2・恋かもしれない……。⑵
「琴音先生、人の感情って厄介ですよね」
「えっ? どうして?」
「苦手な人が急に気になり始めたり、そうかと思えば昨日まで好きだった人が急に嫌いになったり……。何ていうか、〝苦手・嫌い〟と〝好き〟の二つにハッキリ線引きっていうか、割り切れたらラクなのになあ、って」
この世の中で、移ろいやすい人の感情ほど面倒なものはないと思う。
もしも人の感情がキッチリ線引きできるなら、誰も悩んだり苦しんだりしなくて済むのにな……。
「そしたら私も、こんなに悩むことなかったのになあ、って。――あれ? 私何かヘンなこと言ってますか?」
私の話を聞き終わらないうちに、琴音先生が笑い出した。でも全然バカにしたような笑い方じゃなくて、楽しいことを発見した時みたいな笑い方、といえばいいのか――。
「ううん、別に。いやあ、ナミちゃんって面白いこと考えるんだねー」
「……へっ?」
「そりゃあ、何でも白黒ハッキリ割り切れたら誰も悩まないよね。その方が気がラクだしさ。――でも、割り切れないから人って面白いんじゃないかな?」
「はあ、なるほど……」
琴音先生の言うことは、実に深い。私と同じ小説家だけど、七年という人生経験の差はダテじゃないなと思う。
私にはこんな考え方はできなかったから。
「ねえナミちゃん。原口クンを好きになったこと、後悔してる?」
「いいえ! 後悔なんて絶対にしません!」
私は強くかぶりを振る。それを見て、琴音先生は安心したように微笑んだ。
「そういうこと。ナミちゃんだって、厄介な感情があるから原口クンに惹かれたけど、それで後悔してないワケでしょ? だから人間は面白いんだと思うな」
「はあ……」
琴音先生が言ったことは、私にとっては目からウロコだった。何だか心にかかっていたモヤが晴れてきた気がして、私はまだほとんど減っていなかったアイスラテを一気に半分くらいすする。
――ところで、私には気になっていることがもう一つあった。
「そういえば、根本的な質問なんですけど。原口さんって独身なんですか? お付き合いしてる人は?」
琴音先生に訊くのは筋違いかもしれない。でも、直接本人に訊ねる勇気があったら、私はこうして琴音先生に相談に乗ってもらう必要なんてないわけで。
「独身だと思うよ、多分。『結婚した』って話は聞かないし。二年前に元カノと別れてからは彼女もいないみたい」
「二年前……」
あれ? と私は思った。琴音先生が元カレと別れたのも二年前じゃなかったっけ……?
ただの偶然だと思う。――私はそう思うことにした。
それにしても、原口さんってプライベートも謎な人なんだな。私、今まで彼のこと、何も知らなかった……。
「そうだ。琴音先生、私はこの先、あの人とどう接したらいいと思いますか? 『好き』って気づいたのが突然だったから、この先イヤでも意識しちゃいそうで……」
私だって、恋をしたことくらいなら何度もある。けど、どうも「好き」という気持ちがモロに顔に出てしまうらしいので、いつも相手に気持ちがバレバレになってしまう。
特に、今まで意識したことのなかった相手を好きになった今回は、会うたびに原口さんのことをヘンに意識して、いつボロが出るか私自身分からないから不安なのだ。
「う~ん、そうだなあ……。急に態度を変えたら、原口クンに怪しまれると思う。だからあたしがナミちゃんなら、あえて今まで通りの態度で接するけど」
「今まで通りに?」
私は首を捻った。〝今まで通りの態度〟ってどんな感じだったっけ?
