二人の秘密
二人の秘密
「進藤君帰っちゃったね。」
残念そうに、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ結城さんは、残った紅茶を二人のティーカップに注ぐ。
「そうだね。あいつの為の勉強会だったのに、本人が帰るなんて意味ないのにね。」
「ふふふ。そうね。でも私はちょっと嬉しい。」
紅茶を口にしてからソーサーにカップを置く。そしてしばし無言が続いた後、意を決したように言葉を発する。
「あのさ。弓木さん?さっきの名前もそうなんだけど。私も呼び方変えてもいいかな?」
「えっ?」
その言葉に動揺した私は飲もうとした紅茶を一旦宙で止めて思考を巡らせる。呼び方を変えたいという結城さんの本心はどこにあるのだろう。
普通なら親密になりたいから。ということだろうけど、私と結城さんは言ってもクラスで挨拶程度の会話しかしていない間柄で、それ以上の関係性はなかった。
これを機に仲良くなりたい。
ということは私としても嬉しい気持ちもあるが、なんだか性急すぎやしないかと、戸惑う私もいる。そんな風に思考を巡らせるあまり、会話のキャッチボールを忘れていた私は、おそらく高級品であろう、ステンレス製の逆ナイロール眼鏡の奥から覗く長い睫毛をぱちくりさせては、不安そうに見つめられていたことを思い出す。
そして少し鼻先の方に落ちた眼鏡を直す為にブリッジを持ち上げる仕草もなんだか知的な上流階級の人だなぁ。なんて思ってしまう自分が憎い。
「えっ‥と。例えばなんて呼びたいの?」
そう問いかけると、おとがいに人差し指を当てて考えるように仕草をすると、すぐに「あ!」と声を出す。そしてニンマリと笑いながら言う。
「芽衣ちゃん!」
「え‥あ、はい。」
思わず絶句しそうになった自分は「え‥あ、はい。」という言葉が出てきただけでも凄いと思う。
何そのもったいつけて言った割に普通に下の名前って。ここで話の上手い芸人さんなら機知に富んだツッコミを入れて場を和ませる逆転満塁ホームランを打つのだろうけど、生憎そう言った上級会話スキルは持ち合わせていないばかりか、3球見逃し三振を喫するくらい単純会話スキルでも怪しい。
そこになんだかクラスメイトになってから雰囲気的に知っていた気はするが、いざ天然系と呼ばれるような人間と相対するとどうにも私の中のボキャブラリーでは対応不可の判定が下りそうになる。
しかしここで諦めてはせっかく友人になれそうな人をみすみす逃すのは今後の学生生活の為にも良くない気がする。よって私はとりあえず理由を聞く。という無難な選択肢によって会話を広げようと試みる。
「ちなみに理由はあるの?」
「え!それはね、ちょっと待ってね‥ほら!あった!これ!」
ベッド下の収納スペースを開いて、表層にあった何個か取り出すと、お目当ての物が見つかったらしい。こちらに向けるように見せてきたのは少女漫画の単行本だ。
「私の小さい頃のお気に入りの漫画なんだ!それでね、主人公がメイって言うんだ!凄い偶然だと思わない?クラス名簿で芽衣って名前を見た時にほんとは真っ先に声かけて話したかったの!素敵な名前だね!って。でも全然話しかけるチャンスなくて‥だからこの偶然に託けて仲良くなりたいし、そして芽衣ちゃんって呼びたい!ダメかな?」
大事な単行本を両腕で抱きしめるようにしてこちらを見つめる瞳には腹蔵があるようには思えない。
「そうだね‥まあ、弓木さんがどうしてもそうしたいなら。どうぞ呼んでください。よろしくお願いします。」
改まって正座して頭を下げると、恐縮したように、
「こ、こちらこそです!です!」
とお辞儀を返してくる。
その様子が可笑しくて、私はまた口が綻んでしまう。そうすると彼女も可笑しくなって二人してまた笑い合った。
「そしたらさ、私は結城さんのこと、下の名前で呼んでもいい?」
そう言って問いかけると、大きな瞳をより一層輝かせて大きく頷く。
「もちろん!ねぇ、私のこと呼んで。芽衣ちゃん。」
