魔法陣
10
「諸君はスキュタレーというものを知っているかね」
講堂を反響するサインズ教諭の声をアミは退屈に聞いた。
魔術基礎学を担当する彼の教諭は精悍な表情を携え、浅黒い肌を強調するかのような白髪を後ろになで上げていた。生徒たちを見やる目つきは鋭く、獲物を見定める猛禽類のそれを想起させる。事実、多くの生徒は彼の眼光を投げかけられただけで、すくみ上がって体を強張らせる。この場においてアミだけが例外だった。
とはいえ、それは彼女の精神の頑強さに由来するものではない。単に、この時のアミはうわの空だった。彼女の思考を制限してるものは、幼馴染との――そして同居人との、ちょっとした不和だった。
「これは転置式暗号に用いられた、円筒状の『鍵』だ。暗号の送り手と受け取り手で同じ直径の円筒を用意し、送り手は革紐などをこの円筒に巻きつけて文章を記す。革紐を円筒から外せば、文章は暗号化される。同じ直径の円筒に再度巻きつければ復号――つまり元の文章を復元できる」
サインズの声は、思考の波に絡まることなくアミの耳から耳へ抜けていく。細長く切った紙とペンを使って実演しているようだが、アミの席からは遠くてよく見えない。
魔術基礎学は受講者が多く、大教室で行われていた。ざっと見積もっても二百人程度。学年やクラスの違う生徒がこれだけ集まる講義は学院内でも稀だ。少人数の特待クラスに所属するアミにとっては、なお一層のこと稀有に感じられた。
「こういった暗号化の理論が、今日の魔法陣の技術を支えている。では何故、魔法陣を形成する上で重要になるか」
大きな黒板には指一本触れず、サインズの授業は進む。教本を読ませることもほとんどない。そのことが、より一層のこと、アミの注意を散漫にさせた。
昨夜の事を思い出す。
備え付けのユニットバスでシャワーを済ませた後、十畳ほどの居室に向かうと、既にマナはベッドの上に座り込んでいた。
「お風呂、あがったから」
声をかけても、マナは身じろぎ一つしない。両腕で膝を抱え込み壁に背中を預け、何かに耐えるように、じっと虚空を見つめている。
そこに潜む感情の機微を、アミは読み取ることが出来なかった。不安も恐怖も寂寥も、アミへの警戒心も感じられない。そこにそうあることが自然であるかのように、マナは丸く縮こまっている。羽化を待つ蛹を見るようだった。
不意に、古い記憶が想起される。
立てた両膝と胸の間に大きな本を抱えた少年の姿が、マナの姿に重なった。
件の幼馴染――ミノシは結局、女子寮に現れなかった。
日照庭園でマナたちに合流した後、ミノシはアミに何度か何事かを言いかけて、結局、「マナを頼む」とだけ言って去っていった。マナとローズにも話しかけていたが、その内容まではアミの知るところではない。
ミノシの言葉に、アミは承諾も拒絶も返せず、ただ曖昧に視線を向けるだけだった。「協力はしない」と言った手前、二つ返事で快諾するわけにいかなかったが、同居人である以上、無視するわけにもいかない。そもそも事情を聞かされて無視できるほど、彼女の道徳心は欠けていなかった。
彼女をどうにかしてやりたいと、アミの良心は行き場なく疼きを溜めている。不安があるなら取り除いてあげたい。恐怖があるなら払ってあげたい。寂寥を感じるのなら慰めてあげたい。しかし彼女の内心を知らなければ、それらは全てアミのエゴでしかない。まず、彼女をもっと知る必要がある。
火急に関係を深めようとすれば、却って信頼を損なうこともある。脳裏をよぎる幼少期の記憶が、アミを慎重にさせた。
「魔法陣は、その名の通り、魔法を発動させるためのものだ。ではその効力はいつ発揮される? 当然、魔法陣が完成した瞬間だ」
白紙のノートを前に手持ち無沙汰にしているのはアミだけではない。サインズの授業は演説のようでもあり、大きな独り言のようでもあった。アミには、彼が聴衆を必要としていないように見えた。
「魔法陣を閉じたその瞬間、魔法は発動してしまう。これではあまりに始末が悪い。術陣の保存・複写が出来ず、いちいち描き下ろさなくてはならない。諸君の持つ教本に記すこともできないな」
