9・シャープペンシルより愛をこめて。⑵
――その翌日。
「おはようございます!」
二日ぶりに〈きよづか書店〉のバイトに復活した私は、ケガも不調もウソだったみたいに元気よく出勤した。
「おはよ、奈美ちゃん。今西クンから聞いたよ! 一昨日ケガしたんだって? もう大丈夫なの?」
今日は一緒のシフトに入っている由佳ちゃんが、心配して私を質問攻めにした。
「うん。大したケガじゃなかったし、もう何ともないよ。――あ、店長。おはようございます」
「おはよう。巻田さん、調子はどうかな?」
「はい、もう大丈夫です。一昨日はご心配とご迷惑をおかけしてすみませんでした」
きっと昨日も一日気を揉んでくれていたであろう清塚店長に、私は心からのお詫びを伝えた。
「その調子だと、もう吹っ切れたようだね。よかった」
「はい! 今日からまた、心機一転頑張ります!」
「……? 奈美ちゃん、〝吹っ切れた〟って何が? ケガ以外に何かあったの?」
一昨日は休みだったから事情を知らない由佳ちゃんが、一人首を傾げる。
「うん、まあ……。色々あったんだけど、詳しい話はお昼休みにね。――さ、仕事しよ」
「えっ!? うん……」
私が肩をポンッと叩くと、彼女はまだ釈然としないのか、キョトンとしていた――。
****
「――ええっ!? 奈美ちゃんがスランプ?」
お昼を過ぎ、客足が落ち着いてきたので、私と由佳ちゃんは一緒にお昼休憩を取らせてもらった。
自作のお弁当を食べながら、私は二日前の出来事を由佳ちゃんに話した。――三日前に琴音先生からかかってきた電話のことも。
「うん。まあ、お母さんのおかげで抜け出せたんだけどね」
「っていうか、あの女の人、ホントに原口さんの元カノだったんだねー。ビックリ」
由佳ちゃんがサンドイッチにかぶりつきながら、素直な感想を漏らした。
「まあ、別れたのは自分の不器用さゆえだって、原口さんは言ってたけど。でも分かんないんだ。どうして彼が私を選んだのか」
「やっぱ、奈美ちゃんが好きだからなんじゃないの? なんだかんだで大事にされてるみたいだし」
「うん。……Sだけど」
「そうなの? キャハハ!」
原口さんがSだと聞いて、由佳ちゃんは大笑い。――それはともかく。
これまで私と原口さんがいい関係を築いてこられたのは、信頼されているからだけだと思っていたけど。違ったの? 相手が私だから……?
「――で? 告白の時はもうすぐなの?」
笑いがおさまったらしい由佳ちゃんが、私の顔を覗き込む。
「うん」
締め切りは来月半ばだけれど、今の執筆ペースでいけばそれより早く書き上げられるはず。
そしたらその日が、いよいよ告白決行のXデーだ!
美加も由佳ちゃんも、そして琴音先生も気づいている。彼が私を好きだってことに。
そして多分、私の気持ちを彼も知ってる。告白にはエネルギーが必要だけど、今回はもしかしたら〝省エネ〟で済むかもしれない。
「そっか。きっとうまくいくって、あたし信じてるよ! ――さて、早く食べて仕事に戻ろ!」
「うん!」
作家の仕事と同じくらい、私はこの書店での仕事も大好きだ。このお店で大好きな仲間と働けていることに感謝しながら、私はお弁当の残りをかき込んだ。
****
――それから二週間ほど経った。
週四~五日は昼間はバイト、夜は原稿執筆に精を出し、休日には書けたところまでをチェックするという日々を送り、季節は梅雨からすっかり夏になっていた。今年は梅雨明けが早かったらしい(注・この作品はフィクションです)。
今日は店長のご厚意で、有給にしてもらえた。
――昨日、「今の原稿、明日には書き上げられそうなんです」って私が言ったら、「じゃあ明日は有休あげるから、執筆頑張るんだよ」と言ってくれたのだ。
……というわけで、朝起きて着替えてから仕事机にかじりつき、朝ゴハンとお昼ゴハンもこの机で済ませ(昨日のうちにコンビニでおにぎりやパンを備蓄しておいたのだ)、ひたすらシャーペンを走らせ続けた。
そして、午後三時半。
「よし! 終わったぁ…………!」
最後の一枚をチェックし終えた私は、タイトルを書き終えた表紙を一番上に重ねると感慨深くシャーペンを置いた。
使用した原稿用紙は、あとがきも含めて延べ二八〇枚。普段書いている分量よりはやや少なめだけれど、中身はどの作品より濃いはず。だってここには、〝産みの苦しみ〟を乗り越えた私の全てが詰まっているから。
――今電話をしたら、原口さんはすぐに来てくれるだろうか?
