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魔王の国  作者: かえる
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魔王の国

 フランは苛立っていた。石畳の上を歩く。見慣れた村の風景。懐かしい風の匂い。あそこの井戸のあの割れた角はライアンがやったのだ。どうでもいい幼少の思い出が溢れ出てくる。

 この場所に戻ってきてしまった。意図した訳ではないことが、尚更フランの神経を逆撫でした。道端に生える雑草の1本1本に、並び立つ家々の壁のひび割れの1つ1つに見覚えがあった。

 ここは、私が生まれた土地だ。ローズ家の始まりの場所だ。私の一生における最低の出来事と最高の出来事が同時に起こった村だ。

 どうしても感傷的な想いが湧き出てくる。全く、鬱陶しくて仕方がない。後ろからは何も知らないイワンがふらふらと付いてきていた。その状況もフランの不機嫌を増長した。

 突然の転移だった。その動きに反応するだけで精一杯だったため、気付いたときにはイワンも一緒に転移させていた。上位権限であいつの頭の中をモニタリングしていなければ、反応することすら難しかったかもしれない。腹立たしい。どれもこれもあの女のせいだ。

 フランは後ろのイワンをちらりと見た。目の焦点が合っていない。皺が深く刻まれた口は力なく半開きになっている。そうだ、これを見せてやろう。フランは良いことを思い付いたとばかりに、独りくっくと笑みを溢した。イワンは転移後すぐに処分する予定だったが、気が変わった。あの一般人はどんな顔をするだろう。そう考えただけで少し気が晴れた。

 気分がよくなったついでに体を揺する。背中に背負ったピンクのリュックが連れて揺れた。中には大量のぬいぐるみを超圧縮して詰め込んでいた。この年齢、この体に合った魔道具だ。

 我ながら良いセンスをしている。リュックの両サイドにはファスナーがあり、開閉することで中の魔力を込めたぬいぐるみを一斉放出できる。実益とデザインを兼ね備えている、フランのお気に入りだった。


 喧騒が聞こえる。村人が騒いでいるのだろう。捕まえろだの、燃やせだの、物騒な言葉が途切れ途切れに聞こえた。

 胃が引っくり返るような怒りを感じた。うきうきした気分は急降下。怒りと焦燥、恐怖が波のように押し寄せてくる。沸々と煮え滾る。頭の中で溶岩のあぶくが破裂している気分だった。あいつら全員殺してやる。もう一度、もう一度。その時遠くから別の声が聞こえた。魔力で強化した耳が拾ってきた。


 「どうしてあなたは魔物を殺すのかしら」

 透き通るような声。それが聞こえた瞬間、フランは目を見開いた。興奮が腹の底から湧いてくる。頬が紅潮した。 いた。遂に見つけた。

 「…それはどういうことですか」

 もう1人の声がする。くぐもった、鈍そうな声。あいつだ、あの一般人。私より先に見つけたのか。あの女が手引きしたのだろうが、それでも苛立ちが募る。フランは駆け出した。声のする方へと。

 「あら、違うのかしら。あなたが私に聞いたのよ。だから私は言ったでしょ。"それはきっと、あなたが大きくなったときに分かるでしょう"って」

 何を回りくどい。フランは走りながら思った。あんたはいつもそうだ。いつもいつも、何でも解っているような顔をして。

 「…何のことでしょう。あなたとは初めてお会いすると思うのですが。光の…聖女様」

 何が光の聖女様だ。もう声はすぐ近くまで聞こえてきていた。この家の向こう側。これは確かマリーの家だ。両脚に魔力を込め、跳び上がる。

 「いい加減気付いてくれないかしら、明日香。私は…」

 屋根に着地する。イワンが遅れて着いてきた。まるで重力など無いかのようにふわふわと浮いてくる。フランの魔力を勝手に喰って。しかしもうフランにはそんなことは関係なかった。フランは屋根の上で仁王立ち、腰に手を当てる。眼下を力強く見下ろした。自然と口角が上がる。フランは満を持して高らかに叫んだ。

 「見つけたわ、光の聖女!いいえ、グレイス・クラウンと言った方が良いのかしらね!」

 眼下で向かい合っていた2人が同時にこちらを見上げた。片方には余裕の微笑みが、もう片方には驚愕が浮かんでいた。フランの自尊心は幾分か充たされた。そうよ、為政者に対しては最大の尊敬と畏怖を示して然るべきよ。

 「あらフラン、あなたも来ていたのね」

 グレイス・クラウンと呼ばれた女が口を開いた。全てお見通しという涼しい顔。しかし、あれはもう昔からだ。昔からあの女はああいう顔をするのだ。

 「そうね、あんたは呼んだ覚えがないんでしょうけど」

 笑みが更に広がる。何でもかんでもあんたの思い通りにはいかないんだから。

 「フラン…フランソワーズなの?大丈夫?一体今までどこに…。イワンは?というか今なんて言ったの?」

 明日香が矢継ぎ早に質問してきた。あんたにもう用はないのよ。しかし耳に"イワン"という単語が引っ掛かった。そうだ、こいつに見せるんだった。

 「イワン?ああ、それなら今ちょうど一緒にいるわよ。来なさい、イワン」

 ずるずると足を引き摺る音。フランの後ろからイワンが顔を覗かせた。それを見た明日香の目が強張った。今まで散々心配していたであろうイワン、それが虚ろな様子で現れる。

 恐怖。何が起きているのか分からない明日香の顔にそれがみるみる広がっていく。

 ああ、なんて心地よいのかしら。フランの自尊心が満たされていく。

 イワンは歩みを止めない。ゾンビのような足取りで、屋根の縁まで進み出る。明日香が息を飲むのが見える。フランはイワンへの魔力供給を断った。途端イワンは力が抜けて崩れ落ちた。さながら糸の切れた操り人形(マリオネット)

 明日香の悲鳴が響く。ぐちゃり、と重たい果実が潰れたような音がした。明日香が悲痛な叫びを上げながら、地面に落ちたイワンの遺体に駆け寄った。

 フランはぞくぞくと興奮した。高笑いを上げる。ああ、堪らない。一般人はこうして遊ばないと。

 イワン、イワンと明日香が連呼しながら揺すっている。フランは快感に包まれた。

 もっと、もっと見たい。そうだ、種明かししてやろう。この馬鹿で間抜けな魔道士様にもっと絶望を与えてやろう。どうせ最後には殺すのだ。元々真相を話すつもりはなかったが、もうフランに歯止めは利かなかった。

 「あはは!あんたが言ったのよ。この、私が、人形遣い《パペットマスター》だって!だからあんたの言った通りにしてあげたのよ、イワンを使ってね!ねぇ、私の上司様?」

 明日香がこちらを見上げた。苦痛に歪んだ顔には混乱が浮かんでいる。理解していたと思っていた認識が崩れていくという顔。同僚が目の前で落っこちて死んだというのに、その傍らで笑い転げている部下。あの一般人には到底理解できまい。なんて愉快なのかしら。

