【怠惰/8】死人の群れ
息を整えながら、ようやく高鳴る心臓に気が付いた。意識し、深く呼吸し、鼓動を抑えるが、それでも一向に静まる気配がなく、仕方なくそちらは諦めることにした。
何より、そんな余裕もない。
柔らかい壁を持続させるだけの魔力がいつまで続くかが最大の問題だが、すでに発動している魔法は対価である魔力を支払うだけでいい。
問題は――
「――ッ!」
うさしなぐにを――今の今まで一度たりとも振るったことのない、……前世の唯一の思い出を――振るう。
一瞬遅れて血飛沫が舞うが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
さらに一瞬遅れて激痛が訪れる。
「……ッ――」
「レミィさ……レミィ様っ!?」
迂闊にも僅かに漏れた呻きを聞き付け、侍女長がこちらを振り向き、その顔を見る見る驚愕の表情へと変えてこちらへ向けて膝を上げるのを制し、うさしなぐにを鞘へと戻す。
さすがに腕一本落とした痛みは凄まじく、すでに額と背中は脂汗が滴り始めていた。
極力痛みを無視しつつ、それでも心臓の鼓動に合わせて襲い来る痛みに間を合わせ、掌に魔力を練る。
すでに血液を噴き出している患部すれすれに掌を近付け、間を見計らう。
「――再生」
押し込むようにかけた再生魔術に一瞬痛みが引いたものの、上手く集中は出来ていなかったようだ。失敗した分の魔力を集中して回収する。
思ったほど魔力の損失はない。これならば、あと4・5回は試行できるだろうか、とも思うが、今度は血が足りないなどという最低の結果に終わりそうな気もするので楽観はできないだろう。
「再生」
今度はタイミングがずれた。思わず舌打ちをして、少し息を深く吸った。
――少し焦りすぎか。自分の体でなかったら、こんな失敗など。
「再生」
痛みが断面に強く走る。
一瞬失敗したかと思ったが、断面から少しづつ肉が盛り上がって行くのを見て、慌てて魔力を込め直した。
蜥蜴が尻尾を生やす感覚というのは、こんな感覚なのだろうか、……などとくだらない冗談が頭を過ぎる程度に、心底ほっとしている自分に気が付いた。
「……あぁ、ホントに。無茶をして」
「――うん。ごめん」
侍女長の安堵しきった顔を見て、全力で魔法に集中しつつ、並列して思考を巡らせる。
状況は依然として最悪。
再生を終えて私の腕が完治するまで柔らかい壁を維持することは可能だろうが、現状、外にいるモンスターの群れが最悪だ。
魔紋刺青がない現状、恐らく壁の維持は1時間ですら厳しいだろう。
加えて、外にいるモンスターが何かも理解していない。唯一理解できたのは、走っている馬に攻撃を仕掛け、その後ろを走る馬車が激突する――たしかカンセイの法則、とか言われるアレだ――ことを計算できない、知能の低いモンスターであろうということくらいか。
まぁ、どうせ壁を維持できないのだから、どのみち御者を起こすしかないし、唯一その正体を見ている御者に聞けば、早いと思うわけなのだが。
腕を再生させながら並行して治療し、目覚めさせると、御者は最初に悲鳴を上げて後退った。こういった面倒な対処は苦手なので侍女長に任せると、ふたりは少し何事かを小声で話していたが、御者は状況を把握したのか少しだけ落ち着きを取り戻し、それでも少し怯えるように震えながら、状況を説明し始めた。
「人間……のように見えました」
話の腰を折るのも面倒なので、唇を震わせて語る言葉に推測を交えながら話を整理することにする。
要するに、馬に襲い掛かったのが人間だった――馬を走らせながらだったため表情などは明瞭に見えたわけではないが、少なくとも姿形は、列……または群れを成す人間のように見えた――そうだ。
道を塞ぐ形ではなかったが、それでも念のため馬の速度を僅かに落とし、いつでも停車できるようにはしていたらしい。
だが、馬車が連中の間を抜けようとした……というより、その人間たちの間を縫って走行しようとした時、道を開けると思っていたその人間たちは、あろうことか馬車に向けて走り寄って来た、……というのが御者の話を総合的に纏めてみたところだ。
人の恋路を邪魔したわけでもあるまいし、本当に邪魔したところで、わざわざ馬に蹴られて死にに来る馬鹿はいない。
そして、……御者の言葉を整理しながら状況を把握するに、周囲にある大群のモンスター反応を踏まえて考えるに……
「――動死人、でしょうか」
侍女長とふたり、一度だけ遭遇したことがある。
死んだ肉体に憑り付き、ただ食欲を満たすためだけに生物を無作為に襲う、モンスターの一種だ。
腐肉人や骨死人など、その派生はいくつかあるが、それらを纏め、モンスターの学者はこう呼ぶ。
歩く死体。
もちろん推測でしかないので、全く違う種のモンスターである可能性はあるが、……だとしたら、馬を襲う理由が思い付かない。
推測が正解だとすれば、歩く死体など問題ではない。
ただし、それは相手が少数の場合に限る。
生命感知を行ったとき、この周囲には大量の何かの存在を感じた。それら全てが歩く死体であるとしたら、かなり厄介だ。
一般に知られているわけではないのだが、とある学者の一説によれば、歩く死体の攻撃は、新たな歩く死体を生んでしまうのだという。
傷口から体液を取り込んでしまった時、傷を付けられた時、殺された時、と様々な説があるが、そもそも歩く死体自体が珍しい現象であるため、その生態――と言ってしまっていいのかはわからないが――はほとんど解明されていない。
少し生命感知をしただけで、周囲に撒いた魔力の、少なくとも半分ほどが奪われた。……つまりそれほどの数の歩く死体が周囲には存在するということになる。
それほどの数を相手に、ほとんど戦うことができない御者を守り、少しは戦えるらしいが戦力としては未知数である侍女長と共に、どこまで耐えることができるのか。
――耐えることができる、などと弱気な思考が出てしまう程度には、すでに私は現状打破を無理だと思ってしまっていることに気付き、思考を切り替える。
籠城戦であれば得意だが、……すでにボロボロなこの馬車に立て籠もって籠城するのは不可能に近い。
左腕の魔紋刺青さえ無事であったならばまだ、1日やそこらは耐えることができたかもしれないが、そんな仮定の話には何の意味もない。そろそろ腕は完全に再生されるが、当然そこに魔紋刺青はないのだから。
逃走を考えてみる。元来た方向へ逃げるというのはどうか。……私が歩く死体どもを足止めし、ふたりを逃がす……無理か、と思考を放棄する。そんなことをすれば、侍女長が自ら囮になる、などと言い出しかねない。歩く死体は足が遅いらしいが、さすがに数が多すぎる。
……結局、戦闘を選ぶより他にないか。
もう一本の刀、むめいもとしげには魔力を蓄積させてはあるが、できることなら使わずに済ませたいが、……最悪、失うことになったとしても、命を無駄に散らすよりはまだマシであろうと思うのだ。




