ヒトラー討伐戦
「そろそろ時間やな。全員配置についたか」
あかりから思念通話が入った。全員でオデオン広場を取り囲むように、屋根の上に待機している。
わたしの位置からはフェルトヘルンハレは左手に見えた。ギリシャのパルテノン神殿を思わせるそれは、しかしその神殿とは違い柱は4本しかなく、奥側は壁になっている。片側が外に面している廊下のような構造だ。廊下にしては大きすぎるのだが、その廊下の中に3体の像がシンメトリーに配置されていた。左右はそれぞれ人を象った青銅製、中央のものは奥の方に位置しているのか、屋根に隠れてよく見えなかった。それぞれ名高い偉人なのだろうが、ドイツの歴史は詳しくないため特に感慨は湧かなかった。
現場には既に警官隊が詰めていた。フェルトヘルンハレに向かって対峙するように、広場に陣形を組んでいる。ここでデモ隊を食い止めるつもりのようだ。フェルトヘルンハレの向こう側からはガヤガヤとした喧騒が近づいていた。
わたしは背中に背負った大刀の柄を、手触りを確かめるように撫でた。調査の後、2018年で調達した装備の1つだ。大刀は今回のような討伐戦にしか用意しない。調査では基本的に戦闘を想定していない上、目立たぬように行動しなければならない為、邪魔にしかないからだ。しかし、わたしの空間転移魔法との相性は良く、対多数戦では効率的に魔物を処理できる代物だった。
デモ隊の先頭が姿を見せ始めた。フェルトヘルンハレの脇道からぞろぞろと出てくる。オデオン広場は複数の家に囲まれて出来た大通りの様相を呈しており、フェルトヘルンハレはそれを塞ぐように広場の真ん中に鎮座していた。そのためフェルトヘルンハレ側からオデオン広場を抜けようとすると、どうしてもその脇を通る必要が出てくる。デモ隊はその脇から、わたしから見て右側の脇から行進してきた。
「イワン、そっちはどう?」
わたしは思念通話を試みた。そろそろ作戦が始まってしまう。しかし返事はなかった。
「イワン、返事して!イワン」
「何や音信不通なんか。でも宮毘羅の反応では近くまで来とるみたいやけど」
代わりにあかりから返事があった。しかしわたしの気がかりは解消されない。まさか本当にフランソワは魔王に…。根拠のない、しかし言い知れぬ不安に押し潰されそうになる。
「大丈夫やろ。性格は酷いけど、魔術はほんまもん何やろ?」
あかりがわたしの心を読んだかのように励ましてくれた。
「そうなんだけど…」
「ほなら今は信じるしかないな。もう討伐戦なんやし、相方の大将が注意散漫やとこっちも困る」
「…そうだね、ごめん」
あかりの言う通りだ。時間は止められない。イワンとフランソワ、二人をおいて過去にも戻れない。過去に戻るということは、二人を回収することを諦めるということだ。しかし、隊員が欠けたからといって作戦は中止できない。この機会を逃したら、次にヒトラーを捉えられるタイミングはもうしばらくない。彼はこのあと逮捕される。出てくるまで待つわけにはいかない。二人を回収してから過去に戻ることも現実的ではない。その分余計な魔力を消費してしまう。イワンとフランソワの回収と作戦とを両立させるには今日、この場でヒトラーを仕留める必要があった。
デモ隊は警官隊の防衛線に向かって突き進み続けた。まるで相手が発砲してこないと確信しているように、歩みを止めない。その時一発の銃声が聞こえた。警官隊の一人が倒れ込む。悲鳴が上がり、怒声が響いた。警官隊の発砲が始まった。行進し続けるデモ隊に向かって、恐慌に陥ったかのようにライフルが振り回された。実際、ライフルを握る一人一人の顔には恐怖が刻まれたように浮かんでいた。
「おっぱじまったな。はいほな詠唱」
あかりは何事もないかのように、抑揚のない声でのんびりと合図を出した。それに合わせて十字軍全員が声を揃えて呪文を唱えた。
「天にまします我らが父よ、どうか我らを導きたまえ」
途端に広場の光景が一変した。今の今まで人間同士の小競り合いを見ていたはずが、魔物と人間の銃撃戦に切り替わった。デモ隊が全員魔物に成ったのだ。おぞましさが2倍増しだ。警官隊のものだろう、複数人の悲鳴が重なり、増幅され響き渡った。可愛らしさの欠片もない魔物たちの雄叫びも加わって、異様さが膨らんでいく。出来の悪いオーケストラを聴かされている気分である。