何も考えずにやってきたのに、意識してやろうとすると、今までどうやってきたのか思い出せない。
「そう。まあ、〝あたしなら〟の話だけど。――どう? ナミちゃん、できそう?」
「あんまり自信ないですけど……」
私は考えてから、残りのアイスラテをストローでズズズッとすすった。――あんまり上品な音じゃないなと自分でも思った。
「何とか頑張ってみます」
「そっか」
笑顔で意気込む私を見て、琴音先生もホッとしたようにホットカフェオレを飲んでいた(あっ、なんかダジャレみたいになっちゃった)。
「――そういえば、琴音先生はどうして今日私に電話下さったんですか?」
今更だけれど、私は彼女に訊ねてみる。
あの電話がなければ、私は今頃まだ部屋で一人、ウダウダ悩んでいるだけだっただろうから。――まさか、私が悩んでいることを知っていたわけはないだろうけど……。
「ああ。今日はたまたまこの近くで用があったんだけど、早く終わってヒマになっちゃって。作家仲間に電話しまくってたの。もち、女性ばっかりね」
「へえ……」
「ナミちゃんに断られたら、今頃は別の作家さんとお茶してたかも」
「ええ……?」
なんだ、やっぱりただの偶然だったのか。
作家という職業は本来、個人事業主であり自由業である。こういう横の繋がりはあっても上下関係はなくて、年齢が違っても対等な立場で付き合えるのだ。
「――ナミちゃん、今日は付き合ってくれてありがと。楽しかったよ。また一緒にお茶しようね」
「はい! 私の方こそ、相談に乗って下さってありがとうございました。今度はぜひ、一緒にお酒飲みませんか?」
「お酒か……、う~ん。あたし弱いからな。ナミちゃんは酒豪だもんね。羨ましいわ」
「いや、別に羨ましがられることじゃ……」
酒豪の女って、男性から見たらどうなんだろうか? 色気がないだけなんじゃ……?
「そんじゃ、またねー!」
「ええ、また」
――琴音先生と別れた後、私は彼女から聞いた話を原口さんに直接確かめてみたくなった。
彼が今、本当に独身なのかは知りたいところだけれど、そっちではなく。本当に私に期待しているから口うるさくなるのか、という方が今は知りたい。
それを知ることで、私の中の彼に対する苦手意識もなくなるかもしれないから……。
私が今、洛陽社の近くにいるって分かったら、彼はビックリするだろうか――。
私はバッグの外ポケットからスマホを取り出し、原口さんのケータイに電話をかけた。
『――はい』
「あっ、もしもし。巻田です。お疲れさまです。――原口さん、今何なさってますか?」
会社にいるんだから、当然仕事だろうけれど。もしかしたら休憩中かもしれないし。
『今ですか? 今は先生から頂いた原稿を、パソコンでゲラに起こしてるところです』
〝ゲラ〟とは、本になる前の「原稿」。つまり、作家が書いた原稿を本と同じ文字数・構成に直したもののことである。
『どうしたんですか? 急に連絡下さるなんて。原稿でどこか修正したい箇所でも?』
わざわざ仕事中のタイミングで電話をかけたら、彼は当然そう思うだろうな。
「あっ、いえ! そういうワケじゃないんです。……えっと、私いま神保町にいるんですけど」
『えっ? 本当ですか?』
「はい。さっきまで琴音先生とこの近くのカフェでお茶してたんです」
そこで話していた内容はともかく、それ自体は別にやましいことでも何でもないので、私は正直に話した。
『琴音先生、って……。ああ、西原先生ですね。彼女も確か、もう脱稿してるんでしたっけ? 彼女の担当者から聞きました』
琴音先生の担当は、確か女性だったな。琴音先生に負けず劣らずの美人だったと思う。
「はい、そうらしいです。私もご本人から聞きました。――ところで原口さん。私、あなたに確かめたいことがあって……」
『何ですか? 〝確かめたいこと〟って』
「えっと…………」
「確かめたい」という気持ちはあるのに、いざ言葉にしようとすると何て訊いていいのか分からない。
でも原口さんだって忙しいんだから、あまり考え込んでもいられないし……。
テンパった私は頭の中が真っ白になり、次の瞬間とんでもない質問を彼にぶつけてしまった。
