開封
聞こえるのは怒号と、すすり泣く声。重苦しくて仕方無い。ぼくは耳を塞ぐ。塞いで、塞ぎこんで、ふざけていた。ふぬけていた。何もしたくなかった。だって、何をしても変わる事は無いと思っていたし、自分に何かが変えられるとも思わなかった。
だって、ぼくは無能だもの。
今まで、何度も何度も何かを期待されても、何一つ果たす事はできなかった。
コンプレックスの固まり。不良債権。劣等人種。何と言ってくれてもいい。一瞬も努力を怠らなかったわけではない。息抜きと称して少しサボったりもした。でも、姿勢は前を向いていたし、それなりに勤勉だった。でも、ダメだった。
何をもってしてそう思うのか。それは比較だ。比較して初めて自分と他人の違いを知るんだ。前後左右等間隔に並べられ、上から評価され、下から見られる。忌々しい目で、ぼくを見る。
散々確かめられて、挙句選別されてゴミの中に置かれる。そこが居場所だと、思い知らされる。その上、無能だと吐き棄てられておきながら、温かい食事を与えてもらう。棄てる場所が無くて困っているのだ。
何故、捨ててくれない。
もしかして、それすらどうでもいい事なのか。
ああ、暗い。
ここは暗い。
向かう場所も経てきた場所も見えない。
寒い。
一人は寒い。野ざらしで、温かみも無いビニール袋では暖を取れない。
団欒の光に溢れた温かい場所を見ていると、余計に寒い。彼らは今頃、人に抱かれ、顔をほころばせているのか。
ぼくはどうだ。どうして何も無い。どうしてこんな所に居るんだ。
ああ、寒い。
寒い。
寒いよ……。
*
意識が覚醒し始め、自分の状況を思い出す。確か、ぼくは二夕見さんに引かれるまま、どこかに連れてこられたのだ。そして、その間ぼくが見ていたのは妄想なのか夢なのかわからないもの。
先ほどの寒気を改めて思い出し、ブルッと体を震わせた。そして、ようやく周囲の情報を整理し始めた。
カビと鉄錆のにおいだ。
かなり古い倉庫のような所。薄暗くて全体は把握しづらいが、かなり広いようだ。いくつかのコンテナがあるだけで、閑散としている。どうやら、あまり頻繁に使われている場所では無いらしい。足元にはホコリが溜まっているし、人の手が行き届いている雰囲気も無いのだ。
そういえば、彼女が少し待っていてくれと言われたような気がする。気がするというのは、意識が朦朧としていたので、よく覚えていないから。
どうやら、悪い方向に錯乱してしまったらしい。
大方、何らかのトラウマがこじれたんだろう。……身に覚えは無いけれど。まあ、一度ついた傷は治っても痕が残るものだ。ぼくが忘れているだけで、どこかに残っていたんだろう。
そうだ、そこから始めよう。自分の弱い部分を知れば、付き合い方もわかる。だから、今はただ見つめていよう。いつか必ず、対処できるようになるだろうさ。
それに、今はそっちに意識を割いてる場合じゃない。
「……お待たせ」
暗がりの中から、二夕見さんが出てきた。先ほどのビジネススーツではなく、浴衣に着替えていた。
二日ほど前に彼女が普段着として着ているのを見た事がある。浴衣というのが正しいのかわからないけど、旅館においてあるようなのとさして変わらないのだから、そう呼んでも支障は無さそうだ。
彼女が着ている浴衣は、真っ白な生地に鮮やかな緑の青々しい竹と、濃い紫色をした蘭の花が描かれている。蘭心竹性、という言葉が頭をよぎった。その場合、蘭を彼女自身に見立てて、浴衣の柄は竹だけにしたほうが収まりがいいかもしれないな、なんて無体な想像に発展する。なるほど、多少は回復していたらしい。
「二夕見さん、何の準備をしていたんですか?」
「……随分元気になったみたいね」
「少し錯乱していただけですから。いや、みっともない所を見せてしまって申しわけありませんでした」
「いいわ。これで綺麗に片付く」
お、口調が怒っている時のものに戻った。
彼女は疲れたような表情をしている。嫌々やる感じに見えるな。そういう事なら、今しばらくふざけるのは止めたほうがいいか。