「これ全部か。予想はしてたけど、この量の魔物見んの初めてやわ」
あかりの声が頭の中で聞こえた。向かい側の屋根の方を見やると、両耳を塞いでいるあかりが見えた。気味の悪い喧騒に辟易しているようだ。そのあかりが片手を動かした。まるでこのオーケストラの指揮を執ろうとでも言うかのようだ。
「今から作戦を開始するで。桃太郎作戦、第1フェーズスタート」
広場の方に視線を戻す。不協和音が奏でられている中、あかりの指揮に合わせたかのように広場に幾つかある細い路地から小さな影が幾つも飛び出してきた。よく見ると犬や猿、鳥のようだ。魔物で出来上がったデモ隊に次々と飛び込んでいく。「あれはアキタイヌですか」ここにイワンがいればきっとそんなことを聞いてきただろう。しかしあれは恐らく柴犬だ。柴犬に日本猿に雉だろう。動物たちのそれぞれの顔には表情がない。どれも同じに見える。それもそうだ。あれらは全てあかりの式神なのだから。
デモ隊では混乱が起きた。警官隊から銃撃を受けている最中に、いきなり見慣れぬ動物たちが飛び込んできたのだから、いくら魔物であってもパニックくらいは起こすだろう。銃弾が飛ぶ中、犬に飛び掛かられ、猿に引っ掻かれ、雉につつかれ、てんやわんやといった様相だ。
「よっしゃ。これで準備完了やな。ほないくで。前方組用意。第2フェーズ開始」
あかりがそう言うと、動物たちはそれぞれ魔物に飛びついた格好のまま動きを止めた。そしてみるみる膨らんでいく。お腹の中心の辺りが赤みを持ち始める。魔物たちは自分にへばりついた動物を引き剥がそうと躍起になっていた。ぱんっとあかりが手を叩いた気がした。
途端爆発した。広場が一瞬光に包まれる。爆音が遅れて響いた。熱気が爆風に乗って頬を舐めた。それを合図にわたしは屋根から飛び降りた。体重調整でふわりと砂煙の中に着地した。前方を見る。砂煙が充満しよく見えない。魔物の騒々しい叫び声が聞こえてくる。わたしは屈んだ状態のまま魔力で空気を振動させた。同時に耳に魔力を回し強化する。反響音が返ってきた。それをそのままアルに解析させた。
エコーロケーションの要領だ。コウモリやイルカと違い、わたしは特別な器官を持ち合わせていないため、自身の耳と魔力、アルを用いて擬似的に再現した。
アルが解析結果をわたしの視界に表示した。人型がオレンジ色で現れる。数は8。ノイズが酷いのか、ギザギザとおおよその形しか分からないが問題ない。わたしは全身に魔力を回す。そのギザキザの位置をそれぞれ固定するイメージを思い浮かべる。わたしは右手で背中の大刀の柄を掴んだ。刃物の拘束具を魔力を用いて速やかに解除する。右手に魔力を込め、低い体制のまま大刀で空気を薙いだ。右手には小枝を振り回すような感覚が伝わる。目の前のオレンジたちが上下2つずつに分かれた。固定化を解除する。魔物の雄叫びが少し小さくなった気がした。そのままエコーロケーションを続け、周囲の魔物の位置を確認する。
「リチャード、メアリ、どんな塩梅や」
あかりから念話が入った。自身の隊の前方組へ声をかけたらしい。
「隊長の爆破で半分は仕留めれたようですが、そもそもの数が多くてまだかなり残ってます」
男の声が返答した。なかなかラフだな、とどうでもいいところが気になる。
「そうかぁ。結構イケたと思ってんけどなぁ、予想外やわ。うちもう魔力切れ、カバーできやんし、困ったな」
10時の方向に3体発見した。こちらに向かって銃を構えているようだ。大刀を振って速やかに排除した。
「大丈夫、わたしが処理するよ。単純作業とか結構好きだし」
申し訳なさから思わずわたしは会話に口を挟んだ。元々の作戦では後方援護のあかりとフランソワがほぼ壊滅させる予定だったからだ。それがフランソワが所在不明となったことで、あかりだけになってしまった。単純に火力が半分。足りるわけがない。
3時の方向からエコーが来た。わたしのものとは波長が異なったようで、発信源をアルが青色で表示した。2人分。恐らくリチャードとメアリだ。
砂煙がいくらか落ち着いてきた。うっすらと人影が見え始める。足元に魔物の死骸を確認し、ぎょっとした。
「明日香、ええんか?負担大きなるけど」
「任せて。リチャードとメアリにサポート頼んでいい?」
「ええよ。リチャード、メアリ、明日香の指揮下に入って」
「了解です」
