1・それでも私は直筆が好き
『――巻田先生、原稿まだっすか? また遅れてますよ!』
着信したスマホを机の上でスピーカーにすると、担当編集者の原口晃太のイライラした声がダダ漏れてきた。
「分ぁかってます! 明日には書き上がるから、明日まで待って下さい!」
私は右手にシャープペンシルを握りしめたまま、スマホに向かって怒鳴った。
『まったく……。あれだけ直筆は時間がかかるから、パソコン習えって言ったのに』
……また始まった。原口さんのイヤミ攻撃が。私はブチ切れて反論した。
「あーもう! 原口さんのイヤミに付き合ってたら、ホントに原稿間に合いませんよ! 他に用がないなら切りますね」
私――巻田ナミは、そのまま通話を切った。
「はあ……、もう。うるさいったら!」
彼のイヤミ攻撃は、私が作家デビューしてからもう二年間続いている。
もう慣れてしまったからなのか、全然イヤにならないのが不思議だ。
私はデビュー作以来、直筆原稿にこだわっているのだけれど。彼はどうも、それが気に入らないらしい。
それはなぜかっていうと……、私はパソコンが使えないのだ。
パソコンで書けば、そりゃあ速いでしょうけど。使えないんだから仕方がない。
「――とにかく今は、原稿仕上げないと!」
明日間に合わなかったら、また原口さんのイヤミ地獄が待ってる!
私はシャープペンシルを持ち直し、また書きかけの原稿用紙に向き直った――。
****
私が洛陽社の新人文学賞で大賞を受賞して作家デビューしたのは、大学の文学部三年生の時。原口さんと初めて顔を合わせたのは、その授賞式の時だった。
「初めまして! 今日から巻田先生の担当編集者を務めさせて頂く、原口晃太といいます。よろしくお願いします」
当時二十六歳だった彼は、私にとても爽やかに挨拶してくれた。
この時の彼には、今の〝イヤミー原口〟の片鱗も何もなかったのに……。
その片鱗が見え始めたのは、デビュー後一作目の原稿を目にした彼の一言から。
「――えっ、巻田先生も原稿、手書きなんですか? 若いのに珍しいですね」
「…………」
本人には悪気がなかったみたいだけれど、原口さんのその言葉は、私にはイヤミにしか聞こえなかった。
「アンタ、若いのにパソコン使えないのか」的な?
「原口さん……、私のデビュー作の原稿も読んでますよね? だったら知ってたはずですけど」
デビュー作の原稿だって、バッチリ手書きだったはずだ。
「ええ、読みましたし知ってますよ。ですけど、デビューしてからはパソコン書きに切り換える先生が多いので。特に,若い方は」
「でも、私は手書きがいいんです。この先もずっと、原稿は手書きでやっていきますからそのつもりで」
ただのワガママと取られるかもしれない。でも、これは私のこだわりだから、譲るつもりはなかった。
「まあ、手書きにこだわるのは悪いことじゃないですけどね。締め切りには間に合うように。それだけはお願いしますね」
直筆原稿は遅れがちになる。だから、彼はそんなことを言ったのだろうけれど……。
「はいはい、気をつけますっ!」
その言い方にカチンときた私は、子供みたいに原口さんに噛みついたのだった。
そしてその日から、私と彼とのバトルが始まったわけである。
****
――時間を現在に戻して、それから数時間後。
「はー、やっと終わったあ……」
最後まで原稿を書き上げた私は、シャープペンシルを放り出して机に突っ伏した。
スマホで時間を確かめたら、もう日付が変わろうとしている。約束した「明日」には、何とか間に合ったみたいだ。
――よく考えたら、原口さんはそんなにイヤな人じゃない……と思う。私の方が、勝手に苦手意識を持っているだけで。
確かに彼は、原稿の催促の時には口うるさいし、イヤミったらしいことも言う。けれど、誰よりも私の小説のよさを理解してくれているのも、実は彼なのだ。
だからって、私の彼に対する苦手意識がなくなるわけではないのだけれど……。
「あ~……、疲れた。お風呂入って寝よ」
私はたっぷり一時間の入浴を済ませた後、ベッドに入って翌朝まで死んだように爆睡したのだった。
****
――ピーンポーン、ピーンポーン、ピンポンピンポンピーンポーン …… ♪
「ん~? うるさいなあ、もう……」
朝っぱらから聞こえる、ドアチャイムの連打。
誰よもう! っていうか、今何時だよ?
