領主マリー・シフマン
この街では領主の評判は良くない。なら悪いのかと言われればそうでもない。頼りない、当てにならない、でもだからといって重税を課すわけでもないしこれといって悪政を敷くわけでもない。一年前に全領主である父を亡くし、当時十五歳という若さで領主となったマリー・シフマン。「仕方ない」それがこの街の彼女への評価だった。
彼女は良い領主として評判だった父ラハード・シフマンの元で、歳を取ってから生まれた娘だったためか蝶よ花よと育てられていた。気さくな領主という貴族には珍しいタイプだった父と共に街へ出かけることが多かった彼女は街の住民に可愛がられた。マリーは貴族の子女にありがちな傲慢で我儘な性格にもならず健やかに育っていった。しかしそんな彼女が変わってしまったのは十歳の頃、王都にある貴族学院に入学してからだろう。
それなりに力を持つ家柄のため直接的な暴力などはなかったが、それでも辺境の田舎貴族だとか魔物と一緒に育てられただの、その手の陰口は例を上げれば枚挙に暇がなかった。初めて親元を離れての寮生活、孤独感は拭えずそれでも領主の、父ラハードの娘として強くあらねばと自分を奮わせた。幸い精神的に強そうなお手本は周りに一杯いる。実際は他者の感情を読み取る事ができないだけの典型的な我儘貴族なのだが、幼いマリーにはそれが強さに見えてしまったのだ。精神的に追い込まれ、頼れる者も少ない環境では彼女を正しく導いてくれる者もいなく、間違った方向へと進んでいった。
やがて三年が経ち、すっかりとその性格を傲慢なものに変えてしまったマリーは無事に学院を卒業後メルカに帰ってきた。当初、街の人々は喜んだが変わり果てたマリーの性格を目の当たりにして困惑を隠せなかった。それでも両親は変わらずに愛してくれたが、愛娘の変貌に学院への入学を後悔したほどだ。しかしそれでも街の人々はつい三年前まではあんなにも素直で愛らしくいつも父親の後を付いて回っていた姿が頭から離れず、「我が町の姫もお年頃だ、そのうち丸くなってまた笑顔で接してくれるさ」と見守っていたのだが、二年経ってもその兆しは見られなかった。そして彼女の人格形成に決定的な事件が起きる。
両親の病死。父母揃って体調を崩し、あれよあれよと僅か半年でその生涯を閉じた。奇しくも没したのも同日だった。
マリーも最初の頃は「なに、すぐに治るさ」と強がる父の言葉に安心していたが、みるみると痩せ衰え、あの逞しかった父が、あの美しかった母が、見る影もなく衰弱していく様を見せられ、その精神の不安定さに拍車をかけた。それでも病床の両親に心配はかけまいとなんとか日々を過ごしていたが、両親が息を引き取ったその瞬間、ギリギリだった彼女の心は砕けた。
両親の葬儀を終えると数日間自室に篭り誰とも口を利かなかった。このままではマズいと父の執事でもあり側近でもあったマルコという男がなんとか部屋から連れ出した。数日ぶりに部屋から出た彼女は満足に食事もとらなかった為か随分と痩せていた。
それを見た家臣たちは否応でも亡くなった二人の姿を重ねてしまい、なんとしてでも姫には元気を取り戻してもらおうと躍起になった。
この国で領主権は世襲制のため、若干十五歳の彼女が領主になったが前領主が優秀ではあったが奔放な人だったので家臣たちは有能で街の運営には問題がなかった。この問題がなく自分たちの生活に変わりない事と幼き頃を知ってる事で住民が彼女を「両親が亡くなり若く領主の責務を背負わされたのだ。しばらくは仕方がない」と評する所以であった。
しかし、それは問題が無かっただけで決して良いことではないのだが。
