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霧の坂道

 むかしあるところにひとりの幼い娘がおりました。


 とても貧しい家に育ったその娘は、まだ子どもだというのに遠くの村に働きに出されて、二度と家には帰って来られないのです。


 娘は知らない人の家で、水汲みや洗濯、風呂焚き、食事の準備や後片付け、畑仕事や牛の世話、そして、重い野菜を担いで売ってまわり、朝から晩までへとへとになって働きました。


 小さい頃から家でも働いていた娘は、体を動かすことはそれほど苦にもならず、食べ物がもらえて生きていけることには感謝もしていたのです。


 でも、叱られてばかりで、ほめてもらえないのは悲しくてたまりませんでした。


 そして、もっと辛かったことは、お母さんとお父さんにもう会えないことです。


 その寂しさがつのると娘は隠れて泣いておりました。


 何ヶ月か経ったころ、娘は自分がこれだけ寂しいのだから、きっとお母さんも寂しがっていて自分に会いたいに違いない、きっとそうだと思うと、いてもたってもいられなくなりました。


 そして、何と娘は約束をやぶって、いくつもの村を越えて自分の村に戻ってしまったのです。


 でも、お母さんは、娘を家に入れてはくれませんでした。


 娘は戸口を叩きながら「お母さんは私のことはもう好きじゃないの。私はどうなってもいいの。私もこの家で暮らしたいよー。」と叫びました。


 お母さんは戸口の向こうで「ゆるしておくれ。お前が帰ってくると、家族みんなが生きていけなくなるんだよ。」と泣きながら言うのです。


 しばらくして、戸口が少し開くと、隙間からお母さんの手が出てきました。その手から娘は小さな袋を受け取ったのです。


 開けてみると、中にはまるい小さな白い石が入っていました。


 「お母さんが大切にしてきたものだよ。お前にあげるからね。どうしても辛くて我慢できないときにはその石を握ってごらん。


 でも、使いすぎてはだめだからね。本当に辛い時に使うんだよ。そして、お願いだから絶対に戻ってこないでおくれ。約束だよ。」と言って、顔も見せずにまた戸口を閉めてしまいました。


 娘がもらったその石は「迷いの石」と呼ばれ、誰にも知られてはならないし、決して使ってはいけないと言われて、その家で代々守られてきたものです。


 母親はおきてに反して、どうしても辛いときに一度使ったことがありましたので、その石がどういうものかは知っていました。あと何回使えるのかも分かりませんし、この石を娘に渡すことがいいことだとも思えませんでした。


 でも、そのときには、かわいそうな娘に何も持たせずには帰せなかったのです。


 娘は、お母さんが顔も見せてくれなかったので本当にがっかりしましたが、娘のこれまでの人生はずっとあきらめることばかりでしたので、その足は自然に元の働き先へと向かっていたのです。


 働き先に戻った娘はひどく叱られたうえに「今度こういうことがあったら、お父さんに貸したお金は返してもらうよ。」と言われました。


 娘は、自分が働くことで家族が助かっているのだと知りました。それからの娘は何事もなかったかのように仕事に精を出すようになりました。


 でも、自分は捨てられたという考えが頭から離れなくなったのです。寂しさが心の奥に氷のかたまりのように居座って娘の顔から笑顔が消えたのでした。


 娘は、母親がくれた小石を手にとってながめては袋に戻すということを繰り返していましたが、けっしてその石を使おうとはしませんでした。


 あるとき、いつものように娘が袋の中の小石を見ていると、突然、小石のほうから娘に話しかけてきたのです。


 「ずいぶん我慢強いんだね。びっくりしたよ。どうして私を使わないんだい。」


 娘が「だって本当に辛いときに使いなさいってお母さんがいったから。」と答えると、小石は「もう君には笑顔もないし、心の中は寂しさで凍えている。君は自分が辛いってことも分からないほど辛いんだよ。私を握り締めて望んでいることを言ってごらん。」と言うのです。


 娘は言われたとおりにその小石を手の中で握り締め、「お母さんお父さんと楽しく暮らしたい。きれいな着物を着ておいしいものを食べて笑って過ごしたい。」とつぶやきました。