 「あら明日香、フランのこと人形遣いだと思ってたの?」

 飛び降り自殺など起こっていないとでも言うように、グレイスは平然とした声を出した。

 余計なこと言うんじゃないわよ。折角良いところなのに。明日香は混乱したままの様子でグレイスの方へと振り返った。

 「残念、違うわよ明日香。フランの専門は分霊・・よ」

 「分…霊…?」

 「勝手にバラしてんじゃないわよ!誰も許可してないわ」

 「あら、師の私があなたに対して許可を取る必要があるのかしら」

 ちっ、と舌打ちする。いつもこうだ。人の考えも顧みず、独りで勝手に話を進める。

 「…分霊って…禁忌じゃないのですか」

 訳の分からない明日香は、ぼうっとした様子のまま疑問を口にした。

 「良くできたじゃない。呆けた一般人にしては上出来よ。そう、これは三大禁忌全てに抵触する魔術。だからあんたは真似しちゃダメよ」

 「そんな…フラン、なんで」

 「何で、なに?三大禁忌を破ってること?それとも三大禁忌に指定したこと?」

 何の話をしているのか。明日香の顔にはそう書いてあった。

 フランは笑いが止まらなかった。本当に何も知らない。まぁ、そうなるようにしてきたのだから当たり前なのだが。

 この遊び、毎週やろうかしら。賢者を気取る無知な一般人を捕まえては真実を教えてやる。そうしてから殺す。指先から少しずつ千切るようにじわじわと。きっととてつもなく愉しいに違いない。

 「明日香、分霊ってどういうものか分かるかしら。分霊は、つまり魂の分割。ただ魂には容量はないから、コピーと言った方が良いかもしれないわね」

 「だから勝手に喋ってんじゃないわよ!」

 「いいじゃない、あなたお姉さんに当たるんだし。妹の明日香の勉強見てあげたら?」

 「妹?その一般人が?そいつはただの殺人鬼。よく分かりもしないのに同族を殺し回ってる『魔物狩りの勇者』様よ」

 「…殺人…鬼?」

 「魔物狩りの勇者?やっぱりそうなの、明日香?まぁ、見たところそうなのだと思っていたけれど。それに、そうであることを期待もしていたのだけれどね」

 砂埃にまみれ、返り血を浴び、血のこびりついた大刀を携えている。どう見ても魔物戦の参加者だ。

 「でも大丈夫よ、明日香。あなたの罪はなかったことにできるのよ」

 イワンの遺体を抱きかかえ呆然としている明日香は、自らの罪と言われてもいまいちピンと来ていないようだった。だがそれを聞いたフランには事の全容が見えた。

 「そう…そういうこと。あんたが私1人を連れて消えたとこから、ひょっとしてと思ってたけど…。とんだ反逆ね!」

 フランの中でぶくぶくと怒りが煮え滾る。命の恩人にして魔法の師匠の思わぬ裏切りに、頭がどうにかなりそうだった。

 「反逆だなんて。別のあなたにもそう言われたけれど、私は間違いを正したいだけなのよ」

 「間違い?そんなものはないわ!私の世界が正解よ!ローズ家の、私の治世が一番正しいのよ!」

 「…フランの治世?」

 「この子はね、明日香。フランソワーズ・ローズに9世も11世もないの。専門は分霊って言ったでしょ?この子は教皇の地位につく前からずっと、光の聖女に救われたフランソワーズ・ローズ本人なのよ」

 「…何を…どういうことですか?わたしにはもう…」

 「だから…勝手にベラベラ喋るなって言ってるでしょ!この裏切り者!」

 もう耐えられない。反逆者には死を与えなければ。

 フランはリュックの側面に付いたファスナーを魔力で思い切り引き下げた。そして中に詰まったぬいぐるみを次々に飛び出させる。

 熊、兎、猫…。大小様々な可愛らしいぬいぐるみ。それぞれには綿と一緒にフランの魂の欠片が詰められていた。

 それらは小さな賢者と言っても過言ではなかった。

 ぬいぐるみ達は自発的に重力操作を行い、グレイスの下へと加速する。ぬいぐるみ達は腕に魔力の刃を作り出し、グレイスに飛び掛かっていった。すぱん、と首が飛ぶ。体を切り刻む。呆気ないものだ。血は出なかったが、不思議には思わなかった。

 ぬいぐるみ達は明日香にも躍り掛かっていく。呆然とした頭を刎ねた。フランは高々と笑った。

 そうよ、この私に敵う相手なんているはずないわ。

 そのまま跳び上がり、グレイスの頭を踏みつけるように着地した。骨が潰れる音が足に響く。ぐにゃりとした感触が伝わってくる。潰すように何度も踏みつけた。

 「この、私に、歯向かうから、こういうことに、なるのよ!」

 ぐちゃり、ぐちゃり。

 「フラン、大丈夫?」

 突然、明日香の声が後ろから聞こえ、フランはぞっとした。恐る恐る振り返る。明日香の頭がこちらを向いて落ちていた。その目が心配そうにこちらを見ている。

 今、喋った?明日香の目が瞬きした。怖気が走る。突き動かされるようにそちらに走った。足が絡まり転ける。

 何、何で生きてるの?切断した頭に急いで這い寄った。明日香の目がフランを見上げていた。

 「う、わああああ!」

 恐怖に頭が支配された。拳を作り、両腕で殴りつける。明日香の顔がマシュマロのように潰れる。死ね、死ね!しっちゃかめっちゃかに殴り続けた。

 「どうせ今頃、私達の事を殺しているんじゃないかしら」

 今度はグレイスの声が聞こえた。慌てて振り返るとグレイスの潰れた顔の口が動いていた。まるでそれ自身が意識を持っているようにうねうねと。

 何で、何でよ!恐怖のせいか上手く立ち上がれない。グレイスの首まで這っていく。そして殴る。念入りに。執拗に。グレイスの頭はフランの拳に合わせて潰れていった。手に痛みはなかった。死ね、死ね、死ね、死ね…。

 いつの間にか目の前には小さな人達が並んでいた。懐かしい顔触れ。マリーにライアン、ニコラ、エヴァ…。

 一緒に育ち、遊んだ子達。私を魔女と呼んだ人達。私から夫を奪った女もいた。こいつら全員殺してやる。

 ふと何故彼らが小さいのか疑問が浮かんだ。しかしフランは、いや、と打ち消した。私が魔法使いだからだ、と。お前達が魔女と呼んだんだ。本物の魔女がどれだけ恐ろしいか教えてやる。

 もう周りの音は何も聞こえなかった。村の喧騒も明日香の声も。フランはマトリョーシカのように並んだ村人を叩き続ける。

 もうフランの顔から薄笑いが絶えることはなかった。




 「だから…勝手にベラベラ喋るなって言ってるでしょ!この裏切り者!」

 そう言ってからフランの様子がおかしくなった。

 フランの背後からぬいぐるみの大群が立ち上がったかと思ったら、二手に分かれてこちらに突進してきた。が、それぞれ別の建物に飛び掛かると、思い思いに壁に突き刺さり止まってしまった。