「はっ、原口さんはど……ど……、独身なんですかっ!?」
『……は?』
電話の向こうで、彼が呆気にとられている光景が目に浮かぶ。
『ええ、まあ。僕は独身ですけど。それって仕事中の人間に訊くことですか?』
「――ですよね、やっぱり」
……ああ、やっちゃった! いきなりこんな不躾な質問をするはずじゃなかったのに。
自己嫌悪やら恥ずかしいやらで、私はプチパニックに陥った。
「すっ、スミマセン! 間違えました! じゃなくて、えーっとえーっと…………」
落ち着いて、私! ――大きく深呼吸をした後、もう一度スマホを耳に当てた。
『……先生? 大丈夫ですか?』
私がまだパニクっていると思っているらしい原口さんが、私に怪訝そうな、それでいて気遣わしげな声をかけてくる。私はそれでやっと落ち着くことができた。
「あの……、琴音先生からお聞きしたんですけど。原口さんが私に口うるさくしたり、パソコンを覚えてほしかったりするは私に期待してるからじゃないか、って。それ、ホントですか?」
私はしばらく、彼の返事を待った。
『……本当ですよ。僕は先生に、一日でも早く人気作家の仲間入りをしてほしいと思ってます。そのために、時には厳しいことを言ったりもしますけど、それは全部先生のためなんです。――パソコンに関しては、先生ご自身も少しずつ練習されてると聞いて安心しましたけどね』
「私のため……ですか」
彼はただのイヤミーで口うるさいだけの人じゃなかった。私のことを、そこまで考えてくれているなんて……。少し彼のことを見直した。
『最初から〝できない〟って諦めてしまう人は、何も進歩しません。でも先生は完全に諦めたわけじゃないですよね? 毎日少しずつでも努力していれば、いつか必ず努力は身を結ぶと思います』
「……はい」
『原稿はもう、手書きで大丈夫です。〝パソコンで書け〟なんて無理強いしませんから』
というか、無理強いできないんだろう。彼が担当しているのは、私も含めて手書きで執筆する作家ばっかりらしいから……。
『僕は口ベタで不器用なもんで、言い方がイヤミったらしくなったり、Sっ気発揮したりしますけど。いつも不愉快な想いをさせてすみません』
「……はあ」
…………自覚あったんだ、原口さん。
「いえ別に。私は気にしてませんから、大丈夫です」
その言葉にウソはない。でも、むしろそのバトルを楽しんでいることをここで言えば、「先生ってMなんですか?」って言われそうだから、あえて言わない。
「――あっ、お仕事中に長々と、ゴメンなさい! 私、あなたの期待に応えられるかどうか分かりませんけど、いつか絶対に人気作家になってみせますから!」
『先生……』
「本になるの、楽しみにしてますね。――じゃ,失礼します」
『はい』
原口さんの返事を聞いてから、私は終話ボタンをタップした。
彼が言ってくれたことが、今も私の耳には強く残っている。
――毎日少しずつでも努力していれば、いつか必ず努力は身を結ぶ――。
……うん、そうだよね。きっとそう。私はなぜか、その言葉を何の反発もなしにすんなりと受け入れることができた。
私はまだデビューして三年目の、〝人気作家〟には程遠いひよっこ作家だ。ベストセラーの一つもまだ世に送り出せていない。
でも、「一作でもいい作品を書こう」と思って努力を続けていったら、私もいつかは人気作家の仲間入りができるようになるんだろうか? 原口さんの期待に応えられるような作家に。
でもその時には、彼に一緒にいてほしい。彼が側にいて励まし続けてくれたら(たとえSっ気を発揮していても)、私は努力することを苦痛に思わないから。
「……私、やっぱり原口さんのことが好きみたい」
私は改めて、自分の中に芽生えた彼への想いを自覚した。
だって、彼の言葉一つ一つでこんなにも一喜一憂しちゃうんだもん。これが〝恋〟じゃないなら、一体何だっていうんだろう?
考えてみたら、今までに経験してきた恋と何も変わらない。ただ、相手がちょっと苦手な人ってだけじゃない! 何を戸惑う必要があったんだろう?
――この恋は恋愛小説家の私にとって、これから先のターニングポイントになる。
私はこの時、なぜかそんな予感がしていた――。