5・新たな一歩⑴
――思えば、彼と顔を合わせるのは彼が朝帰りをしたあの日以来だ(電話では話したけれど)。
しかも、元カレとの再会からの遭遇だもんで、私にしてみれば気まずいことこのうえない。
「今日もバイトだったんですね」
「あ、はい」
なのに、彼はいつもと全く変わらない調子で話しかけてくる。私だけが気まずいのもなんかヘンだ。
「……えっと、原口さんは? 今日はどうしたんですか?」
私は首を傾げてみせる。蒲生先生の件だって、あれだけ「私にも知らせて」って言ったのに。待てど暮らせど連絡をくれなかった。
「あれ? 四時ごろからずっとお電話してましたけど、留守電になってたので……」
「えっ、マジで!? ……わっ、ホントだ」
慌ててスマホを確かめると、『着信五件』の表示が出ている。もちろん全て原口さんのケータイからだった。
そういえば、バイトが終わってからもマナーモードを解除し忘れていた。潤と話し込んでいた時にも、何回かヴーヴー震えていた気がする。
「ゴメンなさい! ずっとマナーモードにしたままだったから、気づかなくて」
これは完全なる私の落ち度だ。だから低姿勢に謝るしかなかった。
「いつもはバイト終わったら、マンションに着くまでの間に解除してるんですけど」
「ということは、今日に限って何かあったから解除できなかったんですか?」
「あ……、えっと……」
原口さん、鋭い! 私は彼に何もかも見透かされている気がして、咄嗟に言い訳が思いつかない。苦し紛れに訊いてみる。
「どうして『何かあった』って思ったんですか? ただうっかり忘れてただけって可能性もあったでしょ?」
「まあ、確かにそうなんですけど。なんか冴えない表情なさってるのでそうじゃないか、と」
「…………」
やっぱり私は、何かあるとすぐ顔に出てしまうらしい。これじゃ何考えてたってすぐバレるっつうの。
「っていうか原口さん、〝浮かない〟の次は〝冴えない〟って! ボキャブラリー乏しすぎでしょ!」
私は彼の語彙力のなさにツッコんだ。
「いいでしょう、別に。僕は編集者であって作家じゃないんですから。――それより、今日先生にご連絡差し上げたのは、色々とご報告したいことがあったからなんです。蒲生先生の件も含めて」
彼は半ギレ状態でつっかかってきた後、連絡をくれた理由を話してくれた。
「先生、今からお宅におジャマしちゃダメですか? 先生に何があったかもお聞きしたいですし」
「えっ!? ……ちょっ、ちょっと待って!」
それはヒジョーにマズい! 潤はこのすぐ近くに住んでいるのだ。
今さっき、「原口さんの朝帰りはたまたまだった」と弁解したばかりなのに、また彼をウチにホイホイ上げてしまったらまた誤解を招きかねない。
「ウチはちょっと……。――あのっ! お時間まだありますよね? だったら、今から私に付き合ってもらえませんか?」
私はふと思い出した。このマンションからすぐのところに、行きつけの喫茶店があることを。――ちなみに近頃人気の〝カフェ〟ではなく、創業三〇年を越える昔ながらの〝喫茶店〟である。
平日の昼間には、サラリーマンやOLさん達がランチを摂る穴場となるお店だけれど、今の時間なら店内も空いているだろう。
「えっ!? あの――」
「私もあなたに話したいことがあるんです。そこの喫茶店で甘いものでも食べながら話しません?」
「は? 甘いもの?」
話がまったく呑み込めない彼の腕をガシッと掴み、私は強引に彼を連行した。
「ね! 行きましょう!」
「は、ハイ!?」
****
――私達が入った喫茶店『デージー』は、六〇歳くらいのマスターとアルバイト店員三人くらいで切り盛りしている小ぢんまりしたお店。私はどちらかというと、大手カフェチェーンよりもこういうお店の方が落ち着いてお茶やスイーツを楽しむことができる。
「いらっしゃいませー! あ、ナミ先生!」
テーブルまでお冷やを持ってきてくれたウェイトレスさんは、実は私のファン。
「こんにちは。今日は連れがいるのよ」
「どうも」
私が原口さんを紹介すると、ウェイトレスさん(名前は確か〝アヤちゃん〟だったと思う)が目をキラキラさせた。
「えっ、ウソっ!? すごいイケメン! わ、ヤバー!」
「アヤちゃん、ちゃんと仕事しないとマスターに叱られるよ」
私が苦笑いしながらたしなめると、彼女は「スミマセン!」と謝ってからウェイトレスの顔に戻った。
「――ご注文は?」
「チョコレートパフェ。――原口さんは?」
「あ……じゃあ、チーズケーキセット。コーヒーで」
アヤちゃんはオーダーを伝票に書き留めると、「かしこまりました」と頭を下げて厨房へと下がっていった。
「――先生も今日は甘いものを食べなきゃやってられない日……だったんですか?」
「……はい?」
まさに数日前、彼自身が〝飲まなきゃやってられない日〟だった原口さんに問われ、私はキョトンとした。
「いや、てっきり辛党なのかと思ってたもんで。甘いものもお好きだったんですね」
「ええ、両方好きなんです。……そんなに意外でした?」
彼があまりにも意外そうに言うので、私は不思議に思った。
「だって、『甘い玉子焼きは好きじゃない』っておっしゃってたんで。甘いもの全般苦手なのかと」
「それは玉子焼きの話でしょ? スイーツはまた別モノですから」
これでもうら若き女子なのだ。こういう可愛いところがあったっていいじゃないか!
