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いつかの君に、おはようを

作者: ゆづ

それは突然に、私の睡眠を妨害した。

「…!」

瞼の裏に広がっていた暗闇に、一直線に白い光が飛び込んできた。かと思えば、突然カメラのフラッシュをたかれたように白く弾ける。広がる真っ白な世界。そして反射的にぱっと開いた目が映したのは、自分の部屋の天井だった。部屋が薄暗いのは、月明かりが窓から部屋を照らしているためだろう。

「あ……夢…」

私が今いるのは自分の部屋の、ベッドの上。今日は火曜日で、ただ夢に起こされただけ。そう心の中で何度も復唱しないと、夢と現実とが区別できなくなるみたいで安心できなかった。また変な夢を見た。これで何度目だろうか。今までも、記憶には残ることが少ないけれど、変な夢を見てはこうして飛び込む光によって起こされることがあった。まるで夢の中の目覚まし時計。良い迷惑だ。そのせいで、体がベッドに縫い付けられたようにずんと重たい。

一度、病院で検査をしてもらったことがあるが、ストレスが原因だということで片付けられた。薬もないため未だに悩まされている。一つため息をつき、サイドテーブルに置いていたスマホを手に取る。

画面の光に目を細め、再びゆっくりと開くと表示されていた時刻は夜中の二時。

ふぁぁ、と欠伸をして上に腕を伸ばすと、

少し痺れていた指先に熱が通るのを感じた。そのせいで手に持っていたスマホが手から滑り落ち派手な音を立てて床に落ちたので、ぐんと手を伸ばして掴み取り、再びサイドテーブルに置く。

長く絡まった髪を掻き、再び布団に入る。また変な夢を見るかもしれないのは嫌だけど、ここで完全に覚醒してしまったら明日確実に眠くなる。明日はどうしても眠くなってはならない日だ。


昨日、私は第一志望の公立高校の入学式を終えた。地歴の中でも特に世界史が得意科目である私は、その高校の有名な世界史の先生から学ぶために受験をした。その先生は特進クラスを毎年受け持っているらしく、有名大学の教授をされていたこともあると聞いた。テレビにも何度か出演していて、その先生目当てに入学を決める人も少なくはないと言う。現に私もそうだった。

そして見事特進クラスでの合格を決めた私は、明日からの特進クラス合同勉強合宿に参加することになったのだった。

勉強中に眠くなるのは避けたい。私はぎゅっと目を瞑り、頭の中を空っぽにした。

そしていつの間にか、私は再び深い眠りについていた。




「美波、朝ごはんできてるけど」

「んー。今行く」

翌朝、時間通りに目を覚ました私は、着慣れない高校の制服に袖を通していた。少しだけパリッとしたその肌触りに、背筋がピンと伸びる。洗面所に移動しスカート丈を少しだけ短くしてから、腰まである長い髪を束ねて一つにする。結んでいる間、揺れる毛先はまるで馬の尻尾みたいだな、と思いながらなんとなく目で追いかけた。結べなくなるまでゴムできつく縛り、再び正面を向いて確認する。

すると洗面所に顔を覗かせた母が私のスカート丈を見て顔をしかめた。

「またそんな短くして…中学の時も何回検査に引っかかったと思ってるの」

「今日だけだって。合宿終わったらちゃんとするから」

ぱちん、とピンで横毛を留めてから、洗面所の入り口にいる母を避けてリビングへと向かった。

ドアを開けると、ソファに横になり携帯をいじる三歳年上の兄、和樹の姿。一瞬目が合うが、いつものように私の方から目を逸らしソファの前を通り過ぎる。

大学にも行かず、バイトもせず、親の金でぐうたらと実家暮らしをしている和樹と、私は中学生の頃からまともに口を聞いていない。高校時代、先輩と何度も喧嘩になったり彼女に捨てられたりと、苦く濃い人間関係を経験してきたらしい和樹は、高校を卒業した後、すっかり人が変わったように引きこもり始めた。小さい頃は今じゃ考えられないくらいに仲が良く毎日のように一緒に遊んでいたが、私が中学に上がった途端、和樹は勉強もまともにせず夜まで遊び呆けた。当時は夜まで勉強しているんだろうと思っていたが、あっさりと裏切られた。ショックがとても大きく、さらに私が和樹の顔の傷や汚れた制服を見て心配し質問攻めをしたせいで、当時精神的におかしくなっていた和樹に生まれて初めて怒鳴られた。

その日以来、私は和樹と話すことが怖くなり、今日も話すことはなかった。

日が経つにつれて恐怖は怒りへと変わり、たまに話しかけてくる和樹を、今は私の方から無視し続けている。

私が朝ご飯の最後の一口である卵焼きを箸で掴み口に運ぼうとすると、和樹がソファから立ち上がり、眠そうな足取りでこちらに向かってきた。反射的に立ち上がり、コップに残っていたお茶を飲み干す。

そして逃げるように皿を重ねて流しに持っていくと、和樹がリビングのドアの方を向き、洗面所にいる母に向かって「朝メシはー?」と大きな声で呼びかけた。

自分で用意すればいいじゃん、などと口にするわけでもなく、テレビ台の近くに置いていた合宿の荷物と通学鞄を肩にかけてリビングを後にした。

「気をつけてね。お兄ちゃんも心配してたよ」

「……あいつは私のことなんて本当はどうでもいいんだよ。いつもそう」

白いスニーカーを履きながら玄関に見送りに来た母に言うと、眉を下げまた顔をしかめた。

「あいつなんて呼んじゃダメでしょ。それに、お兄ちゃんだって色々あったんだから……」

「お母さんはお兄ちゃんに甘すぎ」

ガチャリとドアを開け、勉強頑張ってね、と言う母の声を背に外に出る。

母は昔から和樹に甘かった。素直で優しく、昔から頭の良い和樹は、よくテストで良い点をとっては母を喜ばせていたからかもしれない。特に何も取り柄のなく、性格も尖っている私とは違って可愛かったのだろう。今はそんなこと、どうだって良いのだけど。

家の目の前にある公園に咲いている桜は満開だった。風が吹くたび、ちらちらと花びらが舞いまるで降る雪を見ているようだった。

「綺麗…」

一人、ぼそりとに呟く。

この幻想的な景色は、よく心を浄化してくれる効果があると聞く。しかし私の場合、浄化しても多分心の中の黒くて硬いものは一生取れないのだろうなと悟った。爪で削り取ろうとしたって、ただ心が痛むだけ。

はぁ、と息を吐いて歩き出そうとしたその時。

「朝からため息はよくないな」

不意に後ろから、というより上から降ってきた声に勢いよく振り返り上を見上げると、そこには私を見下ろす男の人の顔があった。

肌は白いのにがっちりとした男性体型で、背が恐ろしく高い。私と比べると二十センチ差はある。

おまけに私と同じ高校の制服を着て、真っ黒なキャリーケースを引いている。

思わず後ろに飛び退いてから、恐る恐る尋ねる。

「あの……誰?」

「あぁ、ごめんな急に。俺の名前は旭。見てわかると思うけど、同じ高校の生徒だ。お前は?」

「…立川美波。多分だけど、あなたと同じ特進クラス」

「おぉ、よくわかったな」

「今日こんなに大荷物持ってるこの高校の生徒って言ったら、特進クラスの人しかいないでしょ」

「…それもそうだな」

この旭という人は、顔もそこそこ整っていて体格もいいのに、どこか抜けているような、隙があるような雰囲気を纏っていた。

しかし良い言い方をすれば、話しかけやすいタイプの人だ。多分これからたくさん友達ができて、充実した高校生活を送るんだろうな。私は会話の直後に一瞬で悟った。

「ところで、なんでため息ついてたんだ?何かあったのか?」

「…いや、あなたには関係ないよ」

「気になる」

「逆に私は初対面の人のため息に過剰反応する方が気になるよ」

「面白いな、美波」

突然名前で呼ばれたことに少し動揺し下を向くが、彼の身長的に私の顔は見えていない。見えているのは私のつむじだけだろう。

「美波は何の科目が得意なんだ?」

話題の転換が早すぎて少々戸惑うが、旭は何事もなかったかのように顔を覗きこんできた。

「世界史。ほら、私たちの高校ってさ、特進クラスに世界史の有名な先生がいるでしょ。だからここに決めたの」

「あぁ…なるほどな」

見上げると、旭は何故か気まずそうに視線を逸らした。まるで、その話題には触れたくないとでも言っているように。

けれど、出会い頭に深入りするのも良くないと思い、私は歩き出しながら聞いた。

「そういう旭は?何の科目が得意なの?」

「俺は…小さい頃からよく旅行好きの親に連れられていろんな国行ってたんだ。その影響もあって、今は英語が得意かな」

「いいなぁ、かっこいいじゃん」

「そうか?俺は自然と話せるようになってただけだし、努力して学ぼうとしてる美波の方がずっとかっこいいと思うけど」

ガラガラ、とキャリーケースがアスファルトを擦る音と共に、旭は立ち尽くす私を追い越して歩いていく。そして振り返った。

「ほら、早く行かないと入学早々遅刻するぞ」

旭は何事もなかったかのようにこちらを向いて目をぱちくりさせている。

謎の多い人だ。けれど、入学早々同じ高校の、同じ学年の人と会話ができたことは、友達ができるか不安だった私にとっては男女問わず素直に嬉しかった。

少し駆け足で、私は先を行く旭に向かってキャリーケースを引いていった。




「えっ、そんなことってある?」

「おぉ、マジか」

二人並んで登校し、教室に入ろうとするとまさかの旭も同じクラスに入ろうとしていた。

昨日の入学式では当然だがまだ新しいクラスメイトの顔も名前も覚えられていなかったこともあって、旭のことももちろん覚えていなかった。

旭も全く同じことを思っているのだろう。驚いた顔で私を見下ろしている。

「全然気づかなかった……しかも席隣だし」

私が歩いて自分の席に行き荷物を置いていると、再び「おぉ」と感嘆の声を上げながら私の隣の席に荷物を置く旭。

「か行からた行までの苗字の人、このクラスにはあんまりいなかったんだな」

「あはは、確かに。このクラスってありきたりな苗字の人少ないよね。山下とか、伊藤とか」

そういえば、旭の苗字を聞くのを忘れていた。というか、初対面で名前しか言わない人と会ったのは初めてだ。癖なのかな。そんなことを一人で考えながら、私は鞄からペンケースを取り出し、シャーペンを手に取ってカチカチと芯を出す。その音に、旭がこちらを向く。