リチャードとメアリの影らしいものがこちらに近づいてくる。
「お、警官隊が動き出したみたいやわ」
あかりから報告が入った。同時に右上に映像が映し出される。どうやらあかりの視界情報らしい。生きているもの死んでいるものが混ざってまさに地獄の具現のようになっている魔物デモ隊、その向こうで警官隊が混乱を来している。革命を企てたデモ隊が目の前でおぞましい姿に代わり、さらに大爆発まで起きた為か一時的に指揮系統が麻痺していたようだ。しかし正気を取り戻したらしい指揮官が何やら指示を出していた。警官隊が隊列を取り直し魔物の群れに向かってライフルを構え始めた。一斉射撃でもするつもりなのか。あまり良い状況とは言えない。魔物らを挟んだ向かい側にはわたし達がいる。流れ弾に当たりかねない。
現地の一般人が魔物を発見し、排除しようとすることは、魔物討伐を行っている際には度々起こることだった。しかしその流れはあまり良いものとは言えない。現場に魔物とわたし達十字軍、そこに一般現地人がいると三つ巴になりかねないからである。十字軍は魔物と一般人の違いが分かるから良いのだが、魔物は手当たり次第、一般人は十字軍が敵か味方かの判断がつかない、結果として善良な市民から十字軍が攻撃を受ける事態に発展する可能性が出てくるのだ。だから今回のように一般人の前で魔物を掃討する場合は、迅速に行う必要がある。出来れば気付かれない間に。しかし今回の作戦ではもう一般人の参戦が不可避となった。
「まずいね。さっさと片付けて離脱しないと」
思わず独りごちる。
その時突然背後からエコーが返ってきた。リチャードとメアリではない。わたしは大刀を握り直し、振り返りざまに右手でスイングした。目に入った影は怯えたように踞った。その光景に驚いて、わたしは慌てて左手を添えて刃の軌道を逸らした。大刀が突き刺さり石畳が派手に弾ける。別の念話が入った。マリアからだった。
「申し訳ありません、明日香隊長。その…ウィリアムズがそちらに向かったようで」
目の前でウィリアムズが頭を抱えて踞っていた。もう少しで自分の部下を斬るところだった。驚愕で声が出ない。瞬間的に怒りが湧いてきた。わたしは顔を上げないウィリアムズの胸ぐらを掴み上げた。
「何してる!馬鹿なの!?敵かと思ったじゃない!」
「も、申し訳ございません、隊長」
ウィリアムズが息を飲んだ。わたしがこれほど怒鳴ったことがないからだろう。ウィリアムズの顔に困惑が浮かんだ。
舐められている。わたしはウィリアムズを乱暴に放した。ウィリアムズが尻餅をつく。
「隊列を乱して何してる!こんな前線に回復役が何しに来たの!」
「お、俺も隊長の横で…戦いたかったんです。カテリーナさんみたいに…。もうカテリーナさんはいないから…。俺のせいで…だから」
わたしは舌打ちを堪えた。確かにカテリーナは回復役でありながらわたしの隣に立っていた。だがそれは鍛練の賜物だ。
「あなたにカテリーナの代わりは無理よ!さっきも言ったでしょ!あなたでは力不足なの!マリアの所に戻りなさい!邪魔にしかならない!」
わたしはウィリアムズを睨み付ける。しかしまだウィリアムズは何か言いたげだった。わたしは絶やさずエコーを飛ばし続ける。銃撃が聞こえ始めた。一斉射撃が指揮されたようだ。溜め息が漏れる。わたしは自分の背後の空間、扉1枚分程を目の前のウィリアムズの背後の空間と繋げた。これでこちらに飛んできた銃弾は、わたし達に当たることなくウィリアムズの向こう側に抜けていく。だが代わりにエコーが意味をなさなくなる。それにあまり長い間は維持できない。わたしはエコーロケーションを止めた。
「隊長…おれは」
「ウィリアムズ、あなたの取った行動は味方を危機に陥れるものです。理解しなさい。これは重大な命令違反にあたります。今すぐに下がりなさい。拒否するなら作戦から外して強制的に退去させます」
ウィリアムズの目を見据えて努めて事務的に伝えた。爆発しそうな感情を圧し殺す。今は作戦中、理性的でなければならない。それにウィリアムズだけに責任を押し付けられない。監督者はわたしだ。前回のペルーからあまり時間がなかったことは言い訳にならない。カテリーナのことで死に急がせてしまった。フォローし損ねたのはわたしなのだ。
「…分かりました」
ウィリアムズは承服しかねるといった様子で言った。とりあえず後方まで退かせなければ。
