後日談・二ヶ月後……⑶
――数日後。今日のバイトは久々に由佳ちゃんと一緒のシフトになった。
新作の原稿も順調に進んでいるし、原口さんとの関係も良好。
ここ最近の私は公私共に充実している感じだ。
「――客足も落ち着いてきたね。二人とも、お昼休憩に行っておいで」
正午を三〇分ほど過ぎた頃、清塚店長が私達アルバイト組に休憩をとるように言ってくれた。
「「はい。行ってきます」」
休憩室の机の上にお弁当を広げ、由佳ちゃんとガールズトークをしながらのランチ。
この日も当然、そうなるはずだった。……途中までは。
「――そういえば、最近どうなの? 五つ上の編集者さんの彼氏とは」
由佳ちゃんは最近、私の恋愛バナシにご執心みたいだ。
「うん、順調だよ。――由佳ちゃんの方は?」
私はお弁当箱の中の玉子焼きをお箸でつまみながら答え、今度は私から由佳ちゃんに水を向けた。
「うん……。彼とはねえ、最近連絡取ってないの」
「えっ? ケンカでもしたの?」
少し前まで幸せそうだったのに。予想外の答えに私は目を丸くした。
「ううん、そうじゃないんだけどね。彼、最近忙しいみたいで……」
由佳ちゃんの彼氏は中学校の教師で、私の予想では多分三年生を受け持っている。
「そっか……。でも、中学校の先生だったら今ごろはきっと、ホントに忙しいんだろうね。文化祭の準備とかテストとかで」
私はさり気なくフォローを入れる。
それに、三年生の担任だったりしたらきっと、生徒の進路の相談に乗ったりもしているんだろうから、さらに忙しいだろうし。
「少し時間が空いたら、彼からまた連絡くれると思うよ。だから、彼のこと信じて待つしかないんじゃない?」
「……そうだね。あたし、彼のこと信じる」
さっきまでちょっと元気のなかった由佳ちゃんは、食べかけでやめていたコンビニのエビマヨのおにぎりをまたモグモグし始めた。
「――にしても、奈美ちゃんはいいなあ。仕事でも私生活でも、大好きな人と一緒なんでしょ? 『離れたらどうしよう?』なんて心配はなさそうだし」
冷たい緑茶でおにぎりを飲み下した由佳ちゃんが、羨ましそうに私に言った。
「うん……、まあね。逆に言えば、プライバシーもへったくれもないってことになるんだけど。別に私は困んないし」
むしろ四六時中彼と一緒にいられて幸せだから、私はその方が嬉しいのだ。
Sっ気のある彼にいじられるのも、Mの私としてはちょっと楽しかったりして……。ああ、完全にノロけてる。
「連絡だって、毎日LINEでメッセージのやり取りしてるし。……あれ?」
エプロンのポケットからスマホを取り出した私は、ディスプレイに原口さんからのメッセージ受信の表示が出ていることに気づいて目を丸くした。
「どしたの? 奈美ちゃん」
「うん……。彼からメッセージが来てるの。えーっとねえ……、『お疲れさまです。このメッセージを見たら、折り返し連絡下さい』だって」
LINEアプリのトーク画面に表示されている文面はこれだけで、肝心の用件は何も書かれていない。
「何かあったのかなあ? 返信してみたら? 『どんな用件ですか?』って」
「返信より、電話してみるよ。その方が早いし」
私は履歴から彼のスマホの番号をタップし、スマホを耳に当てた。
『――はい、原口です』
「巻田です。なんかさっき、メッセージもらったみたいなんで折り返し電話したんですけど。たった今気がついて」
『ああ、そうなんですか。――今日はお仕事ですか?』
「はい。今はお昼休憩中なんですけど。――何かあったんですか?」
『はい。えーっと、映画プロデューサーの近石さんという方から、「巻田先生にお会いしたい」ってお電話を頂いて。今日の夕方に編集部でお会いすることになったんで、連絡したんです』
「映画プロデューサーの近石さん……、あっ! もしかして、近石祐司さんですか!?」
私はその名前にピンときた。近石祐司さんといえば、まだ三〇代の若さで数々の大ヒット恋愛映画を世に送り出しているヒットメーカー中のヒットメーカーじゃないか!
