エピローグ
――私と原口さんが結ばれてから数週間が過ぎた八月上旬。
〈パルフェ文庫〉の創刊第一号・『シャープペンシルより愛をこめて。』の発売が三日後に迫る中、私のスマホに彼からのメッセージが受信した。
『編集部が完成したので見にきませんか?』
さらに、公式サイトに書影もアップした、とのこと。私はそれが一目で気に入った。
私の文字がそのまま使用され、あとは原稿用紙のマス目とシャーペンの写真・ペンネームがデザインされているだけでとてもシンプルだけど、それが却って斬新だ。
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――その翌日、バイトの休みを利用してできたてホヤホヤの編集部を訪れた。
午前から来てもよかったけど、忙しいと迷惑がかかるかな……と思い、午後にした。
洛陽社のビルにはもう何度も来ているけれど、ここが彼氏の職場となると別の意味で緊張する。彼の働いている姿が見られると思うと……。
日傘の柄を手首に引っかけ、オフショルダーの服でむき出しの肩に提げたバッグを担ぎ直し、私は八階でエレベーターを降りた。
この階は文芸部門のフロアーで、いくつかのレーベルの編集セクションと小会議室が数室あり、中でも〈ガーネット〉の編集部はこのフロアーの実に三分の二を占めている。
「――あ、巻田先生! お待ちしてました!」
小会議室が並ぶ廊下で、彼氏(!)になったばかりの原口さんが待っていてくれた。
「原口さん! お疲れさまです。ご厚意に甘えて来ちゃいました」
「〈パルフェ〉の編集部は一番奥です。案内しますね」
彼に先導され、私は〈ガーネット〉を含む他のレーベルの編集部をぐんぐん横切っていく。
「――ところで、私達付き合い始めてもうじき一ヶ月になるんですけど。お互いの呼び方何とかしませんか?」
私はこの場の空気を読んで、小声で彼に提案した。
この一ヶ月ほどで、私達の関係に何か変化があったのかといえば特にそんなこともなくて。呼び方ですらまだこの始末である。
「そうですねえ……、じゃ〝ナミ先生〟?」
「それじゃあんまり変わらない気がするんですけど」
名字呼びから下の名前になっただけで、呼び方が〝先生〟であることに変わりはない。
「そうですかあ? じゃ、僕のこと下の名前で呼んでみて下さいよ」
……出た、久々のドS原口。しかも上から目線で。
「分かりました。――こ……、こ……晃太さん……」
男性を下の名前で呼ぶのなんて潤の時以来のことなので、すんなりとは呼べずにどもってしまう。恥ずかしくて顔も真っ赤だ。
でも、彼はそんな私のことを「可愛い」と笑ってくれた。
「まあ、それは焦らずにボチボチ変えていきましょうか。――あ、着きました。先生、ここが〈パルフェ文庫〉の編集部です」
「へえ……、ここが。小さな部署ですね」
そこは五,六人分のデスクと小さな応接スペースがあるだけの、小ぢんまりしたセクションだった。当然、一番奥のデスクが編集長になった彼の席なんだろう。
まだ片付いていない荷物もあるらしく、あちこちに段ボール箱が残っているけれど、ジャマになっているわけではない。
「〈ガーネット〉の編集部も、最初はこのくらいの規模からスタートしたそうですよ」
「へえ……、そうなんだ」
それが今や、あれだけの大所帯になるなんて。大したもんだ。
「ここもいずれは……と思ってますけど、まだスタートを切ったばかりですからね。――どうぞ、座って下さい」
「失礼します」
私が応接スペースのソファーに腰を下ろすと、原口さんは自分のデスクからプチプチマットに包まれた一冊の文庫本を取ってきて私に差し出した。
「これ、先生が書かれた『シャープペンシルより愛をこめて。』の見本誌です。ご自宅に郵送しようと思ってたんですが、今日来て下さったんでお渡ししておきますね」
「わあ……! ありがとうございます!」
私は受け取った文庫本を、後生大事に胸に抱き締めた。