「ねえ、旭の苗字って何?漢字でどう書くの?」

シャーペンを差し出すと、旭は少しの間どうしたら良いのかわからないとでも言うようにシャーペンを見つめた。

「…どうしたの?」

「え?あぁ、いや…。俺の苗字地味だし、読みづらいし…」

次第に語尾を小さくする旭に疑問を抱き、眉をひそめる。

「何でそんなに嫌がるの?」

「え、い、嫌がってるわけじゃ…」

「じゃあ書いてよ。ていうか、同じクラスなんだしどうせ分かるじゃん」

読み方が恥ずかしいとか、漢字が難しすぎて読みづらいとか、そういう理由なら、大して気にすることなんてないのに。

ん、とペンを差し出すと、旭は降参したとでも言うように息を吐き、大きく骨張った手でそれを受け取ると、自分の机の隅に「加賀美」と書き始めた。

「あんまりこの苗字好きじゃないんだよな。…読み方は『カガミ』」

「加賀美…?」

書かれた綺麗な字とその苗字に、私は妙な既視感を覚えた。

どこかで見たような気がする。春休みの間に何度もこの苗字を、高校のホームページで見たような記憶。

最近、変な夢を見るせいで物事をすぐに思い出せなくなっていた。

「な、なぁ、この話やめない?」

「…あっ、思い出した!加賀美って、この高校の…」

そう言いかけた途端、教室のドアがゆっくりと開いて、新品の革靴を履きスーツを着た背の高い男性が入ってきた。その瞬間、教室が一気に静まり返る。そしてすぐに数人の生徒が先生を見ながらこそこそと話し出した。前の席の女子はまじまじとその人を凝視している。

私も先生が入ってきた瞬間、思わずはっと息を呑んだ。

今教卓の前に立って微笑んでいるのは、あの有名な世界史の先生だったのだ。

髪は黒くオールバックで、目元はとても優しく、だけど貫禄がある。実際にこの目で見れたのは初めてだったのもあり、私も街中で芸能人を見た時のように気持ちが昂った。

「…ねえ、旭。もしかして先生がこのクラスの担任なのかな」

「…さぁな」

口に手を添えてこっそり話しかけるが、急に素っ気なくなった旭は頬杖をついてそっぽを向いていた。先生になんて興味もないと言いたげに。

そんな旭の態度が気になりつつも、私はそれ以上話すのをやめて、再び前に向き直った。

先生は名簿を教卓の上に置き、良い音を立てながら黒板に自分の名前を書き出した。白いチョークの粉がはらりと下に落ちていく。

そこで私は、さっき思い出そうとしていたことがやっと分かったのだった。

「はじめまして。今日からこのクラスの担任になりました、加賀美 大輔と言います。担当教科は世界史なので、選択でとってる人は授業でもよろしくね」

優しい笑みを浮かべる先生の言葉がまるで頭に入ってこなかった。まさかあの先生が担任だということも驚きだが、今隣にいる人と苗字が全く同じだということの方が驚きが大きかった。偶然にしてはありきたりな苗字でもない。私は未だに窓の外を見ている旭の肩を半ば力強くツンツンと突き、こちらを振り向かせた。

「ねえ、旭と同じ苗字じゃん!知り合い?親戚か何かなの?」

「…たまたまじゃないのか?俺とあの先生は何も関係ないし」

旭は興奮している私の顔を見た後、気だるそうに再び窓の方を向きぼそりと呟いた。

先生は自己紹介を終えると、明日の合宿のしおりを取りに行くと言い教室から出て行った。すると、室内が少しずつ騒がしくなっていく。

一息ついて旭の方を見ると、未だに頬杖をついてそっぽを向いている。

その姿がまるで和樹と重なり、少しだけ頭に血が昇った。

無意識に声が低くなる。私は体ごと旭の方へ向いて、口を開いた。

「…何でさっきからそんなに素っ気ないのよ。私うるさかった?」

「えっ」

私の声に驚いたのか、旭は反射的に振り返り焦った顔で私を見た。そして少しだけ沈黙する。

「い、いや、美波は何もしてない。ごめん、なんか……疲れてんのかも」

旭は頬杖をつくのをやめて、同じように体ごと私の方を向いた。

「何、眠れなかったとか?」

「…まぁ、そんなもん」

「私も昨日、変な夢見て夜中に目覚めちゃったんだよね」

「変な夢?どんな?」

急に興味津々な表情をして私を見る旭。

「うーん、はっきりとは覚えてないけど…変な夢を見たら毎回、光が弾けるようなものが見えてから目が覚めるんだよね。カメラのフラッシュみたいに」

「へぇ…何だろうな、それ」

旭の声色は、出会った時と同じそれに戻っていた。

確かに、何なんだろうか。病気か何かじゃないかと疑うほどに、夢を見るたびに起こるこの現象。もっと気持ちよく目覚めたいと何度願ったことか。

「旭は変な夢見たことないの?」

手の爪をいじりながら興味本位で聞いた。なかなか返事が返って来ないので顔を上げて旭を見ると、ばちっと目が合う。何か変なことでも聞いただろうか。旭は、なぜか私の目を見つめながら寂しそうに少しだけ口角を上げ笑った。

「えっ、何」

「…いや。美波の話聞いてて思ったんだけど、俺、生まれてからずっと悪夢しか見てないなって」

「…え、急にそんなクサい台詞やめてよ」

「失礼な」

ふと見せた寂しそうな顔。それに悪夢しか見てないって、映画くらいでしか聞いたことない台詞だ。仮に、物理的に生まれてから見た夢が全て怖い夢や不吉な夢だというのが本当なら、彼の頭の中がすごく気になる。それこそ病院にでも行ったほうが良いのではないのか。

「はい、席について。今から合宿のしおりを配るので、各自目を通してください」

どっさりと四十人分のしおりの入った段ボールを軽々と抱えて教室に入ってきた加賀美先生は、慣れた手つきでしおりを席の先頭の人へ、後ろの人数分数えて手渡していく。

先頭の席の私は、先生から手渡されたしおりを受け取って後ろへと回し、ぺらぺらとページをめくった。

二日目の夕食の欄に、うどんとカレー選択可と書かれているのを見つけ、どちらにするか旭に訊こうとした時だった。

同じく先頭の旭が、しおりを受け取って後ろに回した後、先生から何かを言われ、即座に顔をしかめそっぽを向いた。

旭は何も関係ないと言っていたが、だったら初対面であんな態度は失礼すぎる。

先生は呆れた顔をしていたが、すぐいつもの優しい表情に戻り、次の列の先頭の人にしおりを手渡していく。

この二人には何かがありそうだと思ったが、追及するのはやめておいた。



宿舎へは、運動部が試合会場へ向かう際に使うバスを借りて向かった。所要時間は1時間半ほどで、私は今朝の変な目覚めをリセットしようと仮眠をとったためあっという間に宿舎に着いた。

着いてすぐに昼食をとり、午後からは選択科目ごとに分かれて課題に取り組むというスケジュールになっていた。

さっそく加賀美先生からの課題を受けられる、と内心わくわくしていた私は、指定された教室に向かう途中の廊下で、ふと見覚えのある人影を二つ見かけた。

「加賀美先生と…旭?」

思わず足を止め廊下の角に隠れる。なぜ咄嗟に隠れたのか自分でもわからなかった。廊下だというのもあり、二人の声がここまで聞こえてくる。

「だから……わざわざここまで関わってくんなって言ってんだよ。どうせ兄貴も、父さんや母さんに言われて俺を騙してたんだろ?」

「僕は心配なんだよ。いい?旭。旭が抱えてる問題は、一人でどうにかなるものじゃないんだ。いつその時が来るかなんて、前例がない分怖いんだから…」

「ほっとけよ!過保護すぎんだよ」

ため息混じりの熱のこもった旭の声。やっぱりそうだ。あの二人には何かがあると思っていたけれど、会話を聞く限り、あの二人は何か関係をもっていそうだ。じゃあ何で、旭はそれを隠したがったのだろう。仲が悪いから?それとも、何か別の理由があるから?

しばらく言い合いが続く中、私は息を潜めてその場にじっと立っていた。持っている教科書類を胸にぎゅっと押さえつけるように抱えて。

そういえば、和樹と口を聞かなくなるまでは私たちもああやって、毎日のように言い合いをしてたっけ。小さい頃は仲が良くて、喧嘩なんかしたことなかったのに。

「おーい、何してんだ」

「うぇあっ!?」

丸めたノートで頭を軽く叩かれ、思わず変な声が出る。そこに立っていたのは、気だるそうに英語の教科書とノート、ペンケースを手に持った旭だった。

「あっ、旭……いたんだ」

「こっちの台詞だっつうの」

ツッコミを入れる旭にあはは、と愛想笑いをして、叩かれた部分を手で撫でていると、ふいに旭の表情が強張った。あたりを見回して、こちらに顔を近づけてくる。

「…さっきの、もしかして聞こえてた?」

完璧にバレてた。嘘をつくのが下手な私は、自分でも明らかに分かるほど動揺していた。

声を潜める旭から、私はそっと距離をとる。

「あのっ、き、聞くつもりも見るつもりも微塵も無くてですね……。何のことかもさっぱりだったし、その…通りかかったらたまたま、みたいな…」

何か言われる。絶対言われる。そう思って視線を逸らしつつ身構えていると、「そっか」と静かに呟く声。その声にゆっくりと顔を上げると、旭は丸めていたノートを元に戻し、私の目をじっと見つめた。

「…夜さ、部屋抜けれるか?」

唐突で驚いたが、旭の真剣な表情に押され首を縦に振った。

「うん。いいけど…」

「サンキュ。じゃあ十一時な」

旭は背中を向けつつそう言うと、小走りで指定の教室へと向かっていった。

旭とはまだ出会って一日も経っていないのに、不思議と長い間一緒にいた時のように素が出せている。旭の雰囲気や、性格のおかげだろうか。

何だか一日が、とても長く感じた。



クラスごとに食堂で夕食、入浴を済ませ、私は部屋で荷物の整理をしていた。その間、昼に見た加賀美先生と旭の会話が頭から離れなかった。加賀美先生の言っていた『旭の抱えている問題』って何なのだろう。一見穏やかに見えた旭が、加賀美先生に対してあんなに荒ぶった声を出していたのは驚きだった。

自然と、ボストンバッグに向いていた視線が床に落ちる。

「立川さん、電気消していいー?」

「えっ、あぁ、もう消灯時間?」

「うん。まだ何かするならつけとくけど」

ぱっと声のした方を振り返ると、同じ部屋のクラスメイトの子が電気のスイッチに手をかけてこちらを見ていた。

「ううん、大丈夫。消して良いよ」

「わかった。おやすみ〜」

「おやすみ」

パチン、という音と共に部屋が真っ暗になる。スマホの電源をつけると、画面の光でかろうじて手元だけ明るくなり、自分の布団の場所が分かった。とりあえず布団の中に潜り込み、十一時になるまで待つことにした。



十一時になりそっと部屋を出た私は、ちょうど同時刻に部屋を出てきた旭と合流し、宿舎の外と繋がる渡り廊下へと移動した。そこなら先生たちの部屋からも、生徒たちの部屋からも遠いし、声も響かないからだ。

星空も見えるし、空気も澄んでいて気持ちがいい。

「ごめんな、急に呼び出して」

「ううん。まだ眠くないし大丈夫だよ」

旭は渡り廊下の太い柱に手を置くと、ゆっくりと息を吐き、それからこちらを向いた。

「出会ってばかりで悪いんだけど、美波には話しておきたいって思ったんだ。現に、あの会話を聞かれたわけだし」

「いや…あの、本当にあれはわざとじゃなくて、その…なんかごめん」

「謝んなよ。美波は何も悪くないんだし、あんなとこで俺を引き留めたあいつが悪い」

旭は顔をしかめ眉間にシワを寄せた。

「あいつって、加賀美先生のこと?」

「……ああ」

旭は鼻から息を吸い込んで、口からゆっくりと吐き出した。その息が、何だか重たく感じる。私は、旭が話し出すのをじっと待った。

やがて、旭は私の方を向き口を開いた。

「…俺とあいつは、兄弟なんだ。騙したみたいになってごめん」

「ううん。何か理由があるんだろうなとは思ってたから…。話ってそのこと?」

「あぁ、いや。本題は別にあって。その…俺さ」

旭の背後に、月が現れた。雲に隠れていたのだろう。逆光で、旭の顔が暗くなる。風が吹き、やがて再び月が雲に隠れ、旭の顔がぼんやりと見えてくる。旭は、愛想笑いをするように、何かを諦めたように、切なく笑って言った。

「俺、生まれてから今までずっと、眠ったことが無いんだ」

さあっと音を立てながら、二人の間に強い夜風が吹き抜けた。木々の葉がカサカサと風に揺れる。

再び雲から月が顔を出し、辺りが少し明るく見えた。

「……え」

出た声は少し掠れていた。言われた言葉の意味が分からなかった。眠ったことがない?生まれてから今までずっと?

