4・縮まる距離、そして元カレとの再会⑵
「――あっ、ねえ原口さん。ちなみに玉子焼きは甘いのとしょっぱい系、どっちが好きですか?」
そういえば、彼の食べ物の好みだって知らなかったな。この際だから、思い切って訊いてみようっと。
「しょっぱい方ですね。甘いものは好きなんですけど、玉子焼きの甘いのだけは好きじゃなくて」
「えっ、ホントに? 私もなんです! お寿司屋さんでも玉子は頼まないんですよね。甘いから」
すごい、何たる偶然! いや運命!? こりゃテンションも上がるってもんだ。
「今度原口さんがウチでゴハン食べる時は、玉子焼き作りますね!」
別に「またウチに泊まっていって」っていう意味じゃなく、あくまでもお腹をすかせていたら放っておけないから。
「本当ですか? 楽しみにしてます」
すると彼がフニャリと笑った。心からの喜びが現れたその笑顔に、私のハートは鷲掴みにされてしまう。
――「楽しみ」って言われた! なんか急に原口さんの彼女になったみたい!
「そそそそ、そんな! 楽しみにしてもらえるほどのものじゃないですけど。頑張って作りますね」
照れをごまかすため、私はすごい勢いで食べ進める。
「……なんか、こういう朝の風景っていいですよね。〝共働きの新婚家庭〟みたいで」
「はい……」
ほのぼのと言う原口さんに、私も思わず同意する。
いつか、彼の言葉が現実になったらいいんだけどな……。
「――ごちそうさまでした」
気がつくと、原口さんは朝ゴハンをきれいに平らげていた。
「原口さん、ゴハンのお代わりは?」
私はもうお腹いっぱいだけれど,彼は遠慮しているだけなんじゃないかと思い、一応訊ねてみる。
「いえ、もう十分頂きましたから。ありがとうございます」
「そうですよね」
彼の分のゴハンが入っていたのは男モノの大きめのお茶碗だ。二日酔いでそれ一杯分食べたら十分だろう。
私が二人分の食器を流しに運び、手早く洗いものを済ませている間に、原口さんも帰り支度を済ませていた。
「じゃあ、僕はそろそろ失礼します」
カバンを手に、彼は玄関へ。私も出勤時間までには少し時間があるので、彼を見送ることにした。
「蒲生先生の件は、島倉編集長とよく相談してどうにか解決します。なので先生は心配なさらずに、ご自分のお仕事に集中して下さいね」
「はい、分かりました。――あの、どうなったか、私にも知らせて下さいね」
首を突っ込もうとした以上、私も無関係じゃないのだ。ちゃんと結果を見届けたい。
「もちろんです。どんな形であれ、先生にもご報告しますから。――それじゃ」
玄関のドアがパタンと閉まる。少しだけ新婚気分に浸っていた私は、現実に引き戻された。
時刻はもうじき八時半。そろそろ家を出ないとバイトに遅刻する。
「――よしっ! 行くぞ!」
仕事着の上から薄手のカーディガンを羽織ると、気合いを入れるために両方の頬をパンッと叩いた。
トートバッグを提げ、仕事用の黒いスニーカーを履いて、キチンと戸締りをすると朝の爽やかな空気を吸いこみ、町へと飛び出して行った。
書店へ向かう道すがら、私は考えていた。
私は多分、自分の気持ちをうまく隠せていないから、原口さんにも私の想いはダダ漏れだと思う。
……じゃあ原口さんは?
今のところ、彼が私のことを一人の女として見てくれているかは微妙なところ。
それに、琴音先生との関係だってハッキリしないままだ。
私はこの恋に、望みを持っていてもいいのかな――?
