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【蜘蛛/1】出会い

 始まりは、いつの日だったのか。

 覚えてなどいないし、それが彼女の在り方としては自然で正しいものだ。


 気が付けば、彼女はそこにあったし、彼女は存在していた。


 細かいことは思い出せないし、思い出せたとしても思い出せばキリがないし語るつもりもないが、人に生い立ちを聞かれたら、彼女はいくつかの強い思い出だけを語ることだろう。

 彼女の人生を彩った思い出は、大きく分けて3つある。


 ひとつは、彼女を育て、彼女の心と体を強くしたひとりの男。

 彼女の根幹を作ったその男は、今はもういない。

 それが死を意味するのか、ただ目の前から消えただけなのかは黙して語らないが、彼女がそれを語る時の表情を見るに、それは決して悪い別れではなかったのだろう。


 ひとつは、仲間と共に【天よりの鎖(チェイン・タワー)】に挑戦した思い出。

 彼女の心を大きく育てたその仲間たちとは、すでに別れた。

 大きな、かけがえのない経験を得て彼女は成長し、そしていくつかの心に残る思い出を得て、……理由はともかく、そうして彼女は仲間の元を去った。


 そして、ひとつは。




 あの日、月明かりの中で、押し殺すような嗚咽を聞いた。

 もはや人と関わることなどないだろうと、ひとり静かに過ごすつもりだったのに、その嗚咽に誘われるように、あの少女を見付けてしまった。


 変わった子供だった。


 彼女のことを「鬼」だと誤解する者は多くはないが、少ないとも言い難い。

 かつての仲間は、あっという間にある程度彼女の種族を言い当てたものだが……間違われるのは、頭の角が鬼のそれに似ているからか。

 その子も、彼女をひと目見るなり短い悲鳴を上げ、あまつさえ、すわ鬼かと言いながら腰の刀に手を伸ばした。さすがに抜きはしなかったものの、対応を間違えたら、その子も刀を抜いて飛びかかって来たに違いない。


 その反応は、まぁ間違っちゃいないんだけどね……


 正直な話、この子供に対して良い感情などは微塵たりともなかった。

 まだ子供とは言え、刀を二振りも腰に差し、厳重にエントの人払いの結界を張ったこの山に侵入し、あまつさえ、ここで意識を保っているなど、正直な話薄気味が悪い。


 それでいて、「ここは、どこだろう」などと、薄気味が悪い。


 それでも彼女は最低限の礼を尽くそうと、あわよくばどうやってこの山にやって来たのか聞こうと、自らの名前を伝え、そうして子供に名を問うた。

 そうして手を差し出して、少しでも少女の警戒を解いてやろうと、微笑んで見せた。それがちゃんと微笑みになっていたのかはわからないが、少なくとも少女にはそう見えるように、ちゃんと笑いかけたつもりであった。


――だと言うのに、少女の目から雫が流れるのが見えた。


 慌てて、何故泣くのかと問うと、彼女はひどく不思議そうな顔をして自らの頬に触れ、ようやく自らが涙を流していることに気付いたようで、止めどなく流れる涙を拭きながら、ようやく、遅れて、みっともなく嗚咽を堪え始めた。


