7・前に進む勇気⑴
――それから十分も経たないうちに、ダイニングテーブルの上には原口さんのための夕食メニューの数々が並んだ。
残りもののほうれん草のゴマ和えと時短レシピで作ったサバの味噌煮、玉ねぎ入りのお味噌汁と白いゴハン。そして玉子焼き。
私は料理全般好きだけれど、中でも和食系が得意なのだ。さて、彼は喜んで食べてくれるだろうか?
「――お待たせしました☆ さ、どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
彼は手を合わせ、箸を構える。私は向かい側に座り、アイスコーヒーでお付き合い。
彼はどれから箸をつけるのかな……?
すると、真っ先に箸が伸びたのは食べるのが本当に楽しみだったらしい玉子焼き。
実は、この玉子焼きには隠し味が入っている。彼は気づくだろうか?
箸を使って一口大に切り、口に運ぶと数回咀嚼して目を瞠った。
「……うまい。なんか味にコクがあるな」
お? 気づいたかな?
「さて問題です。この玉子焼きの隠し味として私が入れたものは何でしょう? ヒントは原口さんが大好きなものです」
「えっ? もしかしてチーズ……ですか?」
「大正解~☆ 粉チーズです」
せっかく原口さんに食べてもらうんだし、彼の好物であるチーズを入れてサプライズをしたかったのだ。どうやら成功したみたい。
「先生、僕が喫茶店で『チーズ好きだ』って言ったのを覚えて下さってたんですね」
「はい」
当然じゃない! 好きな人の好物は絶対に忘れたりしない。それも、わずか一〇日前に聞いたばかりなのだからなおさら。
今度はチーズ尽くしのメニューにしてあげようかな……なんて一人で妄想してはワクワクしている私。ちょっと怪しい?
彼が次に箸を伸ばしたのは、サバ味噌だった。
「……うまっ! これも先生が作られたんですか?」
「はい。サバの水煮缶とインスタントのお味噌汁と、チューブの生姜だけでできちゃいました」
兼業作家で時間が惜しい私は、いつしか時短料理に凝ってしまっていた。その中の一つがこの簡単サバ味噌である。
「――そういえば、原口さんって普段はゴハンどうしてるんですか? 自炊?」
琴音先生からの情報が正しければ、彼は今フリーのはず。となると、得られる答えは限られてくる。
けれど本当なのかどうか確かめたい衝動を抑えきれず、私はわざとカマをかけた。
「分かった! 料理上手のステキな彼女に作ってもらってるんでしょ?」
「彼女なんていません。外食とか、ご近所さんからのお裾分けとかで済ませることがほとんどですね。あとデリバリーと」
「えっ? 彼女いないんですか……」
私の子の反応は半分は演技だけど、もう半分は本当に驚いていた。
あの情報は事実だったらしい。それが分かって、私は驚いた反面ホッとしてもいた。
「あれ? あんまり驚いてないみたいですけど。ご存じだったんですか?」
「ええ、まあ。琴音先生から聞いてたので。二年前に元カノと別れた、って」
「そうですか。西原先生が……ねえ」
原口さんの表情が曇る。琴音先生の名前が出たから?
そして、またもや私の心を掻き乱す、〝二年〟という歳月。
私が作家の道を選び、潤と別れたのも二年前で、琴音先生と原口さん、それぞれの恋が終わったのも二年前。
……いや、原口さん達は一緒だったかもしれないけれど。どれも二年前にあったことなんて、偶然が重なりすぎじゃないの?
「……どうかしました? 先生」
頭をもたげていた私を、食事する手を止めた原口さんが心配そうに覗き込んでいる。
「……え? ああ、いえ。別に」
何でもない、という風に私は首を振った。
これで、彼がフリーだということは確定したわけだけれど。まだ安心できない。
私以外に好きな女性がいたら? ――もう一人の私の「やめときなよ」という囁きは無視して、私は彼に訊ねる。
「じゃあ、好きな女性とか気になってる女性は? 一人くらいいるんでしょ?」
……どうか琴音先生じゃありませんようにと、祈るような想いで答えを待った。
「一人だけいますよ。年下なんですけど、責任感が強くてまっすぐで、仕事にポリシー持ってる女性が」
「え…………?」
思わず彼を見つめてしまう。――それって私? なんて自惚れてるのかな?
でも〝年下〟ってことは、確実に琴音先生じゃないよね。
「でも僕、不器用なもんで。素直じゃないっていうか、いつも素っ気ない態度とかばかり取ってしまうんで、嫌われてたらどうしようかと……」
やっぱり私だよね? だったら大丈夫! 私はあなたのこと嫌ったりしないから。
私は自分の心に一つの区切りをつけようと思った。今のぬるま湯に浸っているような関係は心地いいけど、いつまでもこのままというわけにはいかない。
でも、それは今じゃない。
「原口さん」
「……はい?」
私は意を決して、彼に言った。
「今回の原稿が上がったら、あなたに伝えたいことがあります」
これじゃ、暗に告白することを仄めかしているようなものだけれど。原口さんは不思議そうな顔もせずに「分かりました」と頷いただけだった。私は目を瞠った。
もしかして気づいてる? もう覚悟はできてるってことなの?
