後日談・二ヶ月後……⑴
――私と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。
今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。
「――ナミ先生、映画面白かったですね」
シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。
「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」
「あと、監督さんの、ね」
私達の会話は、傍から見れば映画評論家同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。
今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田アスカ先生(ちなみに男性である)の人気小説が実写映画化された作品。
原口さんは岸田先生の担当についたことはないけれど、この先生の作品のファンらしく、またメガホンをとった監督さんのファンでもあったため、「この映画、観に行きませんか」と私を誘ってくれたのだ。
何より私は、愛しの原口さんがデートに誘ってくれたのが嬉しくて、行き先なんて関係なく「行きます♪」と返事したのだけれど……。
だってそれまでのデートはほとんどが、私の方が誘う側になっていたから。
原口さんは少しSっ気もあるけれど、基本的に照れ屋さんだと最近気づいた。
呼び方だって、やっと下の名前で「ナミ先生」って呼んでくれるようになったのはつい最近のことだった。――私はまだ彼を「晃太さん」とは呼び慣れないでいるのだけれど。
――話を戻そう。
「ナミ先生は、もしご自分の作品に映画化の話が来たらどうしますか?」
夕方五時半を過ぎ、「お腹が空いたので夕飯を食べよう」と入ったカフェで、彼が〝恋人の顔〟ではなく〝編集者の顔〟で私に訊いてきた。
オーダーしたのは二人ともハヤシライス。これはお互いにマネをしたのではなく、たまたま同じものが食べたかったからである。
――また話が逸れてしまった。
「う~ん、『どうする』って……。そりゃ嬉しいですよ。お断りする理由なんてないし。……でも、そんな話来るかなあ?」
「来ますよ、きっと。先生の作品を世界で一番愛している僕が言うんだから、間違いないです」
「そんなオーバーな……」
私はちょっと困惑しながらも、実はまんざらでもなかったり。
私の過去作五冊は、今や全部が重版されている。紙書籍がなかなか売れないといわれているこのご時世に、なんと小説四作が合計で八〇万部以上の売れ行きだというから、作者である私自身が一番驚いていた。
そして八月に出したエッセー本も、この二ヶ月間でもう第五版まで重版されている。
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」
運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。
この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。
「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」
「えっ、専業?」
「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」
「はあ……」
原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。
「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」
彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。
「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」
「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」
「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」
彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥めた。
「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策が、実は一つだけあるんですけど」
「解決策って?」
私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。
「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」
私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。
「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦めたくないみたいですね」
「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出版社さんで活躍してほしいんです。その方が認知度も上がりますし。――だから、ウチの社だけに縛りつけておくのはどうなのかなあ、と……」
「でも、専属になってくれたら、それはそれで嬉しいんでしょ? 編集長としては」
「はあ、まあ……そうなんですけど」
彼も心境は複雑なようだ。個人的には、彼氏として私が自由にいきいきと作家活動をいていくのを見ていたい。でも、出版社の人間としては、自分の会社の専属作家として本をバンバン売り出したい。……そんなところだろうか。
「まあ……、一応考えときます」
私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。
だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。
まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。
「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」
「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」
「〝やっぱり〟って何が?」
自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。
「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」
私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。
「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」
「ええ~~!?」
私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。
「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々しいアピールはやめましょうよ」
「……バレたか」
本当は最初から私がご馳走するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。
――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。
「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」
「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」
「……どういう意味?」
褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。
「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」
とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。
「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」
彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活も少しずつ分かってきた。
彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。
もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。
そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂にある。
お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。
出身は前にも聞いたけれど兵庫県の南東部。でも神戸じゃない。どうりでたまに関西弁がポロっと出るわけだ。
彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
今はもうすっかり諦めて、関西弁も出るに任せているんだとか。
「――さて、まだお別れするには時間早いですけど。どうしますか? 私の部屋に来るか、それとも原口さんのお部屋に行くか」
十月に入ってから、夜はすっかり冷え込むようになった。〝寒い〟というほどではないけれど、ちょっと暖まりたい気分。
「ここからだったら、私の部屋の方が近いかな」
私達が今歩いているのは、渋谷の道玄坂。赤坂よりも代々木の方が近いに決まっている。
「で、夜遅くまで一緒にいて、終電に間に合わなかったら『泊って行って』って言うんでしょ? もう毎度のパターンですよね」
「うっ……!」
もう! 私の魂胆バレバレ! だって、せっかく付き合い始めたんだから、できるだけ長く一緒の時間を過ごしたいんだもん。それが女心ってものだ。
「でっ……、でも毎回じゃないでしょ!? 私があなたのお部屋に行くことだってあるじゃないですか!」
「その場合、ナミ先生の方が『帰りたくない~』ってウチに泊ってくじゃないですか」
「…………はあ」
反論すると打てば響くように返され、私はそれ以上の反論を諦めた。思いっきり図星だったからだ。
違わない……よなあ。場所が違うだけで、やっていることはまるっきり同じだもん。
ちなみに、私達はすでにお互いの部屋の合鍵を交換している。
どちらかの部屋で朝まで一緒に過ごしても、どちらかが休みでどちらかが出勤日の場合、自由に行き来ができるように。
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」
明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。
「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」
彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。
でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。
「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」
「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」
……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。
「そっ……、そんなことは――」
「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。
「……うん、確かにそうかも」
情けないことに、彼の指摘は思いっきり的を射ていた。
「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」
「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」
「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。
悪態はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。
「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」
最後はもうほぼ自虐ぎみに言って、私は肩をすくめた。
「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」
原口さんは首を傾げる。
「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」
私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。
酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。……自分でも、なんて色気のない女だろうと思う。
「ね? 可愛げないでしょ?」
私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。
「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」
「……はあ、それはどうも」
そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。
「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」
「えっ、どんなところが?」
私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑わせていたかもしれないってこと……?
「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保つのが大変だったんですから」
「うう……っ!」
思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆った。
当たり前だけれど、やっぱり原口さんも成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々を目にしながら、一人悶絶していたなんて。
「……手、出そうとは思わなかったんですか?」
恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。
「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」
鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。
どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。
「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」
小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。
「はっ……!? あ……、スミマセン」
恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。
「……え? なんかおかしいですか?」
「ううん、別にっ!」
そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。
彼もムッとするどころか、逆に私につられて笑いだし,周りの人達をさらにポカンとさせていた。
彼は本当に素直な人。見栄も張らなきゃウソもつけない。でもそこが彼の一番の魅力だと私は思う。
「……でも、これからはいくらでも手を出してくれてOKですから。恋人なんだし大人同士だし、誰に気兼ねすることもないんですから」
「はあ……。でも驚きましたよ。女性側もそんなこと考えてるんだな……」
「そりゃあ……、私も大人だから?」
そう言って彼をジッと見つめ、腕を絡めた時、電車がホームに滑り込んだ――。