「そういう原口さんはもしかして……、チーズ好き?」
ふと思い当たり、今度はこっちから質問返し。原口さんがキョトン顔に。
「どうしてそれを……」
「間違ってたらゴメンなさい。さっきオーダーしたのもチーズケーキだったし、こないだの宅飲みの時もチーズたらを美味しそうにつまんでたから」
「……分かっちゃいました?」
彼は苦笑いしながら、頬をポリポリ掻く。
「いやあ、昔からチーズには目がなくて。スイーツではチーズケーキが断トツです」
彼の目がキラキラ輝いている。普段のS系イヤミーのカレとのギャップに、私はキュンとなった。
……この人、好きなものの話する時にはイイ表情するんだよなあ。こないだ、私の書く小説を「好きだ」って言ってくれた時もこんな顔してたんだろうな……。
……おっと! すっかり彼に見とれて、何の話をしてたのか忘れてしまった。
「――えっと。かなり話が脱線しちゃいましたけど、何の話してたんでしたっけ?」
私は何とか話の軌道修正を試みる。
「ああ、先生が冴えない表情をなさってた理由をお訊きしたかったんです」
「あー……」
その結果、原口さんに遭遇する前の苦い現実に引き戻され、私は呻いた。
でも、彼に心配をかけてしまった以上、打ち明けないわけにもいかない。――私はお冷やで唇と喉を潤すと、やっとこ口を開いた。
「……実はさっき、潤にばったり再会しちゃって。別れたっきりだから二年ぶりに」
「井上さんに? ――でも〝二年ぶり〟っていうのは? 同じ大学だったんじゃ……」
首を傾げる原口さんに、「学部が違ったから、別れたら接点が皆無になったのだ」と説明した。
もちろん、それはウソではないけれど。私の方で極力アイツのことを避けていたせいもある。あんな別れ方をした後で普通に顔を合わせられるほど、私の神経は図太くない。
「ああ、なるほど。分かりました」
でもその説明だけで、彼は納得してくれたみたい。
「しかもアイツ、今ウチのマンションの近くに住んでるらしくて。こないだ原口さんが朝帰りしたところもバッチリ見られちゃってたんです……」
「ええっ!?」
彼は大声で驚いた後、店内にいる他のお客さんからのイタい視線に気づき、「スミマセン」と頭を下げた。
「あっ、大丈夫です。ちゃんと誤解はときましたから」
〝誤解〟なんて自分で言って、胸がチクリと痛む。
別にあんな過去の男に誤解されたって、私は何とも思わない。でも、原口さんはどうだろう?
