初心者がバイクに乗り始めただけ
免許だけ取って全く乗れてなかったな。
1
燃料コックをONにして、ピカピカのSHOEIのヘルメットをシールドを開けたまま被る。ヘルメットにSENAを取り付け、Bluetoothでスマホと繋げ、教官役の先輩が持つSENAとインターコムペアリングをする。センタースタンドの立った車体に跨る。オーナーから借りている手袋をはめる。キーを回して電源を入れる。クラッチを握りながらエンジンスタートボタンを押し、背中を押すように軽くアクセルを捻る。エンジンがかかる。ニュートラルに入っていることを確認する。エンジンの回転数は1800くらい。
「どう、行けそう?」
ヘルメットに取り付けたスピーカーから声がノイズ交じりの声が響く。
「行けまーす」
車体を前後に大きく揺らしてスタンドを上げ、クラッチを握りチェンジペダルを押し下げ1速に入れ半クラを作り駐車場からゆっくり道路近くまで移動する。
「今日は先生のとこまで行ってみようか」
「はーい」
脇を抜けていく青いスズキのGSX-R125に追従する赤いヤマハYBR125。
クラッチを握りチェンジペダルを押し上げ2速へ。細く薄暗いカーブを抜け、国道へ合流する下り坂を駆け抜け
「先輩!すみません紐付け忘れた!」
「またかあ~そこ停めるよ」
方向指示器を左に、クラッチを握りチェンジペダルを押し下げ1速へ、ブレーキを握りハンドルを切って路肩へ停める。クラッチを握りチェンジペダルを半分押し上げてニュートラルへ。フットペダルを踏みリアブレーキをかけたままヘルメットの顎紐を締める。
「行けます~」
「じゃあ行くよ」
方向指示器を右に。クラッチを握りチェンジペダルを押し下げ1速へ入れ半クラを作り停止線に軽く足をつけつつアクセルを捻り右折、国道へ。
観光地であるこの村だが、他の観光地と同じくコロナの影響で観光客はほとんどいないうえ、車の通りも少ない。免許を取得して3か月経って漸くバイクにまたがることができたが、超が付く初心者なので、バイトのため村へ来ている隣の大学の先輩にバイクの教習をお願いしている。勿論オーナーの許可はもらっている。大学もいつ授業が再開するか分からず、自粛期間の最中で何もやることが無い状況だった。バイク練習にはこれ以上ないほど最適な環境だ。
クラッチを握りチェンジペダルを押し上げ2速へ。時速40キロまでひっぱって3速へ。アクセルを捻りスピードが乗ったら4速へ。左手でヘルメットのシールドを叩き落すように閉める。前方の交差点の信号が赤に変わろうとしていたので、ギアを落としてエンジンブレーキを効かせながらリアブレーキを少しずつかける。完全に停止する前に1速へ。ニュートラルへ入れて信号が変わるまで両手をぶらつかせながらぼへー、と景色を眺める。桃や桜が満開になりつつある。冬の気配はすっかり春の陽気に溶けて消えた。心地いい晴天だ。前にも後ろにも車はいない。そっぽを向いている信号機が黄色になった。クラッチを握りチェンジペダルを押し下げて1速へ。目の前の信号機が青に変わる。半クラを作りアクセルを徐々に開ける。2速へ。時速40キロまで粘る。3速へ。エンジンの回転数は7千から8千に。4速へ。回転数がほっとしたように下がる。アクセルを回す。カーブ直前で軽くブレーキを効かせて車体を倒しつつアクセルを開けていく。