『そうですけど。先生、なんかめっちゃ興奮してますね。――で、先生にはお仕事が終わってから、編集部に来て頂きたいんですけど。大丈夫ですか?』
「はい、大丈夫です! 行きます! ……ところで、あたしはどっちの編集部を訪ねたらいいんでしょうか……?」
もしも映画化の話が来たのだとしたら、当然〈ガーネット文庫〉から出した小説のはず。でも、連絡をくれた原口さんは今、〈パルフェ文庫〉の編集長だ。
フロアーは同じだけれど、私はどっちを訪ねたらいいんだろう?
『もちろん、パルフェの編集部に。僕を訪ねてきて下さい』
「分かりました。ありがとうございます。それじゃあ、また後で」
通話を切った後も、私のドキドキはなかなか収まらない。
「――奈美ちゃん、なんかスゴいことになってるみたいだね?」
「うん。私もまだ信じらんないけど」
ついこの間、原口さんとのデート中にこの話題が出たばかりだ。
でもまさか、本当に……? いやいや、まだそうと決まったわけじゃない。ちゃんと〈近石さん〉にお会いして、彼から話を聞くまでは。
「――どうでもいいけどさ、奈美ちゃん。早くお弁当食べちゃわないと、お昼休憩終わっちゃうよ?」
「えっ? ……ああっ!?」
壁の時計を見たら、十二時五〇分になっている。ここの従業員のお昼休憩は三〇分と決まっているので、残りの休憩時間はあと一〇分くらいしかない!
慌ててお弁当をかっこみ始めた私に、由佳ちゃんがおっとりと言った。
「奈美ちゃん、……喉つまらせないようにね」
****
――その日の終業後。
「店長、お疲れさまでした! 由佳ちゃん、私急ぐから! お先にっ!」
清塚店長と由佳ちゃんに退勤の挨拶をした私は、ダッシュで最寄りの代々木駅に向かった。
原口さんは、近石プロデューサーが何時ごろにパルフェ文庫の編集部に来られるのか言ってくれなかった。
電車に飛び乗ると、こっそりスマホで時刻を確かめる。――午後四時半。近石さんはもう編集部に来られて、原口さんと一緒に私を待ってくれているんだろうか?
私は彼に、LINEでメッセージを送信した。
『原口さん、お疲れさまです。今電車の中です。近石さんはもういらっしゃってますか?』
『いえ、まだです。でも、もうじきお見えになる頃だと思います』
……もうじき、か。神保町まではまだ一〇分ほどかかる。先方さんには少し待って頂くことになりそうだ。
私が編集部に着くまでの間、原口さんに応対をお願いしようと思っていると。
……ピロリロリン ♪
『ナミ先生がこちらに着くまで、僕が近石さんの応対をします。だから安心して、気をつけて来て下さい』
彼の方から、応対を申し出てくれた。
『ありがとう。実は私からお願いするつもりでした(笑)』
以心伝心というか何というか。こういう時に気持ちが通じ合うって、なんかいいな。カップルっぽい。……って、カップルか。
――JR山手線の黄緑色の電車はニヤニヤする私を乗せて、神保町に向かってガタンゴトンと走っていた。
****
――それから約十五分後。
……ピンポン ♪
私は洛陽社ビルのエレベーターを八階で降り、猛ダッシュでガーネット文庫の編集部を突っ切っていった。
「おっ……、遅くなっちゃってすみません!」
奥の応接スペースにはすでに原口さんと、三十代半ばくらいの短い茶髪の爽やかな男性が座っている。
私は息を切らしながら、まずはお待たせしてしまったことをお詫びした。
「いえ、僕もつい今しがた来たところですから」
「あ……、そうでしたか」
TVでもよく見かけるイケメンさんに爽やかにそう返され、私はすっかり拍子抜け。――彼が敏腕映画プロデューサー・近石祐司さんだ。
「先生、とりあえず冷たいお茶でも飲んで、落ち着いて下さい」
「……ありがとうございます」
原口さんが気を利かせて、まだ口をつけていなかったらしい彼自身のグラスを私に差し出す。……私は別に、彼が口をつけていても問題なかったのだけれど。
……それはさておき。私がソファーに腰を下ろし、お茶を飲んだところで、原口さんがお客様に私のことを紹介してくれた。
「――近石さん。紹介が遅れました。こちらの女性が『君に降る雪』の原作者の、巻田ナミ先生です。巻田先生、こちらはお電話でもお話しした、映画プロデューサーの近石祐司さんです」
「巻田先生、初めまして。近石です」
「初めまして。巻田ナミです。近石さんのお姿は、TVや雑誌でよく拝見してます。お会いできて光栄です」
私は近石さんから名刺を頂いた。私の名刺はない。原口さんはもう既に、彼と名刺交換を済ませているようだった。
「――ところで原口さん、さっき『君に降る雪』って言ってましたよね? あの小説を映画化してもらえるってことですか?」
その問いに答えたのは、原口さんではなく近石さんの方だった。
「はい、その通りです。この度、巻田先生の著書・『君に降る雪』の実写映画化をさせていただくことになりまして。この栄誉ある作品に、僕がプロデューサーとして関わらせていただくことになりました。――これが企画書です」
「どうも。……拝見します」
私は近石さんがテーブルの上に置いた、A4サイズの用紙の束を手に取った。ざっと一〇枚くらいだろうか?