「私ね、毎回この瞬間が一番『あー、作家になってよかったなあ』って実感できるの。今回は初挑戦のジャンルだったから余計に」
今回の原稿では〝産みの苦しみ〟を経験した分、こうして無事に本になってくれて、喜びも一入だ。
「この表紙、他のレーベルの編集者さん達からも評判いいですよ。『シンプルでいい。特に直筆の題字がいい』って」
「そうなんだ? 直筆やっててよかった」
私はプチプチの外装を剥がし、カバーの手触りを確かめるように表面をひと撫でして感慨に耽った。
そんな私を見つめる彼の目は、深い愛情に満ちている。
「――先生、ここで読んで帰られます? お茶くらいお出ししますよ」
「ううん、帰ってからじっくり読みます。お仕事中なのに、長居しちゃ悪いし。私、これで失礼します」
ソファーから腰を上げると、原口さんがエレベーターホールまで見送ってくれることになった。
「――そうそう、第二号は西原先生が引き受けて下さいましたよ」
「そうですか」
琴音先生とは一悶着あったけど、これからもいいお友達だ。彼女にも新天地でいい仕事をしてほしいと思う。
「じゃあ、第三号はまた私に任せてもらえませんか? テーマはもう決めてあるから」
次回作はウェディングプランナーをヒロインにした話。美加を取材した時から決めていたのだ。
「いいでしょう。打ち合わせはまた後日改めて。――ただし、できればその服はやめてほしいですけど」
「え゛っ、なんで!? 似合いませんか?」
私は濁点付きでブーイング。これを選んでくれた由佳ちゃんには「可愛いよ」って言われたのに! 原口さんからは不評なの!?
ところが、そうじゃなかった。
「いえ、よくお似合いですよ。――ただ、他の男性がいる前でそういう刺激的な格好はしてほしくないな、と」
「…………はあ。そうですか」
なんか意外。原口さんにもそんな、〝独占欲〟みたいな感情があったなんて。
「僕とのデートの時なら、着てきてもらって全然構いませんけどね」
「えっ、デート?」
私は目を輝かせた。交際がスタートしてからもお互いに忙しくて、まだデートらしいデートなんてしていないのだ。
「はい。ただし、先生のおごりで」
「…………!?」
にゃろう。こんな時にまでSっ気発揮するのか、この男は。私はドヤ顔をしている彼氏をジト目で睨みつけた。――けど。
「……なんてね。冗談ですよ」
「もうっ!」
私は彼の背中をバシバシ叩く。傍から見れば、バカップルがじゃれ合っているようにしか見えないだろう。
もしくは、「何を神聖な編集部でイチャついてんだ」も可。――それはさておき。
エレベーターホールに着くと、私は彼にお礼を言った。
「原口さん、忙しいのにわざわざお見送りありがとうございました。じゃ、私はここで」
ボタンを押し、エレベーターを待っていると、私は彼に後ろから抱きすくめられた。
「あ、すみません! つい……! じゃ、お気をつけて」
「はい。……じゃあ」
不意討ちだったけれど、彼の温もりを感じられて私は嬉しかった。それだけで、私は当分頑張れるから。
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――いよいよ明後日が発売日。清塚店長は文庫本コーナーの一角に〈パルフェ文庫〉の棚を設けるだけでなく、「巻田ナミ特設ブース」まで作るんだ、なんて言って張り切っている。
由佳ちゃんも今西クンも乗り気で手伝ってくれているし、発売日は私の出勤日でもあるので、買ってくれる人の反応と本の売れ行きが今からすごく楽しみだ。
私の作家稼業も新たなステージに突入!
でも、レーベルを移籍したって私は変わらない。今までとやることは同じだから。
大好きな原口さんと信頼し合い、時にはケンカもしながら、彼や応援して下さるファンの皆様のためにいい作品をどんどん生み出していくだけ。
一本のシャープペンシルに、全身全霊とありったけの愛をこめて――。
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