私は寝ぼけまなこで、枕元のスマホに手を伸ばすと電源ボタンを押した。
ただ、時刻を確認するだけのつもりだったのだけれど。
「…………えっ!? 何これ!?」
表示されていたのは、「着信一〇件」という文字。すべて原口さんからの電話だった。
「あちゃー……」
しかも、今の時刻は一〇時過ぎ。最初の着信は九時過ぎに入っていたから、彼は一時間も前から電話をかけ続けていたことになる。我が担当ながら、すごい忍耐力だと思う。
ピンポンピンポンピーンポーン …… ♪
そして、なおもピンポン攻撃は続いているらしい。
私はフラフラした足取りでインターフォンのところまで行き、応答ボタンを押した。ちなみに、モニター画面付きである。
「ふぁ~い、ロック今開けまふ……」
玄関ロックを開けるや否やピンポン攻撃はピタッと止み、ドアが勢いよく開いた。
「おはようございます……って言いたいところですけど、先生! 俺が何回電話したと思ってるんですか!」
彼は、めちゃくちゃ怒っていた。普段の一人称は「僕」なのに、怒ると「俺」に変わるのだ。
――案外、こっちの方が彼の〝素〟なんじゃないかと私は密かに思っている。
「あー、ゴメンなさい! ついさっきまで寝てたんで、電話にも気づかなくて」
「やっぱりね。そんなことだと思ってましたよ」
原口さんは「やれやれ」と肩をすくめた。
「ところで先生、原稿は?」
「ハイハイ、ちゃんとできてますよ」
私はハキハキと答えたけれど、さっきから気になっていることがある。
「それはいいんですけど。なんで私の方見てないんですか?」
原口さんは来てからずっと、私から視線を逸らしているのだ。
そして、心なしか顔が赤いように見えるのは、私の気のせいだろうか?
「いや、ちょっと。先生の格好がその……、刺激が強すぎて」
「え……? うわっ!?」
欠伸をしながら自分の格好を見下ろした私は愕然とした。
まだ寝間着のままで、しかもショートパンツだ。太腿まで見えていたら、男性は目の遣り場に困るだろう。
おまけに、肩までの長さの茶髪だって寝癖だらけで爆発しているし。
「ちょっ……、原口さん! 鼻の下伸ばしてイヤらしい目で見ないで下さい!
恥ずかしさ半分で(これでも私は嫁入り前のオトメである)、私は必死に牽制した。
「みっ……、見ませんよっ!」
原口さんは顔を真っ赤にして、ムキになって反論した。けれどそれ、却って逆効果じゃないだろうか?
「――あの、先生。とにかく原稿を……」
どうにか気を取り直したらしい彼は、やっと仕事のことを思い出した。
「分かってますよ。服を着替えるついでに持ってくるので、リビングで待っててもらっていいですか? いつもみたいに」
原口さんににそう言って、私は仕事部屋に戻っていく。
この部屋は1LDKなので部屋は一つしかなく、そこは私の寝室も兼ねているのだ。
――六階建て・オートロックなしのこの賃貸マンション二階の部屋で、私は作家デビューした二年前から一人暮らしをしている。
都心だから家賃は安くない。そして、まだ人気作家とはいえないので原稿料と印税が入っても生活は楽じゃない。
そのため、書店でアルバイトをしながら兼業作家として活動している。
今日は、アルバイトの方は休みの日だ。
とりあえず、ピンクの長袖カットソーとデニムの膝丈スカートに着替え、小さなドレッサーの前で髪をブラッシングした。普段からメイクはしない。
机の上に置いてあった、原稿の入ったA4サイズの茶封筒を手にして、私は原口さんの待つリビングに急いで戻った。
その途中でふと思う。「彼は私に気があるんだろうか?」と。
根拠なんてない。ただなんとなく、そう思っただけだけれど……。
「――お待たせしました。これ、原稿です」
リビングのソファーに座って待っていた原口さんに封筒を手渡すと、彼は早速中身の確認を始めた。原稿の一枚一枚、隅から隅まで誤字・脱字がないかチェックしてくれているのだ。
彼はさらに、毎回ストーリーまで読み込んでくれているらしい。
「――はい、確かにお預かりしました。先生、今回もお疲れさまでした」
「あの……、内容はどうでした? 私、後半の方は急いで書いたので、自分では展開にムリがあるんじゃないかと思うんですけど」
一応プロット(骨組み)はあるものの、締め切り前に焦っていたりすると、プロットを無視して勢いで書いてしまうことがある。
それは当然の結果として、ストーリーの展開に矛盾を生んだりする。――そのことを、編集者である彼はどう感じているのか?
