3・放っておけない人……⑴
――月が変わって、五月の初め。
全国の書店の店頭に、私の最新作の文庫本が並んだ。――小説家・巻田ナミにとって、四作目の本。そして、二作目の長編書き下ろし小説である。
もちろん、私がアルバイトをしている〈きよづか書店〉の店頭にも。
ここは店長の清塚正司さん(五〇歳)が個人で経営されているお店だけれど、店舗の規模がそれなりに大きいので、私の他にあと九人のアルバイト店員が働いている。
……それはさておき。
ほんの少し前まで、原稿用紙にシャープペンシルを走らせてこれを書いていたのだと思うと、こうして無事に本として刊行されたことは作家としてとても感慨深い。
まだキャリアは浅いので、知名度もまずまず。そのため、扱いも平積みというわけにはいかないけれど……。
「――なんて、物思いに耽ってる場合じゃなかった! 仕事しないと!」
今の私は作家の巻田ナミではなく、この書店のアルバイト店員・巻田奈美なのだ(ちなみに本名である)。
「――すみませーん。本の予約をしてた者ですけど」
「いらっしゃいませ! ――はい、確認致します。少々お待ち下さい」
男性のお客様に声をかけられた私は、棚の本の補充作業を中断して、レジ横のカウンターに向かう。そこには、商品検索や予約情報の管理を行うためのパソコンが置かれているのだ。
「今日、予約票の控え忘れてきちゃったんですけど」
この書店では、ご予約をされる時には予約票を記入してもらい、お控えを渡して商品受け取りの時に控えを持ってきてもらうことになっているのだけれど。
「大丈夫ですよ。店のパソコンにデータが登録されてますから。――お客様のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「高橋ですけど」
「かしこまりました。高橋様ですね。えーっと……」
予約情報のページを開いた私は、特訓の甲斐あってどうにかできるようになった片手タイピングで、「高橋」という名字で検索をかけた。
ところが「高橋」という名字で本を予約されているお客様は一〇人以上。しかも、予約された本のタイトルも重複しているため、タイトルだけで絞り込むのも難しそうだ。
「……あの、身分証明書はお持ちですか?」
下の名前が分かれば、どんな書籍を予約されたのか分かるはず。
その「高橋」という男性が提示して下さった運転免許証によれば、下の名前は「毅司」というらしいので、「高橋毅司」とフルネームで検索し直そうとしたのだけれど……。
「…………あ、あれ?」
変換が……出てこないよ……?
一文字ずつ変換できればクリアできる問題なのに、「毅」という字単体での読み方が出てこない。――まったく、言葉を操る作家でありながら、何とも情けない話である。
「――高橋様、もう少々お待ち頂いてもいいでしょうか……?」
おそるおそる尋ねてみると、高橋様はだいぶイライラされているご様子で。
「あのさあ、オレ急いでるんだけど。いつまでかかんのかなあ?」
「もっ、申し訳ございません!」
お待たせしている立場の私は、陳謝しながらも何とかスピードアップを図ろうとするけれど。焦れば焦るほど手元が狂い、そしてまたパニクるという悪循環に。
万事休す!
「誰か助けて……!」
泣きそうな声で私が呟いたその時、救世主が! 二人も!
……ん? 二人?
「巻田先輩! 大丈夫っすか!? オレが代わります!」
先にヘルプに飛んできてくれたのは、都立大学二年生のアルバイト・今西翔クン。
今日は土曜日で大学が休みなので、朝から一緒のシフトに入っている。
「今西クン、ありがとう! ……あっ、でもレジも混んできてるし……」
レジには行列ができていて、一人で応対している清塚店長がてんてこ舞いしている。
――そこへすっ飛んできたのは……。
「今西クン! 君はレジのヘルプに入って! ――奈美ちゃん、ここはあたしが代わるから。売り場の仕事に戻っていいよ!」
私のパソコンオンチを知っている同い年のフリーター・沢村由佳ちゃん。
彼女は短大を卒業後、就職はせずにここで働き始めたらしい。作家仲間以外では数少ない私の友達の一人だ。
「はっ、ハイっ!」
「ありがと、由佳ちゃん! ゴメンね!」
彼女の圧に怯んだ今西クンはレジの補助に入り、由佳ちゃんが「失礼致します」と高橋様にお断りを入れて、私の作業を引き継いでくれた。
私が四苦八苦していたパソコン作業もサクサクこなし、高橋毅司様のご予約の確認もすんなり取ってくれたのだ。
「――高橋毅司様ですね? ご予約の商品はこちらでお間違いないでしょうか?」
私としてはすごく助かったけれど、同時に由佳ちゃんには申し訳ない気持ちでいっぱいになった(もちろん今西クンにも)。
由佳ちゃんと私。同じ二十三歳なのに、どうしてこうも違うんだろう? ――私は商品の補充作業を再開しながら、由佳ちゃんの仕事ぶりをチラ見してはこっそりため息をついていた――。
