表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/65

誰かの

誰かの


 あの日の言葉に自分はどうして?どうしてそんな酷いことを言うの?と質問を投げていれば、彼女の真意が知れたのかもしれない。しかしそうはしなかった。何もしないことで目の前にある問題を見ないフリをした。それは今を思えば妙手とは言えなかっただろう。そこからはなんとなく彼女とは疎遠になり、卒後してからも、あの日のことを話すことはなかった。


 彼女も、もう覚えていないだろうあの日の記憶を自分は心のどこかで消化し切れずに残っている。しかしあの日から、いや、あの日以前から変わっていたのかもしれない彼女の変化を都合の良いように解釈して放置した自分は、高校生になった彼女を前にして、今、一歩踏み出すべきだと感じている。


 あの日は聞けなかったことを聞くべきだと、変わってしまった理由を解き明かすべきだと頭の中で思考が巡る。しかし言葉に出そうとすると舌が硬直し、喉の奥から言葉が出て来ない。


 そうしているとやはり今回も口を開いたのは彼女からだった。


「ねぇ。柊君はさ、人を憎いほど、殺したいほど、愛したこと‥ある?」


 その言葉の意味を自分は理解しているはずなのに、自らの鼓膜で捉えたその音の、言葉の意味を再度聞き返してしまう。


「え?どうゆうこと?」


 住宅街の路地で一時停止を義務付けられたわけでもないのに立ち止まった自分はその真意を問う。


「そのままだよ。愛するってことはその人の全てを手に入れたいって欲望を公にすることでしょ?でもね、その愛が裏切られたらさ、それは愛じゃなくなるの。でも私は愛じゃないのは嫌なの。だから相手を憎んで、最後は殺してあげるの。そうして永遠に愛を続ける。そんな風に思う事って、柊君にだって、あるよね?」


 長い睫毛に縁取られた綺麗なその双眸の奥に、光を感じない。全てを塗り潰す深い闇と誰かを強烈に思う深い憎しみがそこにはあった。自分に向けられた視線の強さに、言葉の重さに自分はたじろいだ。彼女のその双眸が求めている同意は自分にはとても理解できる範疇になかった。しかしそれを冗談だよね。と茶化すことなど出来る雰囲気ではなかった。言葉に窮した自分は「どうだろう‥」とだけ答えた。


 すると彼女は人を蔑むような冷たい視線で自分を向けた。


「まあ、柊君じゃ理解出来ないか。」


 後ろを歩いていた彼女は一歩前に歩み出ると、こちらを振り向く。


 その表情には先程の暗く冷たい雰囲気はない。努めて明るい雰囲気を作り出しているのだろう。一転してその美しい表情を見せられてしまうとさっきまでのことが嘘のように思える。


「ねえ、今日、教室で私のこと見たのは秘密ね。」


 美しい髪を流しては柔和な笑顔でこちらの顔を覗く彼女の真意は見えない。


「え?まあいいけど。なんで?」


「それも秘密。だってさ、誰にだって秘密くらいあるでしょ?知りたがりは‥罪だよ?」


 わずかに顔を傾けた彼女は目を細めて微笑んだ。その表情に昔の彼女の姿を重ねてしまう自分がいた。さっきまでの言葉も、表情も、全部嘘で、今の彼女が本物なのだと。そう錯覚してしまいそうで、そう思いたくて、頭と心の乖離に誤魔化しという嘘を重ねて、また自分は彼女の虚像に魅せられる。


「そうだ。今日家に来ない?丁度お母さんが入院してるから家には誰もいないの。良ければ料理くらいなら作るよ?」


 あっけらかんとしてその言葉を紡いだ彼女の裏側に何があるかは分からない。けれどその言葉に心が揺らいだのは事実だ。彼女への感情をあからさまに表に出すのは憚られたが、間違いなく喜びという感情が心を支配していた。その言葉に含められた意味など考えもせずに。自分は彼女の母親が入院しているという大事を、さも路傍に石ころがあるのと同じくらいの事かのように話す彼女のドラスティックな側面にさえ、大きな疑問を呈せずに「そうなんだね。それは凄く寂しいな‥一人でいるのは心配だし、少しお邪魔しようかな。」などとお為ごかしのセリフを吐いては自身の感情に身を任せた。


 すると彼女は満足そうに笑顔を見せては「良かった。柊君ならそう言ってくれると思った。」と言って、道端に落ちていた小石をローファーのつま先で側溝に蹴り入れた。


 その動作を何気なく見ていた自分は落ちて行った小石はどこに向かうのだろうと漠然と考えては、すぐにその考えは意識の中から消えていった。


 その後の彼女はまるで昔の時のような純粋で明るい雰囲気を纏っては、時折り見せる女性としての艶やかな仕草さが、自分の気持ちは昂った。


 端的に言えば舞い上がっていたのだと思う。好意を抱いていた女性と、二人っきりでスーパーに行き、食材を選んで買い物をする。そして同じ場所へと帰って行く。昔の自分ならそんなことを想像していなかっただろう。まるで夫婦のようなその行為に、自分は酔ってしまったのかもしれない。


 しかし彼女の家に辿り着くと、その気分は言い表せない不安に侵食されていく。住宅街にどこか取り残されたように存在する二階建てのその一軒家はまだ建てられて20年も行かないような建物であったが、ホワイトとブラックで塗装された外壁は汚れや藻が目立ち、あまり景観が良いとは言えなかった。


 門扉をくぐり左手の庭に目をやるとの庭は雑草が生い茂り手入れはされた様子もなく、掃き出し窓から出るウッドデッキには苔とカビで汚れが目立っていた。玄関横の駐車スペースにはぽつんとアイボリーの自転車が置かれるだけだった。


