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楽炎の獄  作者: 龍淵灯
4/6

社会人

 卒業の日を迎えた。

 僕は、物語で何もなすことができなかった。デビューどころか、ひとつの物語も完成しなかった。僕は、僕を唯一僕たらしめるものですら、まともにできないのだ。

 七年も書き続けて、ただ僕に残されたのは出来損ないの残骸だった。今になって、あの妖怪冒険物語を完成に導けばよかったと後悔する。僕の原点であり、物語を作りたいという最も純粋な思いの結晶だった。


 それを捨ててしまったのも僕自身なのだ。

 僕は社会に出る。

 父に紹介された仕事は、近所の印刷会社の事務職だった。通勤も短く、拘束時間も少なく、危険な仕事でもない、しかし給料は安い、僕にぴったりの仕事だった。

 買ってもらったスーツを着て、初めての出勤をする。


「ねえ春樹、ついていかなくてもいい?」


 母が、不安げな眼で玄関に立っている。


「馬鹿を言うな。初日から春樹に恥をかかせる気か」


 父が苦笑する。本当は父だって仕事に行っている時間なのだが、僕を見送るために少し行くのを遅らせているのだ。

 不安なのも判る。心配させているのも判る。正直、それをうとましく思う。

 しかし、両親をはねつけてひとりで立つ自信もなかった。


「……行ってきます」


 僕はぼそりとつぶやくと、両親に背を向けた。

 外に出ると、春とは思えない肌寒さが背中から忍びこんでくる。背を丸め、うつむきながらバス停へと向かう。新しい職場は、同じ市内でバスを使えば十五分程度の場所だった。


 バス停には、僕と同年代ほどの若者が真新しいスーツを着て何人も立っていた。みんな緊張はしているものの、意志を眼にみなぎらせている。

 僕だけが、運動会の前に腹痛を起こした小学生のような顔をしているのだろう。


 やがてバスが来る。

 重い足取りでステップを上がった。バスが出発する。屠殺場に連れて行かれる豚は、こんな気分なのか。

 わずかな猶予はすぐに終わり、降りるべきバス停が来る。

 僕は、身体が動かなかった。


 行かなくてはと思う。しかし、心の中でどうしても嫌な気持ちが居座って、身体を動かしてくれない。

 バスは再び動き始める。

 途方もない安堵と罪悪感が押し寄せる。

 まだ間に合う、引き返せると思いながらも、僕はバスに乗り続けた。


 バスは終点の、私鉄の駅に到着する。降りざるを得ない。時計を見ると、仕事が始まる時間の五分前だった。

 もうどうあっても遅刻だ。初日から。

 僕は逃げるように電車に乗る。どこへ行くとも決めず、ただここから離れるために。

 電車に揺られていると、スマホが鳴った。

 母だ。


 出られるわけもなく、僕は電源を切った。

 やってしまった。

 初めての旅立ちから、僕は逃げた。どんな顔をして、家に帰れるというのか。