それにしても、もう企画書までできているなんて。もしかしてこの話は……。
「――ねえ、原口さん。この映画化の企画って、実は前々から出てたんじゃ……?」
私は隣りに座っている原口さんに、小声でそっと訊ねた。近石さんは向かい側に座られているので、幸い聞かれていないようである。
「バレました? 実はそうなんです。僕ももっと早く先生にお話しするつもりだったんですけど、先生が喜ばれるかどうか心配で。僕よりも映画のプロの口から伝えていただいた方が説得力があるかな……と」
「はあ、なるほど」
私も自分が書いた作品の出来には自信があるけれど、「映画化するに値するかどうか」の判断は難しい。
そこはやっぱり、プロが判断して然るべきだと思うのだ。
「僕は先生がお書きになった原作の小説を読んで、『この作品をぜひ映像化したい!』と強く思いました。それも、アニメーションではなく、生身の俳優が動く実写の映画にしたい、と。それくらいに素晴らしい小説です」
「いえいえ、そんな……。ありがとうございます」
私は照れてしまって、それだけしか言えなかった。
自分の書いた小説をここまで熱を込めて褒めてもらえるなんて、なんだかちょっとくすぐったい気持ちになる。それも、初対面の男性からなんて……。
「――あの、近石さん。メガホンは誰がとられるんですか?」
どうせ撮ってもらうなら、この作品によりよい解釈をしてくれる監督さんにお願いしたい。
「監督は、柴崎新太監督にお願いしました。えー……、スタッフリストは……あった! こちらです」
近石さんが企画書をめくり、スタッフリストのページを開いて見せて下さった。
「柴崎監督って、〝恋愛映画のカリスマ〟って呼ばれてる、あの柴崎監督ですか!?」
私が驚くのもムリはない。私と原口さんは数日前に、私の部屋で彼がメガホンをとった映画のDVDを観たばかりだったのだから。
「わ……、ホントだ。すごく嬉しいです! こんなスゴい監督さんに撮って頂けるなんて!」
「実は、主役の男女の配役ももう決まってまして。あの二人を演じてもらうなら、彼らしかいないと僕が思う演者さんをキャスティングさせて頂きました」
近石プロデューサーはそう言って、今度は出演者のリストのページを開いた。
「えっ? ウソ……」
そこに載っているキャストの名前を見て、私は思わず声に出して呟いていた。
「……あれ? 先生、お気に召しませんか?」
「いえ、その逆です。『演じてもらうなら、この人たちがいいな』って私が想像してた通りの人達だったんで、ビックリしちゃって。まさにイメージにピッタリのキャスティングです」
こんなことってあるんだなあ。自分が想像したことが、こうして現実になろうとしているなんて。それも、予想していた以上の形で。
二年ほど前に、私がシャープペンシル一本で書き上げて世に送り出した『君に降る雪』は、もっともいい形に育って私の手元を離れようとしている。
私はまるで、手塩にかけた娘をお嫁に出す母親のような気持ちになっていた。
「近石さん。……あの」
「はい?」
作家にとって、自分の手で生み出した作品は我が子も同然。だから……。
「私の作品を、どうかよろしくお願いします!」
我が娘を嫁に出すような想いで、私は近石さんに頭を下げた。
原口さんはそんな私を見て唖然としているし、近石さんも面食らっているけれど。
「……はい。お任せ下さい。必ず先生のご期待にお応えできるような、いい映画にします! では、僕はこれで」
頼もしく頷いて、近石プロデューサーは編集部を後にした。
「――それにしても、『ウチの子』は大ゲサすぎませんか?」
二人きりになった応接スペースで、原口さんが笑い出した。
「まだ結婚もしてないのに『ウチの子』って……」
「ちょっと原口さん! 笑いすぎでしょ!?」
もう爆笑に近い勢いで笑い続ける彼に、さすがの私もカチンときた。
「いや、だって……。うん……まあ、気持ちは分からなくもないですけど」
彼が担当についている他の先生の作品も、何度かメディアミックス化されている。きっとこの気持ちは私だけじゃなく、他の先生にも湧き出た感情なんだと思う。
だから、原口さんにも分かるんだ……。
「――ところでですね、ナミ先生」
気が済むまで大笑いした後(彼は気が済んだだろうけど、私はあんまりいい気分じゃなかった)、原口さんが態度をガラリと変えて編集者の顔になる。
