9・シャープペンシルより愛をこめて。⑴
『――はい、巻田です。奈美なの?』
お母さんは、コールしてすぐに電話に出てくれた。ちなみに実家の電話はナンバーディスプレイである。
「うん、私。――ゴメンね、今大丈夫?」
『大丈夫よ。お父さん、昨日から大阪に出張中でね。夕飯も一人だから慌てる必要もないし』
「出張? そうなんだ……」
それを聞いて、私は閃いた。お母さん一人の時くらい、外食してラクさせてあげよう!
「ねえ、お母さん。たまには二人で外でゴハン食べようよ。私ね、お母さんに聞いてほしい話があるの。お母さんもラクできるし、一石二鳥でしょ?」
私がまくし立てると、なぜかお母さんは笑っている。
『そうね。お母さんも実はそうしようと思ってたの。――奈美は何が食べたい?』
……あれま、なんて偶然。さすがは親子だけあって、考えてることが一緒だった。
「じゃあ回転ずしがいいな。今からそっちに行くよ。三〇分くらいで行けると思うから、駅前で待ってて」
誘ったのは私の方だし、実の親だからってお母さんに来てもらうのは筋が違う。
『分かったわ、待ってるから。じゃ、後で』
「うん」
――よかった。お母さんに会えば、今のこの状態を打破できそうな気がする。お母さんは作家・巻田ナミにとって〝救いの神〟だから。
「っていうか、着替えなきゃ」
そういえば私、仕事着の白いブラウスのままだった。別にこのままで行っても問題はないのだけれど、オンとオフの切り換えはしておきたい。
トップスは白とグリーンのボーダーのスキッパーに、ボトムスは紺色のカーゴパンツに替えて、私はマンションを出た。
心が少し軽くなったからなのか、左手親指の傷もあまり痛まなくなっていた――。
****
――そして、予告した通りの三〇分後。
「お母さん、お待たせ!」
私は実家の最寄り駅の前で、無事にお母さんと落ち合うことができた。
電車は帰宅ラッシュにぶつかって混んでいたけれど、お母さんとの約束のために遅らせるわけにはいかなかったから、苦手な人混みもガマンして何とか混雑している電車に乗ってきた。
「奈美、無事に着いてくれてよかったわ。あんた、人混み苦手でしょう? 大丈夫だったの?」
「うん、何とかね。お母さん待たせてるのにそんなこと言ってられないもん」
電車の中は一応冷房が効いていたけど、人口密度が高かったせいで蒸し蒸ししていた。その分、外で当たる風のなんて涼しいこと!
自分が会社員じゃなくてよかったとつくづく思う。夏場に毎日この通勤地獄はとても耐えられそうにないから。
原口さんや琴音先生は普段から、こんな苦行に耐えているんだろうな……。そう思うと二人のことを尊敬しちゃう。
「――お腹すいたわね。行きましょうか」
「うん」
私とお母さんは、駅からすぐの回転ずしチェーンのお店に向かって歩き出した。
****
「――いらっしゃいませ! 二名様どうぞ」
元気いっぱいの女性店員さんに案内され、私達親子は店内のテーブル席に向かい合って座る。
開店するレーンから私はサーモンの握り、お母さんはヒラメの握りを取った。
サーモンにお醤油を垂らし、一貫食べたところで私は手を止めた。
「どうしたの? あんた、お寿司大好物でしょ。食べないの?」
確かに、お寿司はバナナと並ぶ私の大好物だけれど。
「うん……、食べるけど。お母さんに聞いてほしい話があるって言ったでしょ? ……あるんだけど」
何からどう話せばいいのか。頭の中を整理しようとすればするほどこんがらがって、なかなか言葉が出てこない。
「あ、そうだ。ビール飲む?」
ヒラメを二貫とも平らげたお母さんが、唐突にアルコールを勧めてきた。
お酒が入った方が話しやすかろうという私への気遣いなのかもしれないけれど、同じく呑兵衛なお母さんのことだ。実は自分が飲みたいだけの気がしなくもない。
「……あ、ううん。私はいいよ」
「そう? じゃ、お母さんもやめとくわ」
私が断ると、お母さんもあっさり引き下がった。
お母さんは熱い緑茶を淹れ、私は店内の冷水機でお冷やを汲んできた。
お冷やを一口飲み、お皿に残っていたもう一貫のサーモンを食べてから、次のお皿(鉄火巻き)を取りつつ、私はようやく本題に入った。
「――実はね、私いま好きな人がいて。でも仕事はスランプ中で、自分でもどうしていいか分かんなくて……」
この二つのことは、まったく別のことのようで実は繋がっている。――でも、聞いているお母さんには何のこっちゃ分からないだろう。
「えっ? ゴメンね奈美、一つずつ分かるように話してくれる?」
「あ、そっか。実はね――」
私は順を追って原口さんのこと、今書いているエッセイが、彼のための大事な仕事であること、でも二年前の琴音先生への罪の意識や重すぎるプレッシャーのせいで筆が進まなくなっていることを話した。
「――でね、私が書けなくなってる原因って多分、『書かなきゃ!』って自分で自分を追い込んでるせいだと思うんだよね」
