2.誤差
承に当たります。説明が多くなっちゃいました。
「明日香、あんたいつまで今の仕事続けるつもり?早く辞めてほしいんだけど」
最近、母と顔を合わせるといつも開口一番に言われる。
インカ帝国から帰還した後、ヴァチカンへ報告書の提出に寄り、その後祖国日本の実家のある板橋区へと戻った。空間転移が可能になってからはこんな夢みたいな移動も実現した。便利な世の中である。
「そんなこと言われてもねぇ、ねー」
そう言いながらわたしは、姉の娘の琴音の頬をふにふにした。琴音はカラフルな絨毯の上でおままごとの真っ最中だ。
何という柔らかさか!どれだけ便利な世の中になろうと、これほどの癒しは早々実現できるものではない。そんなエロオヤジのようなことを考えながらふにふにし続けていると、鬱陶しかったのか琴音はいやいやとした後に、「せくはら!」と叫んだ。一体どこでそんな言葉を覚えたのか。
「嫌がられたか、セクハラ叔母さん」
軽やかに笑いながら姉の葵が近寄ってきた。両手にはコーヒーの入ったマグカップを2つ持っている。
「だって可愛いんだもん」
わたしは渋々両手を引き下げる。
「あんたね、可愛いだけじゃないんだよ、子供ってのは。私が普段どれだけ頑張ってるか」
葵はマグカップと一緒に愚痴を寄越してきた。
「可愛さだけを享受したいのです」
マグカップを受け取りつつわたしは胸を張る。
「ねぇ、聞いてるの?そんな危ない仕事早く辞めなさいよ」
ダイニングテーブルの母は脈絡を完全に無視して声を荒げた。仕方無しにわたしはいつもの返事をする。
「簡単に言わないでよ。わたしが言い出しっぺみたいなものだし、辞められるわけないでしょ」
言い出しっぺどころではなかった。クロノス理論の原案はわたしが作ったのだから。
時空間固定同期システム。クロノス。世界線に干渉せずに過去に介入できる代物だ。わたしの師匠、グレイス・クラウン先生が"魔法の使えない大賢者"と謳われたアルベルト・アインシュタインの相対性理論に感銘を受け、"世界線を固定したまま時空間移動を可能にする"、つまりバタフライエフェクトを極限まで抑え込んだタイムトラベルというものを研究した、その集大成である。先生はその研究が形になる前にこの世を去ってしまったため、わたしが先生の研究をまとめ、考案した。
恩師の心残りを完成させる。わたしはその事ばかりが頭にあり、必死になって作り上げた。しかし、それは過去改編を可能にする代物であり、ヴァチカンから"禁忌"のレッテルを張られても不思議はなかった。だが、ヴァチカンはその研究を肯定し、そればかりかクロノスの開発とその運営を積極的に行ったのだ。何故か。幾つか噂されてはいるが、有力なものはヴァチカンの求心力の底上げだろうと言われている。
"人類の救済"、"魔物の駆逐"を旗印に教会勢力は一挙に世界を染め上げた。そして魔物を絶滅させた暁に教会の総本山である国、ヴァチカンを建国した。しかしそれは、最早人類の天敵は居なくなったということであり、果たして今ヴァチカンを建国する意義があるのかと、問われる形となった。
そこでヴァチカンは大義のために仇敵を求めてた。そこに降って湧いたようにクロノスの論文が出て来たのだ。"人類を滅ぼそうとした魔物。現在の世界を蝕まんと、魔物が存在しないはずの過去に出現する可能性がある。この世界を守るために今こそクロノスを。"ヴァチカンから発信されている謳い文句である。今まで無事に人類史は刻まれてきたではないか。そう言われてしまえばそれまでのようなものだが、魔物の恐怖は根深く人々の心に刻まれていた。そして実際にクロノスを起動すると、過去のあらゆる箇所で異常が発覚したのだった。
これに伴いヴァチカンは新たな十字軍を編成した。それが今わたしが所属する場所。光の十字軍。別名、魔物狩りの勇者。