「スピード出すと気持ちいいよね」
目の前を走る青のジスペケが加速する。
「そうですね~」
カーブを抜けた赤のYBRが続いて加速する。
「漕がなくてもずっとトップスピードが出る自転車」程度にしか考えていなかったバイクとこんなに会話ができるとは思わなかった。
そういえば、オーナーのブラックバードにタンデムでツーリングに連れて行ってもらった時は楽しかった。もう一か月も前か。というかどうして後ろに初心者乗せてあのスピードで山道を走れるんだおかしいだろかっけえ。私も大型乗れるようになりたい。しかしその前にSRだ。自力であのキックスタートのエンジンをかけられるようにならねば。Apeくらい軽かったらいいのに。
まあ、400㏄のバイクに乗る前にこの125㏄のYBRを乗りこなせるようにならねばいけないのだが。
YBR125。中国ヤマハのネイキッドモデルのバイクだ。とりあえずこれで練習しろ、とオーナーに中古を8万で譲ってもらった。初めはSRに乗れるようになるまでのつなぎとしか考えていなかったが、運転のしやすさから愛着が湧いてきた。そしてなにより昼寝がしやすいのだ。シートは厚くて大きく、タンクのカーブが背中にちょうどフィットする。暖かい春の陽気に心地よい風、かすかに聞こえるサバゲーフィールドのアナウンス、カワサキのKLXをタイラップで魔改造する隣の大学のゴリラOBの先輩、旅館の高圧洗浄機を引っ張り出してジスペケを洗車する先輩、国道でパレードをする旧車會、あまり広くない駐車場で軽トラをガタガタ言わせながら華麗なドリフトをキメるおじいちゃん先生。
平和だなぁ……
静かなエンジン音を響かせながら新緑と、まだ蕾の多い桜に迎えられて国道を駆け抜ける。3月も後半に差し掛かっている。満開の桜ももうすぐだろう。
マンホールや段差はなるべく避けて、カーブのライン取りは目の前のジスペケを参考に。下りはエンジンブレーキを効かせながら、そして角度の急な上りはギアを落として。
隣の県との県境へ向かう坂道で、ふと反対車線に視線を向けると警察がネズミ捕りの網を張っていた。
「うわぁポリちゃん」
「あ~この辺よくやってるんだよね」
「そうなんですか」
確かに、この道の下りはスピードが出やすそうだ。
反対車線から、気持ちのいいエンジン音を響かせたスズキのハヤブサが豪快に軽トラを追い越しながら走り去って行った。
「逝ったな」
ミラー越しにブレーキランプが光った。
「かわいそうに」
どうして何も悪い事はしていないのにパトカーや警察を見ると緊張してしまうのだろう。
人間の本質は悪である、と以前誰かが言っていた。
人が人を裁くのはおこがましいと薄っすら思っていた私には腑に落ちる言葉だった。
坂の傾斜が少し急になる。
ギアを下げるため、クラッチを握りチェンジペダルを
「あれ」
クラッチを握ろうとした左手が宙を漕ぐ。
クラッチが無い?そんな訳
ちら、とハンドル下を覗き込む。
首を吊ったように力なくたらりと揺れているレバーがあった。
これは。
まさか。
「待って待って待って待って」
折れてる。
「どうした?」
本気か?
