虹色のいのちと氷の大地
ある夜のことでした。一人の少年が涙を手でぬぐいながら、暗い夜道をとぼとぼと歩いていました。
「あんたにはがっかりしたよ。本当にだめな子なんだね。」
その少年のお母さんが冷たい顔で言ったその言葉が少年の耳から離れないのです。
原因は今日の昼間のことでした。
少年は小学校の同級生たちと一緒に、探検のつもりで知らない人の家の庭に忍びこみました。
そこで誰かが棒を振り回して高価な彫刻の一部を壊してしまったのです。
少年はどうしたらいいのか分からず、途方にくれて彫刻の壊れたところを見ていました。
はっと気づくと「ばかー。逃げろ。」という声がしました。
ほかのみんなは逃げて、少年ひとりがとり残されてしまったのです。
そこに家の人が飛び出してきて、少年はつかまりました。
少年は「僕じゃない。」と言いました。
しかし「じゃあ誰なんだ。」と言われても答えられません。
なぜなら少年は、はっきりと誰が壊したのかを見ていませんでした。それに友達の名前をここで言うことは、ひきょうなことのように思えたからです。
少年が黙っていると「うそをつくな。ちゃんと謝れ。」と怒鳴られました。
そして自分の家に案内させられ、出てきたお母さんはその人から怒られてお金を払わされました。
それから、お父さんが帰ってきて、お金のことと、少年のしつけのことで夫婦げんかになりました。
少年が「違うんだ。僕じゃないんだよ。」と言っても信じてもらえません。
そして、泣いていたお母さんが最後には「あんたにはがっかりしたよ。本当にだめな子なんだね。」と言いながらぷいっと顔をそむけて台所に行ってしまったのです。
少年は信じてもらえなかったことが悔しくて、おもいあまって家を出てしまいました。
でも、行き先などありません。それで暗い夜道を泣きながらうろうろと歩いていたのです。
そうして歩いているうちに、少年はその町の一番の大通りに来ていました。
夜だというのに、たくさんの青年の男女が話しながら歩いています。
少年は近づいていって、彼らの話に耳を傾けました。
「これですばらしい世界へ行けるぞ。」
「たいくつしないですむぞ。」
「冒険が待っている楽しい世界だ。」
そのような言葉が聞こえてきました。
それで少年は一人のおにいさんに話しかけました。
「ねえ、僕も連れて行ってよ。お父さんもお母さんもやかましくって、僕のことなんて愛していないんだよ。僕も楽しい冒険をしたいよ。」
そのおにいさんはチラシを見せていいました。
「だめだよ。ほらここに書いてあるだろう。小さい子どもはお断りって。それに一度行ったら二度と家には帰れないんだよ。君なんかすぐに寂しくなって、お母さんのところに帰りたがるさ。」
少年はふくれて言いました。「いいや平気だよ。僕は、親なんていらない。」
だめだと言われてもあきらめきれるものではありません。
少年はこっそりと青年たちの後をつけていくことにしました。
するとみんなは駅前の旅行会社の中に入っていきました。
少年は少しがっかりしました。
「なんだ、旅行の話だったのかな。」
それでも少年はもう少し調べてみようと思い、見つからないように腰をかがめて中に入っていきました。
物陰から見ていると、係の人が参加者に色々な説明をしていました。
たしかに「二度と帰って来られないので、やめるなら今です。」と言っているのが聞こえました。
それでも引き返す者は一人もおらず、それぞれに決心してきた人たちばかりのようでした。
それから、「あなたたちのことは、すべての人たちの記憶から消えます。この世界で生きていたという証拠もなくなります。」という説明もありました。
参加者たちはうなずいて聞いていて、それも覚悟しているようでしたが、少年はその話にはぞっとしました。
「お母さんもお父さんも僕のことを忘れてしまい、生きていた証拠も消えてしまうのか。」
すこし怖くなってきました。
しかし、さっきお母さんに言われた言葉を思い出して、「きっと僕がいなくなって忘れたほうがお母さんは幸せなんだ。」そう思い返しました。
それから参加者は別の部屋に案内されました。
その部屋の壁には大きな四角い入口があいていましたが、不思議なことにちょうど滝が流れるように、その入口から見える景色がめまぐるしく変わっておりました。
係の人が説明しています。「今私たちは時の流れの中で生きています。ちょうど川の流れに船を並べて同じ速さで進むと、隣の船の人の顔も見えますし話もできます。それと同じで、私たちは同じ時の流れに乗っているのです。
この正面の入口は、時が流れているのが見えているのです。ですから川から岸にあがるように、ここから、今の時間の流れとは違う世界に抜け出すことができるのです。さあこの入口に飛び込んでください。」
覚悟を決めた青年ばかりです。
次々にその入口に勢いよく飛び込んでいきました。
そして、その中に混じってあの少年も飛び込んだのです。