 それを見ていたフランは高笑いを上げると跳び上がり、地面に着地した。重力操作もろくにしなかったのか、骨が折れるような酷い音が響き、わたしは思わず顔を逸らした。

 「この、私に、歯向かうから、こういうことに、なるのよ!」

 ボリューム調整が上手く出来ないような大声を出しながら、その場で力任せに地団駄し始めた。幼い姿も相まって、子どもが駄々をこねているようだ。

 「フラン、大丈夫?」

 教皇だと言われてもわたしには部下のフランにしか見えず、心配になり声をかけた。

 するとフランはビクッとし、恐る恐る振り返った。その目には怯えたような色が浮かんでいた。

 フランはこちらに走り寄ろうとしたが、足を痛めているのか途中で転んだ。そのまま這って少しして止まると、叫び声を上げて地面を叩き始めた。

 加減もせずに石畳の上に拳を振り下ろす。鈍い音が響く。皮膚が擦れ、すぐに血が出始めた。しかしフランは気にも留めずに殴り続ける。

 とても見ていられなかった。

 「どうせ今頃、私達の事を殺しているんじゃないかしら」

 光の聖女はそう言った。フランはその声に反応し、少し移動するとまた拳を振るい始めた。

 「フラン、フランソワーズ!?」

 もうフランは反応しなかった。薄笑いを貼り付けたまま、ただ地面を叩き続けるだけ。気が狂ったとしか思えなかった。それを光の聖女は静観している。


 「これは…あなたが?」

 「あら、よそよそしいのね。師弟なのだからもっと気軽に呼んでもいいのよ」

 「本当に…グレイス先生なんですか?」

 艶やかな金色の髪、皺1つないぴんっと張った白い肌、綺麗な二重と緑色の瞳。そのどこにもグレイス・クラウンの面影はなかった。

 だが彼女の仕草の1つ1つに、柔らかな口調に、何よりも日向に当てられるようなその微笑みに、恩師を見つけてしまう。

 この人は本当に先生なのか。わたしを置いて亡くなったグレイス・クラウンなのか。

 「先生…先生。フランに何をしたんですか。これじゃあとても…」

 フランが拳を振り下ろす音が一定のリズムで鳴り続けている。

 バキッと骨折音がした。慌てて見ると、フランの右手首が折れてぶらぶらしていた。それを鞭のように叩きつける。わたしは思わず自分の右手首を擦った。

 わたしは擦った手首の隣で、腕の中で冷たくなっているイワンを見下ろした。死後1時間くらいだろうか。落ちた時に折れたのか、首の据わりが悪い。

 転移後、脳の処理能力を過剰に超えた事物に混乱しているはずの頭で、冷静にイワンを観察した。

 イワン、どうして…。しかしそれより先は思考しなかった。これ以上考えたくなかった。

 わたしは死んでいるイワンと狂っているフランを交互に見た。耳を塞ぎたくなる音、目を覆いたくなる光景が止むことなく続く。

 わたしは堪えられなくなり、イワンを地面に寝かせるとフランに駆け寄った。右足がずきりとしたが気にしない。

 後ろから羽交い締め無理矢理止めようとしたが、13歳とは思えないほどの恐ろしい力で暴れて振り払われる。暴れまわる腕に手を伸ばすと、右腕を掴んでしまった。獣のような悲鳴が上がり、気圧され手を引っ込める。

 わたしの部下が、フランが目の前で苦しんでいるのに。なのに、どうすればいいのか分からなかった。

 再びイワンを見る。彼は相変わらず死んでいた。結局誰も護れなかった。そんな思いが泡沫のように沸いてくる。イワンもフランも、ウィルも。泡で出来た無力感に押し潰されそうになる。

 壊れた玩具のように暴れ続けるフランの前で、わたしは成す術なく立ち尽くした。


 「フランは夢を見ているのよ」

 透き通った声が耳に届いた。光の聖女は慈愛の籠った視線を寄越していた。

 理解できないイワンの行動、発狂しているフラン、訳の分からない会話。どれもこれも実感がない。

 夢を見ているのはわたしの方ではないのか。

 「明日香、私の専門は何だと思う?」

 それは"光の聖女の"だろうか、それとも"グレイス先生の"だろうか。

 「…先生の専門は物理魔法学です」

 人体が壊れていく音が続く。そんな中で何の話をしているのか。

 やはりこれは夢じゃないのか。だが右足の疼きは現実であると伝えてくる。

 「私はフランの師匠だって話はさっきしたわね。フランの専門は分霊。じゃあ私の専門は?」

 「…分霊ですか」

 しかし先生は首を横に振った。そうして口を開いた。

 「私の専門は幻術よ」

 幻術。…幻術?幻術ってあの…?

 「最も人気がなく、誰もまともに関わろうとしない、"低級魔術"と揶揄される、最早侮蔑の対象ですらある魔法分野ね」

 「…え、いや、そんなはずは…。だって先生は物理魔法学の権威で…、実際論文だってわたし…」

 「じゃあその論文の表題は分かるかしら」

 「勿論です。何度も何度も…読んだ…ので…」

 そう言いながら浮かんできたものは別の人の論文だった。違う、これじゃなくて。

 今まで読んだものを順に思い出す。時空間における人体を経由した魔力経路…、これはロベルトだ。時空間固定における生態系への影響…、これはエンゲレール…。時空間同期と時空間移動に関する実験系モデル…、これはわたしの…。

 「私の論文は思い出せたかしら」

 「そんな…はず…」

 何一つ思い出せなかった。先生の論文を読んだ。その気配だけが頭の中を彷徨って、しかしそれを追いかけても辿り着くのは別の論文ばかり。

 わたしは絶句した。

 どれだけ探しても、わたしの記憶の中に先生の論文はどこにもなかった。

 「ないでしょう?あるわけないわ。だって生きてきて此の方、論文なんて一度も書いたことないもの」

 「そんな…そんな。だって、わたし…」

 わたしは先生の論文を参考にして研究を進めたはずだ。わたしは先生の唯一の弟子で、だからわたしがやらないと…。

 唯一の…弟子?頭の中に靄がかかっているみたいに考えが定まらない。頭痛を感じ、こめかみを押さえた。


 「悪いけど私は物理魔法学なんてちんぷんかんぷんよ。アインシュタインの研究に関しても噛み砕いた情報しか知らないわ」

 嘘。そんなはずない。

 先生は…わたしの師匠は物理魔法学の権威にして大賢者、あのグレイス・クラウンだ。それが…。

 「明日香、私はタイムマシンが欲しかったの。でも私の専門は幻術。物理魔法学は基本理論から理解できなかった。だからあなたを弟子に取ったのよ。あなたに幻術をかけて、研究してもらったの。有名な大賢者の唯一の弟子で、引き継げるのは自分しかいない。そう思ったら必死になるでしょ?」

 「そんな…不確定な方法で…?嘘…ですよね?」

 わたしの中で何かが崩れていく。今まで自分のルーツとして大切にしていたもの。周囲から一般人の猿真似と揶揄されようとも、倒れることなく進むことが出来た心の支柱。

 「確かに不確定ね。だから予備も取っておいたのよ」

 「…予備?」

 「あなたと一緒に暮らしたあの山小屋。あそこにあと4人(・・)いたのよ」

 ぞっとした。4人?あそこに?

 記憶が一瞬立ち上がった。2人暮らしには多すぎる食器。誰も使っていないのに流れるトイレ。掠れた映像と音。これは何の記憶だ。

 「"唯一の弟子"って設定だったから互いには認識できなかったと思うけど。可笑しかったのは、見えてないはずなのにあなた達、ぶつからないように動くのよ。無意識に避けてたのでしょうけど、あれは笑いをこらえるのが大変だったわ」

 頭が痛かった。知らない人達の顔がかさつきながら現れては消えた。

 わたしと先生の家にいた、年齢もばらばらの知らない男女。こんな人達は知らない。いなかった。わたし達の家にはいなかった。

 …本当に?

