【蜘蛛/3】踏破階数
あれから、どのくらいの時が経っただろうか。
「またね、かぁ」
あの黒髪と、黒い瞳と、そして白い体。そんなものをふと思い出した。
500年以上生きて来たうちの、たった数年間だったはずだ。冒険もしない、修行もしない、ただただ生きているだけの数年間だったはずだ。
レイとの時間は、ただひとりではなかったというだけの日々であり、それほど濃密な時間であったとは、思っていなかったはずなのに。
それなのに、まだ、こうして思い出すくらいに、あの少女には何かがあったのだろうか。……少なくとも、あの時代にこうして、紅茶なんて飲んだ覚えすらないのに。
「ひとりは、やっぱり寒いなぁ」
あぁ、いつからこんなに、寂しがり屋となってしまったのだろう。
たった数年の間にあの少女が、自分をそんなにも変えてしまったのだろうか。
――月芽はそんなことを考えながら、窓から顔を覗かせ、月ひとつない夜空を見上げた。
「ひとりって――俺は数に入らないってのか」
ベッドの上から声をかけてきた男は、たまたま成り行きで助けた冒険者だった。
結局月芽が行き着く先は、その戦闘力を活かせる場所しかなかったので、いくつかのダンジョンがある街を渡り歩いて行ったり来たりだ。住む街を10個ほど、10年周期くらいでローテーションしているので、再来しても月芽のことを覚えている者など、ほとんどいない。
だから、この懐かしき【天よりの鎖】に戻って来ても、自分を知っている者などいない。
「……はは、こんな行きずりの関係、数のうちに入ると思うのかい?」
思わず苦笑しながら、振り向きもせずに言葉を返すと、男もまた苦笑して、少しだけ体を動かす気配があった。
「ま、体ひとつ触ってねェしなァ」
「そなた不能だろう?こんな別嬪を相手に我慢するなんて、勿体ない」
「さすがにそこまで恩知らずじゃねェさ。……それとも、失礼だったか?」
あぁなるほど。助けられた恩があるから手を出さなかったのか、と月芽は少しだけその言葉に納得する。
もし手を出されそうになっていたら、脅してでもやめさせていたとは思うが。
「いいや、……ただの軽口だよ」
それでも窓から見える空から視線は逸らさずに、月芽は並行する思考で男への会話を打ち切った。
男の方でもそれを悟ったのだろう。そのまま体をごろりとベッドに横たえると、何も言わぬまま、やがて静かになった。
そうして、月芽の思考はもう一度、どのくらいの時が経ったのだろうかと考える。
……月日の感覚など、月芽にはない。
だから、あれがあったこれがあった、と指折り数えながら、その月日を思い出す。
前に同じようにレイのことを思い出したのが30年ほど前の話だったか。
確かその時に、さすがに人間であるレイはもう生きてはいないだろうと考えたことを思い出す。ついでにあれから500年ほどの時間が経っているのだということも。
実際にレイの足取りを追ったわけでもないが、人間の寿命は土蜘蛛のそれと比べて遥かに短く、よほどのことがなければ、長く生きても80歳程度。
……あたしも、大妖怪とか呼ばれちゃうわけだよ。
思わず苦笑しながら、星の瞬きに見蕩れつつ、あの少女を想う。
エントの守りが効かなくなったあの棲家は、早々に破壊し、放棄した。
人間と争う気などないが、心残りがあったとしたらレイだろうか。
家がなくなっているとあの後知ったのなら、レイは嘘吐きだと怒ってくれただろうか。いや、レイはそもそも、一方的に破られた約束の方を怒っただろうか。
元々あんな家、木と土で作って色を塗っただけのものだ。
だから家自体に思い入れがなければ、……いや、家への思い入れを超える何かがあれば、壊してしまうことに中途半端な躊躇など持たない。
レイと別れてすぐに壊したから、例えばあのすぐ後にレイが騎士の手を逃れて家に戻っても、家はなかった。そうなれば、レイだって諦めて騎士たちと人間の町へと行ってくれただろう。
