【蜘蛛/4】偽りの予感
そんなはずはない、と月芽は思った。
――ふたりの男が呟いた名前は、間違いなく、懐かしいあの名前だった。
続いて、その仲間の話となり、懐かしい白い兎の名前と、懐かしき剣士の名前と、それぞれの二つ名が次々と発せられる。
そんなはずはない。そんなことがあり得るはずなどない。
などとは思っても、いくら否定しても、現実的にはそれがあり得ているのも事実だ。
ひとりなら偶然だと言えただろうか。例えばそれで同じ顔をしていたとして、子孫か何かで、あの勇名に肖って名付けられたのだと、納得することもできたろう。
それが2人でも信じられないほどの奇跡だと言うのに。
あろうことか、3人。しかも、二つ名すら3人とも同じで、さらには共に行動しているのだという。
――それならば長い月日こそが月芽の思い過ごしだったのではないかと思いたいところではあるが、それも月芽の記憶が否定するのだ。
少なくとも、550年は経っているはずだ。塔を登ったことに比べれば、記憶に薄い出来事ばかりではあったが、それでも確かにひとつひとつを覚えている。
逃げる兎の親子や、子熊を守るために立ち向かう親熊。エントの守りで人の入って来れなくなったあの森で、ただひたすら些細な記憶を積み重ねて来た。
それらが間違いなどではあろうはずもないし、その後レイと過ごした数年間も、あの家を出てから過ごした日々も、何もかもを覚えている。
それとも、人間の言うところの、夢を見ているのか。見ていたのか。
だとしたら夢はどちらか。この550年が夢なのか、あの3人が揃ってこの町にいることが夢なのか、……もしかしたら、その両方が夢だというのか。
気付けば、月芽はテーブルに突っ伏したまま、肩を震わせて泣いていた。
そうであって欲しかった。そうであって欲しいと今も思っている。
あの3人に会うことができるのならば、あの3人と共にまた歩けるならば、……
月芽は周囲に見えないように、袖に涙を滲み込ませる。
冷静になれ。
本当に生きているかどうかなど、確かめればいいだけの話だ。
おかしい話なのだ。どんなに些細な記憶であろうと、覚えている550年が嘘であっていいはずなどない。
あのレイとの生活が、月日が、思い出が、嘘であっていいはずなどない。
……ただ一度、彼らを目にしてみればいい。
全くの別人であるならばそれでいい。月芽のことを知らない彼らなど、月芽にとって価値はない。無関係に日々を過ごすだけでいい。
生きているというならばそれでもいい。月芽の本当の仲間であった彼らならば、以前と同じくこのまま姿を見せずに去ればいいだけの話だ。
だが。
手がかりは、掴めなかった。
町の噂は様々あれど、本人たちを目にする機会は、たったの3日では探せなかった。
……当たり前と言えば当たり前なのか。
この広いルディーリアの町で、行動を共にするたったの3人を探すのは、元々容易ではない。ならば地道に探すしかない。
――だというのに、何故だろう。
不穏な予感しかしないのだ。
ただ過去の知り合いを探すことは、こんなにも難しいことだっただろうか。
彼らの行動パターン、行きつけの店、性格、何もかもが鮮明に思い出せるのに、そのどれを辿っても、彼らに辿り着くことができないのだ。
550年もの間に、3人はそれほどまでに変わったというのだろうか。
これではまるで、知らない人物を探しているかのようだ。
顔と名前だけを知っている、知人ですらない人物を探しているかのようだ。
不穏な予感しかしない。
知人ですらない人物が彼らを騙っているのなら、何のためにか。彼らがそれほど変わったというのなら、それは何故か。
――どちらにしても、何にしても、嫌な予感しか。
「それで、……ルエラ嬢は?」