 「そしてあなたは見事クロノスを完成させた。私の願いは叶ったわ」

 「…わたし…わたしは…」

 「クロノスはあなたが独自に作り上げたものよ。だから誇りなさい。あなたは素晴らしい賢者よ」

 理解が追い付かない。頭が割れそうだ。

 クロノスはわたしが作ったの?あれは先生の心残りで…。でもそれは幻で、わたしがそう思い込んでいただけ…。

 自分の足元がとても不安定なものに感じられた。両足で踏んでいるはずの地面、それが本当にあるのかも自信がない。わたしは今まで何をして…。さっきまであったはずの心の拠り所は陽炎かげろうだったのか。

 「そして、ここからが本題よ。明日香、あなたをここに呼んだ理由はね─」

 目の前で光の聖女がわたしに語りかけていた。本当に?この人は自分がグレイス・クラウンと言った。夢じゃなく?

 右足からずきり、ずきりと響いてくる。

 「─魔王を打ち倒すためなの」


 「魔…王?」

 魔王…。そうだ。わたしの仕事は魔王を討伐することだ。

 「超個体って分かる?」

 光の聖女が突然言った。急に何の話だ?魔王を倒す話をしていたのではなかったか。わたしの思考はふわふわと浮いていた。

 「超個体というのは、一定数以上の個から形成される集団が、あたかも個体のように振る舞う現象のことよ。有名な例えで言うなら、蟻ね」

 「…蟻」

 支離滅裂過ぎる。やはりこれは夢なんだ。右足が痛むのはさっき痛めたからで、きっと夢の中でも痛いだけなのだ。ならさっきの戦闘は本当なのか。どこからが夢でどこからがうつつか、わたしはその境目をうつらうつらと探し始める。

 「蟻は単純だけれど、蟻のコロニーは賢いって話、聞いたことある?コロニーっていうのは巣のこと。蟻が形成している社会とも言えるかしらね」

 光の聖女はわたしの混乱を助長するかのように話し続ける。

 「蟻という個体は単純でしょ?餌なんかの目標を見つけたら、フェロモンを地面に残しながら巣に戻る。そして仲間を引き連れて往復する。それだけ。なのにその単純な個体が集合することで複雑性を生み出すの」

 混乱しているわたしの頭の中で蟻が右往左往していた。巣穴から出てきた一匹が餌を見つけて戻る。そしていつの間にか行列を作り出す。これのどこが複雑なのか。

 「その複雑性を超個体と言うのよ。蟻は個体ではなくコロニー全体で意思決定するの。しかもその決定行程、決定モデルは類人猿の個体のそれに酷似しているのよ」

 頭の中では蟻達が互いに相談し合っているイメージが。いや、蟻は単純だとさっき……え、類人猿?

 「…何の話ですか?」

 漸くその言葉が出た。魔王の話ではなかったか。蟻の話だったのか。それとも蟻が集まって出来た猿の話か。

 「勿論、人間の話よ」

 人間の話?

 光の聖女が投げ付けてくる意味不明な会話によってか、最早フランの出している音が気にならなくなっていた。

 思考力が落ちていることにはぼんやりと気付いていた。もうわたしの脳は光の聖女の問いかけを逐一イメージにしているだけになっている。

 「人間も集団を形成している。社会を形作っている。そこには超個体としての特徴があって然るべきでしょ。そうは思わない?」

 「…人間は蟻ではありません、先生」

 何とか言葉にする。そうだ、人間は蟻ではない。既に個として複雑だ。

 「そうね、人間は蟻じゃない。でも私達が形成する社会は超個体足りうるでしょ」

 乱立するビルディング。その足元を蟻が往来する。それらはスーツを着込み、ネクタイを絞め、あるいはパンプスを履き、忙しそうにせかせか動く。想像力が暴走している。

 「そして私達の社会が超個体なら、一個の生命体のように振る舞うなら、そこには精神が、心理がある」

 イメージしていた蟻達がフリーズした。わたし達の社会の心理?嫌な予感がした。これ以上考えてはいけない。知ってはいけないと。

 「私の、光の聖女の専門は幻術と言ったわね。ここまで言えば分かるかしら」

 「あ…ああ…」

 "そいつはただの殺人鬼。よく分かりもしないのに同族を殺し回ってる『魔物狩りの勇者』様よ"

 さっきのフランの言葉が蘇ってきた。

 「魔物を選別する呪文、そんなものはないわ。あれも分類すると幻術に当たるのよ。集団心理に作用する幻術」

 「そんな…。わたし…わたしは…」

 「明日香、"魔物"なんてものは、この世のどこにもいないのよ」

 魔物がいない。その言葉がわたしの中で反芻した。わたしがこれまで殺してきたのは魔物ではない。じゃあなに。殺人鬼。いや、そんな…違うはず。そこで思い出した。

 魔物は、遺伝子学的には人間と同じ。

 それは元が人間だから。魔王が人間を元に魔物を生み出したから。そうだ、魔王が元凶だ。それに将軍の存在もある。

 「…先生、それはおかしいです。魔物がいないなら、将軍と魔王の説明がつきません」

 将軍は人間とは遺伝的に別物という結果がある。それは魔王直属で送り込まれた異物という証明のはず。つまり、この話は嘘。そう、今話していたことは全てでっち上げ─。

 「ああ、それね。きっとフランがやったんでしょう。将軍は一部しか回収されてないでしょ?一体何の一部を回収したかは知らないけど、人間以外の肉片なら遺伝子検査で一致しなかったでしょうね」

 「…わざわざそんなことをする理由がないです。これは作り話ですよね。そうですよ。全部嘘。こんなことあり得ない。あなたが言ってることは全部嘘よ」

 「いいえ明日香、理由はあるわ。ヴァチカンには、協会にはそれだけの理由があるでしょ。魔物討伐を求心力とした協会は、魔物が人間だなんて結論は許さなかった。そんなことが露呈すれば、協会の名が地に落ちる。だから人類の敵が人間ではない、という証拠が欲しかったのでしょう」

 「そんな…それじゃあ…」

 「将軍もいない。魔物もいない。私達が殺してきたのはどれもただの人間よ」

 将軍も人間?最後の将軍シロウ・イシイも、ペルーのフランシスコ・ピサロも、ドイツのアドルフ・ヒトラーも、全てわたし達と同じ人間?わたしは彼らを殺し回った殺人鬼?