幸せになってくれてたら、いいな。
そんなことを思いながら、少しだけ冷めてしまった紅茶の香りを嗅いで、水分として喉に流し込んた。
天よりの鎖の踏破階数は、来るたびに最上階数が変わっているのが面白い。
最初は、かの勇士をはじめとしたパーティによる、1300階。
次に来た時――さすがに100年以上経ってしまっていたが、それでも200ほどしか数字が増えていなかった。
さらに次に来た時には、何があったのか一気に2000階を超えており、その次からはしばらくは少しづつしか増えていなかったがそれでも増え続けていた数字は、前回に来た時には、何故か1010まで減っていた。
踏破階数が減るというのがどんな理由かはわからないが、それを聞く術が月芽にはない。少なくとも、誰かが以前の2000を超えた数字を口にするまでは、何故数字が減ったのか、などと初めて訪れたことになっている月芽が知っているはずがないのだから。
ともあれ、前回訪れた1010から、今回聞いた1020まで、一応数字は増えているので、まぁ今後もこの数字は増えるのだろう。少なくとも何かあるまで、減ることはないはずだ。普通は。
助けた男と別れ、冒険者ギルドに行ってみると、受付に懐かしい顔がいた。
確かめる術はないが、あれから550年以上も経っているのだ。さすがに同じ人物ではないだろう。ただ似ているだけの別人のはずだ。あの妙に偉そうというか、妙に口煩くて、人懐こくて、いつでも澄ましたような顔のお人好しは、それでも人間という枠は飛び越えては来ないだろうから。
受付に用事はない。
すでにギルドカードは有功に――アクティベート、とかいうのだったか――されているし、このまま塔へ行ってロビーに入れば、ひとりでも問題なく中に入れるだろう。
のんびり暮らすだけの分には全く問題はないはずだし、腕試しというか、腕を磨きたいのであれば、塔へ行けば、実力に見合ったレベルのモンスターを相手にすることもできる。
受付をほとんど無視しつつ、意識して雑音を整理しながら言語化していく。
普段はこんな面倒なことはしないが、何せこの町には来たばかりだ。少しでもこの町の現状を理解しておく必要がある。大抵の町で、「初めて」訪れた月芽としては、必要なことだ。
混じってわからなかった音を整理とともに理解しながら、月芽はふと、あるふたりの男の会話を耳にする。
「2000階とか言ってたな」
月芽は、他の音を拾うのをやめた。
ギリギリでその会話を聞き取れる席を見繕い、腰を下ろすと、会話に集中するためにテーブルに突っ伏し、寝たフリをすることにした。
「2000って。今1020だろ?」
「石碑を立てずに進んでるらしいな。だからギルド側でも把握してないらしい」
「さすがに噂だろ?」
ふたりの会話は、そこでお互い飲み物を飲むことで途切れた。
石碑を立てずに、塔を進む?
……なら、以前2000を超えていた時の石碑はどうなったのか。
何者かに、1010階の石碑が撤去された?いや、あの時は誰も、いきなり数が減ったことに関しては話題にもしていなかった。冒険者ギルドにも、減ったことを口にした者はいなかった。むしろ月芽の覚え違いだろうとまで言われたほどだ。
「まぁ、あの3人じゃなかったら、俺だってただの噂って思ったけどさ」
ぞわりと、月芽の思考を悪寒が押し潰し、あまりの衝撃に次の会話を聞き逃した。
あの3人。その言葉には覚えがある。もちろんあのメンバーはその頃にはいるはずもなく、ただの昔を懐かしむだけの会話だったし、今の話にしても、たまたまパーティのメンバーが3人だということなのだろう。
息を落ち着け、気を取り直して会話にもう一度聞き耳を立てる。
そうして、もう一度衝撃を受けることとなった。