「はい?」
この感じは多分、今後の仕事に関する話だろう。
「今回の映画化に合わせて、〈ガーネット〉から出ている先生の全作品を〈パルフェ〉からも刊行することにしたんです。差し当たっては、『君に降る雪』から毎月一作品ずつ。再来月からの刊行になります」
「えっ? ホントに?」
「はい」
同一タイトルの本が二つのレーベルから刊行されるということは、それだけその作品そのものの知名度が上がるということだ。
それは作者である私にとって、何よりも喜ばしいことである。
でも、あれ? ちょっと待って……。
「ちょっと待って、原口さん。じゃあ、今書いてる新作は? あれって再来月発売になってませんでしたっけ?」
確か今月の半ばが締め切りだったはず。だから、私は今まさに最後の追い込みに入っているところなのだけれど。
「そうですよ。そちらも、もちろん予定通りに発売します。ですから、再来月は二作同時刊行になります」
「同時刊行……」
私の作家人生始まって以来、初めてのことだ。
「とはいっても、『君に降る雪』の方は加筆修正の必要はないので、先生の手を煩わせることはありません。なので、先生は新作の執筆だけに専念して下さい」
「はあ、よかった」
私はホッと胸を撫で下ろした。
手書き派の私には、一作分だけの仕事(プラス書店のバイト)だけでいっぱいいっぱいなのに、二作分の仕事をしなきゃいけないとなったらもうキャパオーバーだ。バイトだって辞めなきゃいけなくなるかもしれない。
「ナミ先生が作家活動とアルバイトを両立できるように、新作の執筆以外はなるべく先生の負担を軽くしていくつもりなので。これでも僕、ちゃんと考えてるんですよ」
「そうなんですね……。原口さん、ありがとうございます」
彼はSだけど、基本的に私には優しい。こうして、いつも私の事情を真っ先に考えてくれている。
もちろん恋人としてもそうだけど、編集者としても彼は私と相性がいいと思う。ケンカもするけど、一緒に組んでいてすごく仕事がしやすいし、何より楽しいし安心感がある。
「――あの、私はそろそろ失礼します。新作の原稿、早く書き上げたいし。お茶、ごちそうさまでした」
私がソファーから立ち上がると、「下まで見送ります」と原口さんも立ち上がった。
「……ねえ原口さん」
エレベーターに乗り込んでから、気まずい沈黙をかき消すように私から口を開く。
「はい?」
「私、あなたに出会えてよかったです。あなたが担当編集者でよかった。私の担当になってくれて、ありがとうございます」
「……えっ、どうしたんですか? 急に改まって。まさか、〝作家辞めます〟フラグじゃ――」
彼がオロオロして変なことを言い出したので、私は思わず吹き出してしまった。
「辞めませんよ。ただ、今日ほどそう思ったことなかったから」
思えば彼は、私が作家デビューした時からずっと側にいてくれている。
もう二年半も、手の焼ける作家であるはずの私を一度も見捨てようとはせず、ずっと寄り添ってくれている。
そしてそれは、恋人としても……。
「私、あなたのことが最初は苦手だったの。でも、今は大好きです。あなたがいてくれたから、私は人気作家の仲間入りができたんだと思います」
改めて言うとなんか照れ臭い。でも、彼への感謝はこれだけの言葉では言い尽くせない。
「僕のおかげなんて、とんでもないです。先生の才能は、デビューする前から光ってたんですよ。それをここまで輝かせることができたのは、先生ご自身の頑張りがあったからでしょ?」
「……はい」
確かにそうかも。好きなことを職業として認めてもらうには、相当な頑張りが必要なのだ。
だから私も、一人前の小説家として早く周りに認められたくて、一生懸命やってきた。
スランプに陥ったこともあるけど、「書くのをやめたい」と思ったことは一度もない。やっぱり、書くことが好きだから……。
「でも、あなたがいてくれなかったら、私もここまで来られなかった。だから、やっぱりあなたのおかげなんです」
「ガンコですねえ、ナミ先生は」
急に声のトーンが変わり、原口さんは笑い出した。
「なっ……、何がおかしいんですか!?」
私は彼に突っかかった。せっかく素直に感謝の気持ちを表しているのに、笑うなんて……!