****
――その日の夕方、終業時間。
「「お疲れさまでしたぁ!」」
「お疲れっした! お先に失礼しまっす!」
朝九時から夕方四時までの勤務を終えて、私と由佳ちゃん、今西クンの三人は清塚店長と遅番の人達に挨拶して退勤した。
タイムカードを押してからロッカールームでエプロンを外し、お店の通用口から出る。
夕方にもなると少し冷えるので、私も由佳ちゃんも白い七分袖ブラウスの上からパーカーを羽織っている。
「んじゃ、オレこっちなんで! お疲れっした!」
今西クンは帰る方角が違うので、今日も由佳ちゃんとお喋りしながら帰ろう。――そう思っていたけれど。
「ゴメン、奈美ちゃん! ここでちょっと待ってて!」
何か買うものがあったらしい彼女は、私を待たせて店内へと引き返した。
待つこと数分後――。
「お待たせ~、奈美ちゃん☆ ジャ~ン♪」
お店から出てきた由佳ちゃんは、文庫本が入るサイズのビニール袋から買ったばかりの本を取り出して私に見せてくれた。
「あっ、それ……私の最新作? わざわざそれ買いに行ってくれてたの?」
彼女が買っていたのは、今日発売された私の最新刊。
実は彼女はデビュー当時からの私の小説の大ファンで、新刊が出るたびにこうして欠かさず買ってくれているのだそう。
「これ、ウチの店にあったラスト一冊だよ」
「えっ、ウソ!? そんなに売れてたんだ」
私にはちょっと信じられなかった。私の書いた本が、(他の書店さんではどうか知らないけれど)ウチの書店で発売初日に完売するなんて……!
「そうなんだよ。あたしも今日は買えないんじゃないかと思ったくらいだもん」
「由佳ちゃん……、ありがと!」
私は感激のあまり、道端で彼女に抱きついた。彼女の方も困るどころか、「ちょっと厚かましいんだけど」と私に頼みごと。
「ナミ先生、ここにサインお願いします!」
本の見開き部分を開き、バッグから自前の(!)サインペンを出して私に差し出した。
「用意よすぎ! ――いいよ。ファンサービスも作家の仕事だしね」
サインペンなんていつも持ち歩いてるの、と苦笑いしながらも、私は由佳ちゃんから本とペンを受け取ってスラスラとサインする。
「はい、できた! 大事にしてね」
「わーい、ありがと! これ、一生の宝物にするよ♪」
「そんなオーバーな……」
私のサイン本を後生大事にバッグにしまう由佳ちゃんに、私はまた苦笑い。
こんなキャリアの浅い作家のサイン本なんて、宝物にする価値あるのかな? ……と思うのは卑下しすぎ? でもやっぱり嬉しい。
「――それにしても、今日は忙しかったね」
「うん……。土日に忙しいのはいつものことだけど、今日発売の新刊多かったからね」
由佳ちゃんもそうだけど、新刊は発売日に買いたいというのが人間の心理らしい。
「予約の確認でパニクった時、店長にヘルプに来てほしかったけど。店長も大変そうだったし。だから、由佳ちゃんが助けてくれてよかった」
「いいのいいの。友達だもん、当たり前でしょ?」
彼女は私が高校を卒業てからできた、一番親しい友達だ。バイトを始めたのは彼女の方が少し先だったのに、全然先輩ヅラしないで対等に接してくれている。
「っていうかさあ、店長はヒマな時でもほとんど奈美ちゃんのヘルプに入ってくんないじゃん?」
由佳ちゃんが清塚店長に対する毒舌を吐き始めた。
「あー……、うん。確かに……」
悲しいかな、反論したくてもできない。
由佳ちゃんの言う通り、店長は私がパソコン操作で困っている時、ほとんど助けてくれない。
今日みたいに忙しくて手が離せない時には「仕方ない」って諦めることもできるけど。明らかに手が空いている時にもそうだと「なんで?」と思ってしまう。……けど。
「あれってわざとシカトしてんじゃないの? だとしたらパワハラだよね」
「由佳ちゃんがそんなに怒んなくても……。店長にだって、きっと何か考えがあるんだと思うよ」
私はさりげなく、清塚店長のフォローをした。
別に店長の肩を持つつもりはないけれど、原口さんのパターンもあるから一概に「店長はパワハラ上司だ」と言い切れないのだ。
「そうかなあ? でも、あんまりヒドいようならあたしが抗議してあげるから!」
由佳ちゃんは鼻息も荒く宣言してくれたけれど。
「由佳ちゃん、気持ちは嬉しいけどホントにいいから。店長とか他の人の手を借りなくても困らないように、私も努力してるの」
「えっ、そうなの?」
「うん。編集者の原口さんに言われたんだ。『いつか必ず努力は実を結ぶんだ』って」
そう電話で言われた時の、彼の温かいけど真剣な声を思い出して、私が一人赤面していると……。
「ああ。〝原口さん〟って確か、奈美ちゃんの好きな人だっけ?」
私が彼に恋心を抱いていることは、もう由佳ちゃんにも打ち明けてあった。彼女はその時にも、自分のことみたいに一緒にはしゃいでくれていたっけ。
「う、うん……。そうだよ」
自分で言うのもまだ恥ずかしいのに、他の人に言われると余計に恥ずかしい!
