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帰宅

気づくと、そろそろ日が落ち始めて、空の色が朱から紫に変わってきている。田舎は空が広く見えるせいか、こういう色彩の移り変わりがやけにハッキリとわかるらしい。

 二夕見さんの後に続いて玄関に入ると、廊下で桜さんがゴロゴロしていた。

…………いや、待て。これでは桜さんがそこら中にいっぱいいるみたいだ。正しくは寝転がっていた、だ。

「……ただいま」

「んー」

 桜さんは、そばを通った二夕見さんの足に絡もうとするが、逆に足でいなされている。流石に扱いは慣れているのだろう、二夕見さんはそのままスルリと脇を抜けてリビングへ向かった。一方、まるで慣れていないぼくは、目標を変えてきた桜さんに絡みつかれ、転びそうになりながら、必死に相手をする。心と仕草は子供でも、体は大人。大人が本気でじゃれついてくる事などそうそう無いだろう。しかし、相手は女性。何とかならないでもない気がする。

ぼくはその勘違いの愚かさを身をもって知る事になるのだが。

左足を抱え込むようにされると、思わず右足に体重をかける。その右足を今度は足で挟まれると、どうなるのか。さらに、桜さんが猫のように背を伸ばすと……。

「はいやっ!」

 開脚前転の準備段階のようなポーズになる。それが面白かったのか、桜さんはキャッキャと笑いながら、締める手を一層強くした。もちろん、女性とはいえ、大人の力で。あとはもう、だいたいのところは察しがつくよな?

 ギリギリと股を広げられ、股関節が悲鳴をあげる。そして、危うく崩れそうになる所を必死でこらえる。すると、股というか、股関節の辺りから『みぎし……ぎしぎしぃ』という生々しい音が聞こえた。

「さ、桜さん。ちょっと、待って。っていうか、このままじゃコケる! ヤバイよ、俺の体重的に、悲惨な事になる。だから、は、放してくれると、うれしいんだよなぁー?」

 懇願してみると、意外とすんなり彼女は手を離してくれた。が、あまりにも思い切りが良すぎて、こちらの準備が整わないまま、不安定に放り出された。ぼくはそのまま「しょあぁッ!」とか言いながら、本当に廊下を開脚前転する羽目になったという。上手く回れて着地までできたのがちょっと誇らしくて、体操のフィニッシュにやる、Yの字のように手を広げる格好をビシッと決めていた。すると、一部始終をコッソリ見ていた二夕見さんが、

「……それは無いわ」

 と、関西弁で言ったという。

 何故だろうか。ぼくはその冷めた視線に、幼い頃捨てられた大人向け雑誌を発見した時のような、新鮮な胸の高鳴りを感じていた。それと同時に脳内では、今は違うクラスになってしまった友人K君が、「俺、野球拳モノじゃないと、興奮しないんだ……」と、寂しげにカミングアウトしたのを思い出していた。そうか、K君。今なら君の気持ちがわかる気がする。それにしても、君は随分と色んな方面が早熟だったのだね。まあ、このまま行くとぼくも『SM 開脚前転』で動画検索する日が来るかもしれない。その時は、ファミレスで一晩語り明かそう……。

「……桜ちゃん、今からご飯作るから、愛臣くんと手を洗ってきて」

「ん!」

 ぼくは余計な思考をさっさと頭から追い出し、現実に戻る事にした。

「さあ、行きましょうか桜さん。ちゃんとできるかなー、ですよー」

「えきうー」

 まあ、可愛らしい。

 桜さんは、立ち上がると、ぼくを置いてさっさと洗面所へ走って行った。もしかしたら、将来は男を振り回すタイプになるのかな。まあ、絶対にこれ以上成長しないけど。

「あ、走ったら危ないですよ!」

「……愛臣くん、料理するから、しばらく相手してあげて。その代わり……今日は美味しいもの作るから……」

 と、二夕見さんは少しはにかんだようにお玉で口元を隠しながら言った。

なんだかすごく恥ずかしい。え? なんだろう、こんな感じ、今までには無かったよ!? いや、嬉しいよ。嬉しいけど、こんなのって……いいの? っていうくらい、何ていうか……その、素晴らしい。

「は……はい……」

 今この瞬間、ぼくの中で動画検索キーワードが『開脚前転 SM』から『新婚』に変わった。

 え、え! でもおかしいよ。つい小一時間前までは、物凄い敵意むき出しだったのに。ただ雑談して帰ってきただけで、一体どんな心境の変化があったっていうんだ! 乙女心と秋の空ってやつなのか。正直、もうディテールはどうでもいいや! とにかく好感度が上がってイベントが起こったって事なんだろ? ならいいや! 気にしない!