スマホを手に、私は彼のケータイ番号をコールした。……出てくれるかな?
『――はい、原口です』
数コールで彼は出てくれた。
「……あっ、巻田です。お疲れさまです。原稿終わったんですけど、今から取りに来られますか?」
一秒でも早く彼と話したくて、逸る気持ちからつい一方的にまくし立ててしまう。
『あ、お疲れさまでした。もう上がったんですか? 早かったですね。――じゃ、今から伺います』
「はい、お待ちしてます」
電話を切ると、私は原稿を封筒に入れて準備し、リビングで彼を待った。
――いよいよ、告白の時が近づいている。私の鼓動はいつになく速い。
私の精一杯の告白を聞いて、彼はどんなリアクションと返事をしてくれるんだろう?
――そして、待つこと十数分。
ピンポーン、ピンポーン ……♪
……来た! 私はインターフォンのモニター画面に飛びつく。
「はい!」
『原口です。原稿を頂きに来ました』
「はっ……、ハイっ! ロック開けてあるのでどうぞっ!」
思わず語尾が上ずってしまい、インターフォン越しに彼がプッと吹き出したのが分かった。
……恥ずかしい! 緊張してるのがバレバレ! もう二年以上の付き合いなのに(仕事上だけれど)、「今更?」って思われていたらどうしよう?
そしてそのショックで、昨日まで練りに練った告白プランが全部飛んでしまった。
「――先生、おジャマします」
「はい、……どうぞ」
玄関で原口さんを出迎えた私は顔が真っ赤だったはずだけど、彼は「今日、暑いですよね」と言っただけでいつもの定位置に腰を下ろした。――彼なりに空気を読んでくれた?
「あの、先生――」
「あ……、原稿ですよね? ここにちゃんと用意してあります」
何か言いかける彼の機先を制し、まずは原稿の封筒を彼に手渡す。
「あ、ありがとうございます。――あの、ここで読ませて頂いてもいいですか?」
「はい。じゃあ私、冷たいものでも淹れてきますね」
私はキッチンに立つと、二人分のアイスカフェオレのグラスを持ってリビングに戻った。
彼は普段と変わりなく、原稿を一枚一枚めくっている。でも今回はじっくり時間をかけて読み込んでいる気がする。
「――コレ、どうぞ」
グラスを彼の前に置いても、「どうも」と会釈してくれただけで、視線はすぐ読みかけの原稿に戻された。私は何だか落ち着かず、彼の隣りでアイスカフェオレを飲みながら成り行きを見守ることに。
――原口さんが二八〇枚全部を読み終わったのは、夕方五時半ごろだった。
「どう……でした? 誤字とかのチェックはもう自分でしてあるんですけど」
私は彼に、原稿の感想を訊ねてみる。毎回この瞬間はドキドキするけれど、今回の緊張感は普段とはケタ違いだ。
「……いや、これスゴいですよ。恋愛遍歴なんかもう赤裸々すぎちゃって、僕が読むのなんかおこがましいっていうか何ていうか」
「いいんです。あなたに読んでほしかったから」
私の過去の男性遍歴は、あまり人に自慢できるようなものじゃないけれど。それでも好きな人には知っていてほしいから。
「――私ね、前にも話しましたけど、潤とのことがあってから、『もう恋愛は懲りごり』って思ってたんです。もう恋愛で傷付いたり疲れたりしたくないって。……でも私はやっぱり恋愛小説家だから、性懲りもなくまた恋をしちゃいました」
考えていた台詞はどこかに行ってしまったけれど。私のこの想いだけ伝わればいい。
「原口さん。……私、あなたが好きです。多分、二年前に担当になってくれた時からずっと」
よし、言えた! ――さて、彼の反応はどうだろうか?
