悲しみの海−1
一ヶ月後の六月二十日、幸樹は遠い親戚の結婚式に出席するため、本州最南端に位置する。和歌山串本町へ車で行き、式に出席した後は、串本観光を行いホテルで一泊した。
翌日、幸樹は大阪へ車を走らせていると、急な眠気に襲われた。
危険を感じた幸樹は、車を路肩に停め、一眠り出来る場所を過去の記憶から捜した。
すると美しい湾と、湾の岬に一本の大きな松の木が脳裏に浮かんだ。
涼しい松の木の木陰で眠れることは、今の幸樹にとって、最高の贅沢に思えた。
湾に向かって車を走らせること約三十分、湾を取り巻く松林に到着した。
幸樹は車を下りると、目の前に広がる松林に駆け込んだ。
松林の中は涼しく、海の匂いが立ちこめていた。
幸樹は、松葉の隙間から零れ落ちた小さな日の光が地上に描く、紋様を物の姿に想像しながら歩いているうち湾の中央に出た。
湾内の海は、空と見間違えさすほど、紺碧に似た色をしていた。
幸樹は湾の美しさに目を奪われ、しばらくの間、太陽の直射日光を浴びながら、湾全体を見渡していた。
「十年前に来た時と同じ美しさだ」
幸樹が感動と共に、今後も、この美しい景色が変わらないことを願った。
湾の形状は、美しい三日月形をし、その形をなぞるように、白い砂浜が敷き詰められ、その砂浜をなぞるように、緑の松林が取り囲んでいた。
幸樹の居る場所は、三日月形の弧を描く湾の底辺のほぼ真ん中で、幸樹が行こうとしている松の木は、右側の岬、約百メートル先にある。
幸樹が見ると、岬には大きな松の木が青々と茂っていた。
「おお、台風にも負けずに健在で良かった」
安心したように言うと歩きだした。だが、砂が柔らかくて深いため歩きにくい。
そこで幸樹は靴を脱ぎ、海水で砂が固められた波打ち際を歩く。すると、透明の海水が幸樹の足に打ち寄せては返し、足を心地よく冷やしてくれた。
岬に到達した幸樹は、大きな松の木陰に生えている柔らかい青草の上に寝転び、空を見上げた。
空は青く澄み、小さな白い雲が一つ浮かんでいた。
その雲が幸樹には、和泉葛城山の展望台でみたサギソウの花のような少女に見えた。
「今、僕の心は空のように澄み渡っている。君や君の両親に感謝しているよ、有り難う」
白い雲に届けとばかりに叫んだ。
そして、その白い雲を追いかけているうちに、心地よい眠りに誘われ、何時の間にか眠っていた。
幸樹の心地よい眠りを覚まさせたのは、砂を踏みしめる人の足音だった。
寝ぼけ眼で、足音がする方向を見ると、陽炎がゆれるように、こちらに向かってくる。