私が潤に誤解されたくないのは、アイツに未練があるからだって思われていたら……。
「それだけじゃないですよね? 先生が思いつめてる理由」
「え……?」
私は原口さんの勘の鋭さにたじろいだ。
……やっぱり、全部話さないと納得してもらえないか――。私は観念した。
「私がアイツと別れた理由、こないだお話ししましたよね? 『小説かオレか、どっちか選べ』って言われて、私は小説を選んだんだって」
「はい。――あの後、僕は酔い潰れちゃったんで記憶ないですけど。そこまでは覚えてます」
「そうでしたね」
私は思わず笑ってしまった。
「――お待たせしました。チョコレートパフェと、チーズケーキセットです」
ちょっと場の空気が和んだタイミングで、アヤちゃんが私の前にパフェを、原口さんの前にケーキのお皿と湯気の立ったコーヒーカップを置き、最後にカトラリーと伝票を置いていった。
「いただきまーす!」
私は長いスプーンで、トッピングのスライスバナナをホイップクリームごとすくった。
パフェグラスには底からコーンフレーク・コーヒーゼリー・角切りケーキ・バニラアイス・チョコアイス・ホイップ・チョコアイスの順に盛り付けられ、チョコソースがかけられ、ウエハースとスライスバナナ・サクランボがトッピングされている。
「ん~! バナナうま~~♡」
実は私、スイーツの中でもバナナが大好物なのだ。
「あのー、先生? バナナでテンション上がってるところ申し訳ないですけど、まだ話の途中じゃありませんでしたっけ?」
「……あ」
すっかり幸せ気分になっていたところに水を差され、私はまた現実を思い出した。
水を差した張本人の原口さんは、クールにコーヒーをブラックで飲んでいる。チーズケーキにはまだフォークを入れていない。
「――さっきの続きですけど。今日、潤に言われたんです。『あの後、〝もしあの時に別の選択肢を選んでたら〟って考えたことはないか?』って」
「……? はあ」
原口さんは曖昧に相槌を打った。潤が何を思ってそんなことを私に訊いたのか、その意図を計りかねているんだろう。
「もちろん、答えは〝ノー〟です。当時すでに、私の中で心は決まってましたから。絶対に筆を折ることはしない、って。だから、結局はどう転んでも別れるしかなかったんですよね。――でもね」
「はい?」
やっとケーキを食べ始めた原口さんが、ふと顔を上げる。――一方、私はすっかりスプーンが止まってしまっていた。
幸い店内は空調のおかげで涼しさが保たれているので、パフェが溶けてしまう心配はなさそうだけれど。
「私もちょっと身勝手だったのかな、って反省しちゃいました。自分のことで精一杯で、アイツの気持ちなんか考えてる余裕なくて。――せめて、もっとキレイな別れ方ができてたらな……って」
「それって……、まだ彼に未練があるってことですか?」
原口さんの問いに、私は首を横に振った。
「違います。ただ……彼にちょっと申し訳ないなって思ってるだけです。私もオトナ気なかったのかな、って」
恋愛と作家の仕事は、両立できないこともない。まして、私は恋愛小説家である。この仕事に恋愛は切っても切れないものだ。
でも、二年前の私は作家デビューしたばかりで、大学の勉強とバイトと執筆のことでもういっぱいいっぱいで、はっきり言って潤のことにまで構っている余裕なんてなかった。
「それは仕方ないですよ。作家になった人なら誰でも通る道です。だから先生も、そんなに責任を感じる必要は――」
「ヘンな慰めならいりません。余計に惨めになるじゃないですか……!」
彼なりの慰めの言葉を、私は遮った。
SならSらしく、もっと厳しいことを言ったり罵倒してくれた方がよかったのに。中途半端な優しさは、却って傷付く。――ましてや好きな人からの慰めは。
「……すみません」
「いえ。私の方こそゴメンなさい。今のはただの八つ当たりです」
……ダメダメ! 今日の私は本当にどうかしてる。潤とのことは、原口さんとは何の関係もないのに八つ当たりしちゃうなんて。
「先生、とりあえずパフェ食べて気持ちを落ち着けて下さい。……溶けちゃいますよ?」
「はい、……そうですね」
私は素直に頷いた。彼の優しさが、下手な慰めじゃないと分かったから。
「――美味しいなぁ,コレ」
サクランボの甘さで、ささくれ立っていた気持ちが少し解れた気がする。
「スイーツを頬張ってる時の先生って、可愛いですよね。〝女子〟って感じがして」
「……へっ?」
原口さん、今〝可愛い〟って言った!?
「なんかすごく幸せそうな顔して食べてるので、可愛いなって」
「……だって女子ですもん」
思いがけない殺し文句にキュンとなった私は、照れ隠しで素っ気なく返した。
……く~っ! そんな不意討ち反則だよ!