私の名前を強調するように呼びかけた彼女に、私は応えるように心の底から言葉を紡ぐ。
「かなみ‥‥友達になってくれますか?」
普段なら恥ずかし過ぎて言えない言葉も、なんだかやけに簡単に出てしまって、私自身も驚いていたのだけど、彼女はそれ以上に衝撃だったのか、口元を手で押さえては、うっすらと涙を浮かべていた。
「うそ。なんか嫌だった?」
「違う!とっても、とーっても嬉しいの。こんな風に友達になろうって。素直に言ってくれるとは思わなかったから。普段から凄いクールな感じだし、友達とか作りたくないのかなぁ。って思ってたけど、そんな風に言ってくれてありがとう。私こそ友達になってください。」
「もちろん。よろしくね。」
そう言うと今更ながら小学生のような友達宣言に気恥ずかしさを覚えるけれど、本当に嬉しそうな泣き笑い顔をする彼女に私の心はじんわりと温かくなった。
「友達の証にさ。ハグ。してもいい?」
涙ぐんでそう言われた私は両手を開いて「いいよ。」と彼女を迎え入れた。
彼女の体温を感じ、彼女の匂いを感じる。互いの鼓動を感じ、ゆっくりと時が流れる。男に抱かれる時とも、美優を抱き寄せる時とも、明らかに違うこの気持ちはなんだろう。ゆっくりとそして確実に、私の中に流れる水が澄んでいくのが分かる。
心の澱みが取り払われて、透き通るような水面が煌めく。
「ありがとう。なんか安心した。やっぱり芽衣ちゃん背がおっきいからハグすると安心感ある。そして良い匂いした。」
「はは。そうかな。かなみこそめっちゃ良い匂いしたよ。」
「そう?ちなみにもう一回嗅いでいい?」
「まあ、いいけど。たぶんこの匂いじゃないかな?」
バックから取り出した香水を彼女の手首に吹きかける。すると鼻を近づけて香りを確かめると、「ほんとだ!良い匂い!」と子犬のように喜ぶ姿は純粋に見て可愛いと思う。
「でしょ!お気に入りなんだ。あんまり学校で使うとバレるから控えめにしてるけどね。かなみはつけないの?」
「んーん。やっぱり学級委員として一応の校則は守らないとね。」
「ほう?そしたら下着類は白を着用すること。って確か校則にあったよねー。」
「ち、違うよ!今は改訂されて華美な下着の着用は控えること。に変わってるもん!」
明らかに何かを隠したような反応に、私の中の小動物を可愛がりたくなる本能が刺激される。
「ほほう?じゃあエッチな下着は持ってないんだ?」
「も、持ってないよ!そんなの持ってたらお母さんが‥心配するし‥。」
どこかお母さんという言葉を自ら発した途端に俯いて暗い表情になる。それを見て私は何か深い理由がある様に思えた。私にはなんとなく分かる。親との微妙な関係性を、言いたくないこと。他人に踏み込んで欲しくないこと。
それを私から掘り下げるようなことはしない。自分にされて嫌なことを相手にはしないと決めているから。
「ふーん。そっか。じゃあさ、どんな下着持ってるか見てもいい?」
わざとらしく明るい声で、道化師を演じる。それが私なのだ。
「だ、ダメだよぉー!絶対ダメ!」
ウォークインクローゼットを背に立ち塞がった彼女を相手にしばらく戯れて遊ぶ。時折り彼女の脇腹をこちょこちょとくすぐったりしてはふざけていると、彼女から意外な言葉のパンチを喰らう。
「ね、ねぇ。そう言う芽衣ちゃんはエッチな下着履いてるの?」
そう言われると「はい。そうです。」とは答えづらいのが乙女心だ。これでも清純派を気取ってるつもりの私は真正面からは答えずにくすぐりで誤魔化す。
「もうー。ずるいー。」
「ふふふ。ここか?ここがくすぐったいのか?」
「ギブギブ!ギブアップ!そしたらさ、私の質問に答えてくれたら見せてもいいよ。」
「何?質問って。」
「いやさ、ほんっとに、恥ずかしい質問だから、覚悟して聞いてね。」
「う、うん。」
そんな風に深刻な顔で言われるとなんだか身構えてしまう。
「下着をさ‥見せたい相手とか‥いるの?例えばさ、例えばだよ。進藤君とか‥。」
耳まで真っ赤にしては、彼女はとんでもない質問をぶつけてきた。
「えっ‥。」