 電車は故郷を離れていく。行く場所も帰る場所もない。


 昼食も取らなかった。

 夕方になって、横になりたいほど疲れてきた。電車は二十四時間走っているわけではない。

 僕は、行くはずだった会社の終了時間を過ぎていることを確かめた。過ぎてさえいれば、今日はもう行かなくていい理由があると思っていた。


 電車を降り、逆方向の電車に乗り換える。

 空腹を抱え、何も成せず、僕は帰っていった。

 故郷の駅についたときは、すでに終電近くになっていた。駅前に人通りはなく、バスも終わっている。

 僕は歩いた。アスファルトの道が、ぬかるみのように歩きにくかった。

 バスで十五分の道のりは、歩くと一時間ほどかかった。


「ただいま」


 玄関は、明るかった。父と母が、どたどたと走ってくる。


「どうしたの、春樹……職場から何度も電話があったのよ。全然携帯も出てくれないし……今までどこに行ってたの」


 涙ぐむ母を押しのけて、父が前に出る。頬に熱い衝撃が走った。

 僕は無抵抗に、玄関に崩れ落ちた。


「お前、仕事を舐めてるのか。責任感はあるのか」


 僕は、女座りでうつむいていた。胸から何度も突き上げるものがあり、嗚咽とともに涙がこぼれる。


「あなた、何してるの!」

「今、俺は後悔してる。何でもっと厳しく育てなかったのかってな。もう遅いのか」


 父はそれ以上責めることはなく、家の奥へ去って行った。


「ご飯食べた?」


 母がいたわるように、尋ねる。僕は首を振った。


「お風呂入って、食べましょう」

「うん……」


 ようやく僕は立ち上がり、部屋へと向かった。廊下から食堂を見ると、ごちそうの乗った皿がいくつも机の上に並べられている。ワインやビールの瓶も、何本か置いてあった。


「やっと春樹が自立したって、お父さん大喜びでね……春樹と乾杯するのを子供みたいに楽しみにしてたのよ」


 頭に粘土が詰められたように重くなる。歩けなくなった。

 次に湧いてきたのは怒りだった。

 なぜ僕に期待するのか。

 なぜ仕事をしなければまとも扱いしてくれないのか。

 なぜ僕の好きなことを尊重してくれないのか。


「ううっ」


 僕は部屋の中へ駆けこんだ。


「は、春樹」


 母の声を背に、僕はスーツを脱ぎ捨てる。

 ベッドに倒れ伏した。

 泣いた。


 僕が情けない。

 父が怖い。

 母が僕を子供扱いする。

 未来が見えない。

 そんな感情が渦のように混ざり合って、僕はひたすら声を上げて泣いていた。




 僕が眼を覚ましたのは、もう朝の十時を過ぎていた。

 二日目も、休んでしまった。そして、もう父は出勤している時間であることにほっとする。

 腹が鳴る。二十四時間、何も食べていないのだった。僕はゆっくりとベッドを降り、食堂へと向かう。母が洗い物をしていた。机の上に昨日あった、ごちそうの山はすっかり片づけられている。


