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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜のばけもの

作者: 十浦 圭

 昔々、誰も知らない遠い昔、夜の森という深い森がありました。あんまり暗くて深い森なので、人は誰も住むことが出来ません。その森にはいつの間にか、一匹のばけものが住んでいました。

 大きくて真っ黒なばけものは、いつもお腹をすかせていました。目に映るもの手当たり次第、何を食べても満たされません。耐えられないほどの空虚をお腹の中に抱えて、いつもばけものは食べるものを探していました。

 ある日、ばけものは小鳥を見つけました。巣から落ちてしまったのでしょうか。怪我をした羽をバタつかせて、小鳥は必死に逃げようとしますが、もちろん、逃げられるはずがありません。いただきます、とばけものが大きく口を開けた時、待って!と澄んだ声が響きました。

 だれだ?きょろきょろと辺りを見回して、けれど誰の影も見つけられず、最後にばけものは手の中の小鳥を見ました。お前か?そうよ、と、小鳥が言いました。

 あなた、お腹が空いているんでしょう。

 ああ、はらぺこだ、はらぺこだ。生まれてこの方、はらぺこじゃなかったことなんてないくらい、はらぺこだ!

 もしも今、わたし一羽を食べたところで、大してお腹も満ちないでしょう。もしも、ほんの少し時間と手間をかければ、私はもっと大きくなるわ。そうすれば、あなたの空腹も少しはマシになるんじゃないかしら。

 驚いて、ばけものは手の中の小鳥を見つめました。そんなことを言ったのはこの小鳥が初めてです。そういえば、ばけものに声をかけたのも、会話をしたのだってこの小鳥が初めてでした。

 どうしようかな、とばけものは考えました。普段考えるということをしないばけものにとってはそれはとても難しいことでしたが、自分が空腹であることも、それをなんとかしたいのも間違いのないことです。

 育つのか?とばけものは尋ねました。そうね。小鳥は答えました。生きていれば、命は育つのよ。

 生きていれば?とばけものは尋ねました。生きていれば、と小鳥は答えました。

 どうすればいいんだ?ばけものは小鳥に尋ねました。


 そうして、ばけものと小鳥の暮らしが始まりました。小鳥のために、ばけものはこれまで気が付きもしなかった小さな花を摘み、木の実を集めました。美味しいのかな。そう思ってついでにかぶりついた花びらが喉に貼り付いて、大きく噎せたばけものに、小鳥がくすくす笑います。綺麗な水で洗ってじっとしていた羽は、やがて傷も治り一回り大きくなりました。ぱたぱた羽ばたいて、小鳥が嬉しそうにありがとう、と言いました。雨の日は小鳥のために雨のかからない木陰を探します。葉を弾く雨音に合わせて、小鳥がピピピと歌いました。

 朝がきて、昼がすぎて、夜が明けました。春がきて夏がきて、秋がきて冬がすぎました。隣に小鳥がいるのが当たり前になった頃、小鳥はもう随分育っていて、もう小さな鳥ではなくなっていました。いつの間にか、ばけものは空腹がさほど強くないことに気が付きました。内側から火であぶらるような、あのひりつく飢餓感はなりを潜め、今はただ、自身が生きてゆけるだけの食事がとれれば十分なのでした。


 ある夜、森に人間がやってきました。ぞろぞろと火を掲げて、鉄の匂いをさせて、彼らは何かを探しています。

 何を探しているのかしら?首をかしげる鳥にばけものが頷きます。俺だ。

 ばけものは彼らが自分を殺しに来ていることを知っていました。だからといって怖がることはありません。ばけものがその大きな腕を一振りすれば、奴らは散り散りに逃げ出すに決まっています。

 任せてろ。そう言ってばけものは吠えました。びりびりと森の木々が震えます。あそこだ!誰かが叫びました。ガチャリと人間が何か長い筒を構えます。一本、二本…。あれはなんだろう、ばけものがそう思うのと同時に人間が叫びました。撃て!

