あなたと私
あなたと私
夕食を終えると、また勉強をする巧に先にお風呂に入るから。と声をかけてお風呂入る。ホテルでも湯船に浸かったが、神社で過ごすうちにすっかり冷えていたし、第一に見知らぬ男と入るお風呂が到底リラックス出来るものではない。
それは嫌悪感との戦いであり、背後から触れてくる手の感触そのものがトラウマを想起させた。私は少しでも心の休息を図る為にも湯船に浸かり、心を空っぽにするようにした。昼間見た茶色く濁った水溜まりとは違う、温かい透明な水。
透き通った水の先に見える私の体には幾多の虐待の後が消えずに薄っすらと残っていた。私は何も感じない。そう言い聞かせる。ぼんやりと立ち昇る湯気に意識を任せては、目を閉じて体を休ませていった。
お風呂から上がり、寝る準備を終えた私はスマホに目をやる。すると一件通知が来ていた。
そのメッセージに返信をするとすぐに相手から返信が来た。「今日この後少し会えない?」と彼女は送って来た。
彼女の名前は東美優。中学の頃からの同級生であり、今も同じ高校に通う同級生だ。
彼女は単なる同級生ではない。
特別な感情で繋がれた関係。
私はそう思っている。彼女は付き合っていると思っているだろうけど、私は付き合うという意識が、母と父の関係もありどうも苦手な感じがした。
中学2年生の夏休み、陸上部の部活動が終わり、帰り支度をしていると、後ろから声をかけられて、校舎裏に来て欲しいと言われた。何用かと思ったけれど、私は同性の誘いになんの躊躇もなく「いいよ。」と答えると、彼女は私の腕を引っ張って校舎裏へと連れ出した。
そして息の上がった彼女は呼吸を整えると、意を決するように言葉を発した。「好きです。付き合ってください。」正直言って私は戸惑った。
その当時男子生徒からは10人以上は告白されたが、全て断っていた私だったのだが、女子生徒からは初めてだったのだ。彼女は帰宅部で、部活動にも所属していないし、今年初めてクラスが一緒になって授業の合間やお昼休みに話す程度の友達だと思っていた彼女が、私に対して特別な感情を抱いていたことに頭は混乱した。
それでも男子生徒から向けられた好意とは何か違う、その思いの強さを感じた私は、彼女に「正直言って驚いてて、付き合う、付き合わないとかの答えはすぐに出せない。でも美優の気持ちは嬉しい。良ければもっと仲良くなりたい。」そう答えた。
それからはお互いに頻繁に連絡を取り合い、休みの日に一緒に出かけるなど、今の今まで彼女とは特別な関係を築いている。その関係を一括りに親友とか、恋人とか、そんな風に一言で表現する方法がないのは苦しいが、それでも大切だとは思っている。それは彼女も同じだ。
私は「分かった。いつもの公園で話そう。」「何時くらいに出れそう?」と返信する。するとすぐ既読になり、返信が来る。「10分後には出れる。待ってるね。」そう返信が来ると、私は「わかった。気をつけて来てね。」と返す。
すると可愛いスタンプの「了解です」が返ってきて、私も同じキャラクターのスタンプで返す。
寝巻き姿だった私は上はTシャツ、下はデニムパンツに着替えて出かける準備をする。
巧には友達と公園で話してくると伝えてスマホだけを持って家を出る。いつもの公園とは、私の家から徒歩10分ほどの、緑ヶ丘公園という場所で、日中は小さな子供や小学生が遊ぶ地域の公園の中では少し大きめな公園だ。砂場やうんてい、ジャングルジム、滑り台、汽車の形をした遊具、そしてサッカーや野球の出来るグラウンドがあり、中高生が遊ぶには小さいが、小学生くらいまでならちょうどいい規模感の公園だ。
夜道を照らす街灯の灯りがぼんやりと行く道を案内するかのように、公園へと歩みを進める。