****
――その日から、私はバイト中にクレームを言われる回数が激減した。
お客様にご迷惑をかけてしまうことも少なくなり、清塚店長は私の働きぶりを温かい目で見守って下さるようになった。
秘密のパソコン特訓が、功を奏しているらしい。
「――奈美ちゃん、このごろ仕事が早くなったんじゃない?」
数日後。久しぶりにシフトが一緒になった由佳ちゃんが、バイト帰りに私をそう評価してくれた。
「そうかなぁ? ……いやいや! 私なんかまだまだだよー」
謙遜はしたものの、やっぱり喜びは隠せない。
今日もお客様からご予約のあった商品の確認をお願いされたけれど、私は数日前と違って一人でどうにかやり遂げることができた。
「店長も、奈美ちゃんのこと見直してくれたみたいだし?」
「うん。そうみたい」
「恋の力って偉大だよねえ……」
「…………」
うっとりと言う由佳ちゃんに、私は絶句した。思いっきり図星だったからである。
別に私は原口さんのために頑張っているわけじゃないけど。彼が間接的に私の頑張りの原動力になっていることは間違いないから。
「最新刊も初日に完売だったしねー」
「うん。おかげさまで、早速重版かかったって」
「重版!? スゴいじゃん!」
由佳ちゃんが目をまん丸くした。それ以上に驚いたのが、誰でもないこの私だった。
昨夜、原口さんから電話がかかってきたのだ。
『先生の最新刊、発売から一週間で重版が決まりました!』って。
私は最初、自分の耳を疑った。けれど、彼がそんなウソをつくような人じゃないと知っているから、やっとそれを事実として受け入れることができた。と同時に、天にも昇るほどの喜びを感じたのだった。
「この調子でさ、恋も仕事も頑張るんだよ! ……ああでも、本業の方が忙しくなったらバイトは続けていけるかどうか分かんないよねえ」
「うん……、そうだね」
――そっか。専業作家としてやっていけるようになったら、バイトを続けていく必要もなくなっちゃうんだ……。
原口さんは、私がいずれは専業としてやっていくことを望んでるんだろうか? ――私だっていつかは小説だけで食べていけるようになりたい。でも、それは結婚して家庭を持ってからでいいかな、と思っている。
まだ当分、バイトは辞めたくない。この仕事にやり甲斐を感じているし、何より由佳ちゃんや他の従業員さん達と一緒に働けなくなるのが惜しい。
「大丈夫だよぉ、奈美ちゃん。そんなに暗い顔しないで!」
「……えっ?」
「心配しなくてもあたし、一緒に働けなくなっても奈美ちゃんの親友だし、巻田ナミ先生の大ファンでいるから! ねっ!?」
由佳ちゃんには、私がどんなことで悩んでたのか分かったのかな? 私を元気づけようと、彼女らしい言葉で励ましてくれる。
「……ありがと、由佳ちゃん。――でも私、バイト辞めないよ」
胸がポカポカとあったかくなり、こみ上げそうになった嬉し涙を堪えるように、私はキッパリと宣言した。
「えっ、そうなの? なぁんだ、よかった」
由佳ちゃんがホッと胸を撫で下ろしたように笑顔で言う。……と、次の瞬間。
――ピンポン ♪
「……ん?」
ケータイの短い着信音が鳴った。
メールかな? LINEかな? 私は自分のスマホをチェックしたけど、マナーモードのままなので鳴るわけがなかった。
「……あっ、あたしのスマホだ。ちょっとゴメン!」
由佳ちゃんが立ち止まり、受信したメッセージに返信していた(〝歩きスマホ〟は危ないからね)。
「――ゴメン、奈美ちゃん! メッセージ、彼氏からだった。『今から一緒にゴハン行こう』って」
「えっ!? 由佳ちゃん、彼氏いたの!?」
初耳だった。彼女との友情は二年になるけれど、そんな話は一度もしてくれたことがない。
「うん。まだ付き合って二ヶ月くらいかな。中学校の先生なんだけど、合コンで意気投合したんだ♪」
「ええっ!? いつの間に……」
私が執筆活動にバイトにと勤しんでいる間に、親友がリア充になっていたなんて……!
私は由佳ちゃんに詰め寄る。
「なんで今まで話してくれなかったの? 私達、親友でしょ!?」
「いやぁ、奈美ちゃん、片想いで大変そうだったし。お先にリア充になっちゃって、なんか悪いなあっていうか、言いづらいっていうか……」
「そんなの、気にすることないのに」
由佳ちゃんはよかれと思って遠慮してくれたんだろうけど、こと恋愛に関しては親友間で遠慮は無用である。
私の恋は少しずつ進展すればいいから、別に親友が一足先にリア充になったと知ったところで焦ったりしない。恋はなるようにしかならないんだから。
それに、私は友達に彼氏ができたからっていちいち僻むような心の狭い女じゃない。だから、気にする必要はないのだ。
由佳ちゃんとは何でも話せる仲になりたいと思っているから。
「それにさぁ、ナミ先生は恋愛小説書いてるじゃん? 話した内容、ネタにされるのもイヤだったしさぁ」
「しないよ、そんなこと!」
私はムキになって否定した。――でも、ぶっちゃけて言えば、参考にできるものならしてみたいかも。……なんて思ってしまう作家の性が恨めしい。