係の人が、子どもがいるのに気づいて「あっ。」と声を上げましたが、元に戻すこともできず、みんなが消えていきました。
少年は時の流れに、もみくちゃにされてめまいがしました。
景色が渦を巻いているのです。
それがどれくらい続いたのか分かりませんが、気付くと少年は多くの人たちと一緒に別の場所にいました。
そこは時の流れから放り出された、まったくの別世界でした。
白々とした氷の平原が広がっています。
太陽もない真っ暗な空には太い虹色の川の流れのような光が走っています。
青年たちが言っています。「あの虹色の川が、もと居た時間のある世界なんだな・・・。」
少年が、先に来ている人たちがいないか見渡すと、新しく到着した者が珍しいのか、近づいてくる人たちがいました。
おどろいたことに、その世界の人たちは、氷の大地と同じような白く光った体をしていました。
しかも男性も女性も彫刻のように美しい人たちばかりです。
誰かが説明しているのが聞こえてきました。
「ここでは元の生身のいのちのある体では長く持たないんだ。あそこに見える入口から、階段を下って地下に入ると広い部屋があるよ。そこにはいくらでもすばらしい体が並んでいるから、好きな体を選んで使うんだよ。」
到着したばかりの青年たちはそれを聞くと「わー。」と叫んで、喜びの表情になって走り出しました。
「どんな姿になろうか。早く冒険がしたい。」そう言っていました。
その場所に降りていくと、本当にたくさんの白く光る体が並べてありました。
どれでも好きなものを選んでいいのです。
みんな思い思いに、美しい体、たくましい体、自分のなりたいすてきな体を選びました。
「よーし、これにするぞ。」
「いや、こっちがいいかな。」
その体に手を触れると、自分の体から虹色の光が抜け出して、その地下の広間からさらに降りたところにある洞窟の奥へと吸い込まれていきました。
そして、次の瞬間には、その選んだ白く光る体を動かしているのが自分だと気付くのです。
しかも、いのちがあった本物の体はあっという間に消えているのです。
その新しい体にあきると別の体に触れることで、簡単に乗り換えることもできます。
名前も自分で変えていきます。
それから青年たちは氷の大地にしかけられた様々な冒険をこなしていくのです。
仲間もできます。時には闘うこともあります。
しかし、その白く光る体を得たものは決して死ぬことがないのです。
そのように、冒険を繰り返していくうちに、もとの自分の本当の人生のことも、家族のことも、自分の名前や自分の顔さえも忘れてしまうのです。
あの少年はどうしたでしょうか。
少年は先に来ている人の説明を聞きながら考えました。
「もとの世界に帰ることもできないし、帰ったとしてもお母さんは僕のことを覚えていない。でも、他の人たちのように僕までもお母さんのことを忘れてしまったらどうなるんだろう。」
少年はお母さんを忘れてしまうことだけは嫌だったのです。
白く光る体を選ぶのはもう少し先にしようと思いました。
少年は自分の体のままで走り回りながら、あちこち探検することにしました。
もう楽しくてたまりません。お母さんに会えない寂しさも忘れて様々な冒険を繰り返していました。
しばらくして、先に進むためには鍵をあけなければならない場所に来ました。
様々な形のかけらを、ちょうど同じ形の穴を探してはめこむのです。
難しい課題でした。少年は一心に取り組みました。
やっと完成したときに、少年は嬉しくなって、つい「ねえお母さん。僕すごいでしょう。」と振り向いて言いました。
もちろん、そこにはお母さんはいません。
少年はあらためて、二度とお母さんに会えなくなったことを思い出すと本当に悲しくなってきました。
「帰りたいよう。もう嫌だよ。」
それから帰る方法を色々な人に聞くのですが、「何を言っているんだ。」と怒られるだけで、誰も相手にしてくれません。
少年は、もうその世界が楽しめなくなったのです。
そして、泣きながら「お母さん。お母さん」と叫んで歩きまわっていました。
すると、大きな白熊が少年のところに近づいてきて、人間の言葉で話しかけてきました。
「今あんたは、お母さんって呼んでいたね。会いたいのかい。」
少年がうなずくと白熊は話しだしました。
「いいかい、向こうの本当の世界では、多くの人たちが姿を消しているけど、誰も気付かない。
不思議なことにその人に関する記憶や様々な証拠も消されて、最初からその人はいないことになってしまっているんだ。
ただね、その消えた人のお母さんだけは、何か大切なものを失くしたような心の痛みがあって、自分には名前も思い出せないけど子どもがいたような気がすると言うんだよ。
それで家族は、そのお母さんが心のやまいになってしまったと思いこんで、病院につれていくのさ。
そこでお薬をもらって心が落ち着くとやっぱり勘違いのような気もするけど、胸の奥に穴があいたような心の痛みは薬でも消えない。