「あっ、春樹」


 僕に気づいた母が、濡れた手を布巾でぬぐう。


「……おはよう」

「座っててね。すぐ用意するから」


 僕は言われたとおり、キッチンの椅子に座る。朝の主婦向け情報番組が、テレビから流れていた。僕はほとんど見たこともない。


「お待ちどおさま」


 母がトレーにご飯と味噌汁、それにハムエッグを乗せて僕の前に置いた。味噌汁は、僕の好きな青ネギがたっぷり入っている。

 匂いにつられて、まずは味噌汁をひとくち飲んだ。ずっと空っぽだった胃に、熱い汁が流れこんでいく。ネギの香気も良かった。


 僕は、あっという間に食べてしまった。二日目の仕事を休んでしまったことも忘れ、満腹のため息をほうとつく。

 母が、コーヒーを置くと僕の前に座った。緊張した顔をしている。


「ねえ……昨日、お父さんと話したんだけど」


 その言葉に、胃が絞られる。


「なに……」

「仕事に行けないなら、無理しなくてもいいわ」

「えっ」


 思いがけない言葉に、驚く。


「お父さんは大反対だったけどね。でも、できないものはできないのよ」

「うん……」


 拍子抜けしたような、情けないような、安心したような、複雑な気分だった。


「で、相談なんだけど」

「うん」


 母は一度視線をそらした。


「精神科行ってみない? 今日」

「え……」


 僕はコーヒーカップに手を伸ばした。さして重くもないのに、手が震えている。


「ちゃんと診断名がつけば、今は障害者雇用の仕事もあるし、できるようになってきたら、普通に働けばいいのよ」


 母は早口で言った。

 自分が、そう見られる存在になっていたことに、少なからず心が沈む。そもそも、通信制の高校にしか行けないこと自体、僕はそうだったのだ。

 反発する気力はなかった。反発するということは、昨日の僕に挑まなくてはいけないということだ。とても、無理だった。


「うん……行くよ」


 母がほっとした顔になる。僕は、まがりなりにも十八年以上生きてきた誇りや自負を、自分の手で伐り倒してしまったような気がした。


「じゃあ、さっそく行きましょ。着替えて」

「う、うん」


 僕は、すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干した。




 家に帰ってきたのは、もう夕方だった。

 待合室で見た、落ち着きなくうろうろしている目のつり上がった若者や、口を押さえ続けるぼさぼさ頭の女性は怖かったが、先生は優しかった。

 あせらずできることからやっていきましょう、と言われたのは嬉しかった。 不安になったら飲むようにと、錠剤が処方された。薬の効果を確かめるため、二週間に一度は通うことになる。


 僕は、帰りに本屋に寄ってアニメ雑誌を買ってもらった。特集が神戸アニメーションだったからだ。部屋の机に座ってページをめくっていくと、眼にとまる記事があった。

 神戸アニメーション大賞。


 小説、シナリオ、漫画の三部門で募集をしていて、小説は神アニが創設したレーベルで出版される可能性があるという。そして、優れた作品はアニメ化されるのだ。

 僕がかつて感動で泣いてしまった、あの女性型の人形が代筆をするアニメも、この神戸アニメーション大賞で創設史上初の大賞を獲った作品なのだ。 背骨がぶるりと震える。


 楽園の神々に、僕の作品を読んでもらえるのだ。そして、僕の作品がアニメ化されるかもしれないのだ。

 仕事などしている場合ではなかった。僕が僕であるためには、神アニ大賞を獲らねばならない。人生を賭けるに値する。

 募集要項に眼を走らせる。締めきりは一ヶ月後だった。

 やらなければならない。

 急いでパソコンを立ち上げる。オープニング画面がもどかしい。


「くそっ」


 机を叩く。

 デスクトップ画面に散らばった、未完成の残骸を見る。

 どうしたらいいのか。何を作ればいいのか。

 少なくとも、途中で放り投げたこれらではない。

 大賞を獲らねばならない。

 今までやってきた、小説の書き方では僕はひとつも完成できなかった。 


「うう……」


 眼を見開いて、モニターを見つめる。

 僕は何を書いてきたか。僕は何を面白いと思うのか。僕に何ができるのか。

 テキストエディタを開いて、僕は過去の記憶を探った。

 面白いと思った漫画、アニメ、小説。

 自分がやろうとしていることが、小学校五年生のあのときと同じことに気づく。


「ああっ!」


 キーボードを机の上から払いのけた。

 真似ではない。いいとこ取りでもない。僕が、僕だけの力で作った物語が必要だ。

 ボールペンをとって、プリンター用紙を広げる。僕の頭の中を全部書き出していく。


 侍。妖怪。勇者。ロボット。高校生。超能力者。未来人。代筆人形。

 樋口先生。課題。紙くず。不良。みぞおちに突き刺さる痛み。胃液の味。

 不良に笑いかけるあの子。通信制の高校。小学生の作文。電車。会社。

 バス。疲れた足。ごちそう。殴る父。甘やかす母。うろうろする男。

 精神科。薬。


 最後に、紙に書き散らかした単語を全部まとめてぐるっと円で囲む。

 これが、僕か。


 自分がみじめだった。ここから、どんな美しい物語が生まれるというのか。僕が涙したように、あるいは笑ったように、人の心を動かす物語が、借り物の話と形骸のような心から生まれるのだろうか。