「でもね、あんた勇者って柄じゃないでしょ?そういうのはそれっぽい人がやればいいのよ」
「母さんは無茶苦茶言うなぁ」
「というか、うちどちらかというと仏教のはずなんだけど、十字軍てのは違うんじゃないのかい?」
「そこら辺は以外と寛容なんだよ」
教会が世界各国の上に位置付けられてから何十年経っているか分からない。その間に紆余曲折あり、今では信仰の自由度は比較的高くなっていた。しかし廃止されたはずのカーストと共に、宗教的上下関係や差別も一部残っている。
「浄土宗の十字軍てのは変じゃないのかい?…あれ、浄土真宗だっけ?」
その時点であやふやなのか。
「うちは浄土宗だよ、お母さん」
葵が助け船を出した。そうだったそうだったと、母は一人で納得するように頷いた。
「まぁ、どっちでもいい気はするけどね。日本人なんて12月にクリスマスを祝って、その1週間後くらいには神社に初詣に行くんだし」
葵は実も蓋もないことをさらっと言った。
「それにしても十字軍てのはおかしいでしょ。あんた勇者って言われて喜ぶ訳でもないんでしょ?」
「そりゃあ喜ぶ人なんていないでしょ」
勇者と言われる由縁は華やかしさからでは決してない。クロノスでは遺体は回収できないというところにあるのだ。人類のため、誰かのために過去の魔物と戦って負けた場合、死んでしまった場合、その遺体は回収不可能。それはクロノスの原理に関与するものだ。クロノスにおいて時空間を転移するには相当量の魔力が必要になる。それは転移させる空間に比例して大きくなる。それを負担するのはクロノスを利用する賢者本人だ。つまりクロノスを使って転移できるものには限度があるのだ。携帯用品や装備など小さなものであれば問題はないが、人間一人分を別の個人で負担することは実質的に無理なのである。よって現場で処理する必要がある。カテリーナのように。
命を懸けて戦って、その結果遺体すら回収されない。そんな死地に身を置いているために勇者と呼ばれるのだ。呼ばれて喜べる類いのものではない。
「じゃあ辞めなさいよ。あんたに何かあったら、私どうしたらいいのよ」
必死の様相で訴えてくる母にわたしは返す言葉が見つからなかった。
そのときアルの呼び出しの声が頭の中で鳴り響いた。
「ごめん、母さん。また行かないと」
そう言って立ち上がる。母は何も言わずに顔を背けた。
「…気を付けてね」
葵は小さくそう言った。
「うん、行ってきます」
わたしは玄関に向かい靴を履くと、クロノスの空間転移を起動した。
今まで実家の玄関にいたはずなのに、瞬きしている間に白い廊下の真ん中に立っていた。自分で原案を書いておいて何だが、空間転移にはいつもはっとさせられる。理解はしているはずなのだが、この体験にはなかなか慣れなかった。
指定された会議室を探して歩き回る。頭の中ではアルが、次は右、ここを左、とナビゲーションしてくれている。
アレイル・バーグ。通称アル。人間ではない。アメリカのペンタゴンで開発されたAI、人工知能だ。数年前に生み出されたものだが、今ではあらゆる場面で人間の生活をサポートしていた。彼女の仕事は自動車や鉄道、航空機の操縦から、個人認証の管理まで多岐にわたる。特に脳内挿入型端末が開発されてからはその活躍は著しい。アルが細やかにサポートしてくれるため、今では以前まで賢者が魔力を消費して行っていた思念通話も、一般人でも簡単に出来るようになった。ごちゃごちゃと呪文を唱える必要も魔力を消費することもなく使用でき、且つ複数人と同時通話ができるというメリットから、賢者の中でも利用者は多い。
そしてその利用者たるわたしはアルのナビゲートのお陰で無事に会議室に辿り着いた。クロノスでは細かな位置設定までは難しい。こういうときアルの有り難みを実感する。
「失礼します」
ノックをしてから会議室の扉を開けた。
「あれ?明日香やん。何、明日香も呼ばれたん?」