「――ごちそうさまでした」
彼は満足そうに箸を置いた。出した料理は全てキレイに平らげられている。
「いやー、全部うまかったです。ありがとうございました」
「いえいえ! ね、原口さん。よかったら、これからもちょくちょくウチにゴハン食べに来ませんか? こんな簡単なものでよかったら、私いつでも作りますから」
……はっ!? 私ってば何を彼女気取りで!
でも原口さんは、特に意に介した様子もなくて。
「……いいんですか?」
「ええ。一人分増えたって手間は同じですから」
一人で食べるゴハンより、誰かと一緒に食べるゴハンの方が絶対美味しい。――この間実家に帰ってみてそう思った。
きっと原口さんも同じはずだから。
「お気遣いありがとうございます」
低頭する原口さんに頷いてみせてから、私は彼の食器を片付け始めた。
「――じゃ、僕はそろそろ失礼します。長居してしまってすみません」
「いえ。引き留めたの、私ですから」
原口さんはリビングからカバンを取ってくると、玄関で私に言った。
「それじゃ先生、執筆頑張って下さい」
「はい! ……気をつけて帰って下さいね」
原口さんが今日訪ねてきてくれるまで、本当に私にエッセイなんて書けるのか不安だったけれど。今なら書けそうな気がしてきた。
――彼が帰った後、シャワーを浴びた私は仕事スペースの机に向かった。机の上の白紙の原稿用紙と、原口さんから返してもらったプロットノートとしばし向き合う。
「プロットはこれでOK、と。……さて、あとはこれをどう組み立てていくかだな」
そこで、彼が買ってきてくれたエッセイ本のページをパラパラめくってみた。
その本は、とある女性エッセイストさんが書いたもので、文体は何となく私のに近い気がした。
少し目を通すだけのつもりが読み出したら止まらなくなり、気がつけばあっという間に半分近くまで読み進んでいた。
「なるほど……。こんな文章の書き方もあったのか。参考にさせてもらいます」
著者である女性エッセイストさんに敬意を払いつつ、私はパタンと本を閉じる。
そして商売道具であるシャープペンシルを手に取った。ノックして数ミリ芯を出し、それを両手で持って目をつぶる。
執筆に入る前の精神統一というか、私にとっては儀式みたいなものだ。
――書こう。私の想いを原口さんに、読者の皆さんに届けるために。それが私の仕事で誇りなのだから……。
私は原稿用紙の一マス一マスに魂を込めてシャープペンシルを走らせた。
この原稿用紙が文字で埋め尽くされる頃、私はきっと前に進んでいると思う。恋も、仕事も。
****
――それから数日後。
「ふわぁ~~あ……」
バイト中、売り場での作業をしながら大欠伸をした私に、由佳ちゃんが心配そうに声をかけてきた。
「奈美ちゃん、眠そうだね? どしたの?」
「あー……うん。今新作の原稿書いててね。昨夜も遅くまでやってたもんだから」
元来、書き始めたら筆が止まらなくなる私は、今回の仕事でもそういう状態になっているのだ。いわゆる〝ライターズ・ハイ〟というべきか(……あれ? こんな言葉あったっけ?)。
今回は特別な仕事だから、なおのことそうだった。
「遅くまでって何時ごろまで? 睡眠時間足りてないんじゃない?」
「うーん……、十二時半ごろまでかな。でも睡眠は足りてるし、もう慣れてるから大丈夫だよ。由佳ちゃん、心配ありがとね」
手書き原稿派の私は、ただでさえ遅筆だ。そのうえ、言葉の一つ一つを吟味して書いているので、遅い時には深夜の二時ごろまでかかることもあるのだ。
「大丈夫ならいいんだけどさ。っていうか新作って? こないだ出て、重版かかったばっかじゃなかったっけ?」
由佳ちゃんは一度首を傾げてから、「あ」と声を上げた。
「もしかしてアレ? こないだ取材受けたエッセイだっけ?」
「そうそう。それ」
「ああ~、そういうことね。あたしも絶対予約するよ!」
由佳ちゃんって私の根っからのファンなんだな。私の新刊が出るたびに、毎回こうして売り上げに貢献してくれているから。
もちろんそれだけじゃなく、素直な感想もくれて、それが作家としてすごく励みにもなっている。
私はいつも、こんなファンの人達に支えられて作家活動を続けられているんだなあと、感謝してもしきれない。
「――すいませーん。本の予約したいんですけど」
若い女性のお客様に声をかけられ、私は補充作業を中断した。
「はい、少々お待ちくださいませ。――由佳ちゃん、ここお願い」
「うん、オッケー!」
彼女に売り場を任せ、パソコンのあるレジ横カウンターへ。
「お客様、こちらの予約注文票にご記入をお願いします」
私はカウンターの下の引き出しから伝票を取り出して開き、ボールペンをお客様に差し出した。
こうして記入された書籍のタイトルやお客様のお名前・連絡先などを、後でパソコンに入力していくのだ。
「――はい、書けた。これでいいの?」
「ありがとうございます。――はい、大丈夫です。では、こちらがお控えです」
私は控えをお客様にお渡しした。
「入荷しましたら、ご連絡差し上げます。ご注文承りました」
お客様はそのまま、雑誌の売り場へと向かった。
「――店長、ご注文受け付けました。今からパソコンに入力します」
パソコンに向かった私は、レジにいる清塚店長に声をかけた。
「了解。悪いねえ、巻田さん。頼むよ」
「はい」
ほんの二ヶ月くらい前の私なら、パソコン作業はあまりやりたがらなかった。
でも、今は違う。今の私は作家としての仕事にも、書店員としての仕事にも前向きに取り組んでいる。私を変えてくれたのは、原口さんへの恋心だと間違いなく思う。
「あっ! 奈美ちゃん、いいよ。あたしがやるから」
「ううん、いいの。私できるから、任せて」
由佳ちゃんがヘルプを申し出てくれたけれど、私は断った。気持ちは嬉しいけれど、注文を受けたのは私なんだから、責任もって入力まで終わらせないと!
