8・書けない……
『――うん、いいけど……。長くなるよ? それでもいい?』
「大丈夫です。話して下さい。……あ、ちょっと待って!」
スピーカーにしておいてよかった。私はキッチンから麦茶を淹れたグラスを持ってくると、再びスマホの前に座る。
「――はい、お待たせしました。どうぞ」
『うん。――あたし達は、あたしからのアプローチで付き合い始めたの。もしかしたら原口クンがあたしに合わせてくれてたのかもしれないけど、あたし達はうまくいってた』
「はい」
私は麦茶に口をつけてから相槌を打った。
『そんなあたし達の関係が変わったのは、ナミちゃんのデビューが決まってすぐの頃だった。それまでは女性作家さんの担当についたことのなかった彼が、自分からナミちゃんの担当になるって希望したの。不思議に思ったあたしが「どうして?」って訊いたら……』
「はい」
****
――琴音先生の話をまとめるとこうだ。
その日、たまたま次回作の打ち合わせで編集部を訪れていた彼女に、原口さんが私の大賞受賞作の生原稿を読むように勧めた。
彼女はためらったけれど、「ゲラ版はもう校閲に回ってますから」と言われ、それならと読んでみた。
その頃すでに、彼は私のその小説に惚れ込んでいたらしいから、この行動は彼女に引導を渡すつもりの行動だったのかもしれない。
彼女は原稿をベタ褒めし、原口さんから女子大生が書いたのだと聞かされてビックリ。
そして彼女は、彼が私の担当になりたい理由を熱く語られて、彼の中にある私への何かを感じ取った。それが何なのかは私にはまだ分からないけれど、おそらく編集者としての感情以上の何かだったんだと思う。
「自分がこれ以上縛りつけていたら、彼を苦しめてしまう」――。原口さんが器用な人間じゃないことを理解っていた琴音先生は、自ら身を引くことで彼に仕事に専念してもらうことにした。――「恋愛か仕事か」という選択を迫ることなく、彼に仕事を選ばせたのだった。
私が間接的に関わっているっていうのはそういうことだったのだ。そうして二人は恋愛関係に終止符を打ったのだという――。
****
――私はしばらく言葉を失った。
同じ〝別れ〟でも、私と潤の時とはまるで違う。相手のことを想って身を引くなんて、大人じゃないとできない。私にはきっとマネできなかっただろう。
何より、その時の琴音先生の心情を思うとつらすぎて悲しすぎて、胸が痛んだ。
「――ねえ、琴音先生。四月に私が『原口さんのこと好きみたいだ』って相談した時、どう思ったんですか?」
彼女にもし、今でも原口さんへの未練があったとしたら……? 私はあの時、すごく無神経なことをしてしまったのかもしれない。
『う~ん……。ちょっと複雑な気持ちではあったけど、あたしにとってナミちゃんは大事な友人だし。本気で好きなら応援したいと思ったよ』
琴音先生は心の広い人だ。自分の恋愛をダメにした(間接的にだけど)私の恋を応援してくれるなんて。しかも、相手は自分の元カレだというのに!
