2・恋かもしれない……。⑴
苦手だと思っていた原口さんが、いつの間にか気になり始めていたなんて。
中学時代からずっと恋愛小説を書いてきたのに、自分の中の恋心の芽生えに気づかないなんて! 私って恋愛小説家失格かな?
「じゃあ、私が今まで書いてたのって、一体何だったんだろう?」
私は作家として、ちょっと自信をなくしかけていた。
一応、私だって二十三年間生きてきて、恋愛をした経験くらいはある。……数える程度だけれど。
だから、恋の始まりがどんな感じなのかはだいたい分かっているつもりだったし、作品を書く時もたいていはそれを参考にしているのだけれど。
そんな私も、苦手な異性が気になったことは今までに一度もなかった。
だからなのかな? 彼に心惹かれていることに気づけなかったのは。
――私はその後、簡単なものでブランチを済ませ、暇を持て余していたので、改めて仕事部屋の本棚にある自分の著書を読み直してみることにした。
二年間の作家生活で出した本は、たったの三冊。これは決して多くない。
けれど私の場合、デビュー作の長編書き下ろし作品以外は雑誌〈ガーネット〉に連載されてから単行本化されることの方が多かったので、まあこんなものだろうか。
「――う~ん、やっぱりないなあ。苦手な異性に恋する話……」
三冊とも読み終え、私はボヤいた。
というか、なくて当たり前なのだけど。作者自身に書いた覚えがないのだから。
「もう、どうしたらいいのよ……?」
今までなかった経験に、途方に暮れる。
原口さんは私にとって大事な仕事上の相棒でもある。そんな彼と、私はこの先どんな顔をして会えばいいんだろう?
誰か、相談に乗ってくれる人はいないものか? ……と私が思っていたら。
♪ ♪ ♪ ……
机の上に移動させていたスマホが鳴った。電話の着信音だけれど、誰だろう?
ちなみに、原口さんでないことは確かだ。彼からの電話はすぐに分かるように、専用の着信音を設定しているから。
「――ん? 琴音先生からだ!」
電話を下さったのは、私より七歳年上の先輩作家・西原琴音先生だった。彼女も私と同じく、〈ガーネット〉で活動されている。
私はいそいそと通話ボタンをタップした。
「はい、巻田です」
『もしもし、ナミちゃん? こんにちは』
聞こえてきたのは気取りのない、明るくて優しい女性の声。
「こんにちは。琴音先生、今日は会社はお休み……ですか?」
琴音先生も大手商社でOLとして働きながら執筆活動をしている兼業作家仲間。そのため私と気が合い、私のことを実の妹みたいに可愛がってくれている。……のだけれど。
『うん。だって今日、土曜日だよ?』
さも当然のように言われ、カレンダーを見た私は「……あ」と声を漏らした。
バイトのシフトが不規則なうえ、作家という職業には週休二日制の概念がないのですっかり忘れていた。一般企業の勤め人は普通、土日祝日が休みだということを。
原口さんも一応会社員だけれど、編集者さんは休日出勤も多いからどうなんだろう?
『あたし、締め切り明けて今日は予定もないし、ヒマなんだ。ナミちゃんも今日休み?』
「はい。私も今日脱稿したんです。バイトも休みですよ」
『そうなんだ? お疲れさま。ナミちゃんは原稿手書きだから、大変だったでしょ?』
琴音先生は私ができないパソ書きをバリバリやっていて、実はちょっと憧れている。
「ええ、まあ……。ところで琴音先生,実は今、私の方から電話しようと思ってたところなんです。ちょっと、相談に乗って頂きたいことがあって……」
自分から誰かに電話しようと思っていたところに、琴音先生からの電話。私にとっては〝渡りに舟〟だった。
すぐさま思い立って、私は琴音先生にお誘いをかけた。
「――あの、琴音先生。もしよかったら、今日これから私に付き合って頂けませんか?」
彼女なら人生経験もそれなりに豊富だろうし(……って言ったら失礼かな? でも、少なくとも私よりは豊富だろうから)、きっと何かいいアドバイスがもらえると思う。
『相談? いいよ。じゃあ、神保町まで出てこられる? あたし今、そこのカフェにいるから、一緒にお茶しようよ』
「はい! 今から電車ですっ飛んで行きますね!」
私がそう答えると、琴音先生はカラカラと小気味よく笑った。