「いや、これはこれでアリかなと僕は思いますよ。読者の予想をいい意味で裏切る、なかなか面白い展開なんじゃないですか」
「ほっ、ホントですか!? よかった……」
私は原口さんの高評価にホッと胸を撫で下ろした。……が、次の瞬間。
「内容はこれでいいとして……。パソコンで執筆したら、もっと早く原稿も上がってたはずなのになあ」
ほら来たよ、いつものイヤミ攻撃が。
私はもう慣れたもので、ムッともせずに言い返した。
「言っときますけど、原口さん。それ、私がパソ書きしたら、直筆の倍は時間かかりますからね?」
「えっ!? ……ば、倍ですか?」
原口さんが目を丸くする。でも、そんなにビックリすることかな、これ?
「ハイ。私、昔から両手でタイピングできないんです。キーボード叩くのに、指一本で一文字ずつしか打てなくて」
私は開き直って、パソコンで原稿を書けない理由をぶっちゃけた。
ローマ字入力だと、あ行以外は二つ以上のキーを押して打たなければならない。それを右手の指一本でやるのだから、時間がかかるのも当然だろう。
「一応、ノートパソコンとプリンターはウチにあるんです。大学時代にパソ書きで短編に挑戦してみたことがあって。でも、三〇枚くらいのを書くのに半月もかかっちゃって、それでパソ書きは諦めました」
未だ両手タイピングができない理由は、その時に指がつってしまったことによるトラウマのせいもあるかもしれない。
「それで……、今はパソコンは全然使われてないんですか?」
「そんなことないですよ。バイト先でもパソコンは使うので、そのために練習したり、あとはネットで調べものしたりはしてます」
「……そうですか」
原口さんはそう言うと、大きなため息をついた。――っていうか、最初の間はなに? そしてなぜため息をついた?
もしかして、ガッカリしたのかな? 私が(彼にしてみたら)下らない理由でパソ書きを諦めたから。
私はソファーに座ったまま、隣りにいる原口さんの端正な横顔をじっと見つめた。
けれど、彼の目に落胆の色は窺えない。彼をガッカリさせたと思ったのは、私の考えすぎだったんだろうか――。
「……? 先生、どうかしました?」
私の視線に気づいたらしい原口さんが、不思議そうに訊ねてきた。
「えっ? あ……、えっと……」
答えに詰まった私は、咄嗟に不自然ではないような言い訳を考えた。
「この原稿、今後改稿の必要とかは……?」
取ってつけたような言い訳だけれど。仕事に関することなら無難だろう。
「多分、ないと思いますよ。校閲部の人はどう言うか分かりませんが、先生の書かれる文章はいつもキッチリされてますから」
「そうですか! よかった」
私の過去作はどれも(といっても三作だけだけれど)、一度の改稿も言い渡されることなく出版されている。
だからきっと、今回も大丈夫だ。原口さんが「大丈夫だ」って言ってくれたんだから。
「――さて、パソコン談義はまたの機会にするとして。原稿は頂いたので、僕はこれで失礼しますね」
原口さんの仕事は、担当作家から原稿を受け取って終わりではない。一冊の本が刊行されるまでには、まだいくつものプロセスがあるのだそう。――編集者って大変な仕事だ。
「はい、ご苦労さまでした。すみません、お茶も出さなくて」
「いえ、気にしないで下さい。先生はお疲れでしょうし、僕も期待してませんから」
最後にS発言を残し、原口さんは洛陽社の〈ガーネット文庫〉の編集部へと帰っていった。
玄関先で彼を見送ると、私は何だかホッとしたような、ちょっとむなしような気持ちになり、はぁーっと大きなため息をついた。
……あれ? 私の中で何かが引っかかる。
彼のイヤミ攻撃から解放されて、ホッとするのは分かるけど、むなしくなるのはどうして? まさか……。ウソでしょ!?
「私、原口さんのことが気になってるの?」