 「…魔王は、魔王はいるんですか」

 魔王もただの人間。わたし達と同じ─。

 「魔王はいるわ」

 その言葉を聞いてわたしは目を見開いた。魔王はいる。ならそいつは一体どんな─。

 「魔王は『人間を魔物に変える者』でしょ。それは私達(・・)よ。あの呪文を使って魔物を生み出し、それを殺した人間、そしてそれを許容した世界、その全てが魔王。そうして築いた私達の世界は、"魔王の国"とでも言えるのでしょうね」

 魔王の国。魔王わたしたちの国。

 体の内で黒々としたものが溢れ出てきた。それに溺れそう。いや、もう随分昔から溺れていた。その事に今漸く気が付いた。


 わたし達の世界は、わたし達が踏み潰した人達の屍の上に出来ていた。


 わたしはその場に崩れ落ちた。脚に力が入らない。まともに立っていられなかった。

 「…あ…ああ…わたしは、今まで…」

 「明日香、大丈夫よ。魔王、それを討伐する方法はあるわ」

 わたしは顔を上げた。光の聖女の柔らかい微笑みが目に入った。まるで日向に照らされているように、体の芯が温まる。彼女は彼女自身が光を放っているかのように輝いて見えた。

 「あなたのクロノスはその為にあるのだから」

 「わたしの…クロノス」

 クロノスで世界が救える。魔王を打倒出来る。わたし達の罪を洗い流せる。

 「もう全て整えてあるわ。後はこの時代にいるフラワソワーズ・ローズを助けない、それだけでいいの」

 光の聖女がこちらに歩み寄ってきた。かつかつ、と足音を響かせる。彼女はわたしの傍らに立つとゆっくりと手を差し伸べた。

 「この手をとってくれさえすれば、あなたの罪はなかったことになるのよ」

 綺麗な手。輝くほどに白い肌。黒々とうねるわたしの中に射した光のよう。わたしは体を起こしその光に手を伸ばした。


 カテリーナが見えた。光の聖女の背後に立っていた。こちらを静かに見つめている。その隣にイワンが見えた。別の場所で寝ているはずの彼もまた、同じようにこちらを見ていた。他の部下達も見えた。わたしの指揮下で亡くなった24名がそこにいた。そしてドイツの神父もいた。あかりが潰した憲兵も。ドイツでわたしが首を刎ね、縦に裂き、横に千切った、名前も顔も知らない人達がいた。一様にわたしのことを見つめていた。

 わたしがここで光の聖女の手を取ったなら、果たして彼等の想いはどうなるのだろう。


 伸ばした掌から何かが落ちた。

 虚ろな視線で追うと紙だった。強く握り締められてくしゃくしゃになり、血で赤黒く変色した紙。あかりの人形ひとがただった。掌を動かすと、ぱりぱりとした触感があった。見ると乾いた血が掌中にこびりついていた。

 この血に人形がへばりついていたのか。誰の血だろう。わたしのだろうか。それともフランの。イワン。ウィリアムズ。あるいは切り捨てた誰かのだろうか。

 わたしは掌から視線を外せなかった。それはどうしようもなくわたしの罪の象徴だった。知らず考えずに染み込ませた、わたしの後悔の血塊。


 「明日香?」

 先生の声が頭の上から降ってきた。

 「先生は、後悔したんですか」

 わたしは掌から視線を上げなかった。自分の裡でうねる黒々としたもの凝視する。言葉は重たくぽろぽろと溢れていった。それに合わせて頭の中の靄が晴れていく気がした。

 「そうね…後悔したわ。私があの時フランを助けていなければ、魔物の幻術を使っていなければ、もっと優しい、誰もが平等な世界が出来ていたんじゃないかって。そう気付いてからこれまで、ずっと後悔してきた」

 「だから…わたしにクロノスを?」

 「そうよ。私達の世界はもう魔王の国になってしまっていたから、それを正すためには過去をやり直す必要があったのよ」

 わたしは手のぱりぱりとした感触を確かめる。その手で人形を拾うと顔を上げた。先生の目をしっかりと見る。グレイス先生に見えない彼女は、戸惑いの色を浮かべていた。その背後にはもう亡者達の姿はなかった。しかし視線を感じた。見ている。お前の死に様を見届けてやる、という声が聞こえる気がしてならない。

 「先生…確かにそうかもしれません。わたし達の世界はどうしようもなく魔王の築いた世界で、それはとても恐ろしいこと、おぞましいことなのかもしれない」

 わたしは立ち上がった。先生が差し伸べていた手は取らなかった。右足がずきりと痛む。しかし気にしなかった。その痛みを確かめるように地面を踏みしめた。

 「でも、過去を改編して…魔王の国を滅ぼすことは、自分達の罪から逃げることになるんじゃないですか」

 「明日香、何を言って…」

 「わたしがここで先生の手を取れば、わたしの罪は無かったことになるかもしれない。でもわたしの罪に傷つけられた人達の痛みは、怨みはどこにいけばよいのですか」


 生者は死者に呪われる。

 わたしの背中にはわたしの指揮で命を落とした部下達とその被害者達の無念が、怨念があった。過去を書き換えて、罪を無かったことにしたなら、彼等の生きた証はどこに行くのか。

 彼等の人生は酷い終わりを迎えたかもしれない。それでもその中には過去の喜びも未来への希望も含まれていたはずだ。それを全て無かったことに、嘘には出来ない。命を奪い、その上その存在を嘘にする権利はわたしにはなかった。

 「明日香、全て酷い悪夢だったのよ。過去を変えれば覚める夢。そうすればきっと世界は救われるのよ」

 「そんな話はしていない!」

 わたしは癇癪を起こした子どものように喚いた。

 「わたしには責任がある。殺してしまった全ての人達の人生を嘘にしない責任が。わたしはもう享受してしまった。魔王の国の繁栄を。それを嘘には出来ない。例え魔王の国であったとしても、そこがわたしの故郷だから。わたしはわたしが今まで歩んできた人生を無かったことには出来ません」

 頭の中がこんがらがって上手く言葉に出来なかった。それでも意思は固まった。視界が晴れ渡る。鈍重だった脳は、目まぐるしく思考を再開した。

 「先生、後悔は過去ではなく、未来のためにあるんですよ」

 例え自分の生きる世界が魔王の国であっても、例え自分が魔王の片棒を担がされてきたのだとしても、わたしは世界を護る。そこにはわたしの大切な人達が、彼らとの思い出が、彼らの無念があるのだから。

 わたしは世界を護る勇者なのだから。

 「そう…残念ね、明日香」

 先生の表情から温もりが消えた。冷えきり凍えるような視線。氷の矢を突き立てられたかのように、体の芯まで冷えた。震えが走る。それを振り切るように人形を強く握り締めた。

 「本当に…残念です、先生」

 先生がゆっくり瞬くのが見えた。




 本当に残念ね、明日香。

 晴れ渡る空の下、グレイスは目の前に佇むの弟子を眺めた。明日香の瞳は先程までの力強さを失い、焦点の定まらない視線を空中に漂わせていた。

 私の幻術の前では全て無力だというのに。

 グレイスは小さくため息を溢した。

 びたん、びたん、という音が響いている。音の方に目をやると、フランが変わらず地面を叩いていた。彼女の両腕の先端はもう手の形をしていなかった。

 「結局、こうなってしまったのね」

 グレイスは誰に言うでもなく言った。唯2人きりの弟子を2人同時に殺すことになるとは。私はただ、平等で平和な世界を望んでいただけなのに。

 グレイスはここに至るまでの日々を思い返した。


 あの頃、世界はおかしくなっていた。

 「賢者」と自称していた私達は、その術を神秘として秘匿していた。だが、大航海時代を迎えた人々はどこで聞きつけたのか、「魔女」を恐れるようになった。

 得体の知れない化け物の影に怯えるように人々は恐怖に戦き、その恐慌が限界を迎えたとき、「魔女狩り」が始まった。協会が先頭を切っていたが、彼らは何も知らない「一般人」だった。何の知識も無い者が専門家を気取り「魔女」の対策を右から左に伝聞し、そのうち「魔女」を見分ける専門書なるものまで発売された。その本や情報に従って、人々は狂ったように同胞を殺し続けた。