『……ハハハッ! そんなに急ぐことないから。うん、じゃあ後でね』
彼女の笑い声の中、電話は切れた。
そういえば私、何に対しての相談ごとなのか話してなかったけれど、琴音先生はちゃんと話を聞いてくれるかな? ――きっと大丈夫。彼女なら広い心で受け止めてくれる。
「――さてと、着替えようかな」
私は開けるのが本日二度目のクローゼットを開けた。
朝は慌てて着替えたから、今の私の服装は部屋着とほとんど変わらない。
カフェでお茶するだけにしたって、電車にも乗るのにこれじゃカジュアルすぎるよね。
とりあえずスカートはそのままで、トップスは白のノンスリーブと淡いピンクのコットンブラウスに替えた。襟足の部分をルーズにずらして今時っぽくする。
ハイカットスニーカーを履き、キチンと戸締りをして、最寄りの代々木駅まで走っていった。
――けれど、私はすっかり忘れていた。今日は土曜日で電車が混むことも、自分が人混みを苦手としていることも……。
****
「――琴音先生、お待たせしちゃってゴメンなさいっ!」
三〇分後。私は洛陽社にほど近い神保町のセルフ式カフェの店内で、待っていて下さった琴音先生にペコッと頭を下げた。
今日は土曜日なので、満員電車が苦手な私は電車を二,三本遅らせた。そのせいで着くのが遅くなってしまったのだ。
「ああ、いいって。気にしないでよ。あたし今日はヒマだって言ったじゃん? とりあえず、そこ座ったら?」
琴音先生はあっさり私のことを許してくれて、向かいの空いている席を勧めてくれた。
西原琴音先生はモデルさんみたいにスラリと身長が高くて、スタイル抜群。でも全く気取ってなくて、優しいお姉さんという感じの女性だ。
私はアイスカフェラテとガムシロップの載ったトレーをテーブルに、バッグを椅子の傍らに置き、勧められた席に着いた。
琴音先生の前には、白いカップが置かれている。中身はカフェオレかな?
今は四月なので、温かい飲み物にしてもよかったのだけれど。私は猫舌なので、熱いのが苦手なのだ。
「――それでナミちゃん。電話で言ってた相談ごとってどんなことなの?」
私が席に着き、落ち着くのを待ってから、カップを両手で持った琴音先生が話を促す。
「えーっと、実は……恋バナ……なんですけど……」
「うん」
彼女が私の顔をまっすぐ見て〝聞く姿勢〟に入ってくれたので、私は全てを話すことにした。
ずっと「苦手」だと感じていた原口さんのことが、気になっていること。彼のSな発言がちょっと楽しみになっていること。
でも、過去に経験したことがないから、これが〝恋〟なのかどうか自信がないこと。
これから先、彼にどんな顔をして会えばいいのか悩んでいること……。
「――あの、まず一つ確認していいですか? これって〝恋〟……で間違いないんですよね?」
「え、まずそこからなの? ……うん。それはもう〝恋〟で間違いないよ。原口クンのこと、異性として意識し始めてるんなら」
「原口……〝クン〟?」
私は琴音先生の答えよりも、原口さんへの呼び方が気になった。
どうしてそんな親しげな呼び方ができるんだろう? と思うのは、気にしすぎかな?
「ああ、ゴメンね! あたしの方が年上だからさ、ついつい馴れ馴れしく呼んじゃうの。別に特別なイミはないから気にしないでね」
……あ、そうか。琴音先生より原口さんの方が二つ年下なんだっけ。
でも彼女はオトナの女性だから、たとえ何かあったとしても、隠したりはぐらかしたりするのもうまそうで油断できない。
とはいえ、私は別に彼女と原口さんとの仲を勘繰るつもりなんてないけど……。
「――あ、話戻しますね。私、苦手な相手を好きになった経験なくて……。琴音先生、そういう経験ありますか?」
年齢だけでもわたしより七つ年上なうえに、彼女は私より大人の色気もある。恋愛経験だって、確実に私より多いはず。
――というか、訊いてしまってから「私ってばなんて野暮な質問をしてるんだろう」と思ったけれど。
「苦手な人を好きになった経験? うん、あたしにも経験あるよ」
「ほっ、ホントですか!?」
私は思わず,テーブルから身を乗り出す。こと恋愛に関しては百戦錬磨だと思っていた琴音先生に、苦手な男性がいたなんて……!