「クラッチ折れた!」
「えええええ」
此方のセリフだ。
「そこの路肩に停めるよ」
停まれる?と聞かれても停めるしかないだろう。
方向指示器を左にリアブレーキで減速させつつ路肩に入りフロントブレーキも効かせる。
エンスト。
サイドスタンドを出し、ブレーキを握りながらバイクから降りる。そのままサイドスタンドを戻してセンタースタンドを足で踏みながら車体を後ろへ押し上げ、バイクを立たせる。
シールドを開け、顎紐を外し、ヘルメットを外す。
鬱蒼と茂る路肩奥の森から小川の流れる音がした。
「いやー、クラッチって折れるもんなんですね」
オーナーの下でバイトしているゴリラ先輩が運転する軽トラの助手席で揺られながら、力なく乾いた笑いを漏らした。
「よくあるって言いたいとこだけど俺も初めてだわあんなん。いきなり折れたんだろ?おっポリだ」
中指を立てるんじゃない。
「直前の信号までは確かにクラッチ付いてたんですけどねぇ」
びっくりしましたよ、とぼやきながらミラーから荷台を覗く。
縄で固定されたYBRが物悲しく小刻みに揺れている。
漸くYBRで先生のアジトへ行けると思ったのにお預けを食らってしまったが、すぐに助けに来てくれる人がいて助かった。もし私が一人でバイクに乗り始めてこんな事になっていたら途方に暮れていたところだ。バイクの免許を取らないか、と友人がオーナーに誘われていた時に私も便乗してよかった。その友人はまだ教習所を卒業できていないが。
はやく一緒に走れるようになりたい。
軽トラの前を走る青のジスペケが加速した。
「おっ、あいつ行ったな」
楽しそうにアクセルを踏み込むゴリラ先輩。
とりあえずこの人達に着いていけるようにならねば。ツーリングで置いてけぼりは泣く。
2
ツーリングに行くから君も来ないか、とオーナーから連絡が来たのは3月の頭だった。
この頃、コロナウイルスの流行に関して世間はまだ懐疑的で、長い春休みのだらだらとした不摂生な生活が祟って高熱を出して寝込んでいた私も「流石にコロナじゃないだろう」と高をくくっていた。コロナの検査は行わなかったので、医者の先生の「ただのひどい風邪」という言葉を信じるしかなかったのだが。
『行っても大丈夫ですか?私の知り合いは居ないと思うのですが……』
『君の大学の先輩も来るよ、誰かのタンデムで君も来たら?』
『じゃあ行ってみてもいいですか?』
『手配します』
よ、ろ、し、く、お、ね、が、い、し、ま、す。送信。
スマートフォンの通知を切り、枕元に放り投げる。
動かないのなら食事も最小限でいいだろう、外に出る必要も無いなら引きこもっていればいいだろう、と一人でいるとどんどん人間の生活から遠ざかってしまうのは私の悪い癖だ。
大通りに面している北向きのコンテナじみた六畳一間に日光が入ることは無い。
微かに部屋を照らす常夜灯を頼りに、友人から差し入れてもらったゼリーを探し出す。
最後に日の光を浴びたのはいつだっただろう。
洗い物の溜まった台所で少しずつゼリーを口に運び、妙な異物感と倦怠感を飲み込む。
窓の外では居酒屋帰りの酔っ払いの歌い声と、賑やかなバイクの雄たけび、救急車のサイレンが通り過ぎていった。
電子製品が静かな唸りをあげている。
無造作に積み上げられた衣類が死体のようだ。
緩慢な動作で差し込んだ体温計に熱が流れ込む。
おもしろいように大きくなる液晶の数値を、いまいち焦点の合わない視界で凝視していると当然のように37度を通過した。38度、39度。
「39度8分……」
先ずは体調を回復させなければ。
3
SENAはたまにペアリングが途切れる事がある。
その場合はジョグダイヤルボタンという一番大きなボタンを押して繋げ直す必要があるが、バイクに乗り始めたばかりの頃はそんな事知らなかったし、運転中に片手を離す余裕も無かった。