 私はその様子を前に手を拱いていた。私達ではない人達が「魔女」と告発されて殺されていく。その異様さに恐怖していた。

 私は「賢者」の集会で彼らを救うことを提案した。だが却下された。

 我々が手を出すということは、神秘を開示することに繋がりかねない。それはこれまで培ってきた我々の歴史を崩壊させることを意味する、と。

 私は常々違和感を覚えていた。我々が特異的に有するこの魔法というものは、我らが父が人類にもたらしめた叡智なのではないかと。にもかかわらず、それを修めた者達は神秘を謳い秘匿し続けてきた。

 今人類は未知の恐怖に戦慄している。その状況は神秘と称して直隠しにしてきた我々が引き起こしていることではないのか。ならば我々が救わなければならない。神秘を公開し、今こそ我らが父の威光を示さねばならないのではないか。

 だから私は集会には報告せずに実行した。もう悠長なことを言っている時間はない。この恐慌は悪魔の仕業と言える。悪魔を見分ける方法は簡単だ。この恐慌に率先して参加しているか否かだ。それが一目で判る方が良い。そこで私は会得した幻術で彼らを魔物に変えた。虐殺を行う者達を排除すればきっと世界は救われる。そうして最初に救ったのがフランソワーズ・ローズだった。


 彼女は私を師事するようになった。私は彼女に分霊を会得するように暗示をかけた。私の選択した結果が人類の平和へと繋がっていく様を見ていたかった。

 神秘を秘匿すべしとしていた集会の面々は、その後次々に表舞台に立ち出した。私の幻術によって世界には魔物が溢れ、それを駆逐するという名目で協会はイニシアティブを取った。

 不思議だったのはこの幻術は誰が使用しても、私達とは思想の違う人達しか魔物にならなかったことだ。まるで私達の脳が潜在的に繋がっているかのように。その原理は今もまだよく分からない。もしかしたら何らかの目ぼしい研究結果もあるかもしれないが。

 超個体等という単語もなかった当時は、それをただただ僥倖だと思っていた。私の祈りに合わせて、我らが父がその神秘を人類に貸し与えて下さっているのだと。原理不明な神秘もまた魔物狩りに拍車を掛けた。

 そして世界は快方へと向かうと私は思っていた。だが協会内での陰湿な派閥争いの末にやって来たのはフランの独裁だった。

 誰もが平等な世界を願ったはずなのに、出来上がったのは宗教差別と、「賢者」と「一般人」のカーストが存在する世界だった。

 どうしてこうなったのか。何を間違えたのか。世界の結末を見届けるためにフランの分霊に身を委ねながら、私は悩み続けた。そんな時に出会ったのだ。


 「じゃあさ、あれはしらないの?なんでまものってたいじしなきゃいけない、ていうの」


 日本の東京にあった支部に顔を出した帰り道、名前の知らない川沿いの土手でぶつかった少女。その無垢な問い掛けにはっとした。

 どうして魔物を退治しないといけなかったのだったか。

 この子は手放してはいけない。きっと私に答えを提示してくれるに違いない。見れば魔法の才もあった。私は日本支部を設立する際に覚えた日本語で、その親にこの子を弟子に取りたいと申し出ていた。100年に1人の逸材というリップサービスも添えて。


 私は明日香を手にいれた。だがそこからは困難の連続だった。

 これほど幼い弟子を取ったことがなかった私は、明日香に振り回される羽目になった。奇声を上げて走っては転んで大声で泣き、あれが欲しいと癇癪を起こし、目につくものを片っ端から質問し、寝付いたと思ったらおねしょをし、好き嫌いをよくし、不機嫌になると何を言っても聞いてくれない。

 子育てなどしたことのなかった私は、右も左も分からぬまま手探りで明日香に接した。

 明日香が小学校に上がる頃に山小屋に引っ越した。明日香には純粋な心を忘れて欲しくなかった。あの質問を心に残したまま成長して欲しかった。だからと自然に囲まれた場所を選んだ。

 明日香は裏山で遊び回り、昆虫や爬虫類を捕まえては飼育し観察するようになった。

 蜥蜴の尻尾は取れても何で動き回っているの?こっちは6本なのに何でこっちは8本なの?青虫のこの臭いのは何?何で芋虫から蝶々になるの?蛇は何で脱皮するの?

 投げ掛けられる問いの殆どを私はまともに答えることが出来なかった。思い付く限りの事を適当に並べて、後は自分で考えなさい、と匙を投げるのが常だった。

 飼育していると生き物達は次第に死んでいった。明日香はその度に泣いた。ごめんね、ごめんねと。明日香の泣き顔を見るのが何故か辛かった。

 私は明日香に期待をしていたが、より確実性を得るために新たに4人の弟子を取った。優秀な賢者の家系から性別も年齢もばらばらに。彼らにはそれぞれ「唯一の弟子」という幻術をかけていたため、互いには認識できていなかったようだ。

 そんな奇妙な6人生活が常態化し始めたある日、フランが訪ねてきた。明日香を見守りながら、こんな余生も良いのかも、などと考えていた矢先だった。フランソワーズ・ローズ10世を名乗る彼女は、私が知っているよりも少し老いていた。

 「お迎えに上がりましたよ、先生」

 庭先で編み物に精を出していた私に彼女は笑いかけた。

 「どこか行くのかしら」

 「やだな、違うわよ、先生。あなたのとこの一般人が成功させたのよ」

 「成功って何を」

 「先生の悲願、クロノスよ」

 未来から来たのだ、と彼女は言った。クロノスが出来た時、私は分霊もせずに他界していたらしい。だからわざわざ過去に迎えに来たのだと。

 私はすぐに明日香以外の弟子達を、記憶に蓋をして破門した。そして明日香には私が亡くなったと暗示をかけて、フランと共に山小屋を後にした。

 「フラン、私行きたいところがあるのだけれど」

 私はフランに連れていって欲しいと頼んだ。フランを助ける直前のフランスへ。過去の私の体を取り戻したいと言うと、彼女はとても喜んだ。

 フランはぶつくさと独り言を口にした。訊ねてみると、頭の中のAIなるものと会話をしているのだと言った。

 「あの一般人、誰でも使えるようにってクロノスの運用をアルに任せるように設計したのよ」

 アルというAIにも幻術は効くのだろうか。私はそんなことが気になった。

 フランスのあの村に着き、体を取り替えてから、私はフランに計画を打ち明けた。フランなら賛同してくれると思っていた。だが彼女は憤慨した。権力に固執したのだった。

 私は悲しかった。だがここまで来て引き返す訳には行かない。私は心を鬼にしてフランの心を殺した。するとその肉体をアルが支配した。

 明日香なら同意してくれるだろうか。そんな思いが頭をよぎった。

 私はアルに幻術を試してみた。すると物の見事に幻惑の中に堕ちていった。幻術とは言ってしまえば錯覚、思い違いを人為的に引き起こす魔法。例え機械であっても知性体である以上、勘違いを引き起こしうるということなのか。理屈は分からなかったが、事は私に都合の良い方へと転がった。

 私はアルに頼み、この先の未来へと連れていってもらった。フランソワーズ・ローズが助からなかった未来へと。あらゆる時代のあらゆる土地を見て回り、やがてドイツへと至った。私の知らない為政者が私の知らない体制を敷いていた。

 私は思った。これだけの変化が起きたのなら、きっと私のいた世界の協会は黙っていないだろう。特にフランは。この事態を発生させた者に責任を負わせ、解決するように迫るのではないか。そう、明日香に。

