【怠惰/9】狭まる円の中で
戦うと決めた以上は、柔らかい壁は不要だった。
侍女長に視線を送ると、こちらの意図を察したようで、すぐに表情を引き締め、腿に隠した短刀を素早く抜いた。
ひとり、何もわかっていない御者はとりあえず馬車の中にいてくれれば安全だろう、と楽観視することにした。一応注意はしておくが、馬車から動かなければ、歩く死体も御者を狙うこともないだろう。
「……ここから、動かないように」
言って、柔らかい壁を解除。少しだけ驚いたような御者の表情の意味を無視しながら、少しの魔力で馬車の周囲を生命感知。
幸い、歩く死体は馬車の中の私たちに気付いていないようだ。周囲を取り囲まれてはいるが、気付かれずに外に出れば、馬車の中を襲われることはないだろうと期待したい。
窓にかけられたカーテンの隙間を覗く。
周囲を歩き回る影はあるが、とりあえず大丈夫そうだと判断し、音を立てないようドアを開けて外を覗く。
「……レミィ様」
「――大丈夫」
侍女長には根拠もなくそれだけを言い、少しだけ視線を向けて、もう一度「大丈夫」と声をかけた。
私だって伊達に、【怠惰の騎士】を名乗っているわけではないのだ。
ゆっくりと外に出て、音を立てないように扉を閉める。これで、中にいる限り、……少なくともしばらくは、ふたりは安全だ。
一匹の歩く死体が私を目敏く発見し、近付いて来たその首を刎ね落とす。
どさり一匹目の倒れる音を聞き付けて、何匹かがこちらを向いた。こちらを見ている視線から先に始末し、馬車に近い方から順に始末していく。
「静寂」
靴に魔法をかけ、足音を殺す。
脳裏に浮かべるのは、あのおかっぱの黒い髪だ。何もかも、当たり前のように私より秀でていたあの背中を、いつまでも追いかけていられると思っていた。
本当に触れることができなくなってしまった後も、それでもあの背中を追い続けて、強くなろうと努力した。
武器が似ていたのも偶然だったが、お陰でどう動けば効率良く刀を振るうことができるのかを知ることができた。
別れてすぐ騎士の手から逃れ、あの家に帰ってみたが、……そこにはもう、家はなかった。
それ自体は悲しかったが、それでも私は少しだけ胸を撫で下ろした。あの別れは、意図しない別れではなかったのだと、別れるべくして別れる時が来たのだと、ようやく理解することもできた。
あの「またね」という言葉通り、いつかまた会うことができればいい。
何があろうと、彼女を信じている。
だからそれでいい。もしこの死体たちに殺されることがあったとしても、私は彼岸で彼女を待とう。例えそれが何百年も、何千年もあとの話だとしても、彼女の「またね」を信じている。
……これで、20体目か。
足音を消すことはできても、死体が倒れる音を消すことはできない。
さすがに、音に気付いた歩く死体がこちらに集るのがそろそろ厳しい。
一度、一点突破でこの囲みを抜ける必要があるのだが、歩く死体が壁となり、どちらに抜けたらいいものか、判断に迷うところだ。
そろそろ数を数えるのも面倒になり、30体を超えたあたりで数えるのを放棄。
「風膜」
こちらに伸ばされる大量の腕を薙ぎ払って落とし、そこからぼたぼたと零れ落ちる体液を、身体に纏わり付かせた風の膜で防御。
腕を落とされてもなお噛み付こうと近付く頭を寸前で避けつつ、そのまま身を低くして足元の隙間に滑り込み、足を斬り付けつつ人垣――いや、死体垣か――を抜ける。
頭の芯に痛みを覚えた。
……そろそろ魔力が心許ないか。
経験上、この痛みは身体からの警告だと知っている。緊張感が続いているときは問題ないが、緊張が切れると猛烈な眠気に襲われるという、言わば警鐘のようなものだ。
舌打ちしたい気持ちを抑えつつ、【むめいもとしげ】から魔力を摂取する。
警鐘が止まったのを感じながら、周囲をぐるりと見渡す。馬車の位置を把握し、一旦そちらは大丈夫かと思考し、問題はないと判断して一旦思考から外す。
――あの背中は、もっと速かった。