私は顔が真っ赤になって、頷くだけで精一杯だった。
「いいじゃん、奈美ちゃん! 恋は人を成長させてくれるんだよ? そんなに恥ずかしがることないって!」
「そう……かな?」
……恋愛小説家が本業の私が、こんなことでどうするの!
というか、本職の私よりも由佳ちゃんの言っていることの方が文学的だ。私も見習わなきゃな。……じゃなくて!
「そうだよ! あたし、全力でナミちゃんの恋応援してるから! その人とうまくいくといいね」
「うん、ありがと。私頑張る!」
由佳ちゃんと話しながら帰っていると、その日の疲れとかイヤなこととかを忘れられるから不思議だ。そして元気になれるし、勇気をもらえる。やっぱり友達っていいな。
――交差点で、私は由佳ちゃんと別れた。
「次に一緒のシフトになるの、明後日だね。んじゃまた! お疲れ!」
「うん、またね。お疲れさま!」
由佳ちゃんと別れてから、私はマンション近くのコンビニに寄った。
私は料理が好きで、普段はちゃんと自炊するのだけれど。今日はもうクタクタで何か作る元気もないので、晩ゴハンのおかずになりそうな冷凍食品を何種類か買って帰ることにしたのだ。
幸い、ゴハンだけは朝炊いてきてあるし。
買い物を終え、コンビニの袋を提げてマンションに帰ったのは夕方五時少し前。
「――はあー、疲れた……」
ウチのマンションにはエレベーターもないので、どれだけ疲れていても二階までは階段を上がっていかなければならない。
二階に住む私でこれなのだから、三階以上の住人はもっと大変だと思う。
こうしてヨロヨロと階段を上がって二階に辿り着いた私を、部屋の玄関前で待っている男性が一人――。
……原口さん?
「――あっ、先生。どうもお疲れさまです」
それは私が行ったのとは違うコンビニの袋を提げた、紛うことなき原口さんだった。
彼は私に気づくと、ペコリと頭を下げた。
「どうも……」
私も会釈を返す。
「バイトの帰りですよね?」
「ああ、はい。途中で買い物してきましたけど。――あの、今日はどうしたんですか? 仕事……じゃないですよね?」
彼の服装が、ジャケットを着込んだ〝お仕事スタイル〟なのが私は気になった。
編集者という職業柄、土日関係ナシなのは分かっているけれど。少なくとも私との仕事ではないはず。私の次回作が出るのはもう少し先の予定で、まだ打ち合わせもしていないのだから。
「まあ、仕事といえば仕事なんですけど。別の先生に用があって……、でもちょっと困ったことになってるんで、先生と酒でも飲みながら相談に乗って頂こうかと思いまして」
原口さんは肩をすくめながらそう言って、提げている重そうな袋を私に見せた。
中に入っているのは五〇〇ミリリットル入りの缶チューハイが五,六本。あとはさきイカやチーズたらなどのおつまみだ。
「先生って酒豪なんでしょう?」
「はい。っていうか、原口さんも飲むんですね。知らなかった……」
少し前に琴音先生から聞くまで、彼の私生活なんてほとんど知らなかったから。そもそも彼とお酒を飲んだことだって一度もなかったし――。
そういえば、琴音先生はどうしてあんなに原口さんのことをよく知ってるんだろう? ――そう思った時、私の中でまた小さな疑念が燻り始めた。
二年前に琴音先生と別れた元カレって、もしかして……?