 私はアルを使って頃合いを図り、ドイツの為政者と写真を撮った。

 これを見たら明日香は来てくれるのではないか。そうして来てくれた明日香は魔物を手に掛けているのではないか。そう期待した。

 アルに重ねて暗示をかけた。明日香がこの為政者と目が合った時にあのフランスへ強制転移させるようにと。

 明日香を無理矢理連れてくることも出来ただろう。だが私は恐れていた。フランのように拒絶されるかもしれない。だから罪を背負った明日香を求めた。


 「先生、後悔は過去ではなく、未来のためにあるんですよ」


 しかし明日香は賛同してくれなかった。私が期待した通りに罪にまみれていたのに。彼女は罪を全て呑み込んでなお、私に立ち塞がった。


 そして明日香も虚構へ堕ちた。地面を叩き続けるフランと共に。

 この子達を楽にしてあげないと。そう思って辺りを見渡す。グレイスは幻術以外の魔法はとんと使えなかった。

 明日香がイワンと呼んでいた骸の傍に巨大な刀が落ちていた。明日香が転移してきたときに持っていたものだ。グレイスはその傍らまで行き持ち上げようとした。が、びくともしなかった。

 あの子、どうやって持ってたのかしら。明日香の方を振り返るが、その細い腕を見ても分からなかった。何らかの魔術によるものか。そう考えてその獲物は諦めた。

 フランの前へ移動し観察した。彼女は私が近くに来ても、お構い無しに自壊行動を続けた。その背中、ファスナーの開いたリュックからは余ったぬいぐるみが溢れていた。

 他には何も持っていなさそうね。フランを物色することなく明日香の前へ移った。拳銃とか持っていると楽なのだけれど。懐をまさぐろうと手を伸ばす。

 ふと明日香の顔に目が行った。彼女は力なく口を半開きにし、どこを見るでもない目を持て余していた。暗示まで掛けて誘導したというのに、全くこの子は。明日香の顔を眺めながら思った。


 いつの間にかこんなに大きくなって。グレイスは思わず感慨に耽っていた。

 興味のないことだと呆けて集中力を欠いてしまう。そのくせ好きな事には時間を忘れて没頭する。知的好奇心に溢れ、責任感が強く、優しい子。そういえば、一般人の先生に失礼なことをしてしまったと、口を尖らせて帰ってきたこともあったっけ。

 砂煙に汚れた肌はかさつき、所々に血痕を付け、髪はぱさぱさと絡まっていた。もっと綺麗にしてないと、折角のかわいい顔が台無しよ。グレイスの手は明日香の頬へと伸びていた。

 愛でるようにその頬を撫でる。その肌はかさかさと指に引っ掛かった。全く手入れをしてないのかしら。あまりの乾燥肌に違和感を覚える。何これ、これじゃあまるで…。

 「…紙みたいね」


 その時突然明日香が消えた。同時にその頬に触れていたグレイスの右手も消えた。

 「え─」

 グレイスには何が起きたのか全く分からなかった。手が消えた腕からは血が噴き出した。どこかで悲鳴が聞こえた。それは自分のものだと遅れて気が付いた。

 いつの間にか目の前に明日香がいた。力強い視線をこちらに向けていた。

 幻術が解けている?どうして?その距離にグレイスは無意識のうちに後退ろうとした。明日香の右手が伸びてきて、グレイスの額の前で何かを掴むように拳を作った。

 その瞬間グレイスは違和感に襲われた。体は後退しているはずなのに、視界に変化が起きない。違和感の原因にグレイスは思い至らない。明日香の顔が今すぐに泣き出しそうに歪んだ。

 ああ、泣かないで明日香。明日香の涙を見るのは辛かった。


 「笑って、明日香」

 それがしっかりと口から出たかは分からない。

 明日香の掌がゆっくりと開いていった。ぶちり、と何か大きな管でも千切れたような音がグレイスの頭の中に響き渡った。

 自分の体に起こっている事を何一つ理解することなく、グレイスの視界は地面へと落ちていった。




 肩で息をする。どれだけ吸っても息苦しかった。目の前の光景を直視できない。わたしは視線を上げた。ひらひらと落ちてくるものがあった。視界の外、右下の方で、ぼとりと何かが落ちる音がしたが見なかった。ひらひらとしたものだけを凝視した。そうしていないと恐ろしい現実に侵食されてしまう。

 息苦しさは解消されずにむしろ悪化していく。わたしは別の事を一生懸命頭に浮かべた。あれはあかりの人形だ。さっきまで握り締めていた、多くの血を染み込ませた紙だ。

 先生が冷たい視線を目蓋の奥からこちらに向けたとき、あの紙がそれに呼応した。わたしと先生の間にあったそれは、形を変え"わたし"になった。"わたし"の背中が目の前にあった。わたしは慌てて上空へと空間転移した。重力操作をしてどうにか体を宙に漂わせた。

 先生は気付いた様子はなかった。"わたし"をわたしと思い込んでいるようだった。どうなっているのか。その疑問に答えるようにあかりの声が記憶の隅から溢れてきた。

 「式神はその精神面、つまりうちの精神を通すことで神という現象を物質的に具現化するものやねん。ただ、それがほんまに神なんか、はたまたうちのただの空想なんか、それを判定する方法はないけどね」

 「だから幻術師が実際に想像するんは、幻術掛かってふらふらしてる相手の姿かもなぁ」

 今先生の目の前にいるあの"わたし"は、つまり先生が想像した"幻術でふらつくわたし"なのか。どうして今そんなことが起きたのだろう。先生がわたしに幻術を掛けるために発した魔力に反応したのだろうか。

 先生はフランとわたしを見比べた後、イワンの傍に行きわたしの大刀に触れた。何らかの凶器を探しているのか。その後フランを眺めた後、"わたし"の前に戻ってきた。先生が手を伸ばす。

 わたしはタイミングを図った。偶然手に入ったチャンス。これを逃すと次はもう無いだろう。幻術への対抗策など持ち合わせていなかった。奇襲を仕掛ける他ない。だがその後は…。考えがまとまらない内に先生が"わたし"に触れた。その頬を愛しそうに撫でていた。

 わたしは自身の頬に手をやった。胸がいっぱいになった。

 わたしが踏ん切りをつけられずにいると先生の口が動いた。

 「…紙みたいね」

 その瞬間、全身に魔力を回した。気付くと先生が眼前にいた。先生は言葉にならない絶叫を上げていた。見ると右手首から先が無かった。それを左手で押さえながら後退しようとした。

 わたしは反射的にその頭の位置の空間を掴んでいた。血の気が引いた。先生の体は後退し続けた。ここからどうすれば良いのか、頭が真っ白になった。その時先生が何か口にした。何を言ったのか聞き取れなかった。そして、わたしは─。


 呼吸が苦しい。これ以上考えてはいけない。だがどうしてもそこに行き着いてしまう。わたしは舞い落ちる人形を見つめ続ける。何も考えない。何も…。その紙が石畳の近くまで来た時、その奥に見えてしまった。

 飛び散った血。頭のない、引きつけを起こす胴体。その周りに散らばる金色の髪。その足元には綺麗に整った顔─。

 呼吸が早くなる。心臓が早鐘を打つ。吸っても吸っても酸素が入ってこない。いつの間にかへたり込んでいた。こみ上げて来るものを感じ、身体が痙攣し蠕動する。吐いた。吐瀉物が飛び散る。饐えた臭いが鼻につく。