 突然、強い衝撃と痛みがばけものを貫きました。


 轟音と共に次々降り注ぐ銃弾の中、なんとか逃げ出したばけものは息を切らして倒れ込みました。体のそこら中、至るところがビリビリと痛みます。なんだか頭がぼんやりとしてきて、ばけものはぱちぱちと瞬きました。

 眠い?鳥が尋ねました。わからない。ぼんやりとばけものは答えました。お腹が空いた?わからない。でもあちこちがとても痛いんだ。そう。可哀想に。そう言って、鳥は少し黙りました。

 ねえ、私が言ったこと覚えてる?やがて、優しい声で鳥が言いました。生きていれば、命は育つ。最初に会った時のこと、覚えてる?

 私はもうこれ以上育たないわ。おばあさんになるまで生きたって、あと何回春を見れるか分からない。鳥の寿命は短いし、あなたがいなければ、もしかしたらすぐにでも鷹に食べられて死んじゃうかもしれない。

 あなたは違うわ。無邪気な寂しがりのばけものさん。私あなたのこと大好きよ。大好きになったのよ。私の分も、いっぱい学んで大きくなってね。あなたと生きるのとても楽しかった。これからもずっと一緒よ。

 ばけものはもう頭がぼうっとして、鳥が何を言っているのかもよく分かりませんでした。静かな鳥の声が心地よくて、うっとりと聞いているだけでした。だから、ぼんやり開いた口の中に何かあたたかいものが飛び込んできたって、なんのことか分かりませんでした。さあ食べて。そうして生きて。分からないままに、ばけものは口を閉じました。そうしてあたたかくてやわらかでとっても美味しい何かを、ごくりと飲み込みました。


 ふと、ばけものは目覚めました。明るい日差しの中で、体はまだあちこち痛かったけれど、あの耐え難いまでの眠気の方はすっかりどこかへ消えています。森は静かで、人間たちもばけものを見つけるのを諦めて帰ってしまったようでした。平和な森の朝。けれど、鳥がどこにもいません。

 おうい、とばけものは呼びました。どこにいるんだ、どこに行ってしまったんだ。じわじわと、不安が足元を這いずります。どこにいるの、どこに行ったんだよ。ああ、空腹がやってきます。あの恐ろしい空腹が、再びばけものを捕まえてしまいます。

 ふと、ばけものは口をつぐみました。本当に自分は空腹なのでしょうか?思わず触れた胃袋の辺りは、どうしてか、じんわり満ちているような気がします。そういえば、口の中に、よく知った肉の味が残っているような。眠りに落ちる少し前、何かあたたかくて柔らかいものを飲み込んだ、ような。

 あああああ。全てを悟って、ばけものは叫びました。あああああ。身悶え、ガリガリと腹を掻きむしり、地面に蹲りました。あああああ。ただ声をあげてのたうち回りました。苦しい、辛い、苦しい、苦しい、苦しい。寂しい。

 寂しい、寂しい、寂しいよ。鳥に出会う前は知らなかったのに。ぽっかり空いた穴を空腹だと、無邪気に信じたまま生きてゆけたのに。もうばけものは元には戻れません。身を食い尽くす虚しさの名前が寂しさだと、知らなかった頃には戻れません。

 どれほどの時間、そうして苦しんでいたのでしょう。のっそりと体を起こした頃には、ばけものの目は暗く深く沈んでいました。不気味で怖い夜の森と同じ色に、すっかり染まってしまっていました。

 今でもそのばけものは、夜の森に住んでいます。うろうろと彷徨いながら、身を食い尽くす寂しさを埋めるために、何か食べるものを探しています。夜になったら、森には決して入らないように。大人たちがそう口を酸っぱくして語るのは、寂しがりの夜のばけものに、食べられてしまわないようにするためなのです。


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