「そんな驚くことかなあ? あたしだって、昔から男慣れしてたワケじゃないよ」
琴音先生は苦笑いしてから、私に経験談を話してくれた。
「もう六年も前の話だよ。あたし、就職してから一年で今の会社に変わったの。その時の上司が、すごく苦手なタイプの男性でね……」
彼女はテーブルにカップを置き、遠い目をしながら頬杖をついて話し始めた。
「その人ね、あたしがヘコむくらい毎日仕事にダメ出ししてきたの。それも、なぜかあたしだけにピンポイントでね。正直、『なんであたしばっかり目のカタキにするの?』って思ったし、その人のこと苦手になったの。……でもね」
「〝でも〟?」
気になるところで彼女の言葉が途切れたので、私は続きを促すように彼女を見つめる。
琴音先生はカフェオレをまた一口飲んでから、再び口を開いた。
「ある時に分かったの。その上司は、部下であるあたしへの期待と愛情から、あたしにダメ出ししてくれてたんだって。――で、その時からあたし、その上司のことが気になり始めたんだ」
「あ……」
彼女の話を聞いて、私はふと思った。もしかしたら、原口さんもその上司の男性と同じなのかも、と。
「……で、その人に想いは伝えられたんですか?」
私の問いに、琴音先生は悲しげにゆっくりと首を振った。
「伝えられなかった。……好きだったけど、相手は妻子持ちだったから。その人の幸せな家庭を壊すなんてできなかったし、あたしは想ってるだけで幸せだったからね」
失恋の悲しい思い出のはずなのに、話し終えた琴音先生はなぜかスッキリした顔をしている。
私には彼女が(もちろん私より年上なのだけれど)年齢よりずっとオトナの女性に見えた。
「そうなんですか……」
そう言ってからアイスラテをストローですすった私は、別の質問をぶつけてみる。
「ちなみに今、彼氏っていらっしゃるんですか?」
彼女は今もすごくモテるから、浮いた噂の一つくらいはあるだろう。
……正直、琴音先生と原口さんとの間に今何もないって信じたいだけかもしれないけれど。
「今はいないなあ。っていうか、前の彼氏と二年前に別れて以来、あんまり長続きしないんだよねえ……。声かけてくる男はいるんだよ、もちろん」
「ほえ~っ……。いいなあ。私にも琴音先生ほどの色気がほしいです」
願望が思わず口をついて出ると、琴音先生にフフッと笑われた。
「何言ってんの。ナミちゃんだって十分可愛いし魅力的よ。さっきから、窓際の席のお兄さん、ナミちゃんのキレイなうなじに見入っちゃってるし」
「えっ、ウソっ!? ……やだもう」
彼女が指さす席の方を見れば、確かに大学生くらいの若い男性が、私の首の後ろを凝視している。
私は慌てて自分の手でうなじを隠した。
――というか、さっきから話が脱線しまくっているような……。
琴音先生もそのことに気づいたらしく、カップの中身をスプーンでかき回しながら話の軌道修正をはかった。
「――あ、ゴメン。話戻すね。……あたし、さっきふと思ったの。もしかしたら原口クンも同じなんじゃないかな、って。あたしが苦手だと思ってたあの上司と」
「……はい。実は私も同じこと感じたところです」
私の反応に、琴音先生は目を瞠った。
残念ながら彼女の上司にはお会いしたことがないけれど、その人の言動が原口さんと似ているなあと思ったことは事実だ。
……まあ、その人にSっ気があるかどうかは私の知るところではないけれど。
「ねえ、ナミちゃん。彼が担当してる作家さんって、みんな直筆で執筆されてる先生ばっかりだって知ってた?」
「そうなんですか? 知りませんでした」
私は首を横に振った。
琴音先生が原口さんの担当外だということは知っていたけれど。だから余計に、彼と過去に何かあったのでは……と思ってしまう。
そもそも、原口さんは自分が担当している他の先生のことを、私には教えてくれない。――まあ、「個人情報が云々」といわれるこのご時世だから、話せないというのも分からなくもないけれど。
「うん、そうらしいの。偶然だろうけどね。でね、その中でナミちゃんが一番若いらしいの。だから、原口クンはナミちゃんに期待してるんじゃないかとあたしは思う」
「私に期待……ですか?」
私は首を傾げた。それが本当だとしたら、一体どちらの意味での〝期待〟なんだろう?
作家として? それとも別の意味で……?
「ほら、若いうちなら努力次第でパソコンだってどうにか覚えられそうでしょ? だから期待してるのかもよ? それに」
そこでまた一度カップに口をつけてから、琴音先生は続きを言った。
「ナミちゃんの作品のよさを一番理解してくれてる味方は、他でもない彼でしょ?」
琴音先生ってスゴい。私の考えてること、全部お見通しなんだもん。だから。
「……はい。そうかもしれません」
私は素直に認めた。ちょっと悔しいけどその通りだと思ったから。
確かに原口さんは口うるさいしSだし、イヤミったらしい時もある。
でも、彼が私の小説を貶したことは一度もないし、ダメ出しだってめったにしない。
本当はもっと褒めたいだろうに、ダメ出しも担当編集者の仕事だからとあえて厳しいことを言ってくれているのだと、私にも分かっている。
それはもちろん私のためなんだろうし、それこそが彼が私の小説を誰よりも愛してくれている何よりの証拠だと私も思う。
けれど私は、やっぱり彼のことが苦手だ。