「メアリ、リチャード、ごめんウィリアムズを護衛して」
わたしは背後の空間固定を解きながら口で指示を出した。もうリチャード達は近くまで来ていたため、思念通話は必要ない。魔力を使いすぎたのか、少し肩が凝ったように疲労を感じた。振り返りつつエコーを再開した。とりあえず周囲に危険はないようだ。
「了解です、明日香隊長。君、帰ったら始末書かな」
メアリが近付きながら肩を落としているウィリアムズに声をかけた。濃い金色のポニーテールが元気に弾んだ。空気を軽くしようとしてくれているようだ。なかなか気が回るようで助かる。
「じゃあお願いね」
「お任せを。反省文書かせるまで、傷ひとつ付けさせません」
リチャードが軽く返してくれた。見苦しいところを見せたにも関わらず、何事もなかったように爽やかな笑顔を浮かべてくれた。いいコンビだと思った。
「退くんやったらはよした方がええかもやで。この音はあれが来よった」
あかりの注意喚起と共に地響きが聞こえてきた。同時に鉄の擦れ合う、キュルキュルという音も。
「警官隊の後ろに亀のゴーレムや」
警官隊の方を見やる。まだ砂煙が晴れきっておらず、薄ぼんやりと大きな影が見えるだけだった。確かに巨大な亀の甲羅のような形状だ。
「あれ、43年に見たやつとだいぶちゃうな。別もん?さらに亀らしくなってると言えばそうやけど…」
あかりの歯切れが悪い。右上に表示されたままになっているあかりの視覚映像を、わたしの視界の中央に引っ張ってきた。拡大して目の前に広げる。わたしの視界を妨げないようにか、薄く透けた映像が展開された。映像の左側、警官隊の後方に巨大な深緑色の箱のようなものがあった。形は亀の甲羅に近いが、頭と足は見当たらない。体の末端を全て収納した状態で移動する亀だ。側面には白く縁取られた黒い十字のマークが描かれている。そして何ヵ所からかは筒のようなものが飛び出していた。あれはまるで…。
「大砲?」
その時わたしの呟きに合わせたように、こちらに向いていた筒から火が噴出したのが見えた。爆音が鳴る。
「メアリ、応答し!メアリ!リチャード」
あかりの呼び声で目を覚ました。そこでやっと気を失っていたことに気が付いた。何があったんだっけ。キーンと耳障りな音が鳴っている。その音にベールを掛けられているように、他の音はくぐもって聞こえた。体を動かす。どうやら俯せのようだ。節々が痛い。頭痛に目が霞んだ。
「リチャード!しっかりして!隊長!リチャードが!」
頭の中で声がする。リチャード…。そうだ、確か作戦中で、リチャードとメアリにウィリアムズを…。血の気が引いた。
「ウィル!ウィリアムズ!」
部下の名前を懸命に呼んだ。周りはとても静かなのに、自分の声だけ大きく聞こえた。平衡感覚が失われているのか、立ち上がろうともたついた。その時、地面に着けた手にぬるっとした感触があった。目の前にかざしてみると、霞んだ視界の向こうに真っ赤になった掌があった。
「ウィリアムズ!」
わたしは手でウィリアムズを探した。端から見たら、気が狂ったように地面を叩いている光景にしか見えなかっただろう。その必死のばたつきのお陰か、右手が人の顔に触れた。慌てて見ると血塗れになったウィリアムズの顔だった。
「ウィル!ウィル!」
わたしのせいだ。わたしの。赤黒い血に染まったウィリアムズの顔。その眉間が微かに動いた。その瞬間とてつもない安堵に包まれる。ウィリアムズが呻いた。生きてる。ああ、生きている。
「明日香、無事か!?」
あかりの声が頭の中で響いた。そうか、脳内念話は聴覚野に直接信号を送るから、鼓膜の音が飛んでいてもよく聞こえるのか。どうでもよいことが頭に浮かぶくらいには混乱していた。
「明日香!?応答し!」
「…ああ、ごめん、あかり」
脳内念話を通してなかったことに気が付いた。念話であかりに返答を送る。
「良かった。無事なんか。リチャードが重症らしいねん。そっちで具体的な状況分からんかな」
「こっちもウィルが重症だよ。息はあるみたいだけど、いつまで保つのかは見当つかない」
「そうか、ウィリアムズが…。マリアあれ行けるか?」
「問題ありません、行けます」
「ほなら一旦撤退しよか。このままやと全滅しかねへん」
わたしは言葉に窮した。ここで退くとなると、イワンとフランソワの回収はどうするのか。それを見越してかあかりが言葉を続けた。