「でも、ガンコなところも謙虚なところも全部含めて、僕はナミ先生が好きなんです」
「……」
私は原口さんをじっと見つめて固まった。
こんな恋愛小説のヒーローが言うようなクサいセリフを、地で言える彼が信じられなくて。
彼ってこんなキャラだったっけ? 少なくとも、付き合い始める前はこんなセリフ絶対言わなそうなタイプだと思っていたけれど。
もしかして、こっちが彼の素で、前はネコ被ってたとか?
「あと、未だに下の名前で呼んでくれないところも」
「~~~~~~~~っ!」
私はぐうの音も出ない。よりにもよって、一番痛いところをついてきた。
「もう付き合い始めて三ヶ月近くになるんだから、そろそろいいんじゃないですか?」
「わっ……、分かりました! 呼べばいいんでしょ、呼べばっ! その代わり、絶対に笑わないで下さいねっ!」
意地悪そうに言われ、私はもうヤケになってわめいた。――こういうところがMだよなあと、自分でも思う。
「こ……こ……晃太……さん」
何とか勇気を振り絞って呼んでみた。でもまだ、相手が五つも年上ということもあって、呼び捨てにする勇気までは出なかった。
「はい、よくできました☆」
「…………はい」
なんで上から目線なの? ちょっとムカついたけど、これって褒めてるんだよね?
――ピンポン ♪
エレベーターが一階に着いた。途中のフロアーで誰一人乗ってこなかったので、降りるまでずっと密室の中で二人きりだった。
「さて、これからますます忙しくなりますよ。ナミ先生」
降りたところで、原口さんが楽しそうに言う。
どうでもいいけど、この人実はMでもあるんじゃないだろうか。私が忙しくなる=編集者の彼も忙しくなるってことだ。
「そうですね。何たって私、今や人気作家ですから」
Mである私は、別に困らない。というか、忙しい方が燃える。
「映画化が本格的に進んだら、先生もメディアに出ることが多くなるでしょうし。そのあたりのマネジメントは僕に任せて下さい」
「お願いします。じゃ、私はこれで」
「駅まで送らなくても大丈夫ですか?」
このごろ、暗くなるのが早い。今はまだ五時半くらいだけど、もう外は薄暗くなっている。女一人で歩くにはちょっと物騒かもしれないけれど。
「大丈夫です。駅まですぐだし。原口さんはまだ仕事あるでしょ?」
彼は編集長なのだ。私以外にも、関わらなきゃいけない作家さんは大勢いる。
それに……、これが一番の私のホンネ。
「あなたに倒れられたら、私が困るから。……彼女として?」
「ナミ先生……」
「それじゃ、ここで失礼します。忙しいのが落ち着いたら、またデートしましょうね」
今の二人には、明るい未来が待っている。だから、ここが私達にとってふんばりどころ。しばらくはお互いに、仕事に専念すべきだと思う。
「はい。じゃ、お疲れさまでした」
洛陽社のビルに背を向けて、私は神保町の駅に向かって歩き出す。
たとえ触れ合うことがなくたって、私達は心が通じ合っているからいつでも繋がっていられる。声さえ聴けたら、それだけで頑張れる。
「よぉーっし、頑張ろ!」
私は電車待ちの間に、小さくガッツポーズして自分に気合いを入れた。
――人気作家巻田ナミ・二十三歳。私はこれからも一本のシャープペンシルを武器に、愛のこもった小説を世に送り出していく。
私の作品を愛してくれる読者さん達のため、そして大好きな彼氏で担当編集者の原口晃太のために――。