思わず反射的にその声を選り分け、声の主を探すと、やけに傷の少ない鎧を纏った男と、彼に従者のように付き従う女性と、仲間であろうドワーフが見えた。
「中で待っているとのことでした」
「いよいよ伝説のひとりに会えるのか。嬉しいね」
とりあえず彼らに接触してしまおう、と半ば反射的に判断し、月芽は彼らに近付いた。
暗いところから出て来たせいか、それとも声をかけるタイミングが悪かったのか、少しだけ警戒されてしまったようだが、お互いに情報を明かしすぎない程度に話をした。
彼らはルエラと会う予定ということのようだ。
闇に乗じて近付いていたせいか、それとも暗がりから出て来たせいか、少し警戒されてしまったような様子はあったが、渡りに船とばかりに頼み込んだ。
直接会う必要などないから、遠目に彼女を確認して、彼らには嘘を吐くようで悪いが、それで終わりだと思っていた。
その考えは、次の瞬間に霧散することとなる。
「お呼び立てして、申し訳ありません」
そう言って彼――リーダーと思しき男――に手を差し出したルエラに、強烈な違和感を覚えた。
「やっぱりね」
その間に黒糸を割り込ませ、霧散させた。
男がそれに驚き、反射的に後ろに下がるのを幸いと、その間に身を割り込ませてから、糸を回収する。
この存在は、違う。
ルエラは、あんなに堂々と言葉を発さない。初対面の相手どころか、何度も何度も顔を合わせ続けて来た仲間にすらも、途切れ途切れに、それでも一生懸命に、話すのだ。
「本当は久しぶり、って言いたかったんだけど」
嘘だ。もし本物なら、会わずに町を去るつもりだった。
もしもただの偶然の一致なら、無視してしまうだけで良かった。
けれど、このルエラは、ルエラを騙っている。あのひどく優しくて、ひどく人見知りで、ひどく頑張り屋で、最後まで月芽との別れを引き止めた彼女なら。
「……久しぶり、ではいけませんか?」
鼻で笑ってしまうほどに別人だ。こんなことは絶対に、絶対に言うはずがないのだ。
あれほどまでに別れを惜しんでくれたルエラが、550年ぶりの月芽を見て、こんな淡泊な反応をするはずがないのだ。
涙してくれるとまでは思っていないが、少なくとも動揺はしてくれると思いたい。
「ダメに決まってるじゃん」
「そうですか」
背後の空気を探ると、男たちの方が動揺しているくらいだ。
面倒だなぁ、と月芽は思う。
いっそ空気を読んで一旦離れるくらいはして欲しい。
……状況が呑み込めていないのだろうか、と溜息を吐きたくなるのをぐっと堪えて、月芽は意識をルエラに全て向けた。
「で、ひとつ聞きたいんだけど」
「何でしょう?」
この一言で、彼女が何をしてくるのかわからない。
けれどきっと、この偽者は動き出す。そして、後ろにいる彼らも、どういうことなのかを把握してくれるだろうと信じたい。
「そなたは、誰?」
予想通り、偽者は即座に動いた。
予想と違ったのは、月芽に向かってくると考えていたその手が、腰の刀に伸ばされたことくらいか。
その刀の鞘に拵えられた装飾と、僅かに感じる魔力。
――ぞわりと、月芽の直感を撫でるものがあった。
思わず舌打ちしながらも、すでに体は動き出していた。
腰の刀まで月芽の手が届くよりも、偽者の手の方が数瞬早いか、と誰よりも早く判断し、月芽は即座に足を地面に擦り付け、反転する。
膨れ上がる魔力の気配。
あの腰の短術刀は、偽物だと思っていた。偽者が本物のルエラを真似るためだけの小道具だと思っていた。だから警戒しなかった。
気付くべきだった。あの拵えは、ルエラが自ら彫り、作られたものだ。
ふたつとない、世界でただひとつしかない鞘だ。
もう一度、今度は盛大に舌打ちしつつ、両腕で背後に佇む3人を巻き込んで伏せると、その月芽ごと、4人を魔力が包み込むのを、感じた。