それ以上言葉が出ずに立ち尽くしている私の唖然とした顔を見て、旭は吐息混じりに「そうなるよな」と呟いて後ろを向き、月を見上げた。

「何が原因かは分からないらしいんだけど、人間が生まれながら持つ三代欲求の一つが欠如してるんだろうって病院の先生から言われたんだ。眠れないから、疲れをとったり、記憶整理ができない分人より寿命が短くなる可能性が高いんだと」

「……そう、なんだ」

唾をごくりと飲み込む。理解が追いつかず、とりあえず今は話を聞いて相槌を打つことしかできなかった。

旭は月を見上げたまま、淡々と話し続けた。

「俺の両親、仕事で海外に行っててさ。特に行きたい高校が無かったし、何故か理由もなく親に勧められてこの高校に入ったんだ。兄貴は一人暮らししてるから、そこが兄貴が働いてる学校だってことを、合格発表が終わってから知らされてさ。俺が心配だからってわざわざ兄貴を俺のクラスに配属させてたんだ。兄貴も賛成してたらしいし、それを俺に入学前まで黙ってたのに腹が立って…」

「…どうして?親に心配されるのがそんなに嫌だったの?」

「……うち、俺が小学校卒業する前に母親が再婚しててさ。遊んでばっかりだったし、酒で酔った時には俺に向かって、気持ち悪いだの、人間じゃ無いだの、散々言ってきた。普段から俺に対して機嫌悪かったし、出来のいい兄貴だけ可愛がって、俺のことは見えてないみたいに扱われてたんだ」

旭の目は、前髪に隠れて見えない。大きいはずの背中が、今はとても小さく感じた。

「なのに俺が高校受験で悩んでる時、両親とも仕事で海外に行くから、学校でも見守れるようにって兄貴の働いてる高校を受験させたんだよ。理由も言わずに。苦しんでる時に助けてくれなかったくせに、何だよ今更ってめちゃくちゃ悔しくて。そしたら、兄貴ともまともに話せなくなってた」

今朝、出会ったばかりの元気な旭からは想像できないくらい、弱々しい声。こんな旭を見たのは、クラスで私が初めてかもしれない。

渡り廊下の淵に座りあぐらをかく旭に続いて、私も隣に座り膝を抱えた。

「ごめんな、急にこんな話」

「ううん。聞けてよかった」

静寂が辺りを包む。春のそよ風が優しく頬を撫でていった。

なんだか、旭の話を聞いていると、自分の境遇と少し似ている気がした。不謹慎かもしれないけれど、ほっとした。何かがすとんと心の中に着地してじわりと広がっていく。

「私も、お兄ちゃんがいてね。今は家に引きこもってるけど、昔は頭が良くて器用で、よく一緒に遊んだり、勉強を教えてもらったりしてたんだ。でも、お兄ちゃん高校生になった途端にグレちゃって、そこからは全然話してないし、話したいとも思わない」

月を見上げながら話していると、旭の視線を感じ横を見る。そこには半ば驚いたように目をぱちくりさせる旭がいた。

そんな旭にふっと微笑みかける。

「…私たち、なんか似てるね」

「…ああ。確かにな」

安心したように息を吐きながら、旭は笑った。

「なんか、美波に話したらすっきりした」

「それはよかった。…そういえば、何でそんな大事な…踏み込んだ話を私にしてくれたの?まだ出会って一日も経ってないし、お互いのことよく知らないのに」

足を伸ばして旭の顔を覗き込むと、旭はふっと微笑んで「何でだろうな」とまた空を見上げた。

「なんか…美波なら大丈夫だって思ったからかもな。実際、嫌な顔一つせずに聞いてくれたし」

「嫌だなんて思わないよ。びっくりしたけど」

「美波はいい奴だな」

「…それはどうも」

何だかおかしくて、嬉しくて、くすくすと笑ってしまう。こんなに温かい気持ちになったのは、いつぶりだろうか。

そう思い耽っていると、不意に目の前の小さな茂みがかさかさと音を立て揺れた。

「わっ…!何?」

思わず座ったまま後退りをしようとしたところで、旭が茂みから出てきたものを見て「はは、なんだ」と笑い躊躇なく茂みに近づいていく。

旭の背後からちら、と覗き見ると、そこには旭の大きな手に擦り寄って気持ち良さそうに喉をごろごろと慣らしている黒猫がいた。

「…なんだ、猫か…」

「美波は猫好きか?」

「好きだよ。旭は?」

「俺も好きだ。昔飼ってた」

「へぇ。…私も猫飼いたいんだけど、お兄ちゃんが猫アレルギーなんだよね」

「それは仕方ないな」

旭は人差し指でちょいちょいと猫の頭を撫でた。そして、大きく口を開いて眠そうに欠伸をする姿を見ながら「いいよなぁ」と呟いた。

「何が?」

「ん?いや…。…そろそろ戻るか。美波ももう寝ないと明日眠くなるだろ」

「あぁ、うん」

旭が立ち上がるのに続いて、私も立ち上がる。はぐらかされた続きが気になるところだが、あいにく私の瞼も重くなってきた。

「旭はいつも朝になるまで何してるの?」

「スマホでゲームしたり、考え事してたら朝になってる」

「…辛くないの?」

聞いた瞬間、口を押さえた。愚問だった。辛くないわけがない。体に痛みとか、精神的に苦しくなるわけではないけれど、自分が他人と違うと感じると、疎外されてるみたいで辛いはずだ。

けれど、部屋に戻ろうと背を向けていた旭は振り返って「辛くはないよ」と言って微笑んだ。

「人って、人生の三分の一を睡眠時間に使ってんだろ?だったら、その三分の一を睡眠欲に邪魔されずに自由に使えるって考えたら得じゃない?」

「…そっか。それもそうだね…」

力ない言葉。けれど、今はそう返すことしかできなかった。自由に使えるとはいえ、きっと孤独で寂しいはずだ。旭が抱えている問題は、そう易々と片付けられるものではない気がした。



やがて二泊三日の合宿が終わり、私たちは普通コースの人たちよりも一日遅れで授業が始まった。

昨日は帰宅後、寝たのが夜の一時過ぎだった。それが影響して、現在私は目の前に置かれた英語の教科書に書かれている英文が歪んで見えている。眠い。眠すぎる。

瞼が閉じかけ、シャーペンを握る手に力が入らなくなりかけたその時。

「…波、美波」

小さく私を呼ぶ声がする。目を擦って声のする方を見ると、旭が前をさりげなく指差した。

視線を前に移すと、白髪頭の先生が私を見て呆れたように微笑んでいる。

「立川、合宿明けで眠いのは分かるが集中しような。二行目、日本語訳して」

「えっ…あ、ごめんなさい!」

ばっと席を立つ。当てられていたのにも気づかずに、睡魔と戦っていたのか。入学早々恥ずかしくて顔に熱が集まる。

周りの子がそんな私をみて小さな声で笑う中、助けを求めるようにちら、と旭の顔を見るが、旭は一人、なにかを思い詰めるように下を向いていた。



「昨日、遅かったのか?」

昼休み。何かと一緒にいることが多く席も隣の旭と、当たり前のように昼食を共にする。

弁当を広げ、席はくっつけることなく二人前を向いて箸を口に運んだ。

「お風呂に入って今日の小テストの予習してたら、寝るのが一時くらいになっちゃって」

「小テストの予習なんて昼休みにやればいいのに。わざわざ夜やらなくても良くないか?」

「私は中学の頃から、昼休みは睡眠の時間って決めてるの。だからできないんだよ」

「食べてすぐ寝てるのか?太るぞ」

「うるさい」

卵焼きを口に入れる。少ししょっぱくて、でもふわふわで美味しかった。私は母の作る弁当の具材の中で、卵焼きが一番好きだ。

「加賀美先生ー!お昼ご飯何食べるんですか?」

「一緒に食べましょうよー!」

廊下から声が聞こえ、開いたドアから覗き見ると、女子数人に囲まれている加賀美先生がいた。困り笑顔で宥めているように見える。

加賀美先生は確かに、街でスカウトされてもおかしくはないくらいに顔が整っている。

入学早々人気だね、と言おうとしたけれど、ここでお兄さんの話題を出すのは空気を悪くすると思い、掴んだ唐揚げと一緒に飲み込んだ。今考えると、睡眠の話題を出したのもどうかと思ったが、過ぎたことは仕方ない。

全て食べ終えると、私は中学の頃と同様に次の授業の教科書やノートを準備してから机に張り付き目を閉じた。昼休み終了まで残り二十五分。中学の頃よりも長い昼休みはとても有難かった。

「授業開始五分前になったら起こして…」

「はいはい」

すでに襲ってきている睡魔の中言うと、旭は半ば笑いながら返してくれた。

何だかその声に安心して、私はすぐに眠りにつけた。


全ての授業が終わり、放課後。窓から夕日の光が差し込む中、鞄の中に教科書類を詰め込んでいると、世界史の課題プリントが大量に挟まったファイルが目についた。合宿が終わってほっとしていたから忘れていたが、提出期限は確か今日までだったはず。

「美波、もう帰るなら一緒に帰らないか?」

「あー、ごめん。世界史の課題出さなきゃいけないの忘れてたから、先に帰ってて!」

「…そっか。じゃあまた明日な」

「また明日ね」

ポケットに手を突っ込んで、旭は教室を出て行った。その後に続いて、クラスの男子が教室を出て旭に飛びついて話しかけている。

私はそのファイルを手に鞄を肩にかけて、少ししてから教室を後にした。



「失礼します」

入学して初めての職員室。コーヒーの匂い、プリンターが稼働する音、そして先生たちの静かな話し声。職員室独特の雰囲気が、私はあまり好きではなかった。

さっさと提出して帰ろうと、加賀美先生を探した。けれどどこにも見当たらず、奥の方に進もうとしたその時だった。

「立川さん。何か用事ですか?」

後ろから声がして振り返ると、そこには加賀美先生が立っていた。

ちょうど今職員室に戻ってきたのだろう。閉めたはずのドアが開いていた。

先生と目が合った瞬間、旭と出会ったあの朝のことを思い出す。兄弟でやはり少し顔も似ているから、一瞬旭だと勘違いしてしまうところだった。旭もこうやって、優しい顔で話しかけてきたっけ。