これが、自分なりに分析してみた私のスランプの原因だ。
「確かに、あんたは昔から一人で責任を背負い込んで思いつめちゃうところがあったわねー」
二皿目のブリをつまみながら、お母さんが頷く。
「…………うう~~」
思いっきり図星だったため、私は鉄火巻きを食べていた手を止めて天を仰いだ。
「ねえお母さん、……私どうしたらいいと思う?」
私は視線を天井から向かい側に戻す。
原因が分かっても、解決策は何も浮かんでこないのだ。
「そんなの簡単よ。ただ初心に帰ればいいだけの話でしょう?」
「へ?」
お母さんの答えは抽象的かつ漠然としすぎていて、マヌケな声しか出てこない。
「じゃあ、もっと分かりやすく訊かせてもらうわ。あんたは一体、誰のために作品を書いてるの?」
お母さんのぶつけてきた質問はシンプルだけれど、それでいて核心をついてきている。
「それは……」
改めて考えると、なかなか難しい。
自己満足? ――のはずはない。じゃあ原口さんのため? ――も違う気がする。
じゃあ……、ファンや読者さんのため? ――うん、そうだった。私、本当に大事なことを忘れてたんだ。
「――そっか。私、分かった気がする。作家として〝初心に帰る〟ってこと。――お母さん、ありがと!」
お母さんのおかげで分かった。というか、思い出した。少し前までの、書くことが楽しくて仕方なかった自分を。
だから義務感は捨てて、もう一度「書きたい!」って気持ちから始めてみよう。
店長や原口さんから言われた〝気持ちのリセット〟って、こういうことだったんだ。
「あ~、なんか食欲湧いてきた! さあ、食べまくるぞ♪」
悩みが吹っ切れた私は鉄火巻きを平らげた後、三皿めを取る。今度はウニの軍艦巻き。
お母さんも負けじと(?)、中トロを取っている。一貫で一〇〇円のお皿だ!
でもやっぱり、私は玉子は食べなかった。
――お母さんって偉大だなあ。娘の私のことをちゃんと見てくれてるし、私が忘れかけていた大事なこともちゃんと思い出させてくれたし。
この人の娘でよかった。私は恵まれているんだなあとまた実感した。
****
「――お母さん、今日はありがとね。ここは私が払うよ」
会計の時、私がお財布を出すと、お母さんがそれを止めた。
「いいから、お母さんが払うわ。あんた生活ラクじゃないんでしょ?」
「うん……」
前回の原稿料もバイトのお給料も入ったけれど、一人暮らしは何かと出費がかさむからできるだけお金は残しておきたいのが本音。
「でも、今日誘ったの私なのに」
「いいの! 今日はお母さんのおごり! その代わり、印税入ったら何かお礼してもらうから」
「……分かった。ゴチになります」
ゴチになるのは構わない。今日の食事代は二人分でも三〇〇〇円もかからなかったから(デザート代込みで)。でも、お礼で高いものをねだられたらどうしよう? そんなに印税入るだろうか?
「――じゃあ、私はここで。お母さん、今日はホントありがとね」
駅の改札前で、お母さんと別れようとしたところ。
「明日もお休みなんでしょ? 今日ウチに泊まってく? ……って言ってもムリよね」
一人は淋しいから言ってみただけらしいお母さんが、すぐに肩をすくめた。
「うん、ゴメンね。早く帰って原稿書きたいから」
たったの一時間ほどでこれだけ意識が変わったことに、自分でもビックリだけど。今は一秒でも早く仕事がしたくてたまらない。
「そう。じゃあ気をつけて帰るのよ。――ところで、その指どうしたの? 大丈夫?」
……え、今頃? 私は少々天然な母親に脱力した。
「……うん、前に進むための〝名誉の負傷〟ってとこかな。でももう大丈夫!」
迷いはなくなったから、傷の痛みもすっかり癒えた。
「それならいいけど。――奈美、これだけは忘れないで。お母さんだけじゃない。原口さんっていう彼も、あんたの新作を楽しみにしてるファンの一人なんだからね」
「うん、分かってるよ。ありがと」
じゃ、とお母さんに背を向けて、私はICカードで改札を抜けた。
私のことを信じてくれている原口さんのためにも、今回の原稿は最後まで書き上げて、私の想いをちゃんと伝えたい。
――電車の窓から見えるライトアップされたスカイツリーが、少しずつ小さくなっていった。
****
マンションに着いたのは、まだ夜の七時半過ぎ。
今日は観たいTV番組もあったけれど、それよりも「原稿を書きたい!」という気持ちの方が強くて。リビングは素通りして、まっすぐに仕事部屋の机に向かった。
「――さあ、書こう!」
シャーペンを手に取るといつもの〝儀式〟を終え、書きかけの原稿用紙を広げた。
――『あんたは一体、誰のために作品を書いてるの?』 ……
お母さん、言ってたね。原口さんも私の新作を楽しみにしてるファンの一人だって。
だから私は書くよ。ファンの皆様と初めて私の本を読んでくれる人達と、そして大好きな原口さんのために!