「フランソワとイワンを回収してから、スタート地点に戻って再チャレンジや。クロノス使う分魔力の回復時間を持つ必要があるけど、人数足らんと厳しいってことが判明したし」
確かにそれが現状のベストだろう。しかし、それはここドイツに暫く滞在するということ、長期戦になるということだ。だが、四の五の言っていられる状況でもなかった。
「…分かった。何がどうなったんだっけ」
周りを見渡す。さっき晴れそうになっていた砂煙がまた立ち上っていた。
「警官隊の後ろにおった亀が砲撃したんや。魔物に向かって撃ったみたいやったけど」
「なるほど…とばっちりだね」
鼓膜が回復したのか、周囲の喧騒が戻ってきた。何度か爆裂音も聞こえた。
「とりあえず撤退や。メアリ、動けるか」
「はい、どうにか」
わたしの右手側から脚を引き摺るような音が聞こえてきた。見ると砂埃の向こうからメアリが現れた。左肩に血だらけのリチャードを担いでいる。メアリ自身も額に血が流れていた。砂にまみれ片目を瞑っている。左脚を怪我しているのか引き摺っていた。
魔力で強化して、怪我した脚を無理矢理使って大の男を担いでいるようだ。
「メアリ、リチャードとウィリアムズ担げるか」
現場が見えないあかりから無理難題が飛んできた。
「いや、無茶だよあかり。メアリだって…」
「大丈夫です、可能です!」
どう見ても強がりだ。
「ダメだよ、メアリ。わたしが担ぐから」
そう言いながら立ち上がろうとした。右脚に激痛が走る。思わぬ痛みに再び両手をついた。唇から呻きが漏れる。知らない間に痛む箇所に手を添えていた。ふくらはぎが所々凹んでいるように感じた。急いで確認するとどす黒い赤色に染まっていた。血を吸った布のせいか形もよく分からなかったが、触った感じだとどうやら肉が抉れているようだ。
「明日香隊長、大丈夫ですか?」
メアリから心配する声がかけられた。
「大丈夫、楽勝だよ」
歯を食い縛りながら答えた。怪我した脚で男を担いでいる部下に気を使われては目も当てられない。
「明日香、メアリの護衛できるか?」
「護衛?」
「二人で運ぶより、1人護衛に回った方がええやろ」
確かに一理ある。魔物の群れの中で脚を負傷した二人が、それぞれ怪我人を背負って逃げるというのは現実的ではない。
「分かった、死んでも守るよ」
「頼もしいな。けど、あんま縁起の悪いこと言うもんやないで」
「ごめんごめん」
わたしは苦笑いを返した。少しでも軽口を返したい、そんな気分だった。何にでも対処できるように心に余裕を持っていたい。だがそれはつまり、余裕が全くないことの裏返しでもある。
魔力を使って右脚の痛みをマスキングし、立ち上がった。節々が痛み少しふらついたが、他に大きな損傷はないようだ。わたしは目を凝らして砂煙の降りかかる地面を見渡した。目的の大刀は案外近くに落ちていた。魔力を飛ばして右手に吸い寄せる。消費量が増してしまうが、あの場まで歩いていく方が疲れそうだった。柄が手に収まった。右腕に魔力を回していつでも振り回せるように備えた。
メアリはリチャードを担いだままウィリアムズを拾おうとしていた。わたしは左腕にも魔力を回しながら近づいた。片腕でウィリアムズを持ち上げる。メアリの指示するように、右肩に洗濯物でも干すように乗せた。どこか痛むのかメアリは顔を歪めた。
そこにいくつかの青白い光が近づいてきた。わたしとメアリの周りをゆらゆらと回る。
「明日香隊長、今妖精をそちらに送りました。応急措置程度ですが、移動しながらでも回復出来ます」
マリアから念話が入った。
「妖精ってあれ?最近研究されてる医療魔術だっけ」
「そうそれ。こんなこともあろうかとマリアに習得するように言っといてん」
「でもこれって燃費悪すぎて使い物にならないんじゃなかったっけ」
そう返しながらも、わたし達は移動を開始した。
妖精医療魔法は遠隔医療を実現させようとして生まれた魔法学問だ。ここで言う妖精とはおとぎ話に出てくるような類いのものではなく、さも妖精のように見える現象
だ、というだけのことである。
医療魔法はそもそも強化魔法からの派生で起きたものとされている。わたしやメアリが使用している強化魔法は、魔力を擬似筋力等に変換して身体能力を底上げする、最も基本的な魔術である。これを他人に使用するのが医療魔法。これを扱うには相応の医学知識が必要となるが、術者の練度によっては細胞レベルでの回復すら可能になる。