もうだいぶ慣れてきた手つきで、私は入力作業を済ませた。その内容にミスがないか確認した後、予約受付票を専用バインダーに挟んで手続きは完了。
店内の時計に目を遣ると、もう夕方四時。ちょうど退勤時間だった。
「店長、お疲れさまでした。私と由佳ちゃんはこれで失礼します」
「ああ、お疲れさま」
レジ周りで作業をしている清塚店長に声をかけ、私達はロッカールームでエプロンを外してから通用口を出た。
「――由佳ちゃん、今日は彼氏とデートじゃないの?」
帰り道、由佳ちゃんと二人で商店街をブラブラ歩きながら、私は彼女に訊いた。
先月の中頃に一緒になった時は、彼女のスマホに彼氏からのメッセージが受信して、途中で解散となったのだけれど。
「うん。彼ね、今修学旅行で沖縄だって」
「へえ、沖縄か。いいなあ」
東京はじきに梅雨入りするとかで連日ジメジメしてるけど、沖縄はさぞカラッと晴れていることだろう。羨ましい……。
そして由佳ちゃんの彼氏は、どうやら中三を受け持っているらしい。
「まあ、帰ってくるまで淋しいのは淋しいんだけどね。今日は久しぶりに奈美ちゃんとゆっくりお喋りできるよ~」
――というわけで、私と由佳ちゃんは少し寄り道して、ショッピングモールに最近オープンしたオープンカフェでお茶することに。
「――で? 恋の進展状況はどう?」
二人でアイスラテをすすりながらのガールズトーク。由佳ちゃんが真っ先に切り込んできた。
「えーっと、とりあえず『告白します宣言』はした」
「……は? えっ、どういうこと?」
由佳ちゃんの頭にはハテナが飛び交っているらしい。
そこで私は、数日前の夜に原口さんが訪ねてきた時のことを話した。
「――ってワケなんだ」
「へえ……。ねえ奈美ちゃん、それって彼も奈美ちゃんに気があるってことなんじゃないの?」
「……やっぱり、そう思う?」
私一人ではただの自惚れだと思っていたけど、由佳ちゃんも同じように感じたってことは……。
「うん! これは脈アリとあたしは見た」
「そっか。そうなんだ……」
私の自惚れなんかじゃない。原口さんも私のこと……。美加だけじゃなく、由佳ちゃんにもそう言ってもらえたら、本当に大丈夫な気がしてきた。
「ちなみに、原口さんって今フリーなの?」
「うん。少し前に親しくしてる女性作家さんから聞いて、本人に確かめたら間違いないって。……あ」
「……ん? どしたのよ?」
私はそこでふと思い出した。職場まで取材に行った時に、美加にこの話をしたら何かが引っかかっているように見えたのを。
「あ……、えっと。実はね――」
そのことを由佳ちゃんに話すと、彼女も何やら考え込んだ後に口を開く。
「……あのさ、奈美ちゃん」
「ん?」
「その子が気にしてたのって、もしかしてその女性作家が原口さんの元カノ説かも」
「…………」
私は言葉に詰まった。その可能性を考えなかったわけはない。むしろ、初めてその情報を耳にした時から胸騒ぎしかなかった。
二人が別れた理由は分からない。けれど、〝二年前〟がキーワードだとしたら、私も無関係じゃないかもしれないのだ。
「ホラホラ奈美ちゃん! そんな暗い顔しないのっ! あくまでも可能性だから!」
私がネガティブになっているのを見兼ねたらしい由佳ちゃんが、慌ててフォローを入れる。
「まだそうと決まったワケじゃないし、ホントだったとしてももう過去のことじゃん? だから気にすることないと思うよ」
「……うん、そうだよね」
まだ決定打を放たれたわけじゃない。もう少しポジティブにならないと!
「あ~もう! この話は終わりっ!」
私を気遣ってムリヤリ話を打ち切った由佳ちゃんを前に、私は思わず笑ってしまった。
おかげで、どんよりと辛気臭かった雰囲気も一気に和んだ。