「あ…先生に用事があって。課題を出すのを忘れていたので…」

「ああ。ありがとう」

先生は私の手から課題のプリントを受け取ると、「そうだ」と何かを思いついたように目を開いた。そして私の顔を見て、申し訳なさそうに眉を下げる。

「職員室に来たついでに悪いんだけど、地球儀運ぶの手伝ってくれないかな?」

「地球儀?」

先生の片腕に目をやると、大きな地球儀が一つ抱えられている。話しかけられる前は両手で抱えていたから、相当重いのだろう。

明日の授業で使うのかもしれないし、まだ門限まで時間はある。

「全然手伝いますよ」

「ありがとう。助かるよ」

私は鞄を職員室前に置き、先生と二人で倉庫へと向かった。



二人で並んで廊下を歩いていると、窓の外から部活動をしている運動部の掛け声や笛の音が聞こえる。陽の光が眩しく、二つの影が濃くなっていった。上靴と、革靴の歩く音だけが長い廊下に響く。

「…立川さん、一つ聞いてもいいかな」

「えっ?は、はい」

先生の驚くほど静かな声に尋ねられ、私はこくりと頷いた。

「旭…加賀美旭とは、仲良いの?」

「ま、まぁ…。入学式の日の朝、旭が私に話しかけてきたのがきっかけで、それから何となく一緒にいるというか…」

先生はどこまで知っているのだろう。私が旭の問題を知っていると言ったら、どんな顔をするのだろうか。そもそも、私がこの二人の問題に口を挟んでいいのだろうか。

「なるほどね」

「あの、急に何でそんなことを…?」

「ん?いや、別に深い意味はないんだけど…その…」

きっと、先生は旭のことを純粋に心配しているのだろう。少し不器用には見えるが、先生の表情、話し方、態度から滲み出てくるように感じる。

優しいんだな、とすぐにわかるような人だ。

答えに迷い目を泳がせている先生に、

「先生って、旭のお兄さんだったんですね」

とさりげなく口にすると、先生は「えっ」と言いその場に立ち止まった。

「旭に聞いたの?」

「はい。合宿の時に…。その他にも、色んなことを話してくれました」

「色んなことって…」

旭のいないところで言うのも少し気が引けたけれど、先生のいつもとは違う寂しそうな表情を見たら、思わず口を開いていた。

「…睡眠の、こととか」

「……そうか」

先生はなぜかほっとした顔をして頬を緩め、再び歩き出す。その後に続いて、私も歩き出した。



地球儀を全て職員室へと運び終わり、最後の一つを先生に手渡す。

「ありがとう。ほんとに助かったよ」

「いいえ。暇だったので」

私はそう言ってぺこりと頭を下げ、職員室前に置いていた鞄を肩にかけようとしたその時。

「立川さん」

「はい?」

「…旭は、立川さんのことをすごく信頼してるんだと思う。だからどうか、これからも仲良くしてやってほしいんだ」

「信頼……」

今までずっと、誰かに頼られたり信頼されたことがあまりなかったこともあり、素直に嬉しかった。思わずふふっと笑みが溢れる。

「もちろんです。旭は、高校生になって最初に仲良くなれた友達なので。だから、心配しないでください。先生の授業、楽しみにしてます」

そう言ってもう一度頭を下げ、私は下駄箱へと続く廊下を歩いていった。

その時に聞こえた、小さな「ありがとう」という声は、私の心にじわりと温かさを染み込ませていった。



それから、月日は何事もなく、平和に過ぎていった。授業にも慣れてきて、クラスにも馴染み始めた5月の半ば。梅雨前のこの暑さは、蝉も夏だと勘違いして土から出てきそうだ。制服も汗で肌にくっつき、いい加減体操服で帰宅したくなる。

私たちは今、体育祭の練習をしていた。

残暑が厳しいという理由で十月から五月に開催されることになったらしいが、大して暑さは変わらない気がする。熱中症で倒れる人がいてもおかしくはない暑さだ。

クラス対抗リレーのメンバーに、昔から走るのだけは速かった私と、何故か運動神経が突出して良すぎる旭を含めたクラスメイト五人が選ばれた。さらにアンカーに選ばれた旭と一緒に、私は放課後の練習に欠かさず参加していた。

今日も今日とて、放課後練習に招集された私たちは体操服に身を包んでいた。

「あっつ……本番倒れたらどうすんのこれ」

体操服の首元を掴んでパタパタさせながら、他のクラスが走るのをグラウンドの隅に座ってぼうっと眺めていると、突然頬に冷たい感触と何か硬いものが当たった。

「そうならないように、先生たちが大量に買ってくれてるんだよ。ほら、飲め」

驚いて上を見上げると、光に反射し輝く水の入ったペットボトルを差し出す旭がいた。旭の言った通り、この水はリレー担当の先生たちの優しさによって存在するものだ。目線の先にクーラーボックスに入ったたくさんのペットボトルが、夕日に照らされてきらきらと光っている。

「ありがと……。旭も座りなよ。さっきからずっと走ってばっかじゃん」

「アンカーですから」

「あんまり無理するとほんとに倒れるよ?」

「分かってるって。水分補給してるし、他のクラスが走ってる時は日陰にいるから」

旭は私の顔を見てにこりとした後、ぐいっと自分の持っていた水を飲み、どかっと隣に座る。

「まさか美波も選ばれるとは思ってなかったな。意外だった」

「私もだよ…。自分でびっくりしてるし。何も取り柄ないくせに足だけは速いんだもん」

「ははは」

「ちょっとは否定してよ」

冗談交じりに肩を叩くと、旭はからからと笑った。

いつしか、旭と話すことが学校生活の中で一番の楽しみになっていた。なんだか、ゆっくりだけれど少しずつ旭のことを知れているような気がして。

もっと話していたい。他愛もない話だっていい。旭の声を、話を聞いて、笑っていたい。

そう思うようになっていた。

それに、旭は口にこそ出さないけれど、本当は夜中に一人だけ、生まれてからずっと寝ずに取り残されているのは寂しいはず。

親も海外にいると言っていたし、一人で家にいるのなら尚更だ。そんな寂しさを、ただ、埋めてあげたかった。

「…ねえ旭。夜中に電話したら迷惑?」

「え?どうした急に」

「あ…嫌だったらいいんだけどさ。もしいつもみたいに変な夢見て起きた時とか、話してたら落ち着くかなって思って…」

言い訳はどうしても独りよがりになってしまう。けれど、話していたいのは本音だ。

あぐらをかき、ペットボトルのラベルを爪でカリカリと剥がしていた旭はその手を止めた。

「嫌なわけないだろ。いつでもかけてきていいぞ」

当たり前、とでも言うような口調で、旭は言った。

「…ありがと」

ぼそりと呟いてから、私は残りの水を一気に飲み干した。





その日の夜のことだった。

「っ…!?」

まただ。真っ白な光に目をこじ開けられ、私は現実へと戻ってくる。

夢を見ていたかも忘れた。けれど、この光ははっきりと記憶に残っている。憎らしいほどに。

スマホを見ると、時刻は夜中の三時。家族はまだ夢の中にいるのだろう。

そのまま、私はスマホの画面をタップしてチャットアプリを開き、「旭」の文字を探した。今何をしているのだろう。ゲーム?それとも考え事?

気づいた時には、私は無意識に通話ボタンを押していた。呼び出し音が寝起きの耳に痛いほど響いたが、意外にも旭はワンコールで出てくれた。

「おお、美波。どうした?」

旭の声は、当然だが寝起きのそれでもなく、学校で話しかけた時のようにはっきりとしていた。以前、夜中に怖い夢を見て思わず中学の頃の友達に電話をかけると、心底眠そうな声でイライラしながら応答されたことがあった。旭は寝ていないのでそんなことはないが、あの時の記憶が蘇り少し躊躇してしまう。

「あ…ごめん、また変な夢みちゃってさ。旭は何してたの?」

「スマホでゲームしてた。だから電話に早く出れたんだよ」

「なるほどね。…あ、ゲームの邪魔じゃなかった?」

「全然。むしろゲーム飽きてきてたし」

旭の声は、いつもより静かで落ち着いていた。深夜だからというのもあるのだろうけれど、寝起きの私に気を遣ってくれているのだろうか。

「なんかいいな。こうやって一人でいる時に誰かと普通に話してるなんて今まで無かったからさ。新鮮で楽しい」

「ほんと?それはよかった。私も落ち着いてきたかも」

目を閉じて、布団に入ってスマホを耳に当てながら、旭の声に浸る。旭が少しでも、寂しさから解放されればという思いで、私は少しでも長く、会話を続けた。

「何のゲームしてたの?」

「パズルゲーム。暇な時にいつもやってるやつなんだけど、そろそろ飽きてきたんだよな」

「明日学校で見せてよ、そのゲーム。私パズルゲーム好きだし、今度また夜にも通話しながら一緒にやらない?」

「お、いいなそれ」

「決まりね」

もうすぐ一時間が経とうとしていた。けれどそんなことは今はどうでもよかった。私はいつしか、旭との会話に夢中になっていた。旭も、声は落ち着いているけれど話し方が楽しそうだった。

私たちは結局、朝の五時まで話し続けていた。



それからというもの、私たちは毎日夜中に電話をしていた。私が夢で起きるというよりは、寝る前に電話をして夜中まで続くことが多かった。眠い日もあったが、旭の楽しそうな声が聞きたい、そんな一心で話し続けた。

今日も、旭と夜の十一時から電話をしていた。

「そしたら俺の右隣に座ってた子がさ、起きた瞬間に先生のこと「ママ」って言ったんだよ」

「ちょ……面白すぎる…お腹痛い…」

先ほどから面白い話を立て続けに聞かされ、私はひたすら笑い転げていた。

転げていたと言っても、家族は寝ているため布団の中で静かに。

旭の笑い声も好きだ。話の合間にくすくすと笑うその声は、なぜだかとても癒される。

思わずあくびが出てしまうほどに。

「…美波、眠そうだな。体育祭の練習もあるし、もう寝たほうがいいんじゃないか?」

「ううん、まだ大丈夫…」

「絶対眠いだろ。もう切るから、しっかり寝ろよ」

「え、いや大丈夫だって。本当に。まだ話してたいし」

「いいから。ほら、おやすみ」

「…おやすみ」

半ば強引に、けれど優しく切られた。しばらく余韻に浸っていたけれど、睡魔には勝てない。私はいつの間にか、ぷつりと糸が切れたように意識を失っていた。




「立川さん、遅くまでお疲れ様です」

放課後。下駄箱で靴を履き替え、いつものようにリレー練習へと向かおうとしたその時、後ろから加賀美先生が声をかけてきた。

「ありがとうございます。先生もお疲れ様です」

「今日も走る練習?」

「あ、いえ。今日はバトンの引き継ぎの練習です」

「そうなんだ。頑張ってね」

そう言って先生は名簿を抱え直し、にこりと笑ってから背を向けた。

やっぱり旭と似てるなぁ、と思いぼうっとしていると、突然がつんと殴られたような痛みが頭の中に響いた。

「いった……」

頭を押さえて、靴箱に手を置いてしばらくじっとする。足がふらつくが、そのままの体制で立っているとしだいに治ってきた。

「何だったんだろ、今の……」

深く深呼吸をして、腕を回す。何度かそれを繰り返していると、私を呼ぶ聞きなれた声が外から聞こえた。

「美波ー?もう練習始まるぞー」

旭がひょっこりと顔を出す。私は額に滲んでいた汗を拭って、笑顔を作った。

「あ、うん。今行く」

きっと連日のリレー練習で疲れが出てきているのだろう。今日は引き継ぎの練習でがっつり走るわけでもないから大丈夫だ、そう自分に言い聞かせ、待ってくれている旭の元へと走った。