何も考えずに歩いていると、すぐに公園には着いた。公園の入り口付近にはトイレがあり、ぼやぼやとした蛍光灯に小さな虫達が飛び交う様子が不気味な感じがして、足早に公園内部へと足を進める。
待ち合わせ場所は公園内の東屋が基本だ。木々に囲まれた道を通り抜けて公園の東屋を目指す。等間隔にある街灯の先、東屋の付近には白く光るものが見え、そこには人影もある。私は少し小走りになり、駆け寄ると、そこには既に待っていた美優だった。
「ごめん。待った?」
「ううん。全然。今来たところだよ。急に呼んでごめんね。なんか芽衣に会いたくて。」
「そう?私も会いたかったから別にいいよ。何かあった?」
淡い青で腰元にリボンがあるワンピース姿の彼女をそっとハグをしてから問いかける。近づいて分かるバラの香りはいつとも変わらない彼女の匂いだ。東屋のベンチに二人して腰を下ろしては手を繋ぐ。
「うん‥またお母さんが癇癪起こしてね。でもなんとかおさまって。すぐに寝ちゃった。ほんとうちのお母さんって厄介。いつ怒り出すとか分からないし。」
「お父さんとは?連絡取ってるの?」
「うん。たまにね。まあ逃げたお父さんは正解だよね。あんな人と一緒にいたら気がどうにかなりそう。それこそ芽衣は?お母さんまたお金遣い荒くなってる?」
「うん。まあね。バイトのお金でもやりくりしてるけど、結構きついかな。」
「そうなんだ‥ねぇ、またお父さんに殴られてたりしない?」
「え?‥別に‥ないよ‥」
上目遣いにこちらを覗く目にはどこか心配の感情とは違う、何か心の闇を覗くような目だった。
「なんかさ。最近芽衣からスキンシップ少ないなぁ。って思って。男でも出来たかなぁ。とか心配でさ。私達ってこれでも1年10ヶ月くらい付き合ってるわけだしさ、お互いに隠し事は無しにしよ?ね?困った時はなんでも頼ってよ。」
「そうだね。美優はたった一人の大切な人だから、これからも何かあったら頼るね。」
そう言って私はまた嘘をつく。彼女の頭を撫でながら彼女を見つめ返すと、彼女の瞳に写る自分が途端に酷く醜く感じる。
「うん。私はずっと芽衣のそばにいるからね。ずっと。大好きだよ。」
「ありがとう。」
見つめているのが苦しくなった私は彼女を胸に抱き寄せては彼女への好意に対して返礼をする。
この感情はなんだろう。
好きと言われて嬉しいと感じる一方で、どこか心の中がザワザワとする。
温かい感情に包まれるはずなのに、この行為の虚しさすら感じる。しばらくして顔を赤らめた美優が、「目を閉じて。」と甘く囁く。
私は言われるがまま目を閉じていると、優しく唇が触れた。そして目を合わせると、彼女はより私をきつく抱きしめて唇を合わせてくる。
それに対して私は彼女の思うがままに身を任せた。昼間の男とは明らかに違う甘い香りと、柔らかな唇、時折触れる舌と舌同士の交わりでお互いの熱を交換するような口付けは、私にとっても都合が良かったのかもしれない。
嫌悪感と戦うよりは遥かに私の心を満たしてくれる。けれど、どこかで脳裏によぎる昔のトラウマが私の心の水を濁していく。
スマホを見ると既に時刻は1時を回っていた。明日も学校があるしもう帰ろうか。と彼女に促すと、彼女は名残惜しそうに頷く。公園の出口まで二人で手を繋いで歩くと、その先は手を振って別れた。
分かっている。
この嫌悪感は昼間の男だけじゃない、父も、母も、そして私自身に対しても。
自分の汚さを大切な人で上書きするような自分が酷く滑稽で醜くやつに思えて仕方がなかった。
全てが壊れてしまいそうで、全てが嫌になりそうで。それでも私は負の感情を蓋にして、どうにか明日を迎えていく。