彼女は街の運営に携わるわけでもなく、自身を甘やかす家臣に囲まれて日々を怠惰に過ごし、砕けてしまった心を拾い集め、まるで何かから守るように今まで以上に傲慢に振舞った。
そんなある日、庭でメイドと庭師の男が最近街で聞く噂の話をしていた。なんでも我が主は両親が亡くなってから我儘三昧で税金を湯水のように使っているだとか。それは最近街に来た一部の者がなんとなく得た情報をしたり顔で適当に話しているようで、住民のほとんどは相手にしていなかった。我儘なのは確かだが税収管理や金銭の諸々は優秀な家臣たちが行っている。もちろん生活に不自由はさせなかったが、いくら甘やかすといってもそのような事実はなかった。しかし一部とはいえそのような輩がいることに腹を立てたメイドと庭師はなんとかできないだろうかと話し合っていたのだ。彼女たちが話すそのすぐ側にある窓が僅かに開いていることに気づかず。
偶然、その僅かに開いた窓の近くを通ったマリーはその話を聞いてしまった。
この時、マリーの耳には自身への悪意の言葉しか届いていなかった。瞬間、マリーの身体はガタガタと震えだし立っていられなくなりその場にしゃがみ込んでしまった。両の眼からは涙が止めどなく溢れ、「ごめんなさい、ごめんなさい」と小さく呟くことしかできなかった。
学院にいた頃、傲慢という鎧で覆いなんとか耐えた心。やっと両親の元へ帰ってきたかと思えば僅か二年で死別。砕けてしまい必死にかき集め我儘で隠し誤魔化した心。家臣たちの甘く残酷なまでの献身で徹底的に遠ざけられていた自分への悪意、害意に触れたとき、心の破片は刃となってマリーを引き裂いた。
すぐに異変に気付いたメイドと庭師は必死にマリーを慰め宥め励ました。マリーが正気に戻ったのは体力を使い果たして気を失うように眠り起きた次の日のことだった。
家臣達は自らの行いを悔いた。彼女から心の欠片を繋ぎ、治し癒すを機会を奪ってしまったのだと。自分たちの為すべきは辛くともマリー自身に立たせそれを支えることだったのだと。
それから、どこから漏れたのだろうか、街では新たな噂が流れた。曰く領主は普段は傲慢だが何か問題があると震えることしかできない臆病者だと。
以前とは違い、真しやかに語られる今回の噂。名目上は街の共同運営者で幼いころからマリーを知るひとりということもあり、心配したギルドマスターも面会したが常にビクビクと何かに怯え、時折ヒステリックに声を荒げるだけ。なんとかしてやりたいが何もできないギルドマスターは歯噛みしていた。
そして、あの日がやってきた。
飛竜の襲来。圧倒的な絶望、純粋なる害意、未だかつて感じたことのない恐怖にマリーは半狂乱で城館の周りを兵で固めさせ、自らは地下の一室に閉じこもり膝を抱えて震えていた。
自分はもう死ぬのだと、この街ももう終わりなのだと、これは領主としての責務も果たさず、傲慢に、我儘に、無為に過ごした自分への罰なのかと、彼女は只ごめんなさいと何度も何度も呟き泣いていた。
しかし、一向に滅びの瞬間が訪れない。すると駆け込んできたマルコがなにやら飛竜が倒されたというのだ。それも十にも満たない幼い少年の手によって。その報せは彼女の胸にほんの僅かな光をもたらした。
地下室にから出ると街から大きな歓声が聞こえる。本当に助かったのだと、理解した。
災厄を討ち街と人々、そして自分を救ってくれたその小さな英雄。彼女の胸の中の光がどんどんと強くなっていきやがて漏れだすように言葉が口から溢れた。
「・・・・・・会ってみたい。私、その方に会ってみたいですわ・・・・・・」
心を壊されてから人と会うことを極端に避けてきた主の言。今までとは違う雰囲気を察したマルコは普段と変わらぬように、しかしいつも以上に思いを込めて承る。
「御意のままに・・・・・・」