サインズは、直径五センチ程度の円筒を掲げてながら続けた。
「そこでだ。魔法陣をステキュラーに描いたらどうなる?」
サインズは円筒に細長い紙片を斜めに巻きつけ、柱身の上端に近い部分にペンを立て、ぐるりと一周させながら何事かを書いた。さらにその下でもう一周。筒の底面と平行な文字の円環が二つ、形作られた。三つ目の円環が閉じられるよりも前に、紙片の上端は円筒から外された。
「これは立体記述式の魔法陣だ。三つの呪文が近似の内径を持つ円環をなし、それぞれの呪文が上下に並列することで魔法陣が完成する。こうして平面に記述された状態では、効力を発揮しない」
最後の円を閉じ、取り外した紙片を靡かせながらサインズは言った。そして今しがた取り外した紙を再び円筒に巻くと、立てるように空に差し出し、魔法陣を閉じ、手を離す。すると円筒は重力に逆らって宙に静止した。
「これはあくまで暗号化の一例だ。その手法は多岐にわたる。陣の一部を欠落させる。呪文を別の文字列に置き換える。あるいは先程のように、陣を復元するための『鍵』を作る」
サインズが懐から取り出したペンライトの光を当てると、円筒はおもいだしたかのように重力の影響下に戻り、力なく地に落ちた。
「それでは諸君にもアイデアを出してもらおう。魔法陣の暗号化を、自身ならどう行うか。思いつきで構わない」
その言葉が、教室内の静寂を一層のこと強めたようにアミは感じた。自然な息遣いすら感じられず、生徒一同、獰猛な肉食獣に相対しているかのように息を潜めている。
講義の最中に騒ぎ立てるような生徒はいない。サインズが沈黙すれば、場が静まり返るのは当然のことだ。それにしても過剰な反応ではないかと、アミは疑念を抱いた。
魔法陣の暗号化。自分ならどうするだろう、と考え込み、アミの視線は自然と下がる。くるぶし丈の外套のような制服の、下襟に刺繍された校章に目が止まる。これが魔法陣だとしたら、どうやって暗号化すればいいだろうかと考える。下ろし立ての筈の制服にほつれを見つけ、それをヒントに頭を捻るが、結局、何も思い浮かばない。
「今年の受講者は随分と謙虚なことだ」
サインズの皮肉が静寂を貫き、波紋のように緊張が走る。アミの隣の女生徒などはわかりやすくビクリと肩を震わせた。間抜けに物音を立てた草食動物を捕食者は見逃さない。
「キミ。そこの眼鏡のキミだ。金髪の……そう、キミの意見を聞こう」
女生徒は泡を食ったように、大きな物音を立てながら起立した。ガタガタという音の振動が、長机を通して直接的にアミの下へ彼女の動揺を運んだ。
「ええと……割符みたいに、魔法陣を二つに破る――とか?」
「『とか』、何だね? 他に例があるなら言ってみるといい。一つに限定した覚えはないがね」
「あ、いえ……それだけです。他にはちょっと……思いつかないです」
「もういい。座りたまえ」
サインズは小さく鼻を鳴らした。
「どうやら説明が不十分だったようだ。魔法陣を起動せずにという文言が抜けていた」
女生徒は俯き、今度は静かに着席した。羞恥に耐えるように拳を固く握りしめている。これもやはり、アミには大袈裟な反応に思えてならなかった。未だに何の着想も浮かばないアミには、先刻の女生徒の発想は、それほど的外れだと感じられない。
「逆に言えばそれ以外は、凡庸だが悪くないアイデアだ。実際に似たような仕組みを利用している術者は古来より少なくない。伝統的とも時代遅れとも言える」
他ならぬサインズがアミの考えを肯定した。言葉の端々に棘があるが、毒心は感じられなかった。
唐突に、アミは周囲の生徒たちを包む緊張感の正体を理解した。
彼らは怯えているのだ、と。
他人の心の機微には疎い一方、アミは自身へ向けられる好悪には敏感だった。利用されることを嫌うが故に強化された歪な感性。自身の感覚が他者のそれとは異なるのを、彼女は自覚していた。
「一つの紙に書いた魔法陣を二つに裂くのではなく、あらかじめ二枚の紙を用意したほうがいい。一枚の紙に陣を描くのなら、伝統的には『スクロール』という手法があり――」