しかし、この医療魔法にも欠点があり、術者がすぐ傍に居なければ行えないものだった。今まではそれでも問題はなかったのだが、過去に魔物が現れるようになり、それに少人数で対処するようになるとその欠点が際立ってきた。そのため近年急速に遠隔医療魔法に対する研究が盛んに行われるようになり、その結果として妖精医療魔法が考案されたのだ。
だがこの妖精、燃費が大変悪いと、カテリーナが溢していたのを聞いたことがあった。カテリーナによるとこの魔法の原理は、治療のための魔力に妖精の概念を一時的に付与し、魔力そのものを患者の下に飛ばすと言うものだったはず。それはつまり、どこにも拠り所のない魔力を空間中に漂わせるということ。そんな不安定な状態では、例え妖精の概念を与えたところですぐに揮発してしまう。だからあまり実戦には向かないんです、そう言いながらわたしの隣で戦っていた。
そのはずなのだが、マリアが送ってきた妖精達は一向に消える様子はない。そればかりか患部に触れ診察まで開始した。
「明日香隊長は複数箇所に打撲、しかし、右足の怪我が一番酷いです。メアリは全身の打撲の他に左脚の膝に骨折が見られます。明日香隊長には止血だけですがしておきますね」
「マリア、妖精てすぐ消えるんじゃなかったっけ」
「本来ならそうなんですが、私のこれはあかり隊長に手伝っていただいて開発した特別製になっています」
「あかりに?」
「そうそう。うちの陰陽式の召喚魔法の原理を応用して、人形に魔力を乗せて飛ばしてんねん」
「そんなことできるんだ」
わたしは感心した。良く考えたものだ。依り代さえあれば妖精は固定化できる。陰陽道では人形に概念を降ろして使役すると言っていた。つまり人形と概念魔力の相性は良いということなのだろう。数少ない陰陽家のあかりだからこその思い付きか。
「せやからこれで今度、論文書こうと思っててな」
「それはいいのができそうだね」
「インパクトファクターやな」
あかりが何を言ってるのかちょっと分からなかった。
わたしとメアリが歩き続ける中、妖精達は忙しなく動き、診断と応急手当を繰り返した。辺りには他に気配がなく、不気味なくらいだった。
「ウィリアムズは複数の骨折が見られますが、命に別状はなさそうです。リチャードは…まずい、心肺停止!すみません、止血とか途中ですが、妖精全部心マに回します!」
マリアが緊迫した声を出した。それを聞いたメアリは泣き出しそうに顔を歪めた。しかし歩みは止めない。リチャードとウィリアムズを抱えたメアリは、ふらつきながらも歩き続けた。護らなければ。そう思い直したとき、ふとエコーを飛ばしていなかったことに気付いた。ぞっとした。何をやっているんだわたしは!慌ててエコーロケーションを開始する。
すぐ背後に気配を感じた。エコーの結果はまだだったが、振り向きざまに大刀を振った。刃先に硬いものが当たる感触があった。そのまま押し飛ばす。
銃剣を持った魔物がよたよたと転がるのが見えた。おぞましい悲鳴が響く。反動でわたしも尻餅を着いた。大刀が地面にぶつかり鈍い音を立てた。
こんな近くに魔物が。ようやくアルがエコーの結果を伝えてきた。目の前にオレンジ色が立ち並ぶ。わたしは息を飲んだ。見渡す限り橙、橙、橙。視界がオレンジ色に染まっていく。
「大丈夫ですか、明日香隊長」
転んだままのわたしに気が付いたのか、メアリが声をかけてきた。魔力に余裕がないのか、エコーは飛ばしていないらしく、青色には表示されなかった。
「急いで!早く!」
振り向きながら叫んだ。メアリの土埃にまみれた顔に緊張が走った。すぐに前を向き、ふらふらと前進を再開する。
わたしは立ち上がろうと焦った。右脚が思うように動かない。転がっていたオレンジ色が立ち上がる。視界の砂煙が徐々に晴れてきた。その後ろからも来ている。3体。どれも揃えたように銃剣を携えていた。目の前の魔物が絶叫した。同時に銃剣を振り下ろしてくる。立ち上がるのは間に合わない。わたしは左膝を立て、右に腰を捻った。体を左に捩りながら右手に握った大刀を思い切り振る。銃剣の切っ先が落ちてくるより先に、大刀が魔物の横腹に食い込んだ。そのままあり得ない方向にくの字に曲がりながら千切れる。絶叫が断末魔に変わった。