 眼を上げて窓を見ると、春の太陽が沈み掛かっていた。

 夜が来て、朝が来る。僕が何も成さない間に、時間だけが過ぎていく。

 明日が、怖い。

 僕は、貧相な人生を書き写した紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。

 それでも、何か書かなくては。未来に手が届かない。

 床に落ちたキーボードを拾い上げ、僕は打ちこみを始めた。




 これは奇跡、あるいは快挙と言えるものか。

 僕は、締めきり当日に初めて物語を完結させた。三万字の中編だ。

 未来からきた侍が高校に転校してくるところから始まる、いわゆるドタバタコメディのつもりで書いた。

 敗北し続けてきた僕が、嗤われることはあっても人を笑わせることなどできはしないと思っていた。

 樋口先生の言葉が、ふっと思い浮かんだ。


「十年後の赤羽根君の作品を読んでみたいわね」


 あれから僕は、色々あったけれど十年後にひとつの作品を完成させることができた。樋口先生に、見せられるような作品だろうか。樋口先生は褒めてくれるだろうか。

 オリジナリティがあるとは言えない、既存のアイデアをつぎはぎした子供だましのようなものではあると、自覚している。それでも、僕が初めて産んだ作品なのだ。


 魂だけはこもっていると、信じている。

 残念ながら、推敲をする時間はないが、僕がこれだけ神戸アニメーションを愛してきたのだから、そこから何かをすくい取ってくれるはずだ。

 応募サイトにテキストファイルを添付して、送信ボタンを押した。

 異状なく送られたことが、画面に表示される。


「やった……!」


 僕は、ほとんど人生で感じたことのない充実を味わっていた。

 愚かなことだと、今では思う。僕はたったひとつの作品を送っただけで、それが神アニのスタッフに読まれ、数多の応募作の中で異彩を放ち、満場一致で賞賛され、すぐに僕の原作がアニメとなって制作に取りかかられるものと、ほとんど確信していたのだ。


 おそらく、小学生以来に感じる、僕の創作者としての喜びだった。

 幸せだった。具体的なことはなにひとつ起こっていないにもかかわらず、僕の作品が至上のものとして取り扱われていることに、僕は何の疑いも抱いていなかった。

 大賞の発表。単行本化。アニメ化。多くの賞賛と収入。


 僕は投稿しただけで、自分の人生が完全に明るい太陽に照らされた栄光の道に変貌したと、噴飯物の勘違いをしていた。

 締め切りが過ぎ、僕は就労移行支援事務所に通うようになっていた。母の勧めどおり、社会に適応できない僕でも少しずつ社会人になっていかなければならない。


 父とは、ほとんど会話を交わさなくなっていた。それだけ僕が父に与えた失望は大きかったのだろう。しかし、二十年近くも育てておきながら、僕がその程度だと理解できなかった父も、愚かであると言わざるを得ない。


 初めての作品を仕上げ、投稿できたことは、僕に多大なる自信を与えていた。支援事務所には、有名な大学に入りながらも心を病んで社会に適応できない人が多くいた。

 僕は、大学に行くことすらできなかったが、それでもひとつ作品を仕上げた。何かを成したのだ。それだけで、ふたつみっつ年上の彼らを見下していた。支援事務所での基礎体力向上や集中力強化のプログラムなど、ちゃんちゃらおかしくてやっていられなかった。


 しかし、得意になれる時間は長くは続かない。僕が成人してほとんど初めての高揚に水を差したのは、やはり父だった。

 夕食後、応接間に呼び出される。父は、ソファーにもたれて炭酸水のペットボトルに口をつけていた。胃が縮む。父が酒を飲まないときは、本気だ。


「座れ」


 僕がローテーブルを挟んで父と向かい合うと、父は身体を乗り出してきた。


「おまえ、事業所であまり真面目にやってないそうだな」

「……誰が言ったの?」


 声が震えた。


「質問してるのは俺だ」


 早くも、父の声に怒りがこもる。


「春樹がそういう形でしか仕事ができないのは、もう認める。だが、事業所みたいな優しいところでサボってどうするんだ。俺も十年もしないで定年になるし、母さんもいつまでも健康なわけじゃない。おまえが自立しないと、生きていくすべがないんだぞ」