理想の後を追うように、刀を振るう。
刃を滑らせるように斬り付け、事あるごとに刀身から血や脂を振り払うが、さすがにそろそろ脂で斬れ味が落ちて来た。
とは言え、周囲を見れば歩く死体の群れは、一向にその数を減らさない。動きは鈍いが、集団で壁のように襲ってくるため、威圧感さえある。
怯んでいる暇などない。
侍女長を、御者を守るために、最善を考えろ。……と思い出したところで、一度馬車を横目で見て、無事を確認して視線を戻す。
周囲は私を、怠惰であると称する。
それは間違いではないし、我ながら怠惰であると自負するところでもある。
基本はごろごろと昼まで惰眠を貪り、朝食を取ったら転寝をして、昼食を取ったら昼寝をして、夕食を取ったらすぐに布団に入りたい。いやもう一層のこと食事は2食か1食でいいからずっと惰眠を貪りたい。
だが、私は私が今の地位にいるからこそ怠惰でいられるのだ。
怠惰でいるために侯爵という高い地位を王からもらった。その地位を維持するのに、侍女長や御者を守り抜くのは当たり前のことであり、今後もあのふたりには助けてもらわないと困るのだ。
とはいえ。
さすがにこうまで隙間もなく壁のように迫られては、足元を摺り抜けるにも限界だし、うさしなぐにだけで乗り切るのも厳しいか。
むめいもとしげに蓄積してある魔力を吸収しながら、狭まる死体の円のできるだけ中心へと位置するように意識する。
魔力の充填が足りない。
少しだけ、あと少しだけ時間があればいい。構えたままのうさしなぐにを振り払うように手近な死体の足を斬って払う。
すでに腐食が進んでいるのか、ほとんど無に等しい手応えに思わず眉を顰めながら、それでも手を休めず刃を振る。
……もう少し。
何故こんな面倒なことになってしまったのか、などという怠惰な思考が何度も頭を過ぎっているが、だからと言って死にたいわけでもないので、駄々っ子のように振り回し、少しでも時間を稼ぐ。
あぁ、これは間に合わないか。
どこかで冷静な私が呟く。
弱気なわけではない。全力は尽くすが、……だからと言っていつでも楽観して生きられるほどに人は強くはないし、現実は非情なことも多い。
ただ、侍女長のあの顔をもう見ることさえできないのは、少しだけ……いや、自分の心さえ偽るのは面倒臭い。大いに、とても、非情に、寂しいし悲しいし、辛いことだ。
――面倒臭いが、まだ生きる意味はある。
どこかで冷静な私が呟く。
冷静かどうかと言われたら自信はないが、努めて冷静なつもりで、精神を研ぎ澄ませる。生き残るために、むめいもとしげを壊すわけにはいかないし、魔力が足りなければ昏倒しかねない。
全力でうさしなぐにを振り回しながら、全力で精密に、全力で迅速に、全力でそのバランスを測りながら魔力を取り込んでいく。
足りない。
時間が、魔力が、技量が、……本当に何もかもが足りない。
だが急ぐしかない。もう、刀を振るたびに何体かの死体を斬り付け……というよりもはや斬ることもできないほどに血で滑り、押しのけることしかできていないが、ともあれ狭まる円を広げることすらできなくなっている。
私の腕を掴もうとする死体の手を腕ごと斬り、刀を返す暇もなく頭上から迫る腕を叩き折り、……そろそろ限界かと判断せざるを得ない。
「防護」
私自身の周囲に結界を張る。属性は炎。もう形振り構ってはいられない。少しばかり魔力は足りないが、こうなったら仕方ない。
「爆炎」
魔力を収束させる暇もなかったが、後付けで構わない。結句は唱えたので、必要な手順は全て済んだ。
一気に腕から掌にかけて熱い魔力が収束して行き、同時に私の中に辛うじて溜まりかけていた魔力を吸い上げて行く。
――チッ、と思わず舌打ちをする。
やはり足りないか、と嘆く時間も覚悟もなく、ただ足りないという事実だけを感じながら、……魔力の代わりに生命力を奪われゆくのを感じながら、この身はこんな時でも怠惰なのかと呆れながらも、それでもどうにか耐えていた意識は、昏い睡魔に押し負けていった。