千切れた上半身が地面に向かって落ちていこうとしている。その向こうに次の魔物が走ってくるのが見える。わたしは振り切った体勢のまま左足に魔力を回す。爆発的に地面を蹴った。落下する上半身に右肩からぶつかった。上半身はそのまま味方の魔物に向かって高速で飛んでいく。頭に当たったのか、鈍い骨折音が強化している耳に聞こえた。
勢い余ったわたしは思わず右足で着地した。が、力が入らず、ぐにゃりと体が回転した。まだ2体いるのに。背筋が凍った。視界が回る。地面を通り過ぎ、空が見え、次に魔物が映った。わたしはその流れに身を任せるように左手に大刀を持ち変えると、腕に魔力を流して叩きつけた。魔物の左肩から袈裟斬りに叩き潰す。血飛沫が飛ぶ。大刀が石畳を砕いた。あと1体。右側にそれが見えたが、同時に背後からエコーが返ってきた。わたしと反対方向に走っている。慌てて首を捻って視線を飛ばす。メアリの背中に向かって銃剣を振り上げている魔物がいた。
わたしはその魔物の上を凝視した。右側の魔物が襲い掛かろうとしているが、無視する。左手を大刀から離した。次の瞬間、凝視していた位置に大刀があった。先端を真下に向けて。大刀だけを空間転移させたのだ。大刀はそのまま自然落下した。刃先が魔物の振り上げた右腕と首の間に滑り込む。メアリを襲おうとしていた魔物は2つに裂けた。右半身は形が崩れて潰れた。残りの体を引き連れて魔物が後ろ向きに倒れ込む。
わたしはすぐに自身の右隣に意識を戻した。魔物はわたしを銃剣で突き刺そうとしていた。切っ先が間近に迫る。それを体を捻り右に避ける。左肩を掠めた。左手で通り過ぎたライフルを掴んでその進行方向へ引っ張った。魔物はバランスを崩しながら付いてくる。その顎に右肘を合わせた。コツンと衝撃があり、魔物の頭が揺れた。脳震盪を起こしたのか、そのまま崩れ落ちる。力の抜けた手から銃剣を奪い、振った。魔物の首が飛ぶ。
ライフルを脇に捨て、メアリの方を確認した。メアリは驚いたように背後に倒れた魔物を見ていたが、踵を返すと撤退を続けた。わたしは左足に魔力を回して大刀に向かって跳んだ。両手でその柄を掴んで勢いを殺す。大刀は巨木が倒れるように地面から抜けた。左足で着地する。息が上がっているのに気付いた。砂煙は大分晴れてきた。うっすらとくすんだ靄の向こうはおぞましい光景だった。まだまだいる。うじゃうじゃしている。5体倒しただけでここまで疲弊していてはとても保たないと思った。
しかしよく見てみると、こちらに向かってきている魔物は少なかった。大抵が右方向に向かって逃げている。その方向にはフェルトヘルンハレが聳えていた。どうやら亀のゴーレムの砲撃によって魔物達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出したらしかった。全体としてはゴーレムとは反対方向に走っている。
これなら何とかなるか。新たに襲ってきた何体かを処理しながら、少し安堵した。背後のメアリを確認しようと振り返る。すぐ目の前に建物が見え驚いた。思わず2度見する。もうこんなに後退していたのか。屋上からマリアが降りてきた。ふわりと着地してメアリに駆け寄った。リチャードを引き受けている。
「明日香、ゴーレムの砲台がそっち向いてる!どうにかできるか?」
左手側、薄い靄の向こうに巨大な亀の甲羅が鎮座していた。あれの砲台がこっちに。まずい、さっきのが来る。後ろにはメアリとマリア、リチャードにウィリアムズが。どうにかしなくては。
わたしは亀とわたしの間、目の前の空間を扉5枚分程固定した。そのすぐ上の空間を、アルが算出した角度に少し斜めに固定して繋げる。これが今の限界。とても狭い範囲。だが軌道上ではあるはずだ。亀の砲台、その空洞の暗闇がこちらを見据えている。その暗闇の中心に小さな明かりが光ったと思った途端、砲台が火を噴いた。腹に響く爆音がした時にはもう、目の前まで何かが飛んできていた。閉じそうになる目蓋を懸命に維持する。眼前まで迫った何かは、しかし着弾することもなく空間に吸い込まれるように消滅した。と同時にその上から黒い軌道が走った。まるで糸でも付いているかのように、真っ直ぐに亀のゴーレムに飛んでいく。そしてそれが甲羅に突き刺さった。激しい破壊音が響いた。一瞬にして爆炎が上がる。亀の甲羅が所々吹き飛び、赤い火炎を噴き出した。