「分かった分かった! 冗談だよ冗談っ☆ んじゃ、あたしはここで。奈美ちゃん、またねー」
「うん、お疲れさま」
――私は由佳ちゃんと別れ、帰り道をブラブラ歩いていた。
この道には商店街(〈きよづか書店〉もその中にある)も大型のショッピングモールもある。――食べるものはまだ買わなくていいはずなので、帰るにもちょっと早いし、ウィンドウショッピングでもして帰ろう、と思って町を歩いていたところ――。
「あれ? 奈美じゃね?」
もうずっと聞いていなかったけれど、記憶には残っているその声に、私は不意に振り返った。
この声、まさか……。
「潤……なの?」
声の主は今年大学を卒業し、社会人になっているらしい(〝らしい〟というのは、学部が違っていたので別れた後は全く接点がなくなったからである)元カレの井上潤だった。
学生時代は茶髪で長かった髪は短くなり、黒っぽく染められて小ザッパリしているし、着ているのも社会人らしいグレーのフレッシャーズスーツだ。
でも、いくら外見が変わっても彼がまとうチャラい雰囲気は二年前と変わっていないから、私にはすぐ分かった。
「あ、やっぱ奈美だ。変わってねーな、お前は」
「……変わってないのはアンタもでしょ」
今の私達は赤の他人なんだから、馴れ馴れしく話しかけないでほしい。――まあ、それに反応する私も私だけど。
「っていうか、なんでアンタがここにいんのよ?」
ここから私の住むマンションは目と鼻の先だ。
学生時代に潤が住んでいたのはこの近くじゃなかったはずだけど……。
「ああ。オレな、大学卒業てから一人暮らし始めてさあ。んで、住むことになった部屋がたまたまお前んちの近くになったんだよ」
「たまたま、ねえ」
本当だろうか? 私がこの町に住んでいることを覚えていたから近くの部屋に決めたとしか思えない。
「就職はできたんだ? 職種は何?」
元カレとはいえ、潤がニートじゃないことには安心したので、とりあえず訊いてみる。とはいえ、職種なんて私の知ったこっちゃないけど。
「営業マンだよ。ちなみに今日この時間にここにいるのは、外回りで直帰だったから」
「ふーん? あっそ」
答えを聞いた途端、私の興味は失せた。
「〝あっそ〟って何だよ。自分から訊いといて素っ気ねえのな。……まあいいや。お前はまだバイト続けてんだ?」
「うん……、そうだけど?」
私はまた素っ気なく返した。
どうせ潤は本を読むのが嫌いだから、ウチの書店に買いにきたことなんかないくせに。雑誌を買うくらいなら、コンビニでこと足りるだろうし。
「せっかく夢叶って作家になっても、収入が安定しねえなんて大変だな。――あ、本屋のバイトも非正規雇用だっけか」
私は色んな意味でムカついた。
一つ目。お父さんと同じようなことを、この男に言われたこと。
二つ目。社会に出たばっかりのヤツに、非正規雇用をバカにされたこと。
三つ目。とどのつまり、この男が私に何を言いたいのか全く分からないこと――。
「まあ、営業の仕事も給料は歩合制だから、あんまり安定してるとは言えねえけどな」
「……それじゃ説得力ないじゃん」
自虐をまじえて肩をすくめる潤に、私は呆れてツッコんだ。
「私は後悔してないよ。確かに今は兼業じゃないと食べていけないけど、自分のやりたいことを仕事にできてるって幸せなことだからさ」
自分の作品の原稿料と印税の収入だけじゃ心許ないからと、原口さんは時々、他の作家さんとの合作やアンソロジーの仕事も私にやらせてくれる。
それでも収入が安定しないことに変わりはないのだけれど……。
「そうなん? まあオレは、お前がそれで満足してるんならいいんだけどさあ」
――潤と話していると、何だか二年前に戻った気がする。それは決してイヤな感覚ではなく、二年前はこのユルい関係が心地よかったりしたのだ。――そう、この男が私に、あんな選択さえ迫らなければ……。
「でもお前、あの後考えたことねえ? 〝もしあの時、別の選択肢を選んでたら〟って」
「え…………」
この台詞でやっと、私は潤の言いたいことが理解できた。
彼はまだ私に未練があり、そして私が小説を選んだことを納得していないのだと。
「……なかった、と思う」
答えてから、考える。もしあの時、小説じゃなく潤の方を選んでいたら……と。
この男は私に小説家を辞めてほしがっていた。――私は果たして、彼の望む通りに志半ばで筆を折ることができただろうか?
答えは「ノー」。だから潤にこう切り返した。
「もしあったとしても、『作家を辞める』っていう選択肢は私には有り得なかった。だって私、書くのが楽しいから。悪いけど、アンタには未練の欠片もないよ」
「あっそ。――そっか、お前もう彼氏いるもんな」
「……はあ?」
私には、コイツの言っている意味が分からない。というか、その発想はどこから出てきたのさ? とツッコみたい。
「えっ、あれ? あの編集者の男とデキてんじゃねえの? 原……何とかっていう」
「原口さんのこと?」
「あー、そうそう! そいつ! やっぱそうなんだ?」
……しまった! 誘導尋問だったのか!