「――巻田先生、どうかしました? なんか浮かない表情してますけど」
原口さんに呼びかけられて、私はハッと我に返った。どうやら一人で考え込んでいて、彼に心配をかけてしまったらしい。
「あっ、いえ。何でもないです。ゴメンなさい。――えっと、原口さんてお酒飲むんでしたっけ?」
もしかしたらさっき、彼は答えてくれていたかもしれないけれど。
「いえ、あんまり強くはないんですけどね。今日は飲まなきゃやってられないんで」
「はあ」
ヤケ酒を呷りたくなるほどのことがあったのだろうか? だとしたら、担当してもらっている作家としては(もちろん個人的にはそれだけじゃないのだけれど)放っておけるはずがない。
「分かりました。今日は二人でとことん飲みましょう! どうぞ、上がって下さい」
私は鍵を開け、彼を招き入れるとリビングに通した。
「じゃあ私、ちょっと着替えてきますから。ソファーに座って待っててもらえますか?」
バッグをソファーの隅っこに下ろし、コンビニの袋をダイニングテーブルの上に置いてから、私は原口さんに言った。
「はい」
原口さんは素直に頷き、いつもの定位置に腰を下ろした。
私は例の寝室(兼仕事部屋)に入るとドアを閉めて、窮屈な仕事着からゆったりした普段着に着替えてからリビングに戻る。
原口さんは仕事で来たわけではないからなのか、いつもよりリラックスした様子で、リビングの中を天井までしげしげと見回していた。
「お待たせしました。――原口さん、どうしたんですか?」
「ああ、いえ。この部屋が散らかってるところ、一度も見たことがないので。先生ってキレイ好きなんだなあ、って……」
「そんなことないですよ」
私は照れ臭くなって謙遜した。
「キレイ好きなのは、ただ単に血液型がA型だからってだけです」
素っ気なく返したけれど、本当はすごく嬉しかった。好きな人に「キレイ好きだ」と褒められて、喜ばない女子はいない。
二年前に別れた元カレの井上潤は、この部屋に何度も来ていたのにそんなこと一言も言ってくれたことはなかった。だから余計に嬉しいのかも。
「――さてと、そろそろ飲み始めます?」
時刻はそろそろ五時半。お腹も空いてきたし、飲み始めるにもいい頃合だと思う。
「そうですね。つまみはこんなものしか買ってないですけど……」
袋の中身をローテーブルの上に並べながら原口さんが頷いた。
これだけのおつまみじゃ、お腹はいっぱいになりそうにないな……。あ、そうだ!
「私も晩ゴハンのおかずにしようと思って、冷凍のギョーザとか唐揚げとか買ってきてあるんです。それも温めておつまみにしませんか?」
「それ、いいですね! ありがとうございます!」
――数分後。私がレンジで温めてきたギョーザやシューマイ・唐揚げなどのお皿もローテーブルの上に並び、二人だけのささやかな宅飲み会が始まった。
お酒は各々グラスに注ぎ、皿の上のおつまみ(おかず系)を箸でつっつき合う。
自他共に認める(?)酒豪だけあって、私はどれだけ飲んでも全く顔に出ない。
でも、原口さんは相当弱いらしくて、ちょっと飲んだだけですぐに顔が赤くなった。
これだけ下戸な彼が「飲まなきゃやってられない」なんて……。一体何があったんだろう?
私は原口さんが本格的に酔っ払ってしまう前に、思いきって彼に訊ねてみた。
「原口さん、ヤケ酒飲むほど困ってることって、一体何があったんですか?」
「実は……、蒲生大介先生のことなんですけど」
アルコールが少し入って緊張の糸が緩んだせいか、彼はためらいながらも話し始めた。
「蒲生先生って……、〈ガーネット〉のレーベルの中で一番のベテラン作家の!?」
そこにとんでもないビッグネームが飛び出し、私はビックリして飲んでいたチューハイでむせそうになった。
蒲生先生はもう五〇代半ば。作家としてのキャリアは三〇年以上になるらしい。
彼は私の憧れであり、目標とする作家でもある。お母さんが大ファンだったのをキッカケにして私もハマり、作家を志すことにしたのだ。
「そうです。今日、彼の脱稿日だったんで、原稿を受け取りに伺ったんですけど。『書けなかった』って言われたんです。『一枚も書けなかった』って」
「ええっ!?」
「まあ、事情があって書けなかったというなら、僕も理解できなくはないんですけど」
「違った……んですか?」
私の問いに、原口さんが頷いた。
信じられない。ずっと憧れていた蒲生先生が、事情もなしに仕事を投げ出すような人だったなんて――。
話の続きを聞いて、私はさらなるショックを受けた。
「書けなかったのは僕のせいだって言われました。『お前が担当だと、原稿が進まないんだ!』って。ここだけの話ですけど、蒲生先生って元々モノグサな人なんです。歴代の担当者もみんな、困らされてたそうで」
「そんな……」
「でも僕は、パワハラに泣き寝入りしたくないんです。だから先手を打って、こっちから担当を外してもらおうと思ってて……。先生はどう思われますか?」
「……どう、って訊かれても」
いや。あなたが泣き寝入りするような人じゃないって、私も知ってますけど。
そして悲しいかな、ベテラン作家さんの中には編集者さんを見下して、下僕のように扱う人もいるんだという事実も、私は知っていた。――まさか、こんな身近なところにもいたなんて思わなかったけれど。