後日談・二ヶ月後……⑵
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三〇分後のことだった。
ちょっと空いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。
そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。
「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」
私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。
「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」
「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」
ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。
備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。
カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。
「――お待たせ!」
数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。
「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利くなあ」
原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味?
いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。
「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」
首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。
「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」
……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。
「いただきます」
一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。
下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。
それとも、ただマイペースなだけなのか……。
「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」
「えっ、引っ越すんですか?」
私も紅茶をすすりながら呟くと、彼が驚いたように私の顔を見た。
「うん。この部屋、ちょっと手狭になってきたし。印税もたんまり入ったから、もっと広い部屋に引っ越したいなーと思って。家賃はちょっとくらい高くなってもいいから」
作家を二年半もやっていると、資料となる本も増える。このごろ、ちょっと置き場所に困ってきているのだ。
とりあえずは、リビングの一画を本置き場として使っているけど、せめてもう一部屋ほしいところ。
もちろん、そういう物理的な理由もあるのだけれど……。
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」
「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」
彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。
「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」
「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」
ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。
「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」
「え……」
「その時は、お手伝いよろしく☆」
「…………はい」
私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。
しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。
「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」
「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
「うん。あの子の今の夢は、友達の結婚式のプランを作成することだって前に言ってました。……差し当たっては、私の」
「へえ……。で、先生はどうなんですか? 結婚は早い方がいいですか?」
私は彼の問いに,首を振った。
「特に急いではいないかな。まだ若いし、あなたとだってまだ付き合い始めてそんなに経ってないから。――まあ、仕事は両方とも、結婚しても続けられるから心配はしてないんですけど」
結婚を急いでいるのは、むしろ原口さんの方じゃないだろうか? アラサーにもなると、ご両親からやいやい言われていたりするかも。
「……まあ、あなたの方が急いでるなら、考えなくもないですけど?」
「いやあ、実は僕もそんなに急いでないんですよねえ。親からはうるさく言われてますけど、今どき三〇前で独身の男なんて珍しくないでしょ?」
「そうですよねー。まあ、将来のことはこれからゆっくり考えましょ。今は一緒にいられるだけで幸せだから」
私はそう言うと、自分から彼にキスをした。……もう何度もしているのに、やっぱりまだ慣れない。
「……相変わらず下手くそですね」
「もー、うるさい! 放っといて下さいっ!」
彼のSな感想に、ロマンチックな雰囲気はブチ壊し。でも、彼はこうでないと彼らしくない。
私はヘヘッと笑って、持ち上げていた頭を再び彼の肩に預けた。
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」
私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。
今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。
「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」
