日常
日常
ようやく家路についた私は、駅から徒歩20分の古びたアパートに帰っていく。
ここは私の寝る場所だ。ギイギイと軋む錆びついた階段を登り、3階建ての最上階、奥から二番目の部屋の扉を開ける。
「ただいま。」
と声をかける。別に礼儀だからとか習慣だからとかではない。きちんと家の中にいるであろう弟、巧に向けてだ。
「お姉ちゃんお帰り。またあいつの所行ってきたの?」
襖で仕切られた二つの部屋、リビングと、寝室兼勉強部屋。その寝室兼勉強部屋から顔を出した巧は心配そうにこちらを見てくる。
あいつ。
巧が言ったあいつとは、私の実父、離婚して別々に暮らしている男のことだ。
母と父は私が生まれるのをキッカケに結婚した。母はフィリピン国籍で、出稼ぎに日本に来た。そして働いていたパブで父と知り合った母は、私を身籠り父と結婚。3年の結婚生活を経て日本の永住権を取得した。
しかし元々男性関係が奔放だった母は、浮気相手を見つけては家に帰らないことが多くなった。それに怒りを抱いた父は私達に暴力をふるうようになった。警察沙汰になっては児童相談所に預けられたり、しばらくそう言った不安定な生活が続いたが私が中学1年生の頃、ようやく離婚が成立し、私達は母の元で暮らすようになっていた。
離婚当時は付き合っている男もいなかった母は真面目に母親を演じては、児童相談所の人間を安心させた。しかしここ最近はまた男を作り、金遣いも荒くなっていた。その窮状の影響を一番に受けた私達は、仕方なく父に援助を求めることもあった。
「別に大丈夫だって。あの人だってそうそう暴力振るったりしないって。それにほれ!3万円!上手いこと言って貰って来てやったぞ。」
「ほんとかよ。あいつはいつも俺らを殴ったりして‥。ねぇ、お姉ちゃん。やっぱり高校入ったら俺もバイトするからさ、二人で家出ようよ。」
「なーに馬鹿言ってんの。二人で暮らすなんて無理。私も巧も働いたって大した額稼げないんだから。ちゃんと高校行って、まともな大人にならないとねー。それより勉強はどう?志望校は受かりそう?」
「お姉ちゃん。話逸らすなよ。」
真正面から話す巧の言葉を斜に構えて受け流す私に巧は眉を顰める。
「ええ。なんで?巧がしっかりと勉強して高校受かってくれないとお姉ちゃん困るもん。まあ巧にとってはちょっとレベルの低い高校かもだけどねー。自転車通学で行けるところにする。って聞いた時はお姉ちゃんは涙が出たよ。」
涙を拭くような仕草をして戯けて見せるが、巧は神妙な面持ちを崩さない。
「それは良いよ。別に普通に勉強してれば落ちるような高校じゃないし。それよりお姉ちゃんこそ定期代とかどうしたの?母さん渡してくれてなかったでしょ?」
「え?そりゃあの男に頭下げてもらうくらいするよ。そうじゃないと学校通えないからねー。」
「そうなのか‥やっぱり母さんに言うよ。ちゃんと生活費とかちゃんと学費とかそう言うのはきちんと出すようにって。そうじゃないと、またあいつの所行かないと行けなくなる。」
心配する気持ちはありがたい。私の弟とは思えないくらい、優しい子だ。それだけに、私はこの負の連鎖は、私で終わらせたいのだ。醜い連鎖はここでお終いに。この苦しみは私だけで十分なのだ。
「大丈夫だって!お姉ちゃんに任せておきなさい!パン屋さんの余り物もたくさん貰ってくるしさ!」
「ねぇ、それってお店繁盛してるの?いつか潰れない?」
「だ、大丈夫!余るのはいつも少しだし、基本はパンの耳だから!店長のご好意で貰うパンも入ってるからね!感謝して食べないと。」
「ふーん。まあありがたいから食べるけどさ。で?今日の晩御飯は?どうする?母さん何も作ってくれなかったんだけど。」
上手く話題を逸らせたと安堵している私はキッチンに向かう。
「ああそしたら、今日もパスタでいい?」
「別にいいよ。お姉ちゃんのパスタ美味しいし。」
「嬉しいこと言ってくれるねー。まあ、今日は出来合いのパスタソースなんだけど。」
「え、そうなのね。まあいいよ。あ、そうだ。今度料理教えてよ。お姉ちゃんばっかり作らせるのは負担だし。」
そう言ってまた勉強机に戻っていた巧の背中をどこか心の拠り所にしばらく見つめては、キッチンの戸棚からパスタソースを取り出す。作業としては買ってきたパスタを茹でるだけだ。時間はかからない。
最近の市販のパスタソースは本当によく出来ている。湯煎をして温めるソースのタイプもあるが、私はもっぱらあえるだけのタイプを好んで買ってきている。手間がかからないし、第一に美味しいのだ。私はたらこソースを、巧にはカルボナーラソースをかけて用意する。あつあつのパスタを皿に盛り、ソースをかけるとふわりとそれぞれの香りが鼻腔をくすぐり、空腹を思い出させる。私は巧に声をかけてリビングのテーブルにパスタを盛り付けた二皿を用意する。
じきにやって来た巧と向かい合わせに座って手を合わせる。
「いただきます。」
「いただきます。」
たわいのない会話を交わしながら、巧の様子を窺いつつお気に入りの女性アーティストの話をする。美しいその姿と美声、SNS等で見せるお茶目なところなど、姉弟揃ってファンなのだ。共通の話題で盛り上がる平和で大切な家族でのひととき。この時間が長く続けば良いのにと、いつも願っては、その希望に裏切られるのだと、私は知っている。