないかな?」


 私の答えを聞いた進藤は目を閉じてからゆっくりと息を吐いた。


「そっか。分かった。ほんとはね、自分は結構怒ってたんだ。なんでそんな酷いことするのかな?って。弓木には言ってなかったけど、この一連の事件の中で轟が危ない目にあってる。その事を含めて自分は本当に彼らを許せない。」


「それでも、弓木が彼らに前を向いて、やり直して欲しいと願っているのなら、自分は彼らを罪に問う事はしない。それは轟も同じ考えだから。でもこれだけは約束させて欲しい。次に彼らが人を傷つけるような事をすれば、絶対に許さないって事を。」


 その言葉には強い覚悟を感じる。見たことないような険しい進藤の顔は彼の怒りの感情が相当のものである事は容易に想像出来た。


「分かった。でも、進藤。その顔は似合わないよ。私は進藤にはいつもと変わらない進藤でいて欲しい。自然体の飾らない君の姿は、いつも周りの人が迷わずに進む為の灯台みたいなものだから。灯台の灯りが消えることがあっちゃダメなのよ。いつかさ、この事を笑って話せる日が来るって私は信じてる。だからさ、進藤‥君は変わらずにいてね。」


 横に座る進藤の顔を見た。真っ直ぐに彼の瞳を見つめると、彼は面映そうに視線を外す。それを見て私は自然と笑みが溢れる。彼が外した視線の先を追いかけると、その光景に心が一気に開かれる。


「凄い‥虹だ。」


 雨の止んだ街に夕日と雨粒が作り出した七色の橋が架かる。


 雨で沈んでいた街は再び人のうねりと共に動きだす。


「ほんと凄い‥父が見てたのかも。前を向けって言ってる気がする。」


「そうかもね。」


「あのさ、一つ聞いてもいい?」


 そう言ってきた進藤の顔はいつも同じ柔和な表情だった。そこに迷いや怒りは感じない。「いいよ。」と答えた私に彼は茶目っけたっぷりで聞いてくる。


「虹はさ、何色だと思う?」


「それは‥7色でしょ?」


 その答えにしたり顔を浮かべた彼は言うのだ。


「正解はね‥色々!」


「何それ?ダジャレ?」と怪訝な表情で言い返すと彼は大真面目に否定する。


「違う違う!本当に色々なんだって!世界各国で虹の色は何種類あるか認識が違うんだ。それぞれ文化や認識の違いが原因なんだけど、自分はそれはそれでいい気もするんだ。見える人もいる。見えない人もいる。けどそこには確かに虹は架かってて、見えない部分があってもその存在は心のどっかに存在する。そんな気がするから。」


 街を結ぶように架かった虹は私には7色に見えた。


 彼には何色に見えたのだろうか。


 冴え冴えとして晴れた顔を見せた彼の横顔を横目で見ては、一緒に虹のその向こうを見つめた。 

アメリカなどでは虹は本来は6色というのが最近の定説のようです。

日本は藍色と青とを区別して7色とすることで、7色という形を取っていますが、見える色が異なるのは見えている価値観の違いも大きいと思います。


あなたには虹色は何色に見えますか??

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