 父の言葉はいつも正しい。そして容赦がない。


「……大丈夫だよ」

「何が」


 僕は喉の震えをこらえ、大きく息を吸った。


「神アニ大賞、取るから」

「はあ?」


 父が頓狂な声をあげる。


「ひとつ賞を取れば賞金もあるし、アニメ化やコミカライズ、それにグッズができれば原作者としての権利料が入ってくるんだ。仕事なんかしなくていいよ」

「ふざけるな!」


 怒声に、びくりと身がすくむ。


「自分の生活も自分で立てられないやつが、何が賞金だ。何がアニメ化だ。そんなものに頼って生活できると思うな。今、家族三人が生きていくために、一ヶ月でいくら必要なのか知ってるのか」


 黙って首を振る。気にしたこともなかった。


「約二十五万だ。賞金が百万だとして、半年も持たない。まともに生きていくには、コツコツ働くしかないんだよ。そこを間違うな」

「うん……」


 父は、ため息をついた。


「まあ、趣味をやめろと言ってるわけじゃない。衣食住に心配がない方が、精神的にも楽だろ」

「趣味じゃない……仕事にするんだ」


 僕は、おそるおそる父の眼を見た。怒りが、眼の中で凝っていた。


「じゃあ、出ていけ。一晩時間をやる。その何とか大賞とやらを仕事にしてみろ。出来るんだよな? 趣味じゃないんだから」

「あ……」


 僕に反論をする時間を与える間もなく、父は席を立った。

 膝が震える。胃が絞られる。頭の中で思考が分裂する。

 父は、僕に仕事をしなければ小説を書くなと言うのか。

 僕にはできないのに。

 出ていくとして、どこに住むのか。どうやって探すのか。手続きは。

 そもそも金は。


 何も知らないし、何もできない。

 そんな状態で、僕は小説が書けるのか。

 とても、できるとは思えなかった。

 ひとりでやる、というのはとてつもないことなのだ。自立の恐怖が、僕を立ち上がらせた。

 慌てて父を追う。


「父さん……!」


 キッチンに入ったところで、父を呼び止めた。


「何だ」

「僕……事業所で真面目にやるよ」

「そうか」


 つかえが落ちたような笑みを、父は浮かべた。


「どうしたの?」


 皿を洗っていた母が振り向く。


「何でもない……」

「ああ、別に趣味を辞めろとは言ってないからな」

「うん……」


 うなずいたものの、僕は家から巣立てもできない自分の弱さを、結局は父の思いどおりになってしまう見通しの無さを、苦く味わっていた。




 神戸アニメーション大賞の発表までに、僕は事業所の研修を終え職場を選ぶ段階に移っていた。障害者雇用の枠組みは、民間から自治体までかなり幅広い。僕は、図書館の職員を選んだ。

 何度も事業所の人とともに顔を合わせ、体験的な仕事をし、自分のやるべき仕事も一緒に働く職員とも顔見知りになって、僕はようやく本採用第一日目を逃げ出さずに行くことができた。


 採用前に体験した、本の整理や返却された本の返納といった、簡単な仕事以外のことはやらされず、ほっとした。図書館という場所柄か、来る人たちは静かだし、他の職員も荒っぽい人はいなかった。ここならやっていけそうだと、安心した。

 今度こそ、母の作ったごちそうは無駄にはならなかった。父は、大吟醸の栓を抜いて僕に注いでくれた。一口飲んでみたが、酒というのは案外美味しいものだなと思った。


「ほっとしたぞ、春樹」

「うん……」


 酒を飲むと冷徹になる父だが、今日は上機嫌だった。これほど嬉しそうな顔を、僕は記憶にない。思えば、中学校は不登校、高校は通信制、父が紹介した仕事を一日も行かずに辞めるなど、僕に関することで笑顔になれることなどひとつもなかった。


