サギソウの花2
「それはすごい」
幸樹は心底、早苗の昇進を喜んだ。
その時、早苗が幸樹に言った。
「私、社長の席を狙うわ」
「僕も応援するから頑張れよ」
早苗の言葉を信じた幸樹は、一生懸命、早苗の手助けをした。
だが、早苗は、それから三ヶ月も経たない間に、幸樹を失望のどん底に叩き込んだ。
早苗は妊娠したが、幸樹に無断で中絶した。
幸樹が咎めると、子供を生むと課長の席だけでなく、社長の夢が断たれるからだと答えた。そして、ダメを押すように、一生涯、子供を生まないと宣言したのだ。
幸樹は、帝塚山で小さな医院を開業する家庭の一人っ子として生まれたが、子供の頃に、母親を亡くして淋しい日々を送っていた。
その時、思うことは、母親が亡くなるのは仕方がないとしても、せめて、友達の家のように兄弟が居れば良かったのにと思った。
そして、母親が生きていた時の暖かい幸せな日々が蘇ると、親子で暮らすことが、どれほど大切なことであるかを思い知ったのだ。
そこで、幸樹が理想とする人生は、平凡だが、地位やお金より、暖かい家庭を築くことであった。
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だが、早苗は幸樹が一番、大切にしているものを、いとも簡単に破り捨てたのだ。
幸樹には、想像もしなかった事態が起こっていたので、一瞬、思考が止まった。
しかし、徐々に怒りが込み上げてきた。
「なんて、馬鹿なことをしたんだ」
「社長になるためには、こうするしか道が無いからよ」
「子供を持つ女性社長は沢山いる」
「居るのは確かよ。でも、大抵は親の七光りだわ」
「子供を殺しても、社長になりたいのか」
「そうよ、社長になるためには、全てを犠牲にするわ」
犠牲にすると言われた幸樹は、それ以上、追求出来なくなった。
なぜなら、追求すれば、愛する早苗と離婚する事態になると気付いたからだ。
離婚を恐れた幸樹は、妻に再考を求めた。
すると、早苗は切り捨てるように言った。
「決めたことよ、二度と同じことを言ったら、貴方との関係はお仕舞いよ」
他者より早い昇進に、自信過剰になった早苗は、社長の席が間近に見えているのか、聞き入れず、幸樹の言葉を聞こうともせず、平然と自分の部屋へ行った。
追い掛ける勇気も失せた幸樹は、早苗の後姿をみながら、離婚を言い出せない自分を情けなく思った。