狭い部屋の中、細長いテーブルが1つとパイプ椅子がその両脇に3つずつあるだけの部屋。その中の1席には既に先客がいた。
「あかり、あかりも呼ばれたんだ?」
あかりは知的に見える眼鏡をくいっとすると、人懐こい笑顔を咲かせた。
「久しぶりやね。魔導師が2人も呼ばれるなんて珍しいこともあるもんやなぁ」
安倍あかり。同じ魔導師であり同僚だ。わたしが魔導師の称号を受けてからの縁である。
数少ない日本人、宗教ジャンルは仏教徒、しかも一般人の家庭の出、ということで今までさんざん浮いてきたわたしだが、クロノス理論の構築という大きな功績をヴァチカンは無視しきれなかった。仕方なしの授与となったが、周囲の賢者には良い顔をするものは少なかった。そんな中であかりはわたしに声をかけてくれたのだ。「魔導師で日本人て少ないねん。やから明日香来てくれて嬉しいわ」そう言ってくれるあかりの空気には、何だがほっとしてしまう。
「ホントだね。今までよりも面倒なのかな」
あかりの隣に座りながら同意した。
「せやろうなぁ。2つも部隊送るってのは、うち今まで無かったわ」
「別々に動ける必要があるとか?」
あかりはシグマ隊の隊長だ。十字軍のそれぞれの部隊は少人数制で、隊長には魔導師級が任命される。あかりは日本に古くから伝わる降霊、召喚魔法の家系の出で、論文を幾つも発表していた。「まぁ、正確には式神なんやけどね。西洋風に言うとサモナーってなるみたいやねん」とは本人の談。
そんなあかりは机に突っ伏し欠伸をしている。
「うちの魔法が調査に向いてるからとかかな」
「そうなんだっけ?」
「宮毘羅あたり呼び出したら探索なんて一瞬やからな」
クビラが一体何を示す単語なのか分からないまま、へぇと言う。
と、突然扉が開いた。あまりの勢いに体がびくんと反応する。
「来ているな、魔導師」
フョードルがせかせかと部屋に入ってきた。わたしたちの前で立ち止まる。席には着かない。
「過去の座標から異常値が検知された。誤差率は20を超えている」
フョードルは慌ただしく、驚くべき数値を口にした。
「20て、ズレ過ぎちゃいますか」
あかりが目を見張りながら、しかしのんびりとした口調で言った。
「だから二人も呼んだのだ。今回の異常値は前例がない。予想だにしない規模で魔物が侵食している可能性がある」
フョードルの口調には余裕がなかった。
誤差率とは既成事象、正しい歴史からどれだけ異なっているかを示す値だ。値が大きくなればなるほど実際の史実からかけ離れていく。今まで検出されてきた数値はどれも10を超えるものはなく、さっきまでわたしが携わっていたペルーの事案でも、誤差率は5.63だった。20%を超える異常とは確かに予想がつかない。
「それやったら2部隊やと足らんのとちゃいますか。もう2部隊くらい追加した方が」
「未知の現場に4部隊も派遣できない。それで全滅したらどうする。被害は最小限にする必要があるだろう」
それを聞いたあかりが前のめりになる。あかりがゆっくりと不満を噴出させる前に、わたしは口を開いた。
「それで現場はどちらですか」
「ドイツだ。座標はアルに入力してある。時間がない。ブリーフィングは以上だ。二人とも今すぐ現地へ飛べ」
フョードルは捨て台詞のように言葉を投げつけると、足早に部屋を出ていった。
「何やのん、あれ。うちらのこと何やと思ってんねやろ」
あかりがぶうぶうと文句を垂れ流した。アルのカウントダウンが始まった。
「枢機卿と喧嘩しても良いことないって。魔導師のことは道具くらいにしか見てないんだから」
「せやけど理屈もおかしいやん。被害を最小限にするって、うちらはノーカンなんか」
あかりの盛大な突っ込みを合図にしてか、時空転移が起動した。
気が付くと廃屋の中にいた。部屋の内装から廃屋と分かるくらいには荒れていた。壁紙は剥がれ、窓は割れ、椅子は倒れ、埃っぽい。壁には幾つか弾痕らしき孔が開いていた。