「本当に良かったわね。やっていけそう?」

「研修のときと同じ仕事だから、大丈夫そう」


 母は、そっと指で涙をぬぐった。

 これだけ喜んでくれるのだから、普通をやるというのはすごいことなのだと思う。そのすごいことを、僕はできつつあるのだ。

 大吟醸の入った小さなコップを、ぐいと傾ける。


「おお、いい飲みっぷりだな」


 父はますます嬉しそうに、おかわりを僕に注ぐ。飲みやすいとはいえ、少々急いで胃に入れてしまったせいか、頭がぼんやりとしてくる。


「俺も飲むか」


 五合瓶を手酌で父が並々と注ぐ。僕よりよほど飲んでいる。

 ああ、家族と笑いあって食卓を囲むなんて、小学校のとき以来のような気がする。

 僕が今までこだわっていたのは、闇の向こうへ続く茨の道を歩くことと同じだった。もちろん神戸アニメーション大賞には期待しているが、誰にも心配をかけないでも目指すことはできるはずだ。

 僕は、満足の息をついた。


 ささやかな宴が終わって、僕はふらつく足で部屋に戻る。

 パソコンを起動して、ウェブプラウザを開いた。毎日の習慣のように、神アニ大賞のサイトを確かめる。結果発表の明確な期日は示されていないので、そろそろ発表だと思っていつも胸をとどろかせながら確認しているのだ。


 神アニ大賞結果発表。

 トップページが、大きく変わっていた。心臓がどくんと跳ねる。

 震える指で、画面をスクロールしていく。

 大賞。該当作なし。


 大きく息をつく。もしかしたら大賞かもと思っていたが、さすがにそうはうまくいかない。他にも、大賞に値する作品がなかったことに安堵していた。

 奨励賞。


 僕の作品ではない。

 僕の作品ではない。

 僕の作品ではない。

 以上。


 頭と胃が、名状しがたい重みで満たされる。

 僕があれほど愛した神戸アニメーションは、僕の愛に応えてくれなかった。

 仕事を続けながら、こつこつと積み重ねていけばいいと考えていた、先ほどまでの穏やかさを、凌駕して余りある悔しさだった。


 唇を噛む。いくら噛みしめても、その程度の痛みでは僕の屈辱を紛らわせてはくれなかった。

 次の賞は、来年。その間、新たな作品を作って待ち続けるなど、耐えられそうになかった。

 直接、神戸アニメーションに行くしかない。僕がどれほど神アニを愛しているか、情熱をもって説明すれば心が動かないはずがない。


 しかし、落選した作品を使うわけにはいかない。あれは、僕の全身全霊を込める時間が足りなかった。もう一度、心の底から納得いくものを作る。

 やってやる。僕はプラウザを閉じ、テキストエディタを開いた。




 それから、季節はふたつほど過ぎた。図書館の仕事は独創性や主体性を求められることもなく、多少手を抜いていても作業が遅くても、障害者雇用のためか文句を言われることもない。

 僕にぴったりの仕事だった。

 図書館には、ラノベ文庫の棚がある。時折、本を整理するふりをして中身を読んでいた。読んでいると、ふつふつと怒りが湧いてくる。どう見ても僕と同等か、それ以下の物語が堂々と本になっているのだ。


 危うく床にたたきつけそうになったことも一度や二度ではない。

 今、僕の書いている物語の方が絶対に面白い。本当に、僕だけの物語だ。

 なぜなら、僕の人生を元にしているからだ。


 舞台は中世ヨーロッパに似た世界。主人公は、生まれたときから這いつくばってきた少女。誰からも話しかけられず、気まぐれの優しさを間にうけて傷つく。傷つき倒れた少女は、武道の師と出会う。

