森にて
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果ての森は、アランの記憶とは違っていた。
暗くて、じめじめしていて、陰気な場所だったはずだ。数年前この森の奥に入ったことがあるから、記憶に新しいのだが。
何人も立ち入ることのできない魔女の住む森……あの時は魔女に会わずに済んだから幸いだった。
だが実際、本当に魔女が住んでいるのか、定かではない。アランはその存在自体疑わしいと思っていた。
王宮の図書館で文献を調べたとき、 “果ての森は魔女の森” という記述を見つけた。果ての森は入らずの森であり、古の王が魔女のために用意した土地であること、魔女のほかは住むことは許されない場所であると記載されていた。しかし、魔女の存在に迫る文献を見つけることは出来なかった。
まぁ、その文献は神話であるから、その時の魔女が生きている可能性はゼロだ。もし生きていたとしても何万歳、もう人ではないかもしれない。
魔女というのは元来、ある部分において卓越した知識を持っている女性を言う。占い、呪術、降霊、火器、等々……精神世界から危なっかしいものまで、情熱を注ぎすぎて浮世離れしてしまった女性だ。魔女と名乗っている全てが、人里離れた場所でひっそり暮らしている。
中でも“魔女の長”はおとぎ話級の存在だ。今回の旅で訪ねた魔女たちは「居ない」と口を揃えて言った。そして付けくわえた。もしも出会ったならどうなるかを。
『長の目を見ると石になる』
『スープの具にされるぞ』
『生きたまま皮を剥ぎ取られて丸焼きだ』
『お前なんぞ魔物の餌さ』
『生き血を吸われるぞ。一滴残らず』
……等々、おとぎ話の悪役をなぞらえるかの如く、まことしやかに囁いた。
緑がけぶる穏やかな森を歩く。
陽光が葉の隙間から落ちて、足元で揺れている。
この森が旅の最後の目的地であった。王の命を受けた一人旅だった。
前回の旅では、殺気立った魔物がうようよしている気味の悪いこの森で苦戦したことを思えば、今回は順調すぎて怖いくらいだ。
王と共に魔王を倒し、世界に光が満ちたせいだろう、魔物は大人しくなったようだ。森に入ってしばらく経つが一匹も出会っていない。そしてこの森も、光にあふれて穏やかになったのだろう。
―あれは過酷な旅だった
魔王を倒すため、王と共に旅をした日々を回想しようとした、その時だった。
やけに冷たい風が頬を撫ぜた。思わず足を止めたあとの天候の変化は目まぐるしかった。
まだら模様の光を下草に落としていた木々は墨色に沈んだ。その時だ。一帯が、緊張を孕んでしんと静まり返った。刹那、頼りなく舞い落ちてくるものを目の端で捕らえた。
二つ、三つと続けて舞い落ちてくる。手のひらで受け止めたそれは、白くて、小さくて、冷たかった。
「……雪、」
見上げた刹那、風が轟轟と吹きすさんだ。枝葉は猛り狂ったように風に揺れ、雪は風に舞い、辺りを白く染めた。
白い闇のようだった。塗りつぶされて方向が分からなくなってしまった。頬が切られるように痛い。薄茶色の髪に、細身の黒いスーツに、雪は容赦なく張り付く。近衛兵として鍛えた体と精神力で抗うも、身を切るような冷たい風が肉を削ぎ取っていくようで。避難する場所も見当たらず、適当な木陰に身を寄せたが、風は四方から吹いてきて意味がなかった。
そのうちに、痛みも寒さも遠のいてきた。体が言うことを聞かず、ついに地面へ膝をついた。
朦朧とするアランの瞼に浮かんだのは、忠誠を誓った若き王、ソルの姿だった。
『魔女の長を連れてきてくれ』
玉座で、微笑んでいる。
そこでアランの意識はぷつりと途切れた。