『二年前に身を引いたのは、あたしの意志。ナミちゃんのせいじゃないし、恨んでなんかいないから。できるならこれからも友達でいたい。……いいかな?』
「えっ……、はい! もちろんですっ! あの、話してくれてありがとうございました」
失礼します、と言って、私から通話を終えた。彼女が原口さんと一緒にいた理由も、二人の関係も分かってスッキリしたはずなのに気は重い。
二年前に二人の間に起きたことと、私と潤の間に起きたことはほぼ同じ。
原口さんは身を引こうとしていた琴音先生を引き留めることなく、仕事(というか私)を選んだ。
あんなに魅力的な女性より私を選んだ理由は何だったんだろう? ――私には作品も含めて、彼女に勝てそうな要素はないはずなのに――。
「はぁーー……。とりあえず着替えよ」
ソファーに座り込んでいた私は、重い腰を上げた。グラスを流しで洗って片付けると、部屋に戻って仕事着のブラウスからゆったりめのTシャツに着替えた。それだけで息苦しさが少しだけマシになった。
食欲はあまりなかったけれど、冷蔵庫の中の作り置きのおかずで晩ゴハンを済ませ、仕事机に向かう。
原稿はライターズ・ハイの甲斐あって、もう一四〇枚くらい書けている。本のページでいえば半分~四分の三くらいだろうか。
章分けでは〝恋愛〟のパートまで進んでいて、過去の恋愛については結末まで書いてしまってもいいのだけれど。現在進行形の恋について書こうと思うと、どうしても二年前の出来事に触れないわけにいかない。
琴音先生への罪悪感がジャマをして、悩みながら書いては消し、消しては書きを繰り返すこと二時間……。筆はあまり進まず、やっと五枚くらい書けたところで筆が止まってしまった。
「あ~~~~! ダメだ! 書けない……」
私は呻きながら机に突っ伏した。
書くのに時間がかかるのはいつものことだけれど、執筆に行き詰ったことは今までに一度もない。私にとっては初めて経験するスランプだった。
こんなに書くのがつらいと感じた原稿は初めてかもしれない。これまでに発表した小説は、書くのが楽しくて仕方なかったから。
でも今は、心の中がグチャグチャで書くことがただの〝作業〟になってしまっていて、ただ機械的に筆を進めているに過ぎない。
エッセイの内容は、書き手の心境とリンクしていると私は思う。だからきっと、小説のように〝無〟の状態でもスラスラ文章が浮かぶなんてことはないんだろう。
「疲れたー……。今日はもうやめよ」
明日もバイトの出勤日なので、もうお風呂に入って寝ることにした。
****
――翌日。まだ心に蟠りを残したまま、私はバイトに出勤していた。
朝起きてから食べたものも、どうやって支度をしてお店に来たのかも覚えてない。
そんな〝心ここにあらず〟な状態でもお弁当作りだけは忘れないのだから、習慣というものは恐ろしい。――それはさておき。
「はぁ~~~~っ…………」
仕事中もひっきりなしに、盛大なため息が漏れる。
今日は由佳ちゃんは休みで、一緒のシフトに入っているのは今西クンだ。それも私のブルーな気持ちの原因の一つである。
私は昨日、由佳ちゃんから彼の気持ちを聞かされたので、気まずさMAXなのだ。
「はぁ~~……」
「どうしたんですか、先パイ?」
「うん……、ちょっとね」
心配そうに訊いてくれた今西クンに、私はお茶を濁す。
――今日は平日だけれど、彼は休講日だったので朝から出勤している。
由佳ちゃんが相手なら、今悩んでいることを全部打ち明けられるのに。今西クンは男の子だし三つも年下だし、しかも私に気があるらしいし。恋の悩みは話しづらい。……あ、仕事の悩みもだった。
今日はアニメ雑誌の発売日。私も開店時間の一〇時まで、今西クンと二人、雑誌一冊一冊にビニール紐をかけて売り場に並べる仕事をしていた。
「――ごめんよ。一〇時になったら、二人のうちどっちかレジに入ってくれないかな」
間もなく開店時間。清塚店長からお呼びがかかる。
「はい! 私行きます!」
雑誌売り場の作業は今西クンに任せ、急いでレジに向かおうとしていた矢先。
「痛っ……たぁ!」
何の不注意でか、私をアクシデントが襲った。雑誌の表紙(それも,厚紙製の丈夫なヤツだ)に左手親指の裏を引っかけてザックリと切ってしまったのだ。
「だ……っ、大丈夫っすか!?」
今西クンが血相を変えている。
それもそのはず。ただの切り傷だし大したことないと侮っていたら、傷は思った以上に深いらしく、ティッシュで押さえていてもなかなか出血は止まってくれない。
「大丈夫だよ、これくらい」
それでも強がっていると、今西クンに叱られた。