「立川、パス!」

バトンの引き継ぎ練習が始まった。私が走るのは二番目。最初に走る男子からパスを受け取り、半周を軽く走る。全速力で走ったわけでもないのに、何故か今日は体操服にやたら汗が滲む。風が目の前から覆い被さり、砂埃が舞った。

「っ…!」

その瞬間、視界が切れかけた蛍光灯のようにチカチカとし始めた。

あと少し、あと少しと自分を奮い立たせ、次に待つ人の元へと何とか足を踏ん張り走り切る。そして手を伸ばし、バトンを渡そうとした。しかしバトンは次の人へ届くことはなく、少し触れたところで外れ地面へ転がっていく。それと同時に、気づいた時には視界が真っ暗になり、ものすごい衝撃で地面に体が打ち付けられた。

呼吸がしづらい。体が熱い。手足が痺れて動けない。私、このまま死ぬのかな。そう思うほどに。

「美波っ!!」

そんなことを考えていると、旭の叫ぶような声が聞こえた。他の人の焦ったような声や心配する声、走って近づいてくる足音もして、たくさんの音が同時に聞こえているはずなのに、ガラスの向こうにいるかのようにくぐもって聞こえる。けれど旭の声だけは、なぜか直接的に私の耳に響いてきた。

「美波、大丈夫か!?体が熱いな…。とりあえず日陰に運ぶから、そのままゆっくり呼吸してろ」

優しい声。私はなんとか頷いてから、少しだけ開けていた目を閉じて大きく呼吸をした。

すると、ゆっくりと体が持ち上がり、大きな腕に包み込まれる。それからは、いつの間にか気を失っていて記憶がなかった。



「……ん…」

視界には真っ白な天井。そして、ピンク色のカーテンに囲まれていた。ゆっくりと右を向くと、そこには俯いて一人じっと座って下を向いている旭がいた。何かを堪えるような、悔しがるような表情を浮かべて。

「…旭……?」

「…美波!」

起きあがろうとしたけれど、意識が戻った私に気づいた旭は、目を見開いて勢いよく立ち上がり、私の肩を掴んでゆっくりとベッドの方へ押し戻す。

「まだ寝てろ。さっき倒れたばかりなのに」

近くにある旭の瞳が、少しだけ潤んでいた。朦朧としていた意識がはっきりとしてきて、色々な記憶がが頭の中を駆け抜けた。

そうだ。私はリレーの練習中に倒れてしまい、旭が保健室まで運んでくれたんだ。

申し訳なさでぎゅっと目を閉じたその時、「起きたのね」と保健室の先生の声が聞こえた。そしてカーテンがシャッと開けられる。

「具合はどう?まだ頭痛い?」

「あ…少しだけ。でも他は大丈夫です」

「睡眠不足が原因ね。体育祭の練習で疲れてるんだから、特にあなたたちはきちんと寝なきゃダメよ?今日は落ち着くまでそこで寝てなさい」

「…はい。すみませんでした」

先生は「お大事にね」と言い、カーテンを閉めて戻って行った。

再びカーテンによって少し薄暗くなったこの空間に、静けさが戻る。

「…ごめん、旭。心配かけて…」

「……っ」

「え…?」

突然、旭は腰を曲げ、私の視界に覆い被さった。片方の手は私の肩に、もう片方の手はベッドについている。ばちっと真正面で目が合うが、肩を掴む手が微かに震えている気がした。

「……最近、夜中頻繁に電話してきてた本当の理由は?」

「え……」

「…いいから教えろ」

「……」

旭が夜、一人で過ごす時間が少しでも楽しくなりますように。寂しい思いが少しでも無くなりますように。そう願っていた。旭と話すことが楽しいのは本音だ。けれど、そんな私の思いは、旭にとって、そして私の体にとって、重荷になっていたのかもしれない。

何も答えない私に、旭は小さく息をついて口を開いた。

「……お前、最近体育祭の練習始まっても、疲れて眠いはずなのに眠くないよって言って無理して電話続けてただろ。俺が切るよって言っても、強引に聞いて欲しい話があるって言って譲らなかった」

旭は今、きっと怒っている。けれどその矛先は、なぜか私ではなく自分自身に向かっているように感じた。肩を掴む手が離れ、そっと労るように私の頬を撫でたからだ。

私の頬に、水滴がぽたりと落ちる。

逸らしていた目を正面に向けると、旭の目はいつの間にか私の目をしっかりと捉え、少しだけれど涙で潤んでいた。

「……ごめん」

静かな低い声が、静寂に包まれた保健室にほとりと落とされる。

旭、と名前を呼ぼうとしたが、旭はそれを遮るように背を向けて、逃げるように保健室を出て行った。

頬に残った、旭の涙。起き上がりしばらくぼうっとしていると、いつしか、それはどちらのものかわからなくなっていた。



結局その日は練習に復帰できなかった。体育祭まで残りの日数は多くはない。同じクラスのメンバーにも、旭にも迷惑をかけてしまった。

そして翌日から、旭と話していない。席は隣なのに、一度も旭の目を見ることはできなかった。旭も、別の友達と絡むことなく、授業が終わるたびに机に突っ伏し、チャイムが鳴っては起き上がる、を繰り返していた。

昼休みになり、旭に話しかけようと試みたが、あいにく他の男子に誘われ席から離れてしまった。胸の中がもやもやとしたまま、私たちは一言も話さずに一週間を過ごした。リレーの練習には、倒れた二日後から参加したが、その時にも会話は一切なく、走る音と笛の音だけが耳に響いていた。

楽しく話していた頃に戻りたい。また、旭と笑いながら帰りたい。一人で帰路につく途中、私は頭の中でそんなことばかり考えていた。

気づいた時には、空には分厚い雲が広がっていた。あたりは薄暗く、肌には汗とは違う湿気が纏わりつく。

やがて大粒の雨が、ぽたぽたと地面に細かい水玉模様をつけていく。まるで心の中を覗かれているようで、私は傘も差す気になれなかった。

近くの児童公園まで歩き、ブロック塀にぶつかるように背を向けてもたれかかる。雨が前髪を濡らし、大きな雫を作っては目の前でぽたりと地面に落ちていく。

だんだん激しくなる雨は、しだいに視界をも曇らせていった。痛いほどに打ちつける雨。

下を向いて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

旭と出会ってまだ半年も経っていないのに、こんなに情が移るのは何故だろう。

旭の笑顔、話し声。それら全部が、私の温かい気持ちを作ってくれているようにさえ感じた。何かに失敗した時、優しく頭を撫でてくれた大きな手。一緒にお弁当を食べるあのゆったりとした時間。

考えれば考えるほどに、旭と私の間にある溝が深くなり、遠くに行ってしまうような気がした。

膝を抱えてうずくまる。遠くで雷が鳴りはじめるが、立ち上がって家に向かうには足が重すぎて動かなかった。

「……旭……」

掠れた声。名前を呼んだその唇は、少しささくれて痛かった。

しばらくそのまま雨に打たれていると、急に何かに遮断されて雨が体に降って来なくなった。その代わりにパン、パンと何かに雨が打ちつける音と、大きくて見覚えのある、いつも玄関に置いてあった靴が視界に入った。

普段は家に置いてある、少し汚れたスニーカー。

「美波、何してんの」

見上げると、傘を私に掲げて焦ったように息を切らし、髪を濡らす和樹がいた。いつも家にいて、外には滅多に出ないはずなのに。今日は何故か、ものすごく頼もしくみえる。

「…なんで……」

震える声で問うと、和樹はしゃがみ込み私と目線を合わせて、大きな手で頭をぽんぽんと撫でた。

「なんか、最近元気なかったから。ちっちゃい頃からお前は、何かあると一人で抱え込んで誰にも一切相談しないくせに、誰が見てもすぐ分かる落ち込み方するんだよな」

「……何よ、いつも家でだらだらしてるくせに」

込み上げるのは、和樹に対する呆れでも怒りでもなかった。何年ぶりだろうか。こんなにも、和樹が兄として頼もしく見えたのは。涙を堪えて、喉のあたりが痛くなる。

「ほら、帰るぞ。風邪ひいたら体育祭出れなくなる。リレー走るんだろ」

「……なんでそんなことまで知ってんの」

「いつも見てるから。美波のこと」

今までだったら、突き放す言葉であしらっていたかもしれない。けれど今日は、すとんと胸に落ちてくるみたいに、私をそっと包み込むみたいに優しくて。

心のどこかで私は、和樹に嫌われたと思っていた。そう思うのが辛くて、無意識に自分から突き放していた。

けれど、和樹はちゃんと見ていてくれた。嫌われていなかったんだ。

「…っ…うぁぁぁぁあ!!」

こんなに大声で泣いたのはいつぶりだろうか。

後頭部に添えられた和樹の手。とん、と胸に引き寄せられ、そっと頭を撫でてくれた。何かが崩壊して、大粒の涙は止まることを知らないようだった。

和樹は私の頭を撫でながら言った。

「…ごめん、いろいろ…。どさくさに紛れてるみたいに思うかもしれないし、今じゃないだろって思うかもだけど、お前が俺と話してくれなくなったのは、全部俺のせいだって思ってるし…いつかあのこともちゃんと謝りたいって思ってたんだ」

胸に広がる、恐怖でも怒りでもない感情。懐かしいものを見た時みたいに、温かく、優しかった。

「……ほんと、今じゃないよね…。…でも……嬉しかった」

「うん……ごめん」

「…もういいよ。私も、ごめん」

何年ぶりだろう。和樹の笑顔を見たのは。

つられて私も微笑んでしまう。

やがて雨は小降りになっていき、水溜りに二人の影が揺れた。




案の定、翌日見事に風邪を引いた。

「美波、寒くない?何か温かいもの持ってこようか?」

「ううん、いい…。ありがと」

そこまで高熱ではないが、咳と鼻水のせいで頭がズキズキと痛む。

部屋に薬を持ってきてくれた母は、私の肩まで布団をかけて心配そうに眉を下げた。

「今からお母さん仕事行くけど、何かあったらお兄ちゃんが下にいるから。学校にも連絡しといたから、今日は安静にしてなさい」

「ん…」

体勢を変えて壁の方を向く。すると静かに、ドアを閉める音に続いて階段を降りる音がした。

ぎゅっと目を閉じる。真っ暗な世界が広がる中、私は極力何も考えないようにした。

また泣き出してしまいそうだったから。

そうしてしばらくじっとしていると、薬を飲むのも忘れて、深い眠りについていた。



「…波、美波、起きてる?」

肩を揺すられる振動で目が覚める。ゆっくりと目を開け声のした方を向くと、そこには和樹がいた。

気づいたら窓から夕日がさしている。

昼食も取らずにこんな時間まで寝ていたのか。目を擦って何回か瞬きをする。

「…何?」

「美波の友達だっていう子が来てるんだけど、どうする?」

「え…?」

思わず起き上がる。

「それって、男子?」

「うん。俺より背が高い子…。今玄関で待ってもらってるんだけど、上がってもらう?」

「……うん」

きっと旭だ。そう思った瞬間、嬉しさ半分、気まずさや罪悪感が心を蝕んでいく。どんな顔して会えばいい?そもそも、こんなに迷惑かけて怒らせていないだろうか?