勿論今ならペアリングが途切れたところでペッペと繋げ直すだけの事なのだが。
さて、初心者のライダーが初めて夜の峠道に挑むとする。
教官役の先輩二人に前後をバイクで挟んで走ってもらい、SENAも繋げている。万全なサポート体制だ。有難すぎて涙がちょちょぎれる。
しかし、もし峠道に差し掛かる直前でなぜか急にSENAのペアリングが切れていたら。
もし、その時前を走る先輩が「ちょっと飛ばすけど無理に着いてこなくていいからね」と話していたら。
もし、YBRのロービームが笑える程暗かったら。
そして、もしこの超初心者がハイビームの切り替えボタンを知らなかったら。
閉ざされたヘルメットの中で細く息を吐く。
3m先まで照らされた道と1コーナー先に光るジスペケのテールランプを頼りに、暗闇に閉ざされた峠を駆ける。
なんか速いと思ったんだ。
さっきまで喋り続けていた先輩たちが急に黙るから何かあったのかと声をかけても反応が無い。と、途端に前を走るジスペケに引き離された。
初めて通る道だ。見失ったら迷うかもしれない。
もしかして、これくらい着いてこられるだろうと挑発でもされているのか?この先輩達ならやりかねない。
売られた喧嘩は買う主義だ。
ぐっ、と足に力が入る。
アクセルを開ける。
目をかっぴらけ。
コースアウトは死を意味する、こんな所で散るわけにはいかない。
暗闇の濁流に逆らって、ヤケクソ気味に3速のエンブレを使いカーブに突入する。
車体を倒しつつアクセルを効かせて地面を掴む。
タイヤ交換して良かった。
50m先を爪先ほどの赤い光が、右へ、左へ、見えては隠れ、隠れては顔を出す。
これ以上引き離されてなるものかと、偶にすれ違う対向車にビビり散らしながら右へ、左へ、ジスペケのケツに喰らいつく。
路肩から手を伸ばす草を振り切る。
ふらふら漂う蛾を追い越す。
ジェットコースターは大好きだが、あれはコースアウトすることが無いから楽しめるのだ。こんな気を抜いたら終わりのデッドゲームは本当に怖いだけなのに。
どうしてこんなに楽しいのだろう。
口元が歪に弧を描く。
自分の命の責任が全て自分の一挙一動にかかっている。
景色の存在しない夜闇は速さの感覚も無くしてくれる。
体のすべての感覚が、マシンの声に集中している。
いつまでも続いてほしい白昼夢のような感覚は、月明かりの降る開けた田んぼと蛍の群れのような桜並木の出現で幕を閉じた。
桜と電灯の照らす長い直線道路の直前の路肩に、青のジスペケ、赤のYBR、黄色のKLXが並ぶ。
いつもなら少し肌寒く感じる夜風が短く切りそろえたツーブロックの髪を撫で、ばくばくうるさい心臓をなだめる。
もう4月だ。道路に沿って並ぶ桜はほぼ満開で、私の地元の観光名所「桜淵」を彷彿とさせる。
雲の切れ間からは星が瞬き、朧月が淡く桜と共鳴する。
遠くの民家からは明かりが漏れ、時折通る車が一瞬私たちを照らし、すぐに遠ざかる。
僅かな湿気を含んだ植物と夜のにおい。
SENAを再接続させながら、「あのめちゃくちゃ怖かったんですけど」と抗議の声をあげると、
「いや~返事がないからこれ聞こえてないなって思ったんだけどね」
後ろにゴリラがいるからいいかな、って。と軽快に先輩が笑った。
いいかな、じゃない。
「でもまさかあれに付いてくとは思わんかった。お前乗り始めて3週間だろ?」
ゴリラ先輩にそう言われると悪い気はしない。
「死ぬ気で頑張りましたよ」
しかしオーナーには到底及ばないのだ。経験値が違いすぎるので当たり前と言えば当たり前なのだが。
悔しいじゃないか。
久しぶりに夢を見た。
最近は毎日のようにバイクの練習に走り回っていて、疲れて夢も見ないほど深く、気絶しているように眠っていたのだが。
ヘルメット、オーナーから借りたライダージャケットと手袋、必要最小限の荷物。
滅多につけないコンタクトをつけ、数か月ぶりに日焼け止めを塗って。