私の意識の変化は筆の進み具合にも顕れるらしく、「書かなきゃ!」と思っていた時は捗らなかったのに、「書きたい!」と思うと面白いくらいに筆がサクサク進む。
気がつくと夜中の十一時を過ぎていて、なんと二〇枚以上も書いていた。
こうなるともう〝ライターズ・ハイ〟再びなのか、翌日は朝から晩まで書き続け、この二日で書いた枚数は五〇枚以上!
締め切りまであと半月以上を残し、総枚数は二〇〇枚を突破した。
一時は「降りたい」とまで思いつめていたのがウソみたいだ。
この調子なら大丈夫。原口さんとの約束も果たせそうだ。――今、電話しても大丈夫かな? 夜の八時過ぎてるけど。
『――はい、原口です。先生、もう大丈夫なんですか?』
私の復活があまりにも早かったせいか、彼は驚きと心配が半々の声をしている。
「はい、おかげさまで。昨日はご心配おかけしてすみませんでした。もう大丈夫です」
『それはよかった。――で、原稿の方は?』
「昨日と今日で五〇枚以上書けました。今の時点で二〇〇枚超えてます。……ところで原口さん、一つ訊きたいことがあるんです」
『……? 何ですか?』
私が昨日からすっと気になっていること。彼はどうして私が「降りたい」と言った時に「蒲生先生とは違う」と言い切れたのか?
自分が担当している作家がまた仕事を投げ出そうとしたのだから、怒っても不思議じゃない状況だったのに。
それをそのまま訊ねると、彼の答えはこうだった。
『それは、先生がすごくつらそうな顔をなさってたからです。で、ああこれは開き直ってるわけじゃないんだな、と』
「ああ……、そうだったんですね」
それで合点がいった。思ったことがすぐ顔にでる性質に、今回ばかりは感謝したい。
『というか先生、いいタイミングで連絡下さいましたよ。実はたった今、〈パルフェ〉のWEBサイトが完成したところで』
「えっ? じゃあ今、編集部に?」
『はい。僕が編集長なんで、一人残ってサイトの作成してました。――大丈夫です。残業手当ては出ますんで』
……いや、心配はしてましたけども! ご本人が言うことじゃないでしょ、それ。
『先生、そこにパソコンありますか?』
「はい」
洛陽社のホームページから入れるというので、スマホをスピーカーにしてからパソコンを起動し、「洛陽社 パルフェ文庫」で検索してみたら、確かにそこには〈パルフェ〉のポップなデザインのサイトができている。
「サイトに入れました。――えっ? もう私の本の情報アップしたんですか? 早すぎません?」
創刊は八月で、今はまだ六月中旬。しかも表紙どころか原稿すらまだ上がっていないのに。
『まあ、これは宣伝も兼ねて。それに、これご覧になったら先生の士気も上がるんじゃないかと思って』
「はい。これを見て、私も俄然やる気になりました」
原口さんって不器用だけど、時々こうして粋な計らいをしてくれる。おせっかいだと思うこともあるけど、こういうところが憎めないのだ。
『このサイト、スマホからも入れるようにしてあります。あと、SNSのアカウントも作っておいたのでフォローしておいてもらえると……』
「分かりました。ありがとうございます。最後まで頑張って書きますね! じゃ、失礼します!」
電話を切ると、スマホのホーム画面にもサイトのショートカットを貼りつけた。これを見れば、もしまた挫けそうになっても「頑張ろう!」と思える。
「――さて、明日はバイトだし、今日はこれくらいにしとこうかな」
三日ぶりに執筆ペースが戻り、この二日間飛ばしたので疲れた。でもイヤな疲れじゃなく、なんだか心地いい疲労感だった。
そして内容としても、一番のヤマだった恋愛の章を書き終えたことで、少し肩の荷が下りた気がした。