「大丈夫じゃないでしょ、それ! レジはオレが行きますから、先パイは休憩室でケガの手当してきて下さい!」
「う、うん。分かった」
私が素直に従ったのは、彼の剣幕に怯んだからじゃない。彼の怒った顔がどことなく原口さんに似ていて、まるで原口さんに叱られているような気持ちになったから。
「……ありがと、ゴメンね。じゃあお願い」
私は店長に事情を話して売り場の仕事を代わってもらい、バックヤードの休憩室で傷の手当てをすることにした。
救急箱から消毒液と脱脂綿・絆創膏を取り出し、傷口を水洗いしてから消毒。出血が止まったのを確認して、絆創膏を巻きつける。
まだ傷はズキズキ疼いているけれど、仕事に戻らなきゃ。――でも、鉛のように重くなった体は思うように動いてくれない。
「あたし、一体何のために頑張ってるんだろ……?」
がむしゃらだった自分が急に虚しくてたまらなくなった。
本業では行き詰まる、心の中はモヤモヤする、そのせいでバイトでは負傷する。昨夜からずっとこんなんで、自分が頑張っていることへの意味が見出だせなくなっていたのだ。
もう逃げたい。仕事も恋も放り出して。
私、こんな惨めな思いをしたくて作家になったんじゃないのに……。
気がつくと、私は泣きじゃくっていた。バイトに戻らないといけないことも、美加に語った夢のことも忘れて、ただひたすら泣いていた。
――しばらくして、休憩室に店長が入ってきた。
「巻田さん、大丈夫かい?」
「……あ、はい。大したことないです。すみません、売り場に戻らないといけませんね」
私は泣いていたことをごまかすために、手の甲で涙を拭った。でも目が真っ赤なことと涙声のせいできっとバレバレだろう。
「いや、今日は早退した方がいい。一時間分は時給出すし、あとは有給にしておくから」
「えっ? でも大丈夫ですから」
なおも食い下がる私を、店長が諭した。
「巻田さん、何か思いつめてるんだろう? 責任感が強い君のことだから、迷惑をかけるのがイヤなのは分かる。でも店長として、今の君をフロアに出すわけにはいかない」
「え……?」
「鏡を見てごらん」
「はい? ――うわ、ひどい顔……」
休憩室の洗面台の鏡に映る自分の顔は、接客業にはあるまじき形相だった。
目が赤いのはもちろん、眉は吊り上がり、眉間にはぶっといシワ。「私,思いつめてます」と顔に描いてあるようなものだ。
「今回はその程度のケガで済んだからいいけど、もし脚立から落ちたら? 今度は不注意じゃ済まなくなるかもしれない。――明日はシフトに入っていないから、ゆっくり休んで気持ちをリセットしておいで」
「はい……」
店長はきっと、私の悩みの原因が本業にあることを分かっている。だからじっくり創作と向き合えるように、早退を促してくれたのかもしれない。
「今西君には僕から伝えておくから、心配しなくていいよ」
私が抜けたことで、彼に負担をかけてしまったことが気になっていたから、店長の気遣いはありがたかった。
「はい、ありがとうございます。お疲れさまでした」
私は店長に頭を下げ、タイムカードを押して帰り支度を始めた。
「それじゃ、失礼します」
バッグを提げて帰ろうとすると、店長が優しい言葉をかけてくれた。
「君の問題、早く解決するといいね」
「はい!」
今日ほど「ここで働いててよかった」と思った日はない。
――帰り道、指の痛みに顔をしかめつつ歩きながら、私はさっきまでのネガティブな自分を反省していた。
……逃げちゃダメ! 全部投げ出してどうすんの!? 原稿書き上げたら、原口さんに告白するって決めたんじゃなかったの!?
「シャキッとしろ、私!」
両手の平で,頬をパンッと叩いた。
私は決意も新たにマンションへと帰り着いた。
****
――私はここで、この問題の根本的な原因について考えを巡らせた。
一つ目は、二年前に原口さんと琴音先生との仲を引き裂いてしまったのは自分だと、勝手に罪悪感を抱いてしまっていること。
二つ目は、この原稿を「書かなきゃ」と強迫観念のように思いつめていること。
一つ目については、原口さんとキチンと話せば解決するのだろうか? なので、まずは二つ目の原因の解決策について考える。
とりあえず「書かなきゃ」と自分を追い込むのはしばらくやめて、自然と「書きたい」と思えるようになるまで別のことで気を紛らわせよう。
――ということで、本を読んだり(原口さんがくれたエッセイ本だ)、スマホのアプリでゲームをしたり、TVを観たり。そうしているうちにお昼になり、お弁当を食べてからまたエッセイ本を開こうとしていると……。
――♪ ♪ ♪ ……
机の上に放置していたスマホに電話が。発信者は……えっ、今西クン!?