「じゃあ、呼んでくる」

和樹はそう言って部屋を出て行った。

急に心臓の鼓動が速くなる。ボサボサになった髪を撫で、布団を綺麗に整える。

深呼吸を何度もするが、鼓動はさらに速くなっていく。

静かになった部屋に、ドアの向こうからゆっくりと階段を上がってくる音だけが響いた。

そして、コンコン、とノックする音。

「は、はい。どうぞ」

変に畏まってしまう。裏返った声で返事をすると、ガチャリという音と共に背の高い影が見えた。

「……久しぶり」

私の目を見てかけられたその声に、思わず泣きそうになる。

唾をごくりと飲み込んでから、慌てて笑顔を装った。

「う、うん。久しぶり」

ドアを丁寧に閉めてから、旭は私の顔を見て少しだけ微笑んだ。いつもの制服姿だったから、学校が終わってそのまま来てくれたのだろう。

「風邪引いたらしいって兄貴から聞いて…」

「…そっか。ありがとう…」

会話がぎこちない。一週間も話していなかったから、当然だとは思うけれど。

小さなローテーブルを挟んで座る。

「もう熱は下がったのか?」

「え…あっ、うん。もう元気だよ」

「そっか…」

「あ…何か飲み物持ってこようか?」

「いや、いいよ。ありがと」

沈黙を妙に気にしてしまう。けれど旭は、あまり気にしていないように見えた。

手のやり場に困ってひたすら髪をいじっていると、旭とばっちり目があった。

旭はふっと目を細め、静かに口を開いた。

「…今日来たのは、その…もう一回謝りたくて」

静かに落とされた声に、私は即座に口を開いた。

「そんな。私が悪かったのに。無理してあんなことしたから…」

旭は、私の言葉を遮るように目を閉じて首を横に振った。

「……俺のせいだ。俺が美波に睡眠のこと言わなかったら、美波はあんなことにならなかった。俺が美波を傷つけたんだ。俺のわがままで気を遣わせて、本当にごめん」

「………」

「…でも、嬉しかったよ。美波が俺と話したいって言ってくれた時。美波と会う前まではずっと、一人で夜を越すの寂しかったから」

「…ほんと…?」

嬉しくて、泣きそうで声が震える。旭とやっと普通に話せた。旭の気持ちを、きちんと知れた。

口元を手で覆うと、涙がぽたぽたと床に落ちる。微熱のせいで、涙が少し温かかった。

「私最近…泣いてばっかだ……」

「……ごめん。本当にごめんな」

頭に大きな手が置かれる。和樹の手よりは少し小さかったが、確かに私のそばにいてくれる、そう実感できて嬉しさにまた涙が溢れた。



しばらく泣いた後、落ち着いてから咳が出始めたため再びベッドに入った。旭が優しく布団をかけてくれる。

「何か欲しいものとかないか?もしあったら今から買ってきてもいいけど」

「ううん。大丈夫…。風邪うつしちゃいけないし、もう暗くなるから帰ったほうがいいよ」

「…そうだな…」

旭は窓の方を向いて残念そうに息を吐いた。

夕日に照らされて、旭の瞳がオレンジ色に染まりきらきらと輝いている。

よく見ると、まつ毛も長く綺麗だ。

無意識にベッドからじっと見上げ眺めていると、不意にこちらを向いた旭と目が合った。その瞬間、旭はふわっと微笑む。

「……ん?」

何でそんなに、優しい目をしているんだろう。温かくて柔らかい声に、自然と肩の力が抜ける。

「…ううん」

私はそう言って、ゆっくり旭に背を向けて目を閉じた。視界にはいないのに、旭の気配はずっと感じられた。

「じゃあ、お大事にな。体育祭までには絶対治せよ」

「…うん」

少しして、パタリと静かにドアを閉める音が響く。しんと静まり返った部屋。自分の心臓の、とくとくと鼓動を打つ音を聞いていると、いつの間にか夢の中へと意識が流れていった。



翌朝、熱も下がり体調も元に戻った私は、いつものように学校に行く準備をしに洗面所に向かった。

その途中で、見慣れないスーツ姿とすれ違い、驚きのあまり勢いよく後ろを振り返る。

「えっ…お兄ちゃん!?」

「おぉ。おはよう、美波。体調はどう?熱はもう無いのか?」

「体調はもう戻ったけど…何、コスプレ?」

和樹は私の言葉に、「ひどいなあ」と笑い、ネクタイをきゅっと締めた。

「最近色々頑張ってる美波を見てたら、そろそろ俺もしっかりしなきゃと思ってさ」

「…就活…してたんだ」

そういえば、私が高校生になってからの和樹は、朝こそだらだらしていたものの、私が帰宅すると毎回机にパソコンやメモ用紙、分厚い入門書などが置いてあったのを思い出す。

一時は父のものかと思っていたが、父は機械に疎かった。

「家にいる時、ずっと趣味で機械の扱い方とかプログラミングの仕方とか、色々勉強してたんだ。だから、その辺の技術を使ってもらえるような会社に就職して、稼いで自立したいって思って」

「…いいことみたいに言ってるけど、今までだらけてたんだからしっかり働いて稼ぐのは当たり前でしょ。何回私が家に友達呼ぶの断ったと思ってんの」

「えっ、呼んでよかったのに」

「どうせ出てきてお喋りし始めるんでしょ。女の子好きだもんね?」

「なっ…。お前、言うようになったな…」

気づけば、和樹とちゃんと会話をしていた。今まで無視し続けていたのが嘘みたいに。尖ってざらざらとした氷が、丸くなり溶けていくみたいな、たしかなお互いの変化を感じた。

和樹の後ろにあるドアから出てきた母が、持っていたタオルをその場で落とし、驚いた表情で私たちを見つめているのが見え、思わずくすりと笑ってしまった。




学校に着いて教室に入ると、すでに席について近くの男子と駄弁っている旭を見つける。

話の邪魔にならないように、そっと隣の席に行き鞄を置いた。その瞬間、「おっ」という声が聞こえる。

「美波、もう大丈夫なのか?」

「うん。朝起きたら熱下がってたし、体調も元に戻ったよ。おはよう、旭」

「…よかったな。おはよ、美波」

ハイタッチをしてお互い笑い合うと、近くで旭と駄弁っていた男子1人が「何だよお前ら」と割って入ってきた。

「付き合ってんの?」

「えっ?」

「え」

間抜けな声で返答をしてしまい、それと同時に赤くなってしまった。ちらりと旭を見ると、少し焦った様子で「何言ってんだよ」と笑いながらその男子を小突いている。

幸いなことに、赤くなったのは旭にも、その男子にもバレなかったようだが、一人だけで意識して舞い上がってしまったのは少しだけ寂しかった。

その後すぐに加賀美先生が教室に入ってきたため、私たちは急いで席についた。




体育祭が明日に迫った放課後、なんとか私は、休んでいた分の練習量を全てこなした。

旭にも手伝ってもらい、リレーのバトン繋ぎもスムーズにできるようになった。あとは明日の、体育祭本番を待つのみとなった。

更衣室で制服に着替え、校門で待ってくれている旭の元へ駆けていく。

「お待たせ。汗かいた後に制服着ると流石に気持ち悪いね」

「わかる。早く帰ってシャワー浴びたいよな」

二人で、見慣れた通学路を並んで歩く。

あの日以来のことで、嬉しくてつい笑みが溢れてしまう。影が二つ、道路に長く伸びて行った。

「…なぁ、美波」

「ん?」

「寝るのって、気持ちいいか?」

唐突な質問に、思考が固まってしまう。

「何、どうしたの急に」

「…いや。ちょっと気になってさ」

「んー。疲れた時にぐっすり眠って、朝すっきり起きれたら気持ちいいんだろうけどね。私はいつも変な夢ばっか見るからわかんないや」

「…そっか」

「えっ…ほんとにどうしたの?なんか元気ない?」

「いや、何でもない。ただ聞いてみただけ」

「…変なの」

眉を下げ旭の顔を覗き込むように見上げる。

なんだか寂しそうな、どこか遠くに想いを馳せるようなその目は、夕日に照らされて今もやっぱり綺麗だった。

「ねえ、私も一つ聞いていい?」

「何だ?」

「加賀美先生って、どんなお兄さんなの?」

旭にとっても唐突な質問だったのだろう。少しの間目を丸くしていたが、すぐに話し始めてくれた。

「優しくて強い人…だな。小さい頃はよく、兄貴が夜遅くまで起きててくれてさ。俺が飽きるまで本読んでくれたり、ゲームに付き合ってくれたりしたんだ」

「へぇ。いいお兄さんだね」

「今はお互い一人暮らししてるし、あまり話さなくなったから夜に電話したりってことも全然無いんだけど。俺が母親に何か言われたりすると、決まって兄貴が間に入って俺の味方をしてくれた」

懐かしむように夕日に目を細める旭を見ていると、私も次第に胸が温かくなるのを感じた。完全に先生のことを嫌っている様子は無さそうで、少しだけ安心した。




翌日。天候は無事に晴れて、朝から少し汗ばむ暑さだった。数々の種目で歓声が上がったり、笑いが起こったりと、賑やかな体育祭はあっという間に感じた。やがて午後の部の最後を締める、クラス対抗リレー。

それぞれ持ち場につき、深呼吸をする。

「やばい、超緊張する」

「落ち着け美波。肩に力入ってんぞ」

後ろにいた旭に両肩を上から押され、すとんと肩の力が抜ける。

「あっ、ありがと…」

「頑張ろうな。終わったらなんか食べ行くか」

「えっ、奢ってくれるの?」

「まぁ…いいや。奢ってやる」

「やった!頑張る。旭も頑張ろ!」

「急に元気になったな」

旭と話していると、自然と呼吸できるようになっていた。今まで迷惑をかけた分、正直プレッシャーを感じていたが、そんなもの吹き飛ばしてやるとでも言わんばかりの旭の笑顔。今の私なら、何でもできるような気がした。