「てすてすー。明日香来てるー?」
あかりから通信が入った。
「大丈夫。相変わらず具体的な座標は分かんないんだよね」
頭の中で文章を起こし、あかりに送った。思念通話は初めこそ手間取ったが、慣れてくれば造作もない。
「人工衛星とか飛んでへんやろしな。でも、座標は分からんけど明日香の位置は分かるよ」
「へ?…なんで?」
「何でって…あ、そか。明日香と組むん今回が初めてやもんな。ほな知らんか」
「何を?」
「うちのチームやと当たり前やねんけど、こっちに飛ぶ前にうちが式神付けんねん。それでうち、場所分かるから合流が早いんよ」
何と便利な。思わず絶句してしまった。
「明日香にも宮毘羅付けてるから大丈夫やで。待っててくれたら迎えに行くわ」
「そんなもの何時の間に」
わたしは自身の身体を見渡そうと、くねくねと捩るようにする。すると左肩の方でカサカサと音がした。肩に付けたのか、気付かなかったな。感心しながら左を見やると、肩の上に拳大の鼠が鎮座していた。
「ぎぃやぁぁぁあぁあ!!!」
閑静な廃墟の中で甲高い悲鳴が鳴り響いた。全身に鳥肌が走った。半ば発狂したように乱暴に左肩をばしばしと叩く。しかしもうそこに鼠の姿はなく、今度は右脇腹の方でカサカサと音がする。鳥肌が重ねて走る。もう自分が仕事中なことも忘れて身体を捩り回しながら叩き回った。
「明日香!どないしたん!魔物に遭遇したんか!」
あかりの声が頭の中でこだました。
「ねねね、ねず!ねず、ねが!」
上手く思念通話ができず、焦りがさらに強くなる。鼠は何故かわたしの身体中を駆け回り、一向に降りようとしない。わたしは部屋中を跳ね回り、どうにか振り落とそうと躍起になった。
「ねず?…あー鼠か。なんや鼠て言いたかったんか」
あかりがのんびりと推察してきた。
何を悠長なことを!こっちは最早生きるか死ぬかの切迫した状況なのだ。いや死にはしないのだが、鼠が身体を這い回るのは、身の毛のよだつ事件であることに代わりない。
「大丈夫や。それ宮毘羅な。うちの付けた式神や」
あかりがゆっくりとネタばらしした。わたしは動きを止めた。左肩を見る。何時の間に戻ったのか、鼠は肩の上に静かに収まっていた。落ち着いて確認してみると、鼠からは重さが感じられなかった。そして微弱だが魔力を帯びているようだ。確かに普通の鼠ではない。
「それ先言っといてよー!」
頭の中ではあかりがからからと笑っている。
「本当にびっくりした!もっと使い魔って分かりやすい外見にできないの!?」
「むりむり、陰陽道で呼び出すと、大概そうゆう形にしかならへんねん」
あかりが朗らかと言う。
「でもま、明日香が無事やったら良かったわ。今から迎えに行くし待っときや」
わたしは大きく溜め息をついた。疲れた。調査を開始してからまだ5分も経ってないはずなのに、疲労に包まれていた。
外から人の声がした。わたしは重たい足で窓に近づき、外から見られないように注意しながら様子を探った。そこでようやく気が付いた。どうやらここはマンションのようだ。自分のいるマンションの麓に目をやった。幾人かの人がこのマンションに走り込んで来ていた。制服なのか、誰も彼もが薄いくすんだ黄緑色の服を着ている。
今度は扉の外、廊下の方から、複数の足音が走ってきた。わたしは窓際に立ちながら扉の方へと向かい合う。扉の外がすっと静かになる。と思った途端、扉が勢いよく開け放たれた。前に1人、その横と後ろに1人ずつ、3人の男がまるで押し込まれた団子のように、窮屈そうに立っていた。一様にライフル銃をこちらに向けている。
「あかり、やっぱ大丈夫じゃないみたい」
わたしはあかりに念話した。
「動くな!貴様、何者だ!」
アルが頭の中でドイツ語を翻訳してくれた。
ご精読ありがとうございます。