『もしもし、先パイ。オレです』
通話ボタンをタップすると、まるで〝オレオレ詐欺〟のような第一声が聞こえてきた。
「今西クン!? いま大丈夫なの!?」
『ハイ。今日はそんなに忙しくなかったし、今休憩中なんで』
「あ……、そうなんだ。今日はゴメンね」
『早退したことは店長から聞きました。先パイ、やっぱり悩んでたんですね』
「うん。……ダメだねえ、私。職場に私情持ち込んで、そのせいでケガしちゃうなんて」
心配をかけまいとして明るく答えるけど、つらいのにそれを抑え込むのってかなりのストレスだ。
『先パイ、つらい時は誰かに寄り掛かってもいいんですよ? なんなら、オレなんかどうっすか?』
「え……」
由佳ちゃんが言ってたこと、本当だったんだ。――でも、私の中でもう答えは決まってる。今西クンには申し訳ないけど。
「ゴメンね、今西クン。気持ちはありがたいけど、私が寄り掛かりたいのはキミじゃないの。……好きな人がいるから」
『……そう、なんすか。分かりました! オレは全っ然ショック受けてないっすから! 大丈夫っすからね!』
彼が強がるのを聞いて、何だか余計に申し訳なくなってしまう。
「ホントにゴメンなさい」
『先パイ、もういいっすよ。これからも、バイト仲間としてよろしくお願いします。じゃあまた』
電話が切れた後、私は新たな罪悪感を抱え込んでしまった。でも、今西クンはきっと大丈夫だ。私より若いし、大学生は忙しいからいつまでもウジウジ悩んでなんかいられないだろう。そのうちきっと忘れるよね。
――というわけで、私は読書を再開した。そして、じっくり読んでみて気づいた。書き手なら誰しもが経験するであろう〝産みの苦しみ〟という代物に。
悩んでいるのは私だけじゃないんだと思うと、少しは書けそうな気がしてきた。
「とりあえず、ちょっとだけ書いてみよ」
改めて原稿用紙に向き合い、シャーペンを握った。利き手は右なので、左手の指の傷は書くことに何の支障もない。
何とか五枚は進んだけれど、それ以上は捗らなくて、私は頭を抱えてしまった。
締め切りの七月半ばまで、あと一ヶ月を切っている。この調子で間に合うのだろうか?
自分から「やります!」と引き受けた仕事だから、原口さんのためにも途中で投げ出すようなことはしたくないのに……。
これが〝産みの苦しみ〟ってヤツなの? どうすればここから抜け出せるのか分からずに、私が頭をもたげていると――。
――ピンポーン,ピンポーン ……
インターフォンが鳴った。
誰だろう? 原口さんなら、いつも予告電話をくれるはずだけれど。
「はい……?」
モニター画面を確かめると、そこにいたのは――。
『原口です。今おジャマしても大丈夫でしょうか?』
やっぱり原口さんだった。しかも珍しくゲリラ訪問だ。
「はっ、はい……。どうぞ」
本当は大丈夫じゃないけど、追い返すのも申し訳ないので、上がってもらうことに。
「おジャマします。突然すみません」
「いえ……。あの、蒸し暑かったでしょ? 冷たい麦茶でも淹れますね」
「ありがとうございます」
彼がいつもの定位置に座ると、私はキッチンに立った。
「先生、今日は早退されたそうですね」
「はい……。どうしてそれを?」
「今日、たまたま〈きよづか書店〉さんに用があって立ち寄ったら、店長さんが教えて下さったんです」
「そうだったんですか。――はい、どうぞ」
お盆から氷を浮かべた麦茶のグラスをローテーブルの上に置いていると、彼は私の左手の親指をじっと見ていた.