 空手をできなかった僕自身と父への贖罪を託した。

 少女は、武道によって道を切り開いていく。

 僕が物語で未来を拓くのと同じように。


 冬が始まるころ、僕はその物語を書き終えた。

 最後は少女と師が、ともに師の故郷へ旅立つところで終わった。

 物語をひとつ完成させるというのは、とてつもない充実感がある。

 もう賞には出さない。直接見てもらう。


 僕は決意を秘め、小説をプリントアウトしていく。

 A4の神で、三百枚ほどになった。僕の人生を込めた集大成だ。

 封筒に入れる。糊で口を閉じようとしたが、郵送するわけではないのでやめた。


 来週の水曜日に、年次休暇を取る。

 事前に電話をするのは、やめた。電話口で断られたら、感情の行き場がない。直接会って断られるなら、納得できはしなくても諦められそうな気がした。




 新幹線の新神戸駅に降り立った僕は、人生で経験のない緊張に襲われていた。改札をくぐるときから、もう足が震えている。駅舎の外に出ると、駅は山の中腹に作られているのが判った。駅前を、川が下へ向かって流れていて、その両岸は公園になっている。

 きれいな街だと思った。頬に吹きつける風は冷たいが、内側からほてる熱が僕の顔を熱くしていた。


 神戸アニメーションは、地図によればここから歩いて行ける距離だ。僕はスマホのナビを見ながら、歩いていった。

 十五分ほど経って、ナビが目的地に到着を知らせる。僕の前にあったのは、小綺麗な五階建てのビルだった。一階はガラス張りで、大きく「神戸アニメーション」とロゴが描かれている。過去、僕の心を癒やしてきた作品たちのポスターも貼られていた。


 ついに、来たのだ。

 目に見えて、膝が震えている。喉が、ひりひりと乾いていく。

 僕は、僕の人生のために、一歩を踏み出さなくてはならない。

 自動ドアがすっと左右に開き、僕を迎え入れてくれた。

 中に入ると、暖房が充分に効いていて暖かい。正面に、受付らしきカウンターがあって、若い女性がにっこりと微笑んだ。


「あ、あの……」

「はい、どちらにご用件でしょうか?」


 しどろもどろの僕に、女性の笑みが少し硬くなる。


「えっと……誰というのはないんですけど、僕の小説を読んでほしくて」


 慌てて手提げカバンから原稿の入った封筒を取り出す。手が滑って、原稿用紙の束がばさばさと床に落ちた。


「す、すいません」


 慌てて拾うが、女性は手伝ってくれもせず僕を眺めていた。口元には笑みこそ貼りついていたが、眼には明らかに嫌悪が浮いていた。


「申し訳ありません。当社では、持ち込みは受け付けておりません。神戸アニメーション大賞で作品を募集しておりますので、そちらにご応募ください」


 女性は何万回も繰り返したような流暢さで喋ると、軽く頭を下げた。


「いや、応募はしたんです。でもダメだったんですよ。だから、直接見てほしくて……スタッフの方に、会わせてもらえませんか。会って説明すれば、絶対に感じるところがあるんです」

「当社では、持ち込みは受け付けていないんですよ」


 女性は、ため息を隠そうともしなかった。


「お客様のような方が、三日にひとりはいらっしゃいます。全員、お引き取りいただいています。例外はございません」

「新幹線で来たんですよ。このままとんぼ返りなんてあんまりです」


 僕は必死に食い下がる。


「北海道から飛行機で来た方もいらっしゃいましたが、お帰りいただきました」


 受付の女性は、とりつく島もない。


「……判りました。せめて、原稿を渡していただけますか」

「ですから、当社では持ち込みは受け付けておりません。置いていかれても、スタッフに渡すことはありません」


 女性の冷たい言葉に、胸の奥が痛いほどに熱くなる。


「……どうするんですか」

「はい?」


 自分でも驚くほどに低い声が出た。


「置いていった原稿は、スタッフに渡さずにどうするんですか」


 女性の眼を、ぐっと見つめる。他人の眼をここまで真正面から見たのは、記憶にない。倦怠と嫌悪の浮いていた瞳が、一瞬で怯えに変わる。


「しょ、処分します」

「処分だと?」


 全力の声が出た。女性の身が縮む。


「僕が人生を賭けて書いたものを、あなたは捨てるのですか。僕の人生を、ゴミだというのですか。僕の作品は、僕の人生と同じ価値を持ってるんだ! それを処分などと……あなたは人間の心を持っているのですか!」


