静寂
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王宮敷地内に、レンガ造りの建物がある。
由緒正しき王国騎士団の宿舎だ。
草木も眠る丑三つ時だった。
白いシーツが騎士団宿舎上空を音もなく浮遊していた。
星屑煌めく空の下、シーツの上で腕を組み、悠然と胡坐をかいているのはデアだった。
シーツはふよふよ移動して西側角部屋付近で静止した。
(部屋の場所を教えたのが運の尽きだ)
デアの顔に悪い笑みが浮かぶ。
王都までの旅の途中、アランが宿舎の自室について話してくれたことがあった。
『南向きで日当たりがいい部屋だ。一番気に入っているのは窓から見える夕日だ。稜線に沈んでいく様はとても美しい』
南向きで、窓から稜線に沈んでいく夕陽が見える部屋まで連れて行ってほしい。長いこと王宮暮らしをしているシーツに頼んで連れてきてもらったのだ、間違いない。
指先を動かした。
すると窓の鍵が外れ、西向きの腰高窓はいとも簡単に開いた。
無事侵入に成功したデアは、気を緩めず次の行動に移った。
音もなく着地するとラミアが袖から顔を出した。アランの気配を探すためだ。
真っ暗な部屋を見渡していたラミアが人の気配を感じ取った。
ラミアに引かれるまま数歩進む。すると何かに足が当たった。
触れた感じからすると、ベッドのようだ。同時にラミアが探索をやめて袖に引っ込んだから、間違いない。ここにアランが眠っているのだ。
ようやく実行に移す時が来た。
眠っている男の額に手をかざして、小声で呪文を唱えた、その時だった。
かざした手を掴まれたと思ったら、次の瞬間にはベッドにねじ伏せられてしまった。
逃れようと試みるも、うつぶせに押さえつけられて、身動きが取れない。
「来ると思ってたぜ」
耳元で囁いたのは、ウィルトスだった。
「ウィルトス?」
ここはアランの部屋のはずなのに、どうして。
「懲りずにアランの記憶をいじくりに来るんじゃないかって、ソルが心配するからさ。俺が張ってたわけ」
黙り込むデアに、ウィルトスは言った。
「諦めな。アランの記憶は触らせねぇ。俺が絶対に守るかんな」
「……私は諦めない」
苦し紛れに反抗すると、ウィルトスは「おぅそうかよ」と鼻で笑った。
「思うんだけどよ、そんなにアランの記憶に執着すんなら、逆に自分の記憶を変えちまえばいいんじゃね?」
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抵抗をやめたデアを、ウィルトスは放免した。「二度と夜這いなんかするんじゃねぇぞ、次は食っちまうからな」と、ご機嫌で見送られた。
王宮の部屋に戻ったデアは、ベッドの上で膝を抱えている。
ウィルトスの言葉が頭を離れなかった。
正直なところ、いい考えだと思う。
記憶からアランを抹消してしまえばいいのだ。
アランに関する過去をごっそり忘れてしまえば、執着も忘れ、赤の他人として接することができる。
見ず知らずの者への塩対応には自信がある。しょっぱすぎてアランも接近してこないだろう。
考えるほど、なかなかいい考えだと思った。
アランとの思い出もすべて忘れて、白紙にしてしまえばいい。
四年前に初めて会った日のことも、
一目見て好きになったことも。
一緒に料理をしたことも、
後片付けをしたことも。
お茶を気に入ってくれたことも、
魔女の毒草辞典を読む優雅な姿勢も、
毎朝の寝癖も。
それから……
手を切った時、すぐ駆けつけてくれて、指を咥えられたこともあった、
料理が美味しかった。
香味野菜と干し肉のスープとソーダブレッド。
また食べたいな――
鼻水がびろーんと垂れて我に返った。
いつの間にか溢れていた涙が頬を濡らしていた。
胸の辺りがずきずき痛い感じがする。これがロマンス小説で言う、胸の痛みなのだろうか。
「ああ……そうか」
アランと紡いできた追憶が、気付かせてくれた。アランと過ごした日々は、この世に並ぶものはない、唯一無二の宝物だと。
(……それを簡単に消すなんて、無理だ)
しばらくの間うなだれていたデアだったが。ハッと顔を上げた。
自分の浅ましさにゾッとした。
こんなに辛い気持ちになる記憶の改ざんを、いとも簡単に、自分勝手な理由で、秘密裏に、挙句の果てに奇襲を仕掛けてアランに実行しようとしていたのだから。
なんという極悪非道だろう。自分が人間じゃない気さえする。
人の気持ちに考えが及ばなかった自分がおぞましい。吐き気がしそうだ。
「ごめん……ごめんねアラン、本当にごめん――」
夜の静寂に嗚咽が消えていった。