 そして泣いた。親とはぐれた子どものようにしゃくり上げ、泣きじゃくった。滂沱のように涙が溢れてきた。それを留める気力はもう無かった。泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。


 どれだけ時間が経ったろう。わたしの耳に水溜まりを踏みつけるような音が届いた。横隔膜を痙攣させながら、泣き腫らした目をそちらに向けた。フランだった。

 彼女の両腕は、肘から先がもう赤黒い肉の塊になっていた。それを鞭のようにしならせて叩きつけている。石畳に染み込みきらず、溢れて血溜まりになっていた。

 わたしにフランは救えない。幻術を解く術も知らない。それが出来る唯一の存在も、もう…。

 そこではたと思い至った。さっき先生は、後はフランソワーズ・ローズを助けないだけで良い、と言ってなかったか。つまり、フランソワーズ・ローズの処刑はこれから─。

 わたしは慌てて光の聖女の亡骸の方に目をやった。彼女はもう引きつけを済ませ、静かに事切れていた。


 ─やってしまった。

 光の聖女を殺してしまった。

 もうフランソワーズ・ローズを救い出す人がいなくなってしまった。

 歴史を、世界をわたしが壊してしまった。


 わたしは呆然と座り続けた。思考が上手く働かない。そう感じていたが、予想に反して頭は回り始めた。

 幻術使いに対してあれ以上の対策はない。だからどのみち先生は殺さなければならなかった。でもそれだと世界は救えない。歴史は元に戻らない。ではどうするか。先生が光の聖女の体を手に入れる前に手を打つ必要がある。どうやって。クロノスを使って─。

 まだ手はある。わたしはそう自分を奮い立たせようとした。しかし、それはつまり、今度は元の先生を手に掛けるということになる。わたしの知っているグレイス先生を。出来るだろうか、わたしに。自信がなかった。

 ならば保険を掛けておかなくては。


 わたしは周りを見渡した。見知った顔の遺体ばかり。わたしは立ち上がって、イワンと光の聖女の遺体をフランの近くに動かした。フランの傍に寝かせる。そしてそれぞれの額に接吻した。魔力を使って火を点けた。フランは燃え上がる炎の中で、笑顔のまま地面を叩き音を出し続けた。

 この音が鳴り止むまでここにいよう。そう決めた。その後に移動しよう。

 先生をもう一度殺した暁には元の時代に帰ろう。そして全ての罪を懺悔しよう。信じてもらえないかもしれないが、声高に発信し続けよう。

 何もかも終わったらこの仕事を辞めて家に帰ろう。母に謝り、葵のコーヒーを飲んで、それから琴音の頬をふにふにしよう。

 「せくはら!」

 可愛らしいその声が蘇ってきて、わたしは思わずふっふと鼻から息を漏らした。

 心が少し軽くなった気がした。




 ああ、鳥が飛んでいる。鳩だろうか、その白い翼が突き抜ける晴天を勢いよく昇っていく。まるで、自らを縛るものは何もないのだ、というよう。

 羨ましい。私への当て付けだろうか。あの鳥にはそんな考えは無いだろうに、荒んだ心は卑しい感情で満ちていた。


 木材で組まれた簡易な台の上、垂直に打ち立てられた太い杭、それを背に縛り付けられている。もうどこがどう痛むのかもよく分からない。綱で縛られた手首か、あるいは鞭を無数に打ち付けられ、皮が血が飛び散った背中か。

 風に吹かれる自分の髪が視界に入った。ああ、子どもの頃から自慢だった私の髪。今は手入れもされず荒れ放題の様子でかさかさと揺れている。

 私がいるのは広場の中央。石畳のきれいな、この村自慢の場所。そこで縛られる私、そして私を囲む村人たち。彼ら彼女らの目には恐怖心と好奇心がない交ぜになっている。そこにふと知った顔を見た。私達夫婦の家の隣に住む、女だった。家庭のある身でありながら、私の夫をたぶらかし、果ては私を魔女だと告発した女だ。女の口角はつり上がっていた。

 あいつだ。あいつが私を…!憎悪が一瞬で沸き上がる。今すぐあの女を!突き動かされそうになる私を、杭が、綱が、痛みが阻んでくる。私が身体を動かす度に、木の台はぎしぎしと軋み、私の痛みを増幅させた。

 その時、野次馬の塊に変化が起きた。人だかりが割れていく。そしてその断面からふいに神父様が沸いて出てきた。神父様。我らが父にその身を捧げた正しき人。神父様ならきっと…。

 「フランソワーズ・ローズ、これが最後の問いだ。他の魔女の名を示しなさい」

 神父様の口から出た言葉。それは私を絶望させるのに充分すぎるものだった。

 「私は…魔女じゃありません…」

 何とか絞り出した声は、掠れて弱々しく震えていた。

 「そうか。…残念だ」

 神父が一歩退いた。途端に2つに割れていた人だかりから、神父の両脇に松明を持った男が二人ぬっと出てきた。そのお面のような顔からは感情が読み取れない。あの火はいつから灯していたのだろう。まるで人だかりという1つの肉団子から今まさに生まれ出たようにさえ見えた。

 2つの松明が木の台に近づいてくる。台の下には小枝が山積みにされていた。魔女かどうかは焼けば分かる、と聞いたことがある。火刑に処して生きていれば、それは魔女だと。

 「違う…。私は…魔女じゃない」

 掠れた声が洩れた。近づいてくる男二人を、死の気配を私の全身が拒絶する。

 ああ、我らが父よ。どうか、どうか私を。

 松明が無情にも迫ってくる。そして私の足元にくべられ―。


 「止めてください」

 ふとひどく透き通った声が響き渡った。途端に視線が一人の女性に集まった。

 ぱさつく黒髪を無造作に束ね、肌は砂に汚れている。黒一色のローブの下に白いブラウスが見えた。そこには返り血のように赤い染みが出来ていた。背中には巨大な板のような物を提げている。悪魔のような出で立ちだった。

 黒髪の乙女ラ・ピュセル・シュヴ・ノアは人混みを、ごめんなさい、通してください、と進んできた。肉団子が散り散りになる。怪我をしているのか、右脚を引き摺っていた。私に死の宣告をした神父の脇を通り過ぎ、私の前まで来てふっと微笑みをこぼした。その目は泣き腫らしたように赤かった。黒髪の乙女は振り返って村人たちに対峙した。

 「彼女は魔女ではありません。魔女は、悪魔はむしろ別の者たちに取り憑いているのです」

 覚えたセリフを1つ1つ噛み締めるように口にした。それを聞いて、村人の塊は不平を噴出させた。

 「東方の女、何を根拠にそのような妄言を口にするのか。よもや貴様も魔女なのか」

 民衆を代表するように神父が毅然と問うた。

 「妄言はあなたの方です、神父様。そのようなことは神の名の下に明らかではありませんか」

 黒髪の乙女の背中は震えていた。まるで自らの罪に圧し潰されそうになっている子羊のよう。しかし彼女は決心を固めるように自らの頬を叩くと、胸の前で十字を切り、祈るように両手を重ねた。

 そしてその言葉を囁いた。


 「天にまします我らが父よ、どうか我らを導きたまえ」




 完

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