柊透也の悩み
柊透也の悩み
校庭のグラウンドには総勢62名のサッカー部員達が、青と白にカラーリングされたサッカーボールを扱い、汗を流している。普段なら野球部が半面を使うこのグラウンドを、外部での練習試合の為にいなくなったもう半分のグラウンドを使ってはAチームとBチームに分かれて練習を行っていた。
夏休み終盤のこの時期でも暑さは依然として続いていた。シュート練習の合間にぼーっと遠くを見つめていると、陽炎が見えた。ゆらゆらと揺らめく空間と照りつける日差しが意識をぼんやりとさせていく。ゴール裏の向こうには校舎がある。本来なら意識はゴールキーパーとゴールに集中すべきところをなんとなくゴールの向こうの方に気を向けてしまう。
自分の番が回ってきても集中し切れない自分は、パスを受けて漫然と左足でシュートを放った。ゴールキーパーの左手で弾かれたシュートはバーの上を掠ってゴール裏へとボールは消えていく。先輩から「しっかりしろ!」と叱咤の声が飛ぶと自分は「すいません!」と声を返して向こうへと行ったボールを回収しに行く。野球部が普段使うこちらのグラウンドには野球部のネットやらトレーニングに使うゴムタイヤが置かれていたが、ボールはネットの間に挟まっていた。
ネットを動かしてボールを回収すると、ふと校舎の昇降口が気になった。グラウンドと校舎を挟むグリーンネットのその向こう。その横顔はかつて見た時よりもどこか暗い表情を湛えていた。
東美優。入学式の当日、廊下ですれ違った彼女の顔を見ては、周囲が自分に向ける視線を気にして話しかけるのをやめた。彼女と会うのは小学校を卒業して以来実に3年ぶりだ。もはや向こうも覚えているか分からないだろう。彼女はやはりこの3年間で大人になった気がする。背丈もそうだが、あどけなかった少女は大人の雰囲気とどこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
その彼女は夏休みで人気の少ない校舎の中へと入って行った。彼女に対して興味がないと言えば嘘になる。それが異性に対する好意であるかは自分でも分からない。
人からはよく何を考えているか分からないと言われているが、自分としては色々と考えて行動しているつもりだ。特に女子生徒への関わり方は普段よりも気を使う。言葉や仕草、ちょっとした相槌でさえも、向こうは一喜一憂するからだ。肯定も否定もしない。曖昧でぼやかした関係が一番だとここ数年で学んだことだが、特に嫉妬心は厄介だ。妬み嫉みは対処が難しい。こちらの全てを否定してくるスタンスにはどう抗おうにも良好な関係性を築くのは難しい。
そうならないように自分は大勢の人の前では万人受けする人物像を演じている。優しく、誠実で真面目。そんな風にしていると時折自分がどんな自分であったのか分からない時がある。
もしこの場で万人受けする自分なら彼女のことは綺麗さっぱり忘れて練習に戻るのだろう。しかし、この時の自分の脳裏にはふと彼女の横顔が過ぎる。その時に湧いた衝動はおそらく本能的なものに近かったと思うが、先輩に腹痛を理由に練習を抜けると、校舎の方に向かった。彼女は帰宅部である事は知っていたし、校舎で用事があるのなら職員室か、教室であると踏んだ自分はまずは職員室へと向かう。
練習をサボっている事が露見すれば、顧問からの叱責は免れない。それ故に慎重に職員室の様子を窺う。中には数名の教師がいるだけで静かなものだ。どうやら東のいる様子もない。それを確認した自分は廊下を早歩きすると、階段を一つ飛ばしで登る。
3階の1年6組の教室は職員室から一番近い階段を登って奥の方にある。3階に着くと、一応手前の1年1組から順に教室を見て行く。誰もいない夏休みの廊下を一人歩くと閉ざされた空気の重さと熱に体が重く感じる。1組を見終えてすぐに2組の教室を見て行くと、意外にもそこに人影があった。教室の一番後ろ、一番廊下側という端っこに机に突っ伏すようにして黒髪を垂らしていた彼女は間違いなく東美優本人だった。
彼女のクラスは6組で2組は自分のクラスだ。いつもなら女子生徒に話しかける行動は必要最低限にしていた。それは4月中旬ぐらいから噂になっていた弓木さん自分との噂も原因の一つだ。それの噂は全くもって預かり知らぬことではあったけど、それを否定して回ることはクラスの雰囲気的にかえって悪影響であるような気がして、聞かれれば答える程度に留めていた。しかし今はその気にする相手もいなければ相手は他クラスの人間。どうして自分のクラスではなく他クラスの生徒の席に座っているのか、そこに何か深い理由があるのかは定かではないが、それでもここまで来た自分は声をかけずにはいられなかった。
教室の前方の扉を開くと、その音に反応した彼女は緩やかにこちらを向いた。不機嫌そうに眉根を僅かに寄せたが、その相手が自分と認識すると、表向きの明るい笑顔を浮かべた。
「あれ?どうしたの?何か忘れ物?」
問いかけて来た彼女は自然な口角の上がり方で相手を警戒させまいとしては、来訪者の様子を窺っているようだった。
「いや、なんとなく昇降口から入る東さんの姿見えたから気になって。」
正直過ぎる回答ではあるが、それ以上の答えを持ち合わせていなかった自分にはこれが精一杯の答えだった。その答えを聞いた彼女は大きな瞳を丸くしては、訝しげにこちらを睨んだ。
「え?それってデフォルトなの?女子生徒みんなに言って喜ばせてる感じ??」
「違う!違う!ほんと正直な話、練習中だったんだけど、あんまりに暑くて涼みたいなーって思ってたら東さんが校舎内に入っていくところ見えたから、ついでに来てしまったというか、なんと言うか。」
「へぇ。そうなんだ。柊君ってさ真面目かと思ったらそうでもないんだね。」
彼女は机に肘をついて頬に手をやると、視線を窓の向こうに向けては溜息を吐いた。そうしてもう一度こちらを見ると、まだ何か用があるのかと視線で訴えかけてくる。
「あのさ、東さんは覚えてないかもだけど、小学生の時一緒のクラスだったよね!4年生の時は飼育委員も一緒にやったんだけど、覚えてない?」
その言葉に「ああ。あったね。」と遠くを見るように答える彼女の素っ気無さにどこか気落ちしている自分がいるのが分かった。それでも自分はこの機会を逃したら後悔する気がして、続けざまの言葉を投げかける。
「あのさ、練習そろそろ終わるんだけど、良かったら一緒に帰らない?」
パチクリと睫毛を上下させてその言葉に不思議そうにこちらを見た彼女はしばらく口元に手を当てて考えた後、「いいよ。別に。」と答えた。その答えにほっとして胸を撫で下ろした自分は後ろの席へと近づく。
「じゃあさ、連絡先交換しない?今スマホ持って来てないんだけど、携帯番号なら覚えているからさ、そこにショートメッセージ送ってくれると助かる!」
「ああ。まあいいよ。けどさ、柊君といると目立つから正門から出た下り坂の下、三叉路のところで待ち合わせでもいい?時間になったらまたメッセージ送るから。」
「分かった。じゃあ、また後で。」
電話番号を伝えてから手を上げて言葉を投げると彼女は「うん。」と頷いた。後ろの扉から出て行くと、彼女はまた机に顔を伏せた。
若人の悩み‥
深淵を覗く者はまた、深淵に覗かれている。