「ナイス!さすが明日香やな!」
あかりが頭の中で歓声を上げた。わたしは少しむず痒かった。褒められるのはやはり苦手だ。
自身の砲弾が着弾したゴーレムの回りでは警官隊が慌てふためいていた。その肝心のゴーレムから人が続々と飛び出してくる。
「は?何あれ。ゴーレムやなかったん?めっちゃ人出てくるけど」
「ゴーレムって乗れるんだっけ?」
「無理なはずやで。肩に乗るとかならまだしも、搭乗するとか…。人間を触媒に使うんやったら、中におるんも分かるけど」
「いや、それ犯罪行為だから」
「てことは…あれ機械兵器ってこと?あんなん見たことないけどなぁ」
わたしも初めて見るものだった。もしかしたら、わたし達の歴史上には存在しないものかもしれない。
「ひょっとして、前代未聞の誤差の原因て…これのこと?」
「隊長、リチャード、ウィリアムズ及びメアリを回収しました」
わたしとあかりの疑問はマリアの報告によって遮られた。
「おっけー、分かった。明日香、もうええよ。上がってきて」
「了解」
わたしは幾つか群がってくる魔物を軽くいなしながら、背後の建物に飛び上がるために左脚に魔力を込めた。その時ちらと炎上する亀の方を見てしまった。もうもうと立ち昇る黒煙の手前、倒れ込んだ魔物の塊の中で幾つかもぞもぞと動く。その中の1つ、その顔を見てしまった。ペイントでも塗ったくったような水色の顔面に黒く形作られた髪、その中央に四角いちょび髭。額には小さな角のようなものが1つ生えていた。写真で何度も確認した顔。今回のターゲットだ。アドルフ・ヒトラーだ。
そう認識した瞬間、わたしは左脚に込めた魔力を使った。標的に向かって。地面が抉れ、身体は弾丸のように弾けた。
「明日香、どこ行く気や!」
「あそこにヒトラーが」
最早念話を送るのももどかしい。目の前には逃げ遅れた魔物が幾つかふらふらとしていた。それらを躱す為に左足で地面を蹴る。もう少し。あと少しで転移魔法の射程に入る。あかりが何か叫んでいた。しかしもう上手く聞き取れない。ヒトラーしか見えていなかった。
あれを倒せば任務は終わる。再度出直す必要はなくなる。イワンとフランソワを回収して終わる。部下を全員護りきれる。もしあれが魔王なら、全てが終わる。わたしは地面を蹴って飛び上がった。上空からヒトラーの顔を見据えた。青い顔。その目は見開かれていた。視線が合う。死期を悟ったのか、青い顔に恐怖が射し込み始める。
捉えた。わたしは両手で掴んだ大刀を振りかぶった。これで終わりだ。大刀を振り抜こうと魔力を回す。その首を飛ばす。それで人類の勝――。
「エラーが発生しました。クロノスを起動します」
え。アルの声が頭の中でこだました。そして目に見える景色が一変した。魔物達が、燃え上がる亀が、フェルトヘルンハレが、そしてヒトラーが消えた。代わりに戦闘など無かったかのように無傷の石畳が現れた。え。わたしは振り抜こうとした大刀を抱えたまま右足で着地した。力が入らずつんのめる。勢いを殺せず派手に転がった。大刀が酷い音を立てる。
呻きながら辺りを確認する。見慣れない家が立ち並んでいた。どうなっているの。ここはどこ。クロノスがどうして。混乱して考えがまとまらない。目の端にひらひらと舞い落ちるものが入った。無意識に手を伸ばして掴む。紙だ。あかりの式神の人形だった。
「よかった。来てくれたのね、明日香」
突然背後から声をかけられた。ばたばたと警戒しながら振り返る。女性が立っていた。金色の長髪がたなびいている。綺麗な人だった。美人と言われれば真っ先に思い浮かびそうな人。眩しかった。まるでこの人自身が光を放っているかのよう。
「光の…聖女?」
「改めてそう言われると照れるものね」
女性は居心地悪そうに笑う。43年のドイツの写真で見た人だ。伝説の、あの光の聖女。
「それでどう?答えは見つかったの?」
「…え」
「あら忘れちゃったのかしら。まぁ、あなた小さかったものね」
面識はないはずだ。こんな綺麗な女性と知り合った覚えはなかった。
「じゃあ今一度確認するわね。どうしてあなたは―」
女性は意地悪く微笑んだ。
「どうしてあなたは魔物を殺すのかしら」
その微笑みを向けられると日向に包まれているような気分になった。そこには少しの懐かしさが伴った。