スマホに通知が表示される。
すぐ行きます、と返信を入れる。
赤のアイシャドウにガッツリアイライン、青のマスカラ、リップは濃いアンティークベルベット。荷物を引っ掴み、新品の赤いライダーブーツに足を通し、外へ。
初めてのツーリング。一週間前のひどい風邪が嘘のようだ。
天気は快晴。朝晩はまだ肌寒いものの、今の気温は春物のライダージャケットを着てちょうど過ごしやすく、風も強くない。
車の行きかう通りの路肩で、ブラックバードに跨るオーナーが手を振った。
規則正しいアイドリングのリズム。左手で運転者のベルトを、右手でテールランプ付近の出っ張りを握る。オーナーがアクセルに手をかけた。
腹の底から響くエンジン音が重さを置き去りに駆けだす。
慌てて腹と腕と内腿に力を込める。非力な私がどんなに全力でオーナーの尻をニーグリップをしたところで彼は何ともないだろう。多分。
市街地を抜け、山へ。
落ちないか緊張で固くなっていた体もだんだん落ち着いてくる。
小さい頃、偶に父が趣味のオープンカーでドライブに連れて行ってくれた。
地面と近いいつもと違う道路が流れていくのが楽しかった。
見上げるとどこまでも広がる青空や、ちらちらと光の垂れ幕をたらす並木を追い越すのが好きだった、
なんとなく家ではあまり話さない父との会話は、ほとんどドライブしながら、だった気がする。
自転車の補助輪を初めて取った時、父が練習に付き合ってくれたが私はすんなり乗りこなせてしまった事がある。
自転車も好きだ。急な下り坂をノーブレーキで駆け抜けるのはわくわくする。
なるほど、私は乗り物が好きなのかもしれない。こう言うとまるで幼稚園児のようだが。
気が付いたら暴走族のような大群になっていた。
何台いるのだろう、どこからどこまでが仲間なのか分からないが、とにかく様々なバイクが一斉に走っている。
ここで走っている全員が、バイクで一緒に走る為だけにこうして集まっていて、きっとこのツーリングに参加しなかったら私は絶対に会うことは無かった人もいるだろう。そんな人たちと、今一緒に走っている。
なんだかとてつもなくすごいものの渦の中に巻き込まれているようだ。
地面と、機械と、自分と、タイヤと、風と、同じ道を走るものたちと、エンジンが、濁流のような清流のように流れる。それを感じることができる。
逆らって、突き抜けて、風をまとって突き破る。それが心地いい。
仲間に入れてほしいと思った。
まだ1か月も経っていないけれど懐かしい、そんな夢を見た。
4
タンデム練習の為に、友人を一人村へ呼んだ。
桜はすっかり若葉に衣替えを終え、天気のいい日は汗ばむような夏日になる。コンビニに冷やし中華が並ぶようになってからはそれしか食べていないような気がする。
アパートに停めてある街乗り用のスクーターに乗り、村のいつもの駐車場へ向かう。
友人はバスで向かうそうだ。
あまり路面が良くない川沿いの道を抜け、国道に合流する。
私の乗っているフルカスタム済みのスクーター、スズキのADDRESS V125。ぱっと見は何の変哲もない白いスクーターだが、ちょろちょろとすばしっこくてかわいい奴だ。
とにかく加速が早く、アクセルを捻った時の加速のレスポンスも早い。一気にアクセルを開けると秒でトップスピードが出る。上り坂だろうが加速する。車体が軽く、タイヤが小さい分、道路の凹凸による振動がもろに尻に来るが、小回りが効くので乗りやすい。街乗り最強と言っても過言ではない。
信号待ちの車の脇をすり抜けて先頭へ。
ただ、アドレスの車幅を把握していないので、どれほどの隙間なら通れるのかいまいち分かっていない。乗っているうちに分かるものなのだろうか。
停止。羽織った春物のライダージャケットとフルフェイスのヘルメットにじわじわと熱がこもっていく。
走っている時は涼しいのに。
