曖昧なままではいられない
「……うー」
ごろん、制服が汚れるのも気にせずに床に転がる。
冷たいリノリウムの床はちょっと前に掃除したのに少しホコリっぽいし、取れなかった絵の具がこべりついていたままになっていた。
ここで三年間過ごしたんだと思うと、何だか感慨深くなって無意味に泣きたくなる。
肺いっぱいに残っていた絵の具の匂いを吸い込む。
これ、この匂い。
慣れ親しんだ絵の具の匂いだ。
明日でここともお別れか、部活を引退する時よりも何よりも悲しい。
下手したら卒業っていうよりも、ここ――美術準備室に来れなくなることが悲しいかも知れない。
鼻の奥が変にツンッとして、強めに目を閉じた。
ギューッと眉間にシワが寄るくらいに強く強く。
泣かない、泣くな、まだ卒業式じゃない。
腕を目の上に置く。
今日はその予行練習とか最終確認のために来たんだ。
「やっぱ、ここか」
ノックもなしにガラリッと音を立てて開かれた扉。
そこから飛んで来た聞き慣れた、お馴染みの声に私は目を閉じたまま、んー、と返す。
ぺったらぺったら足音が頭の辺りまで来て、私の上に影が落ちてくる。
泣いてんの?なんて空気を読まない言葉に、眉間のシワが増えたような気がした。
見えないけど。
私が答えずに黙れば、彼は「なぁなぁ」としつこく私の顔を覗き込もうとする。
放っとけよ!怒鳴れないのは私の性格か何なのか。
「何……」
「あ、泣いてない」
渋々目を開けて、その上に置いていた腕を退ける。
強く目を閉じていたせいで、感じる光がやけに眩しくて目を細めた。
そんな私の視界の中で彼がやけに楽しそうに笑う。
卒業と言っても彼は特に感じるものはなさそうだ。
強いて言うなら、私と同じ感じのことは考えたり感じたりしてそうだけど。
彼は私の頭ら辺にしゃがみ込み、何故か私の前髪を梳き始める。
そもそも何でここに来たのかも分からないのに、この行動にはますます理解出来ない。
ただ確かなのは、その手付きがやけに優しくて壊れ物を扱うみたいだってこと。
「なぁ、寂しい?」
彼の言葉に私は少しだけ目を見開く。
私の視界を埋め尽くすのは、薄汚れた天井と彼。
天井まで掃除が行き届かなかったんだよなぁ、なんてことを頭の片隅で考える私は、きっと現実逃避をしたいだけ。
「寂しいね」
「意外だな」
自分から聞いといてなんだよ、そう思っても仕方がないくらい、彼の声に抑揚がない。
ほぼ棒読みと言っても差し支えないだろう。
それでも私の前髪に触り続ける彼を見上げながら、私は言葉を続けた。
「別に卒業するのがとか、皆とさよならするのがってわけじゃないよ。こことさよならするのが、一番何より寂しい」
友達もそれなりにいる。
後輩も可愛い子達ばかり。
学校生活もそれなりに楽しかった。
でも、やっぱり部活に掛けた三年間だったから、どうしたってそっちに意識が向いてしまうのだ。
コンコン、耳の横辺りで床を叩く。
美術部員だった私だけれど、美術室にいるよりもその隣の狭い準備室にいることの方が多かった。
決していじめにあっていたとかではなく、一人で黙々と何にも囚われずに描きたかったから。
今思えば、顧問の先生もよく許してくれたな。
「……寂しいの?」
思い出に浸りそうになった意識を戻して、私は彼の目を見た。
澄んだ色素の薄い茶色の瞳は、少しだけ困ったように揺れて伏せられる。
男のくせに長いまつ毛。
部活に掛けた三年間だった。
特に彼の場合は、他の行事に関して思い出っぽいものがないだろう。
部活部活でまともな参加も出来なかったみたいだし。
ぼんやりと思い返すのは、彼の部活メンバーが体育祭に一括りにされて、練習の必要ない競技に出場させられていたこと。
それから学校祭の手伝いが出来なくて、クラス内で揉めていたことも思い出す。
修学旅行も来てなかったっけ。
そんなことを思い出して、私は床に置いたままだった手を持ち上げて、彼の頬を撫でる。
あまり体温が高くなかったせいか、僅かに体を揺らしたけれど、私は気にしない。
……私は。
「もっと、部活、したかったねぇ」
「あぁ」
「勝ったけど、物足りないよねぇ」
「……あぁ」
「寂しいねぇ」
「……っ、あぁ」
なでなで、すりすり、彼の頬を撫で回す。
焼けた肌だけれど肌荒れっぽい肌荒れはない。
彼のまつ毛が震えたのを見て、私は彼から天井へと視線を向ける。
例えば、最後の年に負けていたならば、悔しくて悔しくて、大っぴらに泣けたかも知れない。
でも勝ったしなぁ。
優勝してたしなぁ。
私も私で最後のコンクールに大賞を取っている。
だから後悔なんてない、そう思われて当然だ。
後悔はしてない。
他の子達みたいに青春らしい青春はしてこなかったけれど、自分の決めた道だから楽しかった。
でも寂しい。
勝ったけど、賞を取ったけど、私達はまだまだ部活をしていたかった。
卒業したら三年間掛けた場所から離れなきゃいけない。
引退だけなら、部活に足を運べた。
だけど卒業したらその場所にはもう来れない。
ずっとそこにいることは、出来ない。
大切な場所から離れるのが寂しい。
もうここは、私達の居場所じゃない。
顔を歪めた彼と目が合い、彼の目の中に彼と同じような顔をした私が映る。
ホコリっぽい絵の具の匂いが充満したこの狭い美術準備室の窓から、グラウンドの土を蹴り上げて声を張り上げる彼を見ることは、もう二度とない。
泣くのは明日にしよう、そう決めて私は目を閉じた。