「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」
これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃っている。
「じゃあ……、邦画の方で」
「了解☆」
私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。
――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。
「「わ…………」」
途中で際どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。
あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬きひとつせずに画面に釘付けになっていた。
……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。
「お~い、起きてますかぁ?」
「…………ぅわっ!? ビックリした!」
ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。
「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」
「スミマセン」
お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。
「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」
映画は二時間足らずで終わった。
プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。
「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」
この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ねた。
実は確信犯だということは、もう彼にバレバレだろうけれど。
****
――結局、彼はやっぱり泊っていくことになった。
洗い物を済ませてから二人で交代に入浴し、寝室で甘~~い時間を過ごしたら、私は無性に書きたい衝動にかきたてられた。
「――ゴメンなさい、原口さん。私、これからちょっと仕事したいんですけど。机の灯りつけてても寝られますか?」
私が起き上がると、彼は「仕事って、執筆ですか?」と訊き返してくる。
「そうです。眩しいようだったら、ダイニングで書きますけど」
「いえ、僕のことはお気になさらず。……ただ、明日出勤でしょ? あんまり遅くまでやらないようにして下さいね」
「うん、ありがとうございます。キリのいいところまでやったら、適当に寝ます。だから気にせず、先に寝てて下さい」
私はベッドから抜け出して、部屋着の長袖Tシャツの上からパーカーを羽織り、机に向かった。書きかけの原稿用紙を机の上に広げ、シャープペンシルを握る。
ノートパソコンは、相変わらずネットでしか稼働していない。
タイピングの練習は、時間が空いた時だけやっている。でも、パソコンで執筆する気にはやっぱりなれない。
原稿を書きながら、数時間前に観た映画のラブシーンとついさっきまでの彼との濃密な時間を思い出しては、一人で赤面していた。
私が書いている恋愛小説は濃厚なラブシーンが登場するようなものじゃなく、主にピュアな恋愛を描いているものがほとんどなのだけれど。
私の恋は、小説やTVドラマや歌の世界を地でいっている気がする。
潤のことも、もちろん本気で好きだった。だから、「小説家なんかやめろ」って言われてすごく傷付いたんだと思う。
「どうして好きな人に応援してもらえないの?」って。
でも、原口さん相手ほどは燃えなかったなあ。こんなにどっぷり好きになった相手は、多分彼が初めてだ。そして、ここまで愛されているのも。
だって彼は、私のことを丸ごと愛してくれているから。私のダメなところも全部認めてくれて、決して貶さないし。……こんなに出来た彼氏は他にいないと思う。
――集中してシャーペンを走らせ、原稿用紙十五枚を一気に書き上げると、時刻は夜中の十二時過ぎ。いつの間にか日付が変わっていた。
「ん~~っ、疲れたあ! そろそろ寝よ……」
私はシャーペンを置き、思いっきり伸びをした。ふと、後ろのベッドを振り返る。
原口さんは狭いシングルベッドの片側に寄って、窮屈そうに眠っていた。
私の寝るスペースをちゃんと空けてくれているのはありがたいけれど、やっぱりちょっと彼が気の毒だ。
「やっぱ、早いうちに引っ越し考えた方がいいかな……」
彼とくっついて寝られるのは私自身は嬉しいけれど、長身の彼にはもうちょっと広々と寝てもらいたい。……できることなら。
――私は大欠伸をしながらベッドに入り、彼が空けてくれているスペースに収まった。
彼の体温に包まれながら、私は穏やかな気持ちで眠りにつく。
「おやすみなさい、原口さん……」
****
――翌朝、原口さんはバイトに出勤する私に合わせてわざわざ早く起きてくれたので、一緒に朝ゴハンを食べた。
今日のメニューは白いゴハンに焼き鮭、キュウリとナスの浅漬け、そしてきのことカボチャのお味噌汁。秋が旬の食材をふんだんに使ったメニューだ。
たまには洋食の朝ゴハンにしようかとも思うのだけれど、原口さんは和の朝食がお好みらしい。
「――そういえば、ナミ先生って和食以外もよく作るんですか?」
ゴハンをお代わりしながら、彼が訊いた。
……あ。そういえば彼がウチで食べる料理ってほとんど和食だ。洋食系のメニューって食べてもらったことあったっけ?
「うん、作りますよ。中華とかカレーとかも。でも、さすがにハヤシライスは作ったことないなあ」
昨日のデートで、彼と一緒にカフェで食べたハヤシライスはおいしかった。……でも、自分で「作ってみたい」とまでは思わない。
私は創作の面では結構攻めるタイプだと思うけれど、どうも他の面では守りに徹するタイプみたいだ。
そういえば恋愛でもそうだった。原口さんのことが好きだと気づいた時だって、自分からはグイグイ行かなかった……と思うし。
「――僕、ナミ先生が作ってくれる和食大好きなんですけど。たまには洋食系のメニューも食べてみたいなあ……なんて。……すみません、今のは忘れて下さい」
「…………え」
彼からの思いがけないリクエスト。嬉しくて、嬉しさのあまり、私の思考は一時停止した。
創作面以外では冒険なんてしたことなかったけれど、彼のためならちょっとは冒険してみてもいいかもしれない!
「いいですよ。今度原口さんが泊まりに来た時、チャレンジしてみますね」
「えっ、ホントですか!? ありがとうございます! 楽しみにしてます!」
原口さんはすごく喜んでくれて、朝食をキレイに平らげてくれた。
――その後彼は、バイトに出勤する私と一緒にマンションを出て、そこで別れた。