 彼女は荒んだ家の様子を気にするような素振りは全くなく、鞄から自宅の鍵を取り出して開けた。「どうぞ。」と言われて入った室内に思わず眉を寄せた。


 フローリングの廊下には埃が散らばり、思わず咳き込みそうな空気に息を止めたくなる。廊下の先に捨てられずに置かれたままのゴミ袋や、散乱する衣類はおそらく彼女の物ではない。靴を揃えて上がり框に足を踏み入れると、自分の靴下に埃が付着するのが良く分かる。


「とりあえずはご飯作って食べようか?まだ早いけど、柊君も遅くなると親御さん心配するでしょ?それともまだお腹空いてないかな?」


 彼女の言葉に自分は「時間は大丈夫だけど、お腹は空いてるかな。一応食べ盛りだから。」と答えると彼女は嬉しそうに口元を押さえては微笑んだ。


 リビングに入ると、ソファの上に置かれた大量の衣類やチラシが目につく。その横に置いてあるゴミ袋にはちり紙と一緒にアルバムや写真立てがそのまま乱雑に放り込まれている。ソファ横のテーブルにはテレビのリモコンやペンなどを入れる小物入れが置いてあるが、埃を被っていて、しばらく触った形跡はない。


 一方キッチンやダイニングテーブルの方には乱雑な様子もなく埃もほとんど目立たない。彼女はキッチンの方へと回ると、スーパーの袋から中身を取り出しては冷蔵庫にしまう食材と使う食材を選別していた。


「柊君の注文通りハンバーグでいいんだよね?」

「うん。ハンバーグ好きだから。」

「そうなのね。なんかハンバーグ好きって小学生みたい。」

 そう言って肩を竦めては苦笑する彼女の立つキッチンには割れたお皿を入れたゴミ袋が置かれていた。

「いや、あんまり好きなものって変わらなくないかな?東はそうでもない?」


 その言葉にキッチン越しに見た表情が一瞬曇ったように思えた。しかしその違和感は一瞬だけで、すぐに平生を取り戻す。


「んーん。そんなことないんじゃない?好きなものくらい変わるよ。味覚だって変わるし。ずっと好きでいる方が難しいよ。ほら、そんなことより私だけに作らせる気?お客さんでも手伝うのが家のルールだからね。ハンバーグ作るのを手伝って。」


 そう言って隣を指さしてこちらに来るように指図してくる。自分は言われるがまま彼女の横に立って手を洗う。そうすると目の前のまな板に玉ねぎを置かれる。


「じゃあ玉ねぎの皮剥いて、あとは微塵切りにして。私は味噌汁とご飯の準備するから。」


「えっと‥微塵切りってどうやるの?」


 そう言うと彼女はお腹を押さえて楽しげに笑う。


「いやぁ。そっかー。普通の男子は微塵切り分からないか。手本見せるから後は真似して頑張って。」


 皮を剥いた玉ねぎを半分に切ると手際よく包丁で微塵切りにしていく。トントンと小気味よく鳴るリズムは彼女の手際の良さが際立つ。あっという間に半分を微塵切りにした彼女の真似をして自分もやってみるが彼女のようにリズミカルに包丁を扱うのはやはり難しい。


 それに加えて玉ねぎを切った際に出る硫化アリルがどうにも自分の目を刺激して涙が出てくる。その様子を横目にクスクスと笑いながら彼女は味噌汁の具材に入れる大根と油揚げを切っている。

 なんとか切り終えると、彼女が微塵切りにした玉ねぎをきつね色になるまで炒める。炒めた玉ねぎの粗熱を取ると、ひき肉と共にパン粉、牛乳、おろしニンニク、コショウをボウルに混ぜ合わせていく。


 無論手が汚れると面倒だから。と言って彼女はその役割を自分に任せた。グニグニと材料を混ぜ合わせてはタネを作ると、今度は小さなハンバーグ四つ分に成形する。彼女曰く空気の抜け具合が重要らしく、「これで不味かったら柊君のせいだねー。」と冗談混じりで言った。


 全て成形し終えると、彼女は銀色のトレイに載せたハンバーグを焼いていく。焼き加減は任せておいて。と彼女は自信ありげに語り冷蔵庫に張り付いていたマグネットタイプのタイマーで焼き時間を計った。


 ハンバーグの様子に合わせて時間通りだったり、少し長くしたりしてハンバーグを焼き上げていく。パチパチと跳ねる油と、肉の香りが漂うと、自身の空腹度合いが増す。


「ご飯早炊きにしたけどそろそろかな。ちょっと見てくれる?」

 

 彼女に言われて食器棚の下に置かれたスペースで湯気を上げている炊飯器の電子表示は残り10分を表示していた。


「あと10分くらいだよ。」


「そう。なら丁度いいかな。食器出してくれる?良さそうなのどれでもいいから。」


 そう言われた自分は食器棚を開けて中を見る。多くの食器が収納出来るスペースには10枚ほどの食器皿に、三つのご飯茶碗、木製の汁椀が3つあった。

 ハンバーグ用に二皿、ご飯茶碗と汁椀を人数分用意しておく。


「もういいかな。」とハンバーグを皿によそうと、切ったトマトと茹でたブロッコリーを添える。最後にフライパンに残った肉汁とケチャップ、ウスターソース、醤油を混ぜてソースを作り、ハンバーグの上へとかけた。「よし。出来た。」と言うと彼女は盛り付けた皿をダイニングテーブルに運ぶように指示した。


「じゃあ後は私がやるから座ってて。」


 そう言って彼女は使ったフライパンや包丁まな板を洗っていく。それが終わる頃にはご飯も炊きあがり、ダイニングテーブルにはご飯と味噌汁、ハンバーグという和洋折衷のメニューが並んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