半キャップのヘルメットにしない理由は、走行中はコンタクトをしている目がめちゃくちゃ乾くからと虫が顔に激突してくるからだ。これを「虫バン」という。
この虫が増え始める時期は、いつでも虫バンの被害に遭ったヘルメットのシールドを綺麗にできるようウエットティッシュが必需品になる。
信号が青に変わる。
安全確認、アクセル。
こもった熱が流れ落ち、新緑のざわめきをかき消すエンジン音が木陰と日向のコントレストに彩られたアスファルトを駆け抜ける。
リアブレーキを効かせながら徐々にアクセルを開け、ドリフト気味にカーブを曲がる。
アパートから村の駐車場、駐車場から先生のアジトまでの道は一番よく通るコースだ。しかし道路に愛着が湧くようになるとは。
「久しぶり!」
駐車場最寄りのバス停で友人と合流する。
本来ならもう授業が始まっていて毎日顔を合わせていたはずなのに不思議な気分だ。
「おう、久しぶり」
数分バス停で待っていただけなのに頭が発火しそうなほど暑い。
日向から逃げるように、二人で木陰を選んで駐車場へ続く坂道を上った。
恋人を後ろに乗せてどこか遠くへ遊びに行くためにタンデム練習がしたい、と思っていたらちょうど暇そうにしていた彼女を捕まえることができた。ついでにこいつもバイク乗り始めて一緒に遊んでくれないかな、と思ったりもしている。
獣道のような裏道を上り終えると、桜やカエデ、倉庫に囲まれた駐車場に出た。
道路に面した出入り口付近の小屋の横には、青のジスペケと黄色のKLXが停まっている。人影はない、みんな仕事中のようだ。
「ねえ、普通免許は持ってるんだよね」
友人に問いかけつつ、視線は倉庫に停まっている白いホンダのapeへ。
「え?おん、持ってるけど」
なに、と視線で問われる。
「こちらに50㏄のapeちゃんがいるんですけど~」
バイク体験、しません?と悪戯っぽく聞いてみると友人は渋りながら了承した。
やったぜ。
先日再開した、満員御礼のサバゲーフィールド。の本部横にあるアイスの自販機に、貨幣を一枚一枚投入していく。
私はサイダー、友人はグレープのアイス。
包装紙を自販機横のゴミ箱に放り込み、ゲームを眺めながら並んでアイスを齧る。
オーナーが経営するこのサバゲーフィールドはコロナの影響で暫く閉めていたそうだが、再開したと同時に多くのプレイヤーがどっと押し寄せている。みんな長い自粛期間身体を動かしたくて仕方なかったのだろう。
緑のネットで囲まれた、伸び放題の草や車やバリケードや櫓がそびえる三段構造のフィールド。
迷彩や黒や緑の装備に身を包んだプレイヤーが思い思いのガンを手に、打って、声を上げて、進んで、打たれて。
どこか軽い発砲音と共に羽虫のように0.2㎜のバイオBB弾が飛び交う。
『ゲーム終了ゲーム終了』
本部の司令塔からアナウンスが流れると、草やバリケードの影に隠れていたプレイヤーがやれやれといった具合にわらわらと出てくる。
「いいなぁ楽しそう」
大学のサバゲーサークルはコロナのせいで活動を休止している。
最近ガスガンも新調したのに。
グレープアイスを平らげた友人が、私の独り言におん、と気のない返事をした。
「それにしても、意外と乗れるもんだねえ。ミッション車乗ったことないんでしょ?」
「いや、でもね、めっちゃ怖い。多分バイク無理だわあたし」
友人のバイク教習を終えたところ時間がちょうどおやつの時間だったので、おやつのアイスを食べに駐車場からまた獣道のような坂を上ってやって来たのだ。
先程の練習で彼女は、半クラでの発進と停止、坂道発進、2速を使っての走行まで進めることができ、クラッチが何か分からないところからこの短時間でよくここまで進んだと感心してしまう。
豪快に笑いながら大型バイクを乗りこなす姿を妄想しては似合いすぎて笑いそうになってしまうのだが、彼女曰く「速いものは怖いので無理」とのことだ。残念。