「…………えっ!? ぼ、僕ですか!?」
……がくぅ。私は脱力した。これってわざとですか? ボケですか?
「そうに決まってるでしょ!? 今ここに、他に誰かいますか?」
「そう……ですよね。いやあ、なんか信じられなくて」
コメカミを押さえながらツッコむと、彼は夢心地のように頬をボリボリ。
でも次の瞬間、彼から聞けたのは思いがけない(こともないか。実はそうだったらと私も密かに望んでいた)言葉だった。
「実は僕から告白しようと思ってたので、まさか先生の方から告白されるなんて思ってなくて」
「え……?」
待って待って! これって夢?
「僕も、巻田先生が好きです。二年前からずっと」
「……ホントに?」
「はい」
こんなシチュエーション、小説にはよく書いてるけど、いざ自分の身に起こると現実味が薄い。
「……あの、あなたが二年前に琴音先生より私を選んだのはどうして? 彼女の方がずっと魅力的なのに」
「それは、僕が心惹かれた相手が先生だったからです。責任感が強くて一生懸命で、でも僕のボケには的確にツッコんで下さって。僕にとってはすごく可愛くて魅力的な女性です」
〝ボケ〟とか〝ツッコミ〟とか、いかにも関西人の彼らしい。――つまり、私達の相性は最強ってことかな。SとMで、当たり前のように惹かれ合っていたんだ……。
「――実はね、私ちょっと前まであなたのこと苦手だったんです。あなたが酔い潰れた姿を見るまでは、あなたのこと口うるさいカタブツだと思ってたから」
あの夜、〝素〟の彼を見て分かった。彼は精一杯、バカにされないように突っ張っていただけなんだと。
「じゃあ、あの夜に僕が本当は何を考えてたか分かりますか? ――もしこのリビングが明るかったとしたら」
「え……」
私は瞬く。と同時に理解した。
男性である彼が、「理性を保てなくなる」という意味。私だって子供じゃないから。
それに……、私も同じような状況を妄想していたから何となく分かる。
「……はい」
私は目を閉じた。自分の心臓の音が、映画の効果音のようにバクバク聴こえてくる。
彼の吐息を間近に感じたかと思うと、唇が重なった。それも一瞬じゃなく、数秒間続いた。長いけれど優しいキス。
唇が離れると、彼は私を抱き締めてこう言った。
「先生、今日はここまでにします。これ以上はちょっと……歯止めが効かなくなりそうなんで」
私はそれでも構わなかったけれど、その台詞が誠実な彼らしいので素直に頷いた。
「じゃ、僕はそろそろ失礼します。――あ、そうだ。一つ、先生にお願いが」
「お願い? 何ですか?」
私は首を傾げる。彼の事務的な口調からして、「やっぱりさっきの続き」とかいう空気じゃなさそう。
「カバーの題字に、先生の字をそのまま使わせて頂けないかなと。……構いませんか?」
「えっ? ――はい、いいですよ」
作家の手書き文字を読者に見てもらえる機会なんてあまりないし、エッセイの内容からしてもそれはすごくいいことだと思う。
「本当ですか!? ありがとうございます! ――じゃ、僕はこれで。また連絡します」
「はい。……原口さん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」
原口さんは玄関先でもう一度私にキスをして、ペコリと頭を下げて帰っていった。
――私はソファーに座り込むと、唇をそっと指でなぞった。そこには柔らかな感触と、どちらのか分からないカフェオレの香りが残っている。グラスを見たら、彼の分も空になっていた。
……私、キスだけで腰砕けになってる。恋をしてこんなになったのは初めてだ。
でも、原口さんに私の想いが伝わってよかった。恋心だけじゃなく、エッセイに込めた想いも。だから、彼に私の字をそのまま題字に使いたいって言われたのはすごく嬉しかった。
『シャープペンシルより愛をこめて。』、――それがあのエッセイのタイトル。
彼に伝わったように、このエッセイを読んでくれる全ての人達にも、私の想いが伝わればいいなと思う。