アミの目に映るサインズ教諭は、己の教育理念に殉じている優秀な教育者だ。そこには何の陰謀や策略もない。
教育と洗脳は紙一重の位置にある。だから教育者の中には、自分の思想や価値観を押し付け、指導内容を編纂し、生徒たちを自分の傀儡にしようと目論むものもいる。不幸にも、アミはそうした人間を何度となく見てきた。大抵、彼らは自分の考えを絶対のものと思い、教え子たちを啓蒙することを正義と信じて疑わない確信犯だ。
しかしサインズはそういった連中とは違って見えた。相手をコントロールしてやろうという気が感じられない。アミが彼に対して無警戒を貫く所以はそこにあった。
これと言って理由もなく、アミの思考は流されるように、サインズの内心へ興味を向けた。アミにはミノシやレヴェリアほどの優れた洞察力はない。サインズの心を読み取ろうとすれば、彼女の思考は自然、想像ではなく経験に基づいた予測へと進む。今までに、彼と同じような感情の指針を向けたものはいなかったかと。
入学式。舞台の上で演説をする整った顔立ちの上級生は、何もかもを支配してやろうという野心で満ちていた。
そしてマナ。自身の首に噛み付いて来たときに感じたのは、敵意ではなく義憤に似た感情だった。寝台の上で丸くなる少女からは、その時の感情の残滓すら感じられず困惑した。
疲弊しきった白髪の担任。愉悦に浸る太鼓腹の男。そして――
(信頼しています。他の誰よりも)
赤くなった横顔が鮮明に思い返される。
あんなことを言うとは思わなかった。幼少期の彼は、どちらかと言えば感情表現が不得意な方だった。変に大人びた部分があって、駆け回って遊んでいるところすら見たことがない。いつも子供の体に不釣り合いな大きな本を抱えて、木陰でそれを読み耽っていた。
大人は彼を気味悪がり、同じ年頃の子供たちも、彼を気にかけなかった。そういった周囲の環境を、彼自身もまた気に留めなかった。
(あれは、だれ?)
記憶の中の少年と現実の齟齬が、アミに奇妙な喪失感を抱かせた。
入学式の後、再会したときに感じたもの。値踏みするような視線。打算に満ちた言葉の数々。
(あんなに器用じゃなかった)
顔を赤くして、愛の告白のような言葉を紡ぐ彼。
(あんなに、――)
高揚と共に感じた不快感。自分の半身を勝手に弄くり回されたような。
(気持ち悪い)
その言葉は自分に向けられただろうか。俯いて黙り込んだ横顔に向けられたものだっただろうか。
きっとどちらも同じことだった。自他の境界が曖昧な幼子が築いた関係性は、一枚の紙に落とされたインクが勝手に混ざり合って描いた模様のようなもので、そこには意義も意図も指向性も必要ない。今以て幼少の日々が純粋に、時を経るに連れ一層のこと透き通って輝かしく思えるのは、きっとそこに理由があった。
しかし二人が描いた関係は一度切り離された。年月はそれぞれの模様を大きく変え、きっと二度と同じ形に戻ることはない。
(信頼しています)
彼の言う信頼は過去の自分に向けられたものであることをアミは理解していた。それは信頼ではなく期待だ。変わらない事への期待。変わっていない事への期待。自分も彼に同じものを求めているのだと気付き、アミは失望した。
それでもアミにとって、ミノシが良き友人だったことに間違いはない。彼と過ごしたたった数ヶ月間は、その後のアミの人生を大きく変える程に特別だった。だからアミも、彼ともう一度関わりを持ちたいと考えた。
そのために、指向性が必要だった。お互いがお互いに求めるものを明示できなければ、公平な関係は築けない。ミノシはそれを隠匿し、アミは自身の願望に無自覚的だった。
「いづれにせよ、魔法陣の基礎はあくまで暗号化だ。破壊ではない。二つの違いは肝に銘じておくといい」
指向性が必要だった。それは大義名分とも言えた。差し伸べられた手を取るだけの意義。復元可能な関係性を築くための口実。
「壊れたものを直すのは、複雑な暗号を読み解く以上に難儀する」
サインズの言葉が象徴的に反芻された。アミはそれを思考の片隅へと追いやった。
コントロールされてなるものか、と。