しかし来たからには私のタンデム練習に付き合ってもらおう。
食べ終えたアイスのゴミをゴミ箱に没シュート。
『赤黄対抗、十分間フラッグ線……』
本部からのアナウンスが入る。
顔なじみのフィールドの女将さんに手を振って、駐車場への道を駆け下りた。
先ずはアドレス、次にYBRでタンデム練習だ。
駐車場は一部砂利になっており、滑りやすいので注意が必要だ。
後ろに友人を乗せ、半キャップを被る。目が乾くので気休めのサングラスをかける。
「じゃあ行くよ」
サイドスタンドを上げ、エンジンをかける。
アクセル。
いつもより引っ張られるようにアドレスが動き出した。
車体が軽い分、人が増えると重心が上に行くようでいつもよりカーブが曲がりにくい。
駐車場はサバゲーのお客さん達の車でほぼ埋まっている。絶対に傷つけないように気をつけながら、駐車場を二周、三週する。
何周目かには多少コツを掴むことができてきた。
さらに何周目かには軽いドリフトを入れてみる。
様子を確かめるように遊びながら、ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。
ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。
ここで私は失念していたのだが、私には偶に調子に乗ってやらかすことがある。
大きな事故ではないが、誰もが「あちゃー……」と言いたくなるような事をやってしまうのだ。
まだバイクの教習所に通っていた頃、教習所内でカーブを曲がり切れずに衝突事故を起こしたことがある。
カーブに入る直前でギアがニュートラルに入っていることに気づいて慌ててなぜか2速に入れてしまい加速に驚いてアクセルを開けてしまいそのまま衝突……といった具合で教習車一台を廃車にして伝説になってしまったのだ。
さて、ここに暑さで若干頭のやられた馬鹿がえげつない加速速度を誇るアドレスに乗ってしまっている。
タンデムで急発進したらどうなるのかな、やっぱりちょっと重く感じるのかな、とふと気になったので、やってみることにした。
停止、からのアクセル———
浮遊感
青い空、白い雲
いい天気だなあ。
倉庫でなにやらごそごそしていたオーナーが大慌てで走ってきた。
立ちごけは何度かやったが、ウィリーして横転は初めてだ。
「大丈夫?!」
私はいい、慣れている。
それより彼女は。
いてて、と腰をさすりながら自力で立ち上がることができていた。
しかし事故直後は痛覚が麻痺して痛みに気づかないことがある。
救急車は呼ばなくていいと言う友人は、オーナーの車で家まで送ってもらうことになった。
やってしまった。
最低だ。
調子に乗って自分一人が怪我をするなら自業自得で済む。
しかし他人を巻き込んでは駄目だ。
私が彼女を誘って私が彼女に怪我をさせてしまった。
お前それでも成人か?
どんなに友人が頑丈だろうとやっていいことと悪いことがある。
「本当にごめん」
大丈夫大丈夫、と軽く言うけど、痛いよな。
本当にごめん。
尻が削れ、ナンバープレートは折れ曲がり、ミラーが折れたアドレスが、まだ熱いマフラーを上に横たわっていた。
5
一人が好きだ。どこまでも潜っていけそうで。
暗い場所が好きだ。明るすぎると疲れる。
狭い場所が好きだ。自分だけで世界が完結するから。
静かな場所が好きだ。静寂の中のかすかな息遣いに耳を澄ませたい。
透明人間になりたいと思っていた。誰にも認識されたくない。
自然は好きだ、でも植物は苦手だ。私が触ると枯れるから。
ペットもきっと飼えない。何年も世話をした金魚が死んだとき、何とも思わなかったから。
物語が好きだ。私が何も干渉しなくとも、登場人物だけで話を進めてくれて、私は完全な傍観者になれるから。
北側の大通りに面したコンテナじみた六畳一間は、今日も日付と時間に置いて行かれてただ佇んでいる。