 にしても、こ、これだとまるで二夕見さんがぼくのお嫁さんみたいだな。ああ、なんだか妙に温かいなぁ。今なら昭和の哀歌を聴いても、目を細くして笑えそうだ。

「まー」

「はっ!」

 トリップしていたのか、ぼくは緩みきった顔のまま廊下に立ち尽くしていたらしい。台所からは何かをきざむ音が聞こえるから、二夕見さんはぼくを放置していったようだ。それにしても、なんだか腹の辺りが冷たい……。

「まー」

 視線を下に向けると、桜さんが洗い終わった手をぼくのシャツで拭いていた。

「さ、桜さん。服で拭いちゃダメですよ! せっかく洗ったのに、これじゃあ……いや、決してぼくが汚いわけじゃないですよ? 一応、ホラ……。とにかく、もう一回洗いに行きましょうねー」

「んー」

 そこから、ぼくはまた苦労する事になる。まさか、彼女が水に反応して遊び始めるとは思わなかったのだ。再度確認しておくが、彼女の体は大人。だから、子供なら水道を手で塞いでもたかがしれるが、大人がやると強烈な水鉄砲になる。

咄嗟にリアクションを取りながら、必死に彼女に手を洗わせようと奮闘する。

「体調! 愛臣二等兵が負傷しました! ぐあああああー! 隊長! は、早く処置を! まずは手を洗って、そこにあるタオル……うわあ! また俺のシャツで! た、隊長。だからシャツではなく、タオルで……」

 トホホ、……だな。

 けれど笑っている自分が居るのだから目は細まっている。だけど、それにしてもこんな形とはなぁ。いや、そうじゃないか。少しの煩わしさは幸せなんだろうな。世話を焼く喜び、と言い換えてもいいかな。

 三度目にして、彼女はようやくタオルで手を拭い、その手を嬉しそうにこちらに広げて見せた。

「えへー」

 まあ、笑顔が報酬なら気持ちいいじゃないか。幸せなんて、言葉で理解しきれなさそうだ。目の前にあって、コレだと指差してみないと、うまく表現できないな。

 ぼくは桜さんの頭をグリグリと撫でてあげた。なんだか満足した。

 しかし、こちらがトリップしている間、再び手を洗った彼女が、またも服で手を拭いていた。

「はは……冷たい」

 ビショビショになってしまったので、桜さんをダイニングに座らせた後、一度部屋に戻って服を着替えることにした。

今から外出する予定も無いので、パジャマと兼用にしている軽くて肌触りのいいシャツを選んだ。たぶんこれは、手も拭きやすいだろうな……と思いながら、彼女が食後に再び手を洗わない事を祈った。

 リビングに戻ると、すでにいくつかの料理が食卓の上に並んでいた。肉じゃが、ほうれん草のおひたし、ししゃも。そして、大きめの器に白菜のお漬物が真ん中にある。

どうやら、たった今二夕見さんがかき混ぜている味噌汁を並べれば完成であるらしい。

ぼくは、そのあまりにも家庭的な光景に、昔懐かしいおばあちゃんの思い出が記憶の彼方から飛んできた(一緒におばあちゃんも飛んできた)。

『まっちゃん。さあ、たんとお食べ。たーんと、たーんと元気になりな』

ああ、まだ耳の奥に残っているようだ。ここ数年、忙しくて会えていないけど、鮮明に思い出せる。そうだったね、おばあちゃんはとりあえず「たーんと」って言葉を付けて喋るから、もしかして病気か……とハラハラしたんだ。

『たーんとボケるよー』

 すいませんでした。健康で居てください。

ああ、こういうテンポのいい掛け合いも懐かしい。

それにしても、このモヤモヤとした感覚をノスタルジーというのだろうか? 胸の奥をやさしく絞るようで……。なんて心地のいい。体が弛緩してしまうほどに美しいのに、その心地よさに戸惑ってしまいもする。

自分の記憶の中にある家庭的な食卓という風景は劣化しすぎてもう綺麗に思い出せないからだろうか。まあ、ウチは今の時代らしい冷えた飯を一人で食う家庭だったからな。正直、こんな風に温かい食事を囲むなんて、祖父母の家以外では無いと思っていた。

しかし、ここに来てから何回も二夕見さんの料理姿は見ていたはずだが、何故今になってから反応したのだろうか。

もしかして二夕見さん、今までちょっとだけぼくの事を警戒していた、とか? まあ、それは当然の事だし、今となってはどうでもいい事だ。とっとと忘れよう。

「……愛臣くん。やっぱり男の子だからご飯たくさん食べるよね?」

「あー、そうですね。でも、流石にドンブリで食べるほどではないですよ」

 そんなに食べたら太っちゃうわね、と彼女はうっすら笑いながら言った。ぼくはその表情をオカズにしてドンブリごはんを食べたい気分だったが。

「おーはん」

 桜さんは、いつも二夕見さんが座る上座の隣に、ちょこんと座っている。ちなみに、桜さんの向かい(もちろん二夕見さんの隣)を、ぼくの低位置に決めつつある。このテーブルが六人がけなので、端に三人ともが端に寄ってしまったことになるが、それでいいのである。密集しているほうが、家族って感じがするから。

ぼくはただの居候だけどね!

「おーはんー」

「はいはい、待っててね。もう少しで出来るから」

「あ、じゃあぼくご飯よそいます」

「あ、待って。ちょっと、あ……。……ううん、なんでもない」

「すいませんでした……。こういうのって、やっぱり勝手に触っちゃマズいですよね」

「ああ、そういうわけじゃないの。ちょっと、何ていうか……。最後によそって手渡しするのが、好きなの……」

 ぼくもです。大好きでござる。

「いやあ、なんだかすいませんね。ほんと」

ぐへへ、危ない危ない。あやうくイベントを消すところだった。しゃもじ片手に、「はい、大盛り」とか言われちゃったりなんだったりするんだ! 流石、わかってらっしゃる! よぉく心得てらっしゃる!

『ピーンポーン』

インターホンの音だ。こんな時間に誰だろう? 回覧板? 宗教勧誘とかだったら嫌だな。


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