 女性の姿が歪む。僕は泣いていた。


「わ、我が社の規則で決まってますので……」


 女性の声が震えている。


「僕の人生と、会社の規則とどっちが大事なんだ!」


 声が張り裂ける。警備員が、駆け足でやってきた。 


「お客さん、落ち着きなはれ」


 口調は穏やかだったが、有無を言わさず僕を外へ押し出す。


「やめろ……放せっ」


 大人と子供の相撲のように、僕はあっさりと追い出されてしまった。

 せめてもの抵抗で、自動ドアが閉まる前に原稿の入った封筒をホールへ投げ入れる。

 初老だが頑丈そうな警備員が、じっと僕を見つめている。


「帰らへんとホンマに警察呼ぶでえ」

「くっ……」


 頭の中が締めつけられるように痛い。もうどうしようもなかった。

 僕はきびすを返し、神アニを後にする。


「気違いやな」


 ぼそりとつぶやいた一言が、背中に刺さる。精神科に通っていることを見抜かれたのかと、怖くなる。

 僕は走って逃げた。涙が止まらなかった。 

 神戸にいた時間は、二時間にも満たなかった。




 どうやって帰ってきたのかも覚えていない。僕は虚無だった。

 この先、何を支えに生きていったらいいのかも判らない。僕を支え続けてきてくれた、神アニに拒絶された。

 部屋に戻り、ほとんどルーティンでパソコンの電源を入れる。虚しいとき、行き詰まったとき、僕はいつもこのようにパソコンから有料動画サイトを立ち上げていた。

 トップページのおすすめになっていたのは、神アニの新作だった。


「ううっ」


 情けない嗚咽がこぼれる。神アニがどんなに僕に冷たくても、僕は神アニを愛しているのだ。

 スタートボタンをクリックする。画像が動き始めた。

 新作は、ドラゴンの少女が人生に疲れたOLのところに居候するドタバタコメディだった。


「ふふっ」


 僕は暗い部屋で、泣きながら笑っていた。やはり、面白いのだ。

 やがて、展開がバトル系になってくる。

 OLを守るドラゴンの前に現れる妖怪。


 地面から無数のどくろが湧いて、集まって巨大な一体のどくろとなる。

 僕は立ち上がっていた。椅子が、派手な音をたてて倒れる。

 これは、がしゃどくろではないか。僕が小学生のとき初めて書いた物語。小説投稿サイトに載せて「小学生の作文以下」と罵られた物語。


 それを、なぜ神アニが使っているのだ。

 ドラゴンの少女が剣を抜くと、刀身が輝き始める。少女は跳躍し、光の剣でがしゃどくろを両断した。がしゃどくろは、光の粒になって消えていく。

 超光裂破斬まで。


 今日、僕の魂を込めた作品を、一文字たりとも見なかった神アニが、僕の物語を盗んでいた。

 足が震える。

 腹の底から、かつて感じたことのない熱が頭へと登ってくる。歯をぎりぎりと軋らせる。


 怒りだった。不良たちに理不尽な暴力を受けても、父に殴られても、ただ泣くだけだった僕が、初めて感じる本物の怒りだった。

 十年近くも愛してきた神アニに、唾を吐きかけられた。

 呼吸が苦しい。息の音が、大きくなっているのが判る。


 この絶望と怒りを、どうしてくれようか。

 暴発などしてやらない。

 怒りを、僕を動かすエネルギーの全てにする。

 

 神アニを、殺すことに決めた。

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