私はどうにか動揺を顔に出さないように、黙々とパフェを食べ進めていった。――そして、ふと頭をよぎる小さな疑問。
この人には,五歳も年下である私がどんなふうに見えているんだろう? と。
あの夜は暗いリビングにいたし、私も湯上がりというシチュエーションだったから、彼が理性を失いかけたのは頷ける。でも、果たして他のシチュエーションだったらどうなんだろう?
「あの……、原口さん。つかぬことお訊きしますけど」
「はい。何でしょうか?」
「あなたから見て、五歳年下の女性ってどんな風に見えますか?」
私はスプーンを止め、彼の顔をじっと見つめながらおずおずと訊ねた。――さすがに目を見ては照れ臭すぎる。
「それって……先生のことですか?」
「ちっ、違いますっ! あくまで広い意味で訊いてるだけですから!」
思いっきり図星をつかれ、私は慌ててごまかした。
ここは、身近にサンプルがいないから、今後の創作活動の参考までに……ということにしておきたいところ。もちろん、それはただの建前だけれど。
「う~ん……、それは人にもよるんじゃないですかね」
「ですよねえ」
すでにチーズケーキを食べ終えていた原口さんは、コーヒーを飲みながら澄ました顔で答えた。
彼の意見はごもっともだ。人は育った環境や周囲の人によって、その人となりも変わる。年齢だけで一概に「こうだ」とは言えないのかもしれない。
「ちなみに私は……、どうですか?」
「なんだ、やっぱりご自身のことなんじゃないですか。そうじゃないかとは思ってましたけど」
「…………」
思わず言葉を失う私。パフェをつっつくのを再開したばかりで、スプーンをくわえたまま固まってしまった。
……さすがはSの原口さん。そう来たか。
「そうですね……。先生は責任感が強いし、自立心も強い。それはこれまで、色んな経験を積んできたからだと思います。それこそ、先生が立派な大人の女性だという何よりの証明だと思いますよ」
「そ……そうですか」
子供扱いされるかもと思っていた私は、それを聞いてまたキュンとなった。
パフェを食べる手も、自然と早くなる。
「好きな人がいらっしゃるんでしたっけ? その人は先生のこと、ちゃんと〝女性〟として見てくれてると思いますか?」
……どうして覚えてるの、それ? あの時はキャラが壊れるほど酔っ払ってたのに。
でも、「それはあなたのことだ」って言うわけにもいかなくて。
「はい、……多分。彼は優しい人だし、私のことをちゃんと見てくれてるから」
「そうなんですね……」
それとなくニュアンスだけで伝えると、彼は納得してくれたみたいで、それ以上の詮索はしないでくれた。
――そういえば私、さっきから自分のことばっかり喋ってるじゃん! そう気づいた私は、気持ちを切り換えるためにお冷やを一口飲み、原口さんに話を振る。
「あっ、そうだ! そろそろ原口さんの方のお話も聞かせて下さい。――蒲生先生との件はどうなったんですか?」
もしさっき着信に気づいていたら、電話で聞かせてもらえていたかもしれないけれど。
「っていうか、昨夜電話くれた時に話してくれたらよかったのに」
「ああ……、そうですね。あの時は重版の報告で頭がいっぱいでしたから」
「…………そうですか」
「それに、ちょっと厄介なことになってて。お電話だけじゃ伝わらないかな、と思ったもんで」
「は?」
作家の担当から外れるのって、もっと簡単なことだと思っていた。
「そんなに大変だったんですか?」
「大変というか……。結果的には、僕は蒲生先生の担当から外してもらえたんですけど。その代わりに、交換条件を出されまして」
「交換条件?」
私は原口さんの話に眉をひそめる。
何だか物騒な言葉が飛び出してきたなあ。無理難題をふっかけられたんじゃないといいけど……。
「はい。僕に、『〈ガーネット〉のレーベルそのものから外れろ』と、蒲生先生が」
「そんな……! 横暴じゃないですか、そんなの!」
自分が言われたことでもないのに、私は大憤慨した。
いくらベテランだからって、いち作家に出版社の人事にまで口を出す権限はない。それも、ただのワガママで。
「島倉さんは何もおっしゃらなかったんですか? 上司なのに」
島倉さんは部下思いの編集長だ。原口さんがパワハラを受けていたのに、その場にいて何も言わなかったとは考えにくいけど。
「一応、僕のことを庇っては下さったんですけど、結局は力及ばなかったみたいで……。『最後まで庇えなくて申し訳ない。でも君は何も悪くないから』とおっしゃってました」
「そうですか……。じゃあ、もう決定なんですね? 原口さんが〈ガーネット〉から異動になるのって」
とどのつまりは島倉さんもただのサラリーマン、しかも作家ファーストの出版業界の人なのだ。作家が下した決定は、そう簡単には覆すことができないんだろう。
「まあ、そうなりますね。ですが、僕は今度の異動を機に、新レーベルを立ち上げることにしたんです。――もちろん、島倉編集長のGOサインも頂いてます」
「新……レーベル?」
原口さんてば、落ち込んでいるどころかすごくポジティブだ。
というか〝新レーベル〟って……、なんかすごい話になってきたぞ?