「恐れ入ります。――そのケガが早退の原因ですか?」
「あ、いえ。これはただ切っただけで、大したことないんです。利き手じゃないから、シャーペン持つのにも差し支えないですし」
今西クンの時と同じように、カラ元気を発揮して明るく答える。でも、これは却って逆効果だったらしい。
「店長さんがおっしゃってましたよ。先生は今日、何か思いつめてるようだったと。早退された原因って実はそれだったんじゃ――」
「……ねえ、原口さん。私がもし、『今の原稿から降りたい』って言ったら幻滅しちゃいますか?」
「…………え?」
私にしては珍しいネガティブ発言に、原口さんは虚を突かれたように目を瞠った。
「理由は訊かないで下さい。私いま、ほとんど書けてないんです。昨日と今日で進んだのはたった一〇枚ほどです」
「それって……スランプってことですか?」
いつもなら一日一〇~二〇枚のペースで書ける私が、初めて訴えるスランプ。これには原口さんもショックを隠しきれない様子。
そして多分、彼は私がこうなった原因に心当たりがあるはず。
「原因は……西原先生ですよね? 昨夜、彼女から連絡がきました。『二年前のこと、ナミちゃんに話しちゃった』と。先生がそのことで責任を感じているようだともおっしゃってましたが」
彼は麦茶をガブ飲みしてから、続きを言った。
「あれは先生のせいじゃないです。不器用だった僕が招いた結果なんです。だから先生が気に病む必要はありませんよ」
「……はい」
「それから、先生が『降りたい』とおっしゃっても幻滅はしませんよ。蒲生先生と違ってちゃんと理由があるわけですし」
彼が異動することになった原因の人物を引き合いに出し、私を慰めてくれた。……が。
「ガッカリはしますけどね」
「……ですよね」
Sである原口さんは、ブッスリ釘を刺すことも忘れない。こういうところは実に彼らしいなあと思う。
「――そうですね。僕は先生が仕事を途中で投げ出すような人じゃないと信じてます。ですが、思いつめてるようなら、一度気持ちをリセットした方がいいかもしれませんね」
「え……、はあ」
〝リセット〟って店長にも言われたっけ。でも、具体的には何をすればいいのか分からない。
「とりあえず、しばらく僕からは連絡しないようにします。先生の方で『もう大丈夫、書ける』と思えるようになったら、改めてご連絡頂いてもいいですか?」
「はい、分かりました」
自分が連絡することで、私にプレッシャーをかけているのではと彼は思ったみたいだ。
「――それじゃ、僕はこれで失礼します。お茶ごちそうさまでした。指、お大事に」
「あ、ありがとうございます」
私のケガを心配しつつ、原口さんは帰り支度を始めた。
「原稿が上がったら、僕に伝えたいことがあるんですよね? 僕、楽しみにしてますからね」
「えっ? ……はい」
……原口さん、ちゃんと覚えてくれてるんだ。しかも、〝楽しみ〟にしてくれてる。
「原口さん! 今日はありがとうございました!」
見送り際、私は彼にお礼を言った。
彼が来てくれなかったら、私はきっとまだ一人でウジウジ悩んでいただろう。彼に会えて、少し元気が出てきた。
彼のグラスを右手だけですすぎながら、私は気持ちをリセットする方法を考えていた。
こういう時は、誰かに会って元気をもらうのが一番いい。そして話を聞いてもらって、アドバイスをもらえるならなおよし。
琴音先生は除外するとして、他は誰だ? 由佳ちゃん? 美加? ……いや、もっと年上で、人生経験豊富な人がいい。……あ、一人いた!
「そうだ、お母さん!」
お母さんならきっと、また私の背中を押してくれる。だって二十三年間、ずっと私を見てくれてる人だもん!
時刻は夕方五時過ぎ。今ごろ、夕飯の支度中? 電話したらマズいかな?
でも背に腹はかえられない。心の中で「忙しい時にゴメン!」と謝りつつ、私はスマホで実家の番号をコールした――。