パンッとピストルの音が響き、それと同時に第一走者が一斉に駆け出していく。

歓声に包まれる中、私たちのクラスは二番目。しかし、後ろから追い上げてきた走者によって、ゆっくりと三番目に成り下がってしまった。

私も旭も、大声で歓声に混じる。

「頑張れーー!!」

「行けー!!」

しばらくして私の番がやってきたため、スタート位置に走っていく。緊張と歓声で、心臓の打つ鼓動がだんだんと速くなっていく。

「美波!」

位置について声のした方を見ると、待機場所にいた旭がこちらに向かって何かを言っていた。

しかし、ちょうど歓声が上がったタイミングでうまく聞こえなかった。かろうじて口の動きで何を言っているか読み取る。

「…あ、りがとう…?」

なぜ今この状況で、ありがとうと言ったのか。理解はできなかったが、お礼を言いたいのは私の方だ。今までずっと、旭やリレーのメンバーに支え続けてもらっていたから。

ぐっと拳を握りしめ、旭に向かってとりあえず大きく頷いた。それから、後ろを振り返って手を伸ばし、バトンが渡されるのを待つ。

やがてバトンを握りしめ走ってこっちにやってくる数人の姿が見えてきた。

パシッとバトンが手に触れ、汗で滑り落ちそうになるすんでのところで握りしめ受け取った。

思い切り腕を振って足を上げる。今日の体調は良好で、風を切って走るのがとても気持ちよく感じられた。

「美波!!行けーー!!!!」

旭の声がする。まるで、隣で一緒に寄り添い走ってくれているかのような聞き心地の良さだった。お前ならやれる。そう言ってくれているみたいに。

体が軽い。気づいた時には、私は二位まで追い上げていた。

あと少し。強い風が吹いて砂埃が舞ったが、そんなことはどうだっていい。

逆らうように前へ前へと進んでいった。

「お願い!!」

次に待つ人へとバトンを渡し、余速でコースから外れて少し先へと進み、やがて止まって腰を曲げ膝に手をつく。さすがに何日間か寝込んでいたら、直前に練習したとはいえ体が鈍っていた。

肩が上下に弾み、汗が首を伝っていく。

そうして息を整えていると、放送部の「アンカーが並んでスタートしました!」というアナウンスが聞こえ、ぱっとコースの方を振り返った。

「旭…!」

急いでコースの方へと向かい、応援席の一番前へと進む。

目を細めて走っている姿を追うと、一番前の走者をぐんと追い抜いて走る人影。あの身長と体型は、間違いなく旭だ。

「旭ー!!頑張れーー!!!」

ありったけの大声で旭に向かって叫んだ。

届いただろうか。届いているといいな。そう思いながら、ゴールに近づくまでずっと叫び続けた。

やがてゴールテープを颯爽と切る旭。

まるで走者たちを先頭で引き連れて走ってきたような、余裕のあるゴールだった。

その瞬間、どっと歓声が湧く。

「旭ー!やったね!!一位!!」

嬉しさで、思わず息を切らす旭に飛びついた。

その外側から、クラスメイトもどんどん飛びついてくる。

「やったな旭ー!!」

「お前超速いじゃん!!」

熱気と勝てた興奮で、たまらなく嬉しくなって、ぎゅうっと旭を抱きしめた。

「すごいよ旭…!かっこよかった!!」

「……ありがとな、美波」

「…っえ…」

包まれるように、私は旭に抱きしめ返されていた。私の抱きしめる腕よりもはるかに強い力で。周りは騒いでいてこちらに気づいていないようだったが、そんなことよりも私は、旭から手を離したらこのまま溶けていってしまいそうな気がした。何でだろう。こんなにも愛おしくて、寂しい。

「ありがとう。ほんとにありがとうな」

「えっ、ちょっ、旭?どうしたの?」

旭の力に息が少ししづらくなって、旭の背中をトントンと軽く叩いた。すると、ふっと力が抜けてお互いの体が離れる。

顔を見上げると、まるで寝起きのように瞼を少し下げ、ふにゃりと力なく微笑む旭。

「旭…?」

「…ごめん。なんか、疲れて……」

呂律が正しく回っていない。そう気づいた時には、旭がこちらに向かって倒れてきた。

「旭!!」

ギリギリ肩を掴んで倒れるのを食い止めたが、この身長と体重差だ。立たせるのはまず無理だろう。がくっと膝が曲がり、私の肩に置かれた顔から、浅い呼吸が聞こえる。

けれど、旭本人もまだ意識はあるのか、なんとか踏ん張って立っていた。

「大丈夫?テントまで連れていくから…歩ける?」

「……ああ…」

肩を貸し、クラスメイトにも手伝ってもらって、救護用テントまで一歩ずつ進んで行った。途中まで行ったところで、重さで私の体力に限界が来た。リレーの疲れで、足がこれ以上上がらない。

「っ…あと少し…誰か…!」

「旭!!」

キョロキョロと先生を探していたところに、加賀美先生が青ざめた顔をしてこちらに走ってきた。

「加賀美先生…旭が…」

「ああ…これはやばいな…」

「えっ…?」

先生は私からそっと旭の腕を自分の首へと回した。

「……っ…兄…貴……」

「…立川さん、救急車を呼ぶように保健室の先生に言ってきてくれるかな」

「は、はいっ、わかりました!」

そう言って私は、かすかに残った力を振り絞り、保健室の先生のいるテントへと走った。

その途中で、何度も旭の笑顔が頭に浮かぶ。それと同時に、加賀美先生の青い顔や、旭の辛そうな顔が続け様に浮かび、唇を噛んで泣きそうになるのをグッと堪えた。




旭は加賀美先生の付き添いで救急車に乗せられ病院に送られた。私は体育祭が終わってすぐに学校を飛び出して、旭のいる病院へと向かった。幸いにも学校の近くに大きな病院があったため、走って行ける距離だった。

受付で部屋の番号を聞き、病室まで小走りで向かった。

やっと見つけたところで、部屋の外の長椅子に座り、誰かと電話をしている先生の姿があった。焦ったような口調で、「今すぐ日本に帰ってきてくれ」と言っている。恐らく、電話の相手は親なのだろう。やがて電話を切った先生の、何もかもを諦めたような顔を見た瞬間、ドクンと心臓が大きく鼓動を打つ。嫌な予感がした。

やってきた私に気づいたのか、先生はこちらを向いてゆっくりと立ちあがった。

「立川さん、疲れてるだろうに…。来てくれてありがとう」

「いえ…。それより、旭は…」

息を切らしながら震える声で聞くと、先生は少しの間黙り込み、その後で息をついて口を開いた。

「一瞬、意識がなくなりかけたんだけど、今はなんとか取り戻して、診察を受けているところだよ」

「…そう…なんですね…。よかった……」

回復したという言葉に、心底ほっとした。それと同時に、先ほどまで抱いていたあの危機感は何だったんだろうと疑問を抱く。

しかし、先生の顔は未だに強張ったままだった。全くと言っていいほど、安心できるような顔ではなかった。眉を下げ、目線は床に向いている。

「…先生?どうかされたんですか?」

伺うように尋ねると、先生は正気を取り戻したようにはっと私の顔を見た後、「立川さん」と私を呼んだ。

「少し、時間いいかな」




病院の外へと連れて行かれ、裏に回るとそこには大きな噴水やたくさんのベンチがあった。その中の一つに座る先生の横に、私は少しだけ隙間を開けて座る。

ちら、横を見ると、先生は未だに目を合わせず、地面を向いたまま眉を下げていた。

夕日の光が背中に当たり、さらに先生の顔に影を作る。

「……先生?」

静かに尋ねると、先生はゆっくりとこちらを向き、「急にごめんね」と言った。いつも学校で見るような、スーツ姿で背筋の伸びた、爽やかな先生はここにはいなかった。体育祭用に着ているTシャツはくたびれ、背中は丸く、目は力なく開いている。

「…旭が倒れたのは、表情や体の反応からして、あの問題が関わってる可能性が高いんだ」

「あの問題って…睡眠欲が無いこと、ですよね」

「そう。…旭から、それによってどんなことが起きるかは聞いてる?」

「えっと…。睡眠によって疲れをとることができない分、寿命が短くなるとは聞きましたけど」

私の言葉を聞いて、先生は少し黙り込んだ。その後で、「実はね」と口を開く。

「何かのきっかけで突然、今まで溜まってた疲れが一気に出る可能性があるらしいんだけど、体が処理をしきれなかった場合…旭はだんだんと眠くなるんだ」

「えっ…?でも、睡眠欲は無いんじゃ…」

戸惑っている私に、先生は眉を下げゆっくりと首を横に振った。

「睡眠欲が無いはずなのに、眠くなる…これは欲求とは関係なくて、全部体の至る所に疲労の負荷がかかってる状態らしいんだ。生まれてから今までの疲れが全部」

夕日が段々と、私たち二人の影を長く真っ直ぐに伸ばす。

「……旭にとって眠ることは、死と同じことなんだよ」

「……!」

びゅうっと生ぬるい風が吹き、青々とした葉っぱがかさりと床に散っていく。

あまりのショックで口を覆い、下を向いた。心臓がうるさい。絶望とは、こういうことを言うのだろうか。

乾いた唇が、口を動かしたことによって切れ血の味が滲む。けれど今はそんなこと、どうだってよかった。

「…本当はね。体育祭の前日、旭がやけに欠伸をするし、何だか様子がおかしかったから無理やり病院に連れて行ったんだ。そうしたら主治医から、もうあまり時間がないって言われて。それなのに旭は、明日の体育祭のリレーにだけは出させてほしいって、先生に必死にお願いしてたんだ。そのせいで体調が悪くなっても構わないから、リレーだけは出たいって…」