お前のお母さんもそうなんだよ。
私はね、白熊の姿をしているけど、そういうお母さんたちの心が固まってできたのさ。
記憶を消されても、心配で心配でたまらない、そんなお母さんたちの心が時間を越えたこの氷の世界で形になったのが私なんだよ。」
少年は弱弱しい声で言いました。
「でも、お母さんは僕のこと嫌いじゃないの・・・。」
「そんなことあるもんか。お母さんは記憶を消されても心の痛みを忘れていないんだよ。」
そう白熊は力を込めて答えました。
少年は泣き出して「帰りたいよう。お母さんのところに帰してくれよう。」と心から頼みました。
白熊は言いました。
「これまで誰に話をしても、新しい体を得たものは、お母さんのことも、本当の世界のことも忘れてしまっている。
お前が始めてなんだ。きっと小さな子どもをこの世界に入れなかったのは、こうなることを恐れたんだろうね。
私はね、この世界の秘密をあばいたんだよ。実はここは、いのちを横取りするために作られた場所なんだ。
だからこの世界にはいのちがない。自由に冒険をして動いているように思っているだろうけど、死なないってことは生きていないってことなんだ。
こんなところにいても生きたことにはならないんだよ。
みんなのいのちは、この氷の世界の地下の洞窟の奥に隠してある。
それを解き放つことができれば、あの上のほうに見える虹の流れに、いのちは戻っていくよ。
そしてね、このにせものの世界は壊れるのさ。きっと、あんたをもとの世界に戻してやるからね。ついてくるんだ。」
白熊は氷の世界の崖のふちのところまで少年をつれていきました。
そして、するどい爪で氷に深い穴を掘って、そこに少年を潜り込ませてから言いました。
「いいかい、私が戻ってくるまで、ここで待っているんだよ。」
少年をその場所に残すと、白熊は地下の洞窟の奥にある、いのちを閉じ込めた場所に行きました。
そこには厚い扉がありましたが、白熊はそこに向かって体当たりをしました。
どしーん。どしーん。
何度も。何度も。
それでも扉は固くてびくともしません。
すると、白熊の体の中から、子どものことを思うお母さんたちの力がふつふつと湧き出してきました。
そして、白熊は、ものすごい力でその壁にぶつかっていきました。
がーーん。
がーーん。
がーーん。
ばりばりーー。
とうとうその固い扉にひびが入ったのです。
ぐらぐらーと氷の大地が揺れました。
そして、扉が壊れて、そこから虹色に光る水があふれ出てきました。
地底に隠されていた、たくさんのいのちが元の世界に渦をまいて戻ろうとしているのです。
白熊は急いで洞窟の外に走り出ました。
あばれまわる虹色の光の海に氷の大地が飲み込まれて消えていこうとしています。
白熊は、少年を残したさっきの場所に戻ると、氷の裂け目に爪をたて、それから前足を押し込んでいき、少年の入った大きな氷のかたまりを崖から虹色の海の中に落としました。
どぼーーん。
白熊は叫びました。
「きっと、もとの世界に戻れるよ。お母さんのことをずっと思い続けるんだよ。」
少年の目の前で、氷の大地も白熊もすべてが虹色の光の海に飲み込まれていきました。
少年は「元の世界に戻りたいよー。お母さんに会いたいよー。」そう言い続けました。
そして、その少年を入れた氷山は、虹色の光の海をどんどん流されていきます。
でも、その光の熱で氷は次第に解けて、氷山が小さくなっていくのです。
「これじゃぁ、お母さんのところに着くまで氷山がもたないかもしれない。氷がとけていくよー。」
しかし、少年が心配したとおり、氷の固まりはさらに小さくなっていき、とうとう少年は虹色の光の海に飲み込まれてしまったのです。
渦のなかで、もみくちゃにされながら少年は意識を失ってしまいました。
どれだけの時間がたったのか分かりません。
戻れたのかどうか、自分がどうなったのか、それも分かりません。
気がつくと水の中にいました。
流れもなくゆったりとした温かい水の中です。
暗くて何も見えませんが、不思議と怖くはありません。
何か音がします。
とてもなつかしい音です。
ああこれは心臓の音です。
とくん、とくんと聞こえてきます。
少年は赤ちゃんになってお母さんのお腹の中にいるのでした。
「本当にお母さんだろうか。別の人じゃないだろうか。」少し心配でした。
心臓の音や、外からの音を聞きながら、赤ちゃんは大きくなっていきました。
そしてあるとき、やっとお母さんのお腹から出ることができました。
まぶしい光の中で赤ちゃんは、はじめてお母さんの顔を見たのです。
それは自分が会いたくてたまらなかった、探し求めていたあのお母さんでした。
「よかった。会えた。会えた。」
喜びのあまり赤ちゃんは泣き出しました。
そして、お母さんも、会いたくて会いたくてたまらなかったあの子に会えたのです。
お母さんは本当に嬉しそうな笑顔をうかべて、ぎゅっと抱きしめてくれました。
おしまいです。