救急車が遠くから近づいて、大きくなって、遠ざかっていく。
あれからアドレスは修理に出された。修理自体はすぐに済むが、部品の取り寄せに時間がかかるそうだ。暫くは戻って来ない。
村へはバスでも向かうことができるが、せっかくスクーターを買ったのに、なんだか癪だから行っていない。
先輩たちに揶揄われるんだろうなぁ。
自分が起こしたミスだ。甘んじて受け入れようと思う。
友人はその後も特に目立った怪我や痛みもなく、今ではそれを友達にべらべら喋っているようだ。逞しい。
カーテンは閉め切られ、物が散乱した室内を常夜灯が照らす。
パソコンから動画配信サービスのサイトを立ち上げ、映画好きの友人からおすすめされた映画を観ながらパックに入ったゼリーを吸い上げる。今日のごはん終了。
何日もずっとパソコンやスマホの画面を見続けると、肩から首、背中、腰、頭、と全身に痛みが広がっていく。そしてそれは寝ても覚めても身体のどこかに居座り続けるのだ。
誰かが、バイクが一台通り過ぎた。
耳の奥の脳みそを突き上げるような、音が。
名残惜しそうに残された空間をくるらせた。
あー、
「バイク乗りてえな」
6
ヘルメット、中古のライダージャケットと手袋、必要最小限の荷物。
漸く慣れたコンタクトをつけ、数日ぶりに日焼け止めを塗って。
スマホの時刻表を確認する。
まだ余裕がありそうだ。
赤のアイシャドウにガッツリアイライン、青のマスカラ、リップは濃いアンティークベルベット。荷物を引っ掴み、随分柔らかくなった赤いライダーブーツに足を通し、外へ。
最寄りのバスに乗って村へ向かうには30分程かかる。アドレスだったら半分の時間で済むのに、と思うが仕方がない。
バス停でバスを待ちつつ、マスクとサングラスをかける。不審者じみているが、感染予防の為だ、仕方がない。ちなみにサングラスは眩しいからという理由半分、趣味半分だ。
予定の時間から1分遅れでバスが来た。
交通系ICカードを片手に、バスに乗り込む。
「いやあ、来ちゃった」
バス停から坂を上り、さらに獣道のような裏道を上り、駐車場へ。
サバゲーフィールドは定休日らしく、アナウンスは聞こえない。
青い空と山に囲まれた村の遠くで鳴く鳥の声。
道路に面した出入り口付近の小屋の横には、青のジスペケと黄色のKLXが停まっている。
旅館から高圧洗浄機を拝借して洗車をしようとしていた先輩を見つけた。
「こんにちは!」
「こんにちは、お疲れ~」
そういえばこの人達はバイトに来ているのだっけ。
KLXの陰に隠れて見えなかったが、ゴリラ先輩もいた。チェーンの掃除をしている。
「お疲れ様です~」
「おう、お疲れ~」
さて、久しぶりのYBRちゃんにも挨拶しないと。
工業用品やよく分からない機械が雑多に置かれた倉庫。側面にはツタが蔓延っており、植物の浸食から人工物を守ろうとしているようだ。
倉庫に並ぶバイク達の一番手前に赤いYBRが佇んでいた。
乗り始めたばかりの頃から罅が入っていた合皮のシートはもうすっかりびりびりに破れてしまっている。注文した替えのシートが届いていないか確認がてら先生の所へ行ってみよう。
ヘルメットを被り、燃料コックをONにして、センタースタンドの立った車体に跨る。
駐車場に点在する桜の木はすっかり青々とした新しい衣装を身に纏っている。
梅雨の存在を忘れたようなすっきりとした快晴に、湿気を含んでゆるやかな風が舞う。
倉庫の影によって引かれた日向との境界線がゆるりと誘う。
ここで昼寝するのもいいけれど、バイクなんだもの、走らないと。
スタンドを戻しながら寝ぼけた相棒を揺り起こす。
エンジンがかかったので、1速へ。
行こうか。
アクセルをくれてやると彼女は力強く地面を掴んで、動き出した。
読んでくれてありがとう。バイクって楽しいよね。次はヤマハのSRに乗りたいな。