引っかかってしまった自覚はあり、ハッとして慌ててしまう。
「ななな……っ、なんで!? 違うよ! っていうかなんでそう思ったのよ!?」
「や、だって何日か前の朝に、その男がお前のマンションから出てきたとこ見ちまったからさ。オレはてっきり、お前とアイツができてるもんだと思って」
「あ……」
よりにもよって、決定的な瞬間を見られていたなんて!
朝の八時半は、常識で考えて他人の住居を訪問する時間ではない。もちろん原口さんだって、そんな早い時間に訪ねてきたことがない。――だから、〝朝帰り〟だと思われてもそれは仕方ない。
実際には、ちょっと意味合いが違うのだけれど……。
「あのね、潤。私、あの人とはまだ付き合ってないんだ。あの日彼が朝帰りしたのは、前の晩に酔い潰れちゃってウチに泊まっていったからってだけなの。……でも私は――」
「アイツのこと好きなのか?」
私の弁解を遮り、潤が真剣な声で訊ねてきた。私は思わずたじろぐ。
「えっ? う、うん。――でもまだ片想いなの」
……元カレに何のカミングアウトをしてるんだ、私は!?
「片想い? ……そっか。あのさ、もし告ってダメだった場合、オレとやり直すっていうのは……ムリかなあ?」
「……え?」
潤の言葉は優しくて、どう考えても大真面目だった。でも――。
「ゴメンね潤、ムリだわ」
私は過去の恋に甘んじるわけにはいかないのだ。一〇〇パーセント失恋するとは限らない以上、前向きに頑張らなければ。
「潤のことはもう恨んでないよ。でも、私にとってアンタとの恋愛はもう過去だから。もう終わってるから。だからゴメン」
私は顔を上げられず、ずっと俯いていた。
二年前、私達が別れたのは私の方にも原因があったんじゃないかと、ふと思ったのだ。
私は小説にかまけて潤のことを二の次にして、それで彼に淋しい想いをさせていたんじゃないか、と。
私だってもちろん、潤と別れたこと自体は悔やんでいない。――ただ、もっとキレイな別れ方をしていたら……と思うと、胸がチクチク痛むだけ。これは決して未練なんかじゃない。
「奈美、……なんでお前が謝んの?」
潤にしてみれば、私に罵倒されることでキレイさっぱり未練を絶ち切りたかったんだろう。なのに謝られたから、困惑しているという感じ。
「とにかく顔上げろ? な?」
元カレとはいえ、いつまでも相手を困らせ続けるほど私は悪趣味じゃない。
顔を上げた私は、潤にこう言った。
「私達、別れるにしてももっとキレイな終わり方すればよかったね」
「えっ?」
「アンタも私も、あの頃はまだ子供で、自分のことでいっぱいいっぱいだった。もっとお互いを思いやることができてたら、あんな別れ方しなかったんじゃないかな、って思ったの」
どのみち、私は別れるしかなかったはずだと思う。でも、もっと後腐れのない別れ方をしていたら、この再会だってもっと違うものになっていたかもしれない。
「なんか……、お前にそんな殊勝なこと言われたら調子狂っちまうな。もっとキャンキャン吠えられると思ってたのに」
キャンキャンって、私は犬か。
「っていうか、オレの方こそ、二年前はゴメン。――オレさ、奈美が羨ましかったんだ。学生の間に自分の夢叶えて、いきいきしてるお前が。だからあんなこと――」
「もういいよ、潤」
嫌いで別れたら、こんな簡単に彼のことを許せただろうか? でも、彼も苦しんでいたかもしれないと思うと、もう許すしかないと思った。
「もうヨリは戻せないけど、友達としてならこれからもよろしく。ちゃんと前向いて、私よりいい女性見つけなよ」
「おう。――奈美、お前も頑張れよ! じゃあな!」
「うん! じゃあね!」
――潤と別れ、私はまた歩き始める。
心の中の蟠りはなくなってスッキリしたけれど、今日ばかりは自分の身勝手さを痛感させられた。
二年前、悪かったのはアイツだけじゃなかったんだ。――私にも悪いところはあったから、結局はお互いさまだったんだ。
ため息をつきながら、マンションの近くまで来ると――。
「巻田先生、お疲れさまです」
「……あ」
そこには原口さんが立っていて、私に気づくと丁寧に挨拶してくれた。