 すると小石から霧が出てきて、あたり一面が真っ白になり、それから霧が晴れると、そこにはお母さんとお父さんがいました。


 家も立派でお母さんもお父さんも、そして娘自身もきれいな着物を着ています。


 目の前に並んだたくさんのご馳走を一緒に食べました。


 お母さんもお父さんも笑っています。娘も本当に嬉しくて楽しくて、久しぶりに笑いました。


 しばらくすると、また小石から霧が出てきました。


 そして、あたり一面が真っ白になり霧が晴れたときには、その何もかもが消えさっていて娘は元の場所にいたのです。


 今起こったことが本当ではなくて、幻だということを娘は知っていましたが、それでも少しだけ元気が出てきました。そして、おそるおそる小石に聞いたのです。


「あと何回使えるの。」


 小石は「自分にも分からない。」と答えました。


 お母さんのように、大人になってから小石を使ったのなら我慢もできたかもしれません。しかし、まだ子どもだった娘は寂しさをこらえきれなくなると小石を使いました。そして、幻の幸せを味わうのですが、現実に戻ってくるとそれは消えてしまうのです。


 娘は、何か以前よりもかえって辛くなったように感じました。


 そして、その辛さをまぎらすかのように、また小石を使うのです。


 あるとき、小石が言いました。「あと一回で終わりだよ。」


 娘は狂ったように泣き叫びました。「無理だよ。生きていけないよ。無理だよ・・・。」


 小石にばかり頼っていた娘は、現実の辛さに耐える力を失っていたのでした。


 その娘の姿を見た小石は、やさしく語りかけてきました。


 「あと1回使うと私は崩れて消えてしまう。それはどうしようもないことなんだ。でも、どうしても幻の世界を手に入れたかったら、私の言うとおりにするしかないよ。やってみるかい。」


 娘は大きくうなずきました。


 小石が「何日か旅をするから、食べ物を取ってくるんだ。」と言うので、娘は言われたとおりにしました。もう、家族のことも働き先のことも頭から消えていました。今は小石だけが頼りなのです。


 娘の旅が始まりました。


 どうして道が分かるのか、小石は分かれ道に来るたびに、右とか左とか言います。


 そして、それ以外のときにはずっと黙っているのです。娘は心細いし聞きたいことが山ほどあるのに小石は何も答えてくれません。疲れもたまって足も痛いのに、娘はとぼとぼと歩くしかないのです。


 そうして、何日かたったころ、大きな森にたどり着きました。


 「もう少しだよ。」と小石が言いました。


 でも、ひと気のしないその森が娘には怖くてたまりません。


 小石からだまされているような気がしてきました。


 「自分はどうしてこんなところに来たんだろう。あのまま居たらよかったのかもしれないのに・・・。」娘は不安な気持ちでいっぱいになりました。


 さらに歩いていくと森の中央あたりまで来ました。


 なぜか、そこには木が生えておらず、やわらかい短い草が広がっている狭い広場のようでした。


 その広場を囲む高い木々の葉っぱがゆれて、草の上に差し込んでくる光もやわらかにゆれていました。


 小石が「もう着いたよ。よく頑張ったね。私は残りの力を使って、ここまで君を案内したんだよ。でも、途中で力がなくなったら困るので、なるだけ話をしなかったんだ。寂しかっただろうね。」とやさしい声で言ってくれたので娘はやっと安心しました。


 小石が「少し休もう。」と言ったので、娘はやわらかい草の上に寝転がりましたが、疲れていたせいか、そのまま、すやすやと眠ってしまったのです。


 しばらくして、目を覚ますと娘にも少し元気が出てきましたので、小石の言うとおりに奥へ進んでいきました。


 すると、そこにはかなり急な上り坂がありました。でも、娘が坂道を見上げてみても、霧が出ていて先のほうがどうなっているのかよく見えないのです。


 小石が「この坂を最後まで登るんだよ。」と言ったので、娘は坂道を登りはじめました。


 次第に霧が濃くなっていきます。


 さらに登ると、乳のように真っ白な霧に包まれて、自分の手も足も見えなくなりました。


 それでも娘は登り続けます。


 さきほど眠ったばかりだというのに、娘はまるで魔法にかかったように眠くなってきました。


 足に力が入らず膝ががくがくして歩けそうにありません。


 ねむくてねむくて、しかたないのです。


 それでも娘はがまんして登ろうと頑張っていると、突然体が軽くなり、ぐんぐんと登り出すことができました。


 そして、今度は娘が登るにつれて霧が晴れてきました。


 どれだけ登ったのだろうかと、娘が後ろを振り返ると、ただよう霧の中に誰かが倒れているのが見えました。


 「誰・・・。」と声をかけてみても返事がありません。


 娘は、その倒れている人をもう一度よく見てみました。


 すると、信じられないことですが、それは自分自身だったのです。


 倒れている自分の体に近寄ってみると、その手からこぼれ落ちているものがありました。娘は「あっ。」と声をあげました。


 あの頼りにしていた小石が砕けていたのです。


 娘は、驚きと悲しみのあまりに、そこに座り込みそうになりましたが、「坂を最後まで登るように。」と言った小石の言葉を思い出して、また坂道を登り続けました。


 そして、やっとの思いで娘が頂上に着くと、そこには自分の背たけくらいもある大きな白い石があったのです。


 あの小石と同じなめらかさと光を持った石です。


 娘がじっとその石を見ていると、その大きな石が娘に語りかけてきました。


 「あの崩れてしまった小石は私の一部だったんだよ。あちこちにあるうちの一つだけどね。でもここまで来たのは君が初めてだ。よく頑張ったね。君は、幻の世界が本当に好きなんだね。」