「そうです。名前は〈パルフェ文庫〉。〈ガーネット〉とは違い、文庫での刊行のみになりますが。若手の先生にメインで活動して頂くレーベルになります」
「はあ……。――ちょっと待って下さい! 〝立ち上げる〟ってことは、原口さんが編集長をやるってことですか!?」
まだ若いのに(とは言っても三〇歳に手が届く年齢だけど)、思いきったことをするもんだ。
「はい。――実は、〈ガーネット〉を離れるにあたって、僕は巻田先生とお仕事できなくなることが一番の心配の種だっんです」
「……えっ?」
どういう意味だろう? ――私はドキドキしながら彼の出方を窺う。
「先生みたいに手のかかる作家さんが、果たして他の編集者の手に負えるかどうかが心配で」
「はあっ!?」
私は眉を跳ね上げた。〝心配〟ってそっちの意味かい!
……やっぱりこの人、Sだ。ドSだ!
「しっ、失礼な! 私がいつあなたの手を煩わせたっていうんですか!?」
私は猛抗議。頼まれた仕事は一度だって断ったことがないし、手書きだから遅筆なのは仕方ないとしても、毎回キチンと入稿だってしているじゃないか!
――ところが。
「じゃあ逆にお訊きしますけど、先生が僕の手を煩わせなかったことなんてありましたっけ?」
「…………あーうー」
胸を張って「ある!」……とは言い切れない。思い当たるフシが多すぎて。
締め切りを延ばしてもらったことは数知れず、催促されれば逆ギレして大ゲンカ。これらの所業の数々を、「手を煩わせた」と言わずして何と言うのか。
「……ゴメンなさい。ないです」
猛省した私はうなだれた。……けれど。
「――というのは冗談で、本当は僕以外の人に先生の原稿を任せたくなくて」
「は?」
……冗談だったんかい。時々私は、この人の思考回路が分からなくなる。
「言ったでしょう? 僕は先生の小説が大好きだって。あんなおいしい役目、他の誰にも取られたくないですから」
「……そうでしたね」
嬉しいけど、どうリアクションしていいのか。――「おいしい」って、「役得」って。彼がそれだけの理由でこんな大きな決断をしたとはどうしても思えなくて。
「――それでですね、新レーベルは八月初旬に創刊予定なんですが。先生にはさっそく創刊第一号の執筆をお願いしたいんです」
「創刊……第一号? って、私でいいんですか!?」
私は彼の依頼の言葉を、すぐには理解できなかった。
新しいレーベルから刊行される第一作目を書く。それは作家にとって、一生に一度あるかないかの大仕事である。
そして、その売れ行きによってレーベルの将来が決まるといっても過言ではないため、任された側は責任重大だ。
そんな大役を、本当に私が……?
「はい、もちろん。先生が一番の適任者だと僕は思ってます」
「そうですか……」
何だかんだ言っても、彼は私を信頼してくれている。それなら、彼のためにぜひとも引き受けなきゃ!
「そのお仕事、私でよければ責任持ってやらせて頂きます!」
「締切は七月半ばですので、あと二ヶ月ちょっとくらいですが。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。――ちなみに、ボリュームでいうと何枚くらい?」
「そうですね……。書いて頂くのはエッセイなので、二五〇枚くらいでしょうか」
エッセイか……。私にとっては初めての挑戦だ。――でも、絶対にやり遂げるんだ!
「そうですか……、分かりました。不安はありますけど、なんとかやってみます」
「ありがとうございます。先生、よろしくお願いしますね」
「はいっ!」
張り切って返事をすると、私はまたパフェに手をつけた。――さすがに、そろそろアイスも溶けかけている。