【怠惰/3】怠惰の夢 02
「ここは、どこだろう」
あの時最初に思ったのは、見覚えのない森の中だな、ということだった。次に思ったのは、ここは一体どこなのだろうかということだった。
羽根の少年の顔を思い出す。
いくつか言ってくれた言葉を、幼い頭で思い浮かべる。
――まず、人の住む町を探しなさい。
そうだそうだ、人の住む町と、確かに言っていたはずだ。
その町がどこかなんてわからないけど、少なくとも私が最初にするべきことは、町を探すこと。
自分の恰好をちらりと見る。
汚い恰好だとは思われないだろうか。
寒いからと母様が着せてくれた羽織がとても暖かく、少しだけ会えない寂しさに泣きそうになる。
いつもの自分の恰好。武家でもないので寝間着ではないものの、寝ている時私が着ている、いつもの服だ。
帯を解くのを忘れていたのか、逃げようとした時に母様が結んでくれたのかは忘れてしまったが、とりあえず文庫結びならできるからそれでいいか、と帯を触っていて気が付いた。
二本の刀が、腰に刺してあった。
直感で、これは【うさしなぐに】と【むめいもとしげ】だと気付く。
少しだけ刀をずらして見ると、それに反射する光で、私は空に浮かんだ月に気付いた。
刀を戻して月を見ると、少しだけまた、母様が恋しくなった。
森だと思ったそこは、どうやら森ではなかったようだった。
どちらかというと山だ。
いくらか歩いてから、山であるなら、登るより下った方が良かったんじゃないかと少しだけ後悔した。
山道はそれほど険しいわけでもなかったが、道があるわけでもなく、また、月明りがあるとはいえそこまで明るいわけでもないのだから、当然のように疲弊し、私は地面へと座り込んだ。
休憩しよう、と考えながら月を見上げる。
「母様」
ついぽろりと、口に出した。
――それがいけなかった。今は思い出すべきではなかった。落ち着いてから、ゆっくり考えれば良かった。
聡いと母様に言われた私の頭は実はそれほど聡くなく、むしろ自分での評価は浅慮だと自覚がある。
だから、考えもなしに母様と口に出し、勝手に思い出し、勝手に嗚咽し、泣き出すのだ。
5歳の子供がこんなところで母様を思い出したら、あの深い愛と温もりを思い出してしまったら、それは当たり前のことだ。
この世界に知り合いなどいない。
言われたではないか。別の世界なのだと。日本ではないのだと。生きるために行くのだと。
母様にはもう、会えないのだと。
泣いて泣いて、ひたすらに声を押し殺して泣いて。
次に気付くと、私はどこか家の中にいた。
母様と過ごした家ではない。板間の上に、布団ではないがふわりとした布を敷いて、そこに寝かされていた。
ここはどこだろう。
起き上がり、ゆっくりと周囲を眺める。
変わった建物だった。
壁は板張り。板張りの家を見たことがないわけではないが、その板張りを磨いてあるのか、手触りがつるつるとしている。
どこまで擦ればここまでつるつるとするのだろうか。
布の下の床も似たようなもので、さらには置かれている卓袱台も足が長く、高い。
人生経験がないから、私が机や椅子を見たのは、それが初めてだった。
引き戸ではないドアを見るのも初めてで、偶然開けることができたので仕組みはわかったが、柱や壁の美しさにも感動しつつ、それでもここが自分の家ではないからか、どうしても不安で仕方ない。
「……おや」
「ひっ!?」
背後から声がかかり、冗談ではなく一分ほど跳び上がった。
即座に背後を見ると、そこには一人の人影。
頭の天辺から、2本の角が生えていた。
「鬼っ!?」
慌てて腰に手を当てる。
即座に抜かなかったのは、刀を使ったことが今までないからであり、そして抜いたとしても振り回すことしかできなかったからでもあるだろう。
「鬼じゃなくて妖怪なんだけど、……まぁ似たようなもんか」
その妖怪は両袖を合わせるように手を隠したまま「よっこらしょっと」などと言いながら床に腰を下ろして、にこりと笑ってから、ようやく袖から手を出し、伸ばす。
「あたしの名前は明石家月芽。そなたは何と言うの?」
差し出された手。その手が少しだけ優しくて、嬉しくて、母様のようで。
思わずその手に自分の手を重ねながら、私は名前を言おうとして、
「――っ!?ちょ、ちょちょちょ、何で泣くのっ!?」
「え……?あ」
気付けば、顎に雫が滴る感触がして、ようやく泣いているのが私だと気が付いた。
気付いて涙を拭ってみれば、次から次へと溢れる涙。慌てふためき背をさするその温かい手の感触に母様を思い出す。もはや涙を拭うのを諦めて、涙よ止まれと思いながら、堪えながら、……堪えれば堪えるほどに悪化する嗚咽を噛み締めて、
「……あぁもう。我慢しなくていいよ。泣きたいだけ泣きな」
優しく呟く背をさする手が私を引き寄せ、苦しくない程度に、まるで母様のように抱き締めてくれるので、今度こそ私は大声を上げて、長い長い時間を引き寄せられたその胸に埋めて、泣いた。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。もう大丈夫かい?」
ツキメさんはぶっきらぼうに、しかしそれでも少しだけ優しく、こっちを振り返ることもなく、こともなさそうに言った。
なるほど、こういう人なんだなと朧気に考えながら、「はい」と小さく返事を返す。
「じゃあ、ご飯にしよう」
「えっ」
「あたしの好みで味付けしてるけど、人間の口にも合うはずだから」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
遠慮しているのに気付いてはいるのに態とやっているのだろうか。それとも素で気付いていないのだろうか。
どっちかわからないまま、畳の上に座布団を置かれ、その上に座らされる。その対面にツキメさんも座ると、自分は座布団も敷かずにどっかりと腰を下ろした。
「ほら、いただきます」
「い、ただき、ます」
有無を言わせずツキメさんが食べ始めるので、少し困った顔で彼女を見る。
自分の味付けに満足しているのだろうか、彼女は肉を箸で器用に小さく切り分けると、ひょいとそれを口に運んで、また満足そうな顔。
そうなると、自分も食べる以外の選択肢を思い付かず、私は箸を持って合掌し、それを食べることにした。
「ご馳走様でした」
「お粗末様。少し待ってて」
言うと、ツキメさんは食器をひょいひょいと重ねて持って行った。
「……お手伝い、します」
「ありがと、でも今日はいい。すぐ終わるから座ってて」
思わず立ち上がると、優しい目で笑ってから、私の頭をひと撫でし、彼女は部屋を出て行った。
手持無沙汰というのだろうか。物心付いた頃から、洗い物は手伝うのが当たり前だったし、それ以外の手伝いはしたことがなかったから、母様の洗い物の手伝いをするのは好きだった。
部屋の中を見回すと、少しだけ荒い造りの土壁で囲われた部屋が少しだけ落ち着く。
飾り気のない部屋。最初に見た板張りの部屋とは全然違う、本当に飾ることのない部屋だ。
「おっ、偉いね。ちゃんと座って待ってたの?」
戻って来たツキメさんに言われて気が付いた。確かにツキメさんを手伝おうと立ち上がったはずなのに、そういえばいつの間にか座っていた。無意識に座ってしまったのだろうか。
「……いくつか、話をしようか」
「はい」
再び対面に座り、「足崩していいよ」と苦笑するツキメさんに甘えて、少しだけ足を横に崩してから、ツキメさんと話をした。
今思えば、この時ツキメさんと会っていなければ、この時ツキメさんが私を拾っていなければ。
――私はきっと、もうこの世に存在していなかったに違いないのだ。