「…そんな……」

「俺も最初は反対してたんだけど、旭の真剣な態度に押されて…。病院から戻ったら普通に過ごしてたし、大丈夫だろうって油断してたんだ。…だけど、やっぱり…」

だから旭は、私に何度も「ありがとう」って言ったんだ。最期が近づいているのが分かっていたから。死を覚悟で、リレーに出たいと思ってくれていたんだ。

「旭の……馬鹿……!」

私は勢いよくその場から駆け出し、病室に向かった。





病室のドアを開けると、主治医の先生と看護師さんが目を開いてぱっと立ち上がった。そして、看護師さんから「加賀美さんの関係者の方ですか」と静かに聞かれる。

「はい。…友達です」

「…耐えられたとしても、あと数分保つかくらいだと思われます…。お近くに、加賀美さんのご家族の方はいらっしゃいますか」

「…お兄さんなら…。…あの、少し…少しだけ旭と話をさせてください」

「…わかりました。何かあれば、外にいるのですぐに呼んでください」

「はい。ありがとうございます」

そう言うと、二人は病室をそっと出て行った。

旭に目をやると、とても眠そうな顔で、腕から伸びる管をじっと見つめている。

「旭…」

私の声に、旭は体勢を変えてこちらを向いた。けれどいつもの元気な旭はそこにはおらず、ただ、私の顔を見てゆっくりと何度か瞬きをした。

「リレー…お疲れ。俺、あんなに楽しい体育祭、初めてで、すごく…楽しかった」

途切れ途切れ、ゆっくり話す旭を見ていると、私は堪えていたいろんなものが弾けそうになる。ぐっと拳を握りしめ、ぎゅっと目を閉じた。

「眠いって、こんな感じなんだな…。やっと、皆と同じだ」

寝起きのような掠れた声で、私の顔を見つめ微笑む旭。

「………っ…!」

ベッドに駆け寄り、旭に覆い被さるように抱きついた。布団に顔を埋めると、喉の奥から何かが込み上げてくる。

旭の心臓の鼓動が伝わってくる。とくん、とくんと、一定のリズムを保って、たしかに動いている。

旭は驚いた声色で「美波…?」と言い私の背中にそっと手を添えてくれる。

そして少しして、察したように「あぁ」と吐息混じりに呟いた。

「兄貴に…聞いたんだな」

「……っ…旭……私……旭に出会えて本当によかった……。旭のおかげで、毎日がすごく楽しくて……幸せだった」

ぽろぽろと涙が溢れてくる。布団にいくつかのシミが、ゆっくりと広がっていった。

「…それは俺の台詞だ、美波」

旭は子供をあやすように、泣きじゃくる私の背中を、ゆっくり、トントンと叩きながら続けた。

「こんなに、ずっと…一緒にいたいって思える人と出会えたのは、美波が初めてだ」

「ほんと…?」

「本当に決まってる。…だから、これからも…俺がいなくなっても、俺のことはずっと、忘れないでいてほしい」

「そんなの…忘れるわけない…!」

顔を上げて、潤んだ瞳で旭の顔を捉える。

止まることを知らない涙は、さらにぼたぼたと布団を濡らす。そんな私の瞳に旭の大きな手が触れ、そっと涙を拭ってくれた。

しばらくすると、背後からドアをノックする音が聞こえ振り返る。

ドアが開くと、そこには加賀美先生がいた。

「……兄貴」

涙を腕で雑に拭い、旭からゆっくり離れると、加賀美先生は静かにドアを閉め、ベッドに近づいていく。

「…お医者さんから…もう、あと数分ほどだと…」

震える声で先生に言うと、先生は瞳を揺らし動揺した様子を見せたが、息をついて「そうか」と言い旭に向き直った。

「……僕は…信頼されてなかったかもしれないけど、旭に信頼できる友達ができたこと、心の底から嬉しかった」

「………」

「…旭が僕の弟で本当に良かったって思うよ」

加賀美先生の言葉に、旭は少しずつ顔を歪ませ、目も潤んでいく。

加賀美先生の伸ばした手を、旭は少し震える腕をゆっくりと上げて掴んだ。

「……っ…今まで、ごめん……。…兄貴も大変だったのに、自分勝手で…」

「…旭。僕はずっと旭をそばで見守れて良かった。最期まで一緒にいれて本当に良かった」

「兄貴……っ…」

手に力が入らなくなってきたのか、旭はさらにぎゅうっと先生の手を掴んだ。崖から落ちそうなところを必死に捕まって耐えるように。旭の手の甲には、力を入れているせいで少し血管が浮き出て見える。

先生は涙こそ流していなかったが、それは多分、私たちに泣いている姿を見せたくないのだろうと悟った。口の中で歯を食いしばっているのが見ていて分かった。

ぽろぽろと涙を流す旭。やがて、先生の手を掴む腕の力がふっと抜け、ベッドに打ち付けられる。

「旭っ…!!」

瞼が閉じかけている旭に、私は近くまで顔を寄せ名前を呼んだ。

「旭…待って……。まだ逝かないで……」

「…ごめんな…美波……。もう…目開けてられねぇ……」

閉じかけては開き、を繰り返す旭の目からは未だに涙が溢れ、つうっと目尻を一直線に伝っていった。もう、体は睡眠状態に入ってしまったのだろう。ぴくりとも動いていない。

「っ……旭……。大好き…ずっと、大好きだよ……」

やがて、ぴったりと瞼が閉じられ、旭の口から聞こえていた呼吸の音が浅くなる。

私は大声をあげて泣きたい気持ちをぐっと抑え、そっと、旭の唇に自分の唇を重ねた。

神様。もし奇跡を起こせるなら、私の想いをどうか、旭に届けてください。今まで貰ったたくさんの幸せを、今度は私が旭に返す番だから。

そっと、惜しむように近づけていた顔を離すと、そこには先ほどまで無かった、心なしか微笑んでいるように見える旭の顔があった。

「っ…あさ……ひ………っ…」

掛け布団をぎゅっと掴み、旭の胸に再び顔を押し付ける。

「………俺……も………大好…き…だ……」途切れ途切れの、ほとんど聞こえないくらいの掠れた声に、ばっと顔を上げ旭の顔を見る。目は閉じられていたけれど、少しだけ乾燥した唇が微かに動いていた。

その言葉を最後に、旭は完全に睡眠状態に入った。呼吸もだんだんと浅くなり、やがて止まった。その顔は、ただ眠っているようにしか見えなくて。

無機質な電子音が、心臓が完全に止まったことを知らせ病室内に響き渡る。

「っ……旭……あさ…ひ……」

過呼吸気味になりながら、私はただ旭の名前を呼んだ。背後からそっと肩に手が置かれ振り返ると、鏡先生もまた旭の顔を見て目を伏せた。その手は、微かに震えている。

神様は、私たちに光を与えてくれた。繋がった二人の想いは、この先もずっと切れることなく続いていくのだろう。

私は旭に向かって静かに「ありがとう」と呟き、まだ少し温もりの残るその手を両手で包んだ。



旭が亡くなってから約一ヶ月が経った。

クラスには旭の姿は当然無く、私の隣の席は今も空いたまま。

加賀美先生も、どこか心ここに在らずな様子で授業をしていた。まだ私たちは、旭の死を受け入れるのに時間がかかりそうだった。

今日も、夏服に身を包んだ私は昼休みに一人、屋上で昼食をとっていた。

友達には何度か誘われたが、しばらく一人でいたいと言うと理由を察してそっとしておいてくれた。

弁当を食べる気にもならず、最近は購買で買ったメロンパンだけで済ませている。あの日からずっと、心の中に重りを置かれたように気分が重かった。

パンの袋を両方から引っ張って開け、もそりと口に含む。口の中の水分を奪っていかれるが、何か飲む気にはなれなかった。

屋上へは滅多に人が来ないし、雨が降っても入り口には屋根がある。一人でいたい私にとっては最適な場所だった。

旭のことを考えない日はない。もし旭が生きていたら、私たちは恋人同士になれたのかな。手を繋いで帰ったり、デートしたりしたのかな。

また一緒に、何気ない日々を過ごしたかった。ふざけて笑わせてくれる旭の笑顔が大好きだった。

「…泣きすぎでしょ、私…」

気づいた時には、地面に涙のシミができていた。鼻を啜り、目を擦る。

次の一口を食べようと口を開いたその時、ガチャリと屋上のドアが開く音がしてすぐさま顔を上げた。

「ここにいましたか」

「加賀美先生…。あっ」

食べかけのメロンパンを慌てて袋に戻し、正座していた膝の上に置く。

「ああ…いいよいいよ。食べて。特に用事があったわけじゃないから」

先生はゆっくりとドアを閉め、吹いた風によって顔にかかった横髪を耳にかけながらこちらに向かって歩いてきた。

「屋上は気持ちがいいですね。職員室にいると、クーラーは効いてるのに窓際だからどうも暑くて」

「…そうですね。気に入ってます」

膝に置いたメロンパンを見つめながらぽつりと呟くと、先生は私の隣に来て「ここいいかな」と聞いてきた。

「あ…はい。どうぞ」

「ありがとう」

その長い脚を折り畳んできちんと体育座りをする先生を見ていると、旭だったら絶対あぐらをかくな、とか、断りもなしに置いていた私物を移動させてまで横に座るんだよな、などと考えてしまう。気持ちをリセットさせるべく、私は大きく深呼吸をした。

「…多分、立川さんも僕と同じ気持ちだとは思うけど、一人で抱え込まないようにね。もし何かあったら、授業が終わった後でもいいから言ってくれたら、こうやって屋上で話もできるし」

「…ありがとうございます。気持ちはすごく嬉しいです。でも、きっと…この気持ちはこれからも、一人で抱えて生きていくんだろうなぁって思います。あ…悪い意味ではなくて」

私の言葉に、先生がふっと微笑んだ。

「立川さんは強いですね」

「あはは…。それに、頻繁に先生といると、先生のこと好きな子たちに目をつけられちゃいますから」

冗談混じりに言うと、先生は笑いながら「それは大変だな」とネクタイを緩めつつ言った。

先生の表情や態度は、入学した頃よりは柔らかくなったような気がする。だけどどこか、まだ見ていない面があるような影を感じた。

生温い風が吹き、少しの間沈黙が流れる。

私は先生の顔色を伺いつつ、思い切って口を開いた。

「私より…先生の方がお辛いと思います。先生は真面目だから、周りに心配かけないようにって思ってるんだろうなとは感じてたんですけど」

私の言葉に、先生はネクタイにかけていた手をぴたりと止めた。そしてゆっくりと私の顔を見た。

「…先生も一人で抱え込まないようにしてくださいね。何より一番近くで旭のことを見守ってきた先生は、誰よりも優しくて強いって知ってますから。旭が言ってました」

そう言った途端、先生の顔が歪み、目から一粒、大きな雫が落ち色白な頬を伝っていった。

見たことのない先生の泣き顔。これが、先生が出せなかった本当の気持ちだ。

ポケットからハンカチを出し先生にそっと差し出すと、先生は止まらない涙に戸惑うように泳がせていた手でそれを受け取ってくれた。

「…ありがとう」

「これからも、悲しくなったり泣きたくなった時は、ここに来てください。ここはそういう場所ですから」

私が何度も涙を落としたこのコンクリートの床は、日が当たると光を吸い込みほんのり温かい。ハンカチで目元を拭いながら、先生は目を細め泣き顔で微笑んだ。

青々と色づいた葉が、風に乗って目の前を舞い通り過ぎていく。

今年の夏は、あっという間に過ぎていきそうな予感がした。




目の前に広がる、青空と広大な芝生。そのど真ん中に、私はいつの間にか立っていた。

これは夢の中。そう分かっていても、今まで変な夢しか見てこなかった私にとっては、これは現実なのではと疑うほどに鮮明な景色だった。旭が亡くなってから今日まで、精神的な疲れのせいで夢すら見なくなっていたから、すごく久しぶりの感覚だ。でもこの夢も、あの変な光によって何もかも壊されちゃうのかな。そう思うと、自然と口角が下がってしまう。こんな綺麗な夢は、もう一生見ることはできないだろうな。私は夢の中で、ペンキで染め上げたような真っ青な空を一人眺めていた。

「美波」

ふいに名前を呼ぶ声が聞こえる。聞いたことのある声だ。とても懐かしくて、愛おしい。その声のする方を、私はゆっくりと振り返る。

会いたかった。ずっと。

その大きな手で、体で、抱きしめてほしかった。

「…やっぱり、見上げないと目が合わないね」

涙混じりに微笑みかけたその相手は、同じように微笑み返してくれた。その柔らかい笑顔。懐かしさに泣きそうになる。

「忘れないでいてくれてありがとな。俺はずっと、お前の心の中にいるから。これから先も、ずっとお前を守るから」

「うん…。…うん」

とん、と胸に引き寄せられ、抱きしめられる。夢だって分かっているけど、こんな幸せな夢になら、食べられたっていいと思ってしまう。

「…元気にやれよ。見守ってるからな」

「…ありがとう」

最後に掴んだその腕は、ゆっくりと薄くなりやがて砂のようにさっぱりと形を無くした。

空を切ったその手を、もう片方の手でぐっと掴み下ろした。

何故なのかは未だにわからないが、この夢を見た日の朝以降、私はあの変な現象を見ることはなくなった。

旭が守ってくれたのかな。

私にかかっていた呪いを、旭が解いてくれたのかもしれない。

ゆっくりと覚めた目を開き起き上がると、窓から朝日が差し込み部屋を照らしてくれる。

私は一人、窓の方を向いて、鳥のさえずりを聞きながら呟いた。

「おはよう、旭」


初投稿で初心者なので、拙い部分が目立つと思いますが温かい目で読んでくださると嬉しいです…!

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