 あぁ、……あぁそうか。


 みっともなく堪える嗚咽に、何度も顔を流れる雫を拭き取ろうとするその仕草に、何かがすとんと腑に落ちた気がした。


「あぁもう。我慢しなくていいよ。泣きたいだけ泣きな」


 思わず苦笑を浮かべつつ、彼女は少女を抱き寄せた。

……あの白い兎にされたように、あの大きな剣士にしたように、あの優しい勇士としたように、涙を流す少女を自らの胸に寄せて少しだけ驚いた顔をさせてから、背をさする。

 こんな資格は自分にあるだろうか。こんなことをして少女は迷惑ではないだろうか。

 まだ会ったばかりの、こんな正体も得体も知れない輩に背をさすられて、……怯えたりはしないだろうか。


 本当に背中をさすって欲しいであろう、この子の親はどうしてしまったのか。


 堪えていた嗚咽は次第に遠慮がなくなって、少女は大きな声を上げて泣いた。

 少なくとも、彼女の憂慮は杞憂であったようで、内心でほっと胸を撫で下ろした。




 慣れないことをしたものだから、と彼女は少しだけ少女に対して気恥ずかしさを覚えてしまった。翌朝になり、少女が平気な顔で朝の挨拶をしてきたときも、思わず顔を背けてぶっきらぼうにしてしまったのを情けなく思いながら、それでも、塔にいた時を思い出しながら少女と自分のために作った、有り合わせでしかない材料のご飯を前に、少女――レイと名乗った――に身の上を聞いた。


 レイは、異世界から来たのだと言う。


 ニホン、という国からやって来た。

 この世界でも「ニホン文字」というものがある。ニホン文字の由来を聞いたことはなかったが、……なるほど、異世界からやってきた人間が広めた文字だったか、と彼女は僅かに知った気になった。実際にそれが正解なのかどうかについては、調べる術がないのでどうでもいい。

 以前、塔に登っていた時にも、異世界からやって来たという少年に出会ったことがあるが、レイも同じところから来たのだろうか。

 それにしては、あの少年はこちらの世界に馴染んでいたような……と記憶を辿り、少年はこちらの世界に「産まれる」という形でやって来たという話だったとようやく思い出す。思い出した頃にはレイの話は進んでいて、机に置かれた二振りの刀が、友人と行っていたゲームのものだったと語っていた。


 この世界に、異世界からやって来たというところは信じて構わないと思う。

 仮に嘘だったとして、それで彼女に不利益などないのだし、そもそも疑う理由がない。


「それで、レイはこれからどうしたい?」


 レイはこの問いに、困ったように「わからない」と答えた後、ようやくレイ自身がそれすら考えていなかったのだと気付いたような表情をしてから、心底申し訳なさそうに俯いた。

 だから、彼女にとって、しばらくここにいればいいという提案は自然のことだった。


「……ツキメさんは、心でも読めるんですか」


 だというのに、不意に出たレイの言葉に、はたと思考が停止した。

 どういう意味?心が読めるかって?

 何故そう思ったのか、と推測して、彼女は思考を一瞬だけ巡らせてから、すぐにその言葉の意味に気付いた。


 レイは、ここにいればいいと、言って欲しかったのか。


 そう気付いてしまえば、それに対して大笑いしてしまうのは当たり前のことだ。

 いや随分と面白いことを言う子だなぁと、頭の片隅では冷静に苦笑しながら、それでも残りの頭はこりゃ傑作だ、と笑い涙まで浮かべながらひと頻り笑い尽くして。



 そうして、彼女……明石家(あかしや) 月芽(つきめ)と、少女……レイとの、たった何年かの短い共同生活が始まった。



 色々なことを覚えている。


 自分の種族が「土蜘蛛」という名の妖怪の一種であることを教えた時の、怯えもしないレイの「それがどうかしたの?」という顔。それどころか、「蜘蛛なのに人間みたい」などと、屈託のない笑顔をくれたこと。


 冒険者として塔に登っていたが、塔の1300階を超えた頃、誰が責めたわけでもないのに出自と種族が次第に気になり、仲間たちの元を黙って離れてしまった時のことを話した時には、「それなら、折り合いが付いたらまた会えばいいじゃない」と当たり前のように言われたこと。


 それから、それから。

……あぁ、思い出などという陳腐な言葉では語れるはずもない。

 結局のところ、レイは、師匠やダントやルエラや、……あの人と同じで、月芽にとっては語り尽くせない大切な大切な感情を持った、かけがえのないひとりなのだろう。



 だからあの時、レイと別れることになったのも、……考えてみれば当たり前のことだったのだ。

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