 娘は首を横に振って言いました。


 「違う。幻は消えてしまう。消えてしまうともっと辛くなる。消えてしまう幻は嫌だ。」


 石が言いました。「じゃあ、ずっとずっと消えない幻はどうかな。」


 娘は顔を輝かせて「そんなことができるの。」と聞きなおしました。


 その石には顔がありませんが、なぜか娘には、その石がにんまりと笑ってうなずいたような気がしました。


 「さあ消えない幻の世界へようこそ。」と石の声がしたかと思うと、娘は石の中に吸い込まれていました。


 娘は驚きました。


 その世界は広々としていました。


 最初はゆらゆらとしていた景色が、そのうちに娘が思ったとおりに変わるようになりました。


 欲しいものは何でも出てきます。


 嫌なものは何一つありません。


 願ったことは何でもかなう世界でした。


 大好きなお母さんとお父さんにも会えました。それも、嫌なことはまったく言わない望みどおりの人たちなのです。


・・・・・


 それでは、あの坂の途中に倒れていた娘はどうなったのでしょうか。


 数日たったころ、森のきこりが偶然通りかかって見つけてくれたのですが、すでにその娘は息をしていませんでした。


 きこりは、小さな子どもが人里離れた森で亡くなっていることを不思議に思いながらも、かわいそうなその娘のために簡単なお葬式をしてあげたのです。


 石の中の世界にいる娘は、そのようなことも知らずに、ずっとずっと遊んで暮らしておりました。


 そこでは時が過ぎても幼い娘はずっと子どものままでした。


 思い通りにならないことなどひとつもない、その幻の世界では娘は大人になれなかったのです。


 そうして何年が過ぎたでしょうか。


 何十年が過ぎたでしょうか。


 いや、何百年が過ぎたでしょうか。


 娘はずっと幼い子どものままで暮らしています。


 ときどき娘は、自分の思い通りになる世界に飽き飽きするときがあります。


 自分の知っていることしか出来ないからです。


 そのようなときには、娘は「誰かに会いたい。」と石に頼みます。


 石は、旅人が近くまで来たときに娘に教えてくれます。


 すると、娘は石のそばでゆらゆらとした姿を現して美しい声で歌うのです。


 森の中央の広場の、やわらかい草の上で休んでいた旅人は、どこからともなく聞こえてくる不思議な歌に引き寄せられて坂道のところまできます。


 旅人が坂道を登るにつれて、その歌が甘く心に響いてきます。


 旅人はもっともっと上に登りたいと思うのです。


 真っ白な霧の中で、旅人はひどいねむけとたたかいながら登ります。


 しかし、途中で旅人の体は倒れてしまうのです。


 旅人が自分の体を残して、霧の坂道を登るとそこには娘がいました。


 娘のまねくままに、旅人は大きな白い石の中に入り込み、不思議な世界の住人になりました。


 旅人は娘と一緒に自分の行きたかった場所に行き、欲しいものを手に入れます。


 そして、娘とともに旅人は様々なものに姿を変え、不思議な物語の登場人物になって遊ぶのです。


 もし、旅人がすぐに現実の世界のことを思い出して、帰りたいと願えば、戻ることができました。


 すると、その旅人は、坂道で倒れていたはずなのに、気づくとあの柔らかい草の上でねているのですから、たいていは夢だったと思うのです。


 しかし、もしその旅人が帰りたいと思えずに時間がたってしまったら、二度と戻ることはできません。


 旅人は自分の知っていることすべてを娘に教えて幻の世界を豊かにしますが、娘がそれに飽きてしまうと、もう必要な存在ではなくなってしまうのです。


 そして、旅人があれこれと娘の嫌なことを言い出したりすると、いつのまにか消されています。


 ここは最初に入ることのできた娘の望むとおりの世界なのですから・・・。


 そうして、娘はずっとずっと満ち足りて幸せに暮らしました。


 娘は、招き入れた人が思い通りにならないと消してしまうのですが、そのことに何の疑問も持っていませんでした。


 しかし、そのために娘は大人になれないだけではなくて、誰かを愛するということも知ることができなかったのです。


 おしまいです。


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