「ねえ、愛臣くん。あなた、幽霊とか妖怪って信じる?」
妖怪、これはまた何とも。趣きのある質問だ。
「信じています。しかし、民俗学の手がかりとしての存在を肯定するという意味ですが。知ってます? 妖怪のありようや解釈をうまく紐解いてやると、当時の人々の考えだったり文化なんかが推測できたりするんですよ」
「それはもちろん、目視できる形の怪異ではないわよね?」
「そうですね。存在していないものです」
「あなたは正しいわ。そして凡庸。神様や悪魔・妖怪・死神なんかのオカルトが実際にあって欲しいとは思わない?」
「思いませんね」
「どうして?」
「だって、そういうものは観測できないからこそ果たせる役割というものを持っているじゃないですか。ぼくはその辺りにあまり詳しくないんですが、例えば神様が人間の形をしていて普通に暮らしているとどうなりますかね?」
「神頼みに人々が押しかけてきたり、攫ったりする人も居るかもしれないわね」
「そうなんです。それがまず奇妙なんです。いいですか、神様はね、人間なんか救っちゃくれないんですよ。あれは当然にあるだけで、機構も仕組みも効果もわからない機械みたいなものなんですから」
当たり前の事。
「あれの存在はね、人が救われた理由を勝手に神様に押し付けただけ、それで成り立っているんですよ。少なくとも今は。だから、そんなもの存在するはずが無いんです。仮に、空想のように、私生活に神様が居たとしたらそんなもの――――ただの兵器です」
「…………」
「ぼくは、そんな人殺しの道具を崇めるように生きてはこなかった」
彼女は少しうつむきながら、地面を眺めている。
「愛臣くん。それじゃあ、今からあなたの価値観は一度リセットされるわ」
「神様を、見せてくれるんですか?」
なんて、バカバカしい。しかしそれも面白い。彼女が宗教に熱心だとは知らなかったが、話し合えば折衷案は出せるはずだろう。場合によっては、一度入信してもいいな。
「最初に会った時、あなたは私の事を好きだと言ったわよね? それは、今でも変わっていない?」
「もちろんです」
「じゃあ、愛してちょうだい」
そう言うと、彼女は浴衣の帯を一気に解いた。ぼくの目前には、初めての時と同じように、彼女のあられもない姿が――――
めきめきめき。
比喩ではなく、実際に、二夕見さんの胸が、裂けた。
首の下から腹に一直線に走った裂傷が、まるで生き物が口を開けるように、自然に開いたのである。その傷はどんどんと大きくなり、彼女を真っ二つに裂こうかというくらいに大きく開いた。なのにそこには、あるべき中身が無く、代わりに、まるで靴下を裏返すように、奥から新しい顔が覗いているのである。
――――鬼。
その顔は間違いなく人ではなかった。不健康な黄土色の肌に、赤い目。そして、並んだ鋭い歯。いや、牙と言うべきなのか。
さながら、地獄絵図にでも出てくる鬼の概観であった。
しかし、明らかにおかしい。頭が、腕が、這い出してくる胴体が、あまりにも大きすぎる。二夕見さんの身長は高く見積もっても170センチくらいのはず。これでは、体はゆうに3メートルは越してしまう。物理法則に従っていない。
一体、どういう原理で収まっていたのか。
彼女――否、『それ』はトンネルを通過するかのごとく這い出てきた。逆に、今まであった二夕見さんの体は、鬼の背中へと収納されていった。
巨大な体躯と、片手で人を千切れそうな太さの上腕。腕の外側は、まるで防具のようにゴワついた毛が生えている。それは、ただただ威圧するようにやや前傾姿勢でこちらを向いている。まるで、今すぐにでも飛び掛らんとしているようだ。
化け物だ。
ぼくは何も言えず、ただそれを見上げていた。
ああ、なるほど。ぼくの世界はたった今、完膚なきまでに破壊された。蹂躙され、更地にされた。これを神とは言えないが、それでもこれは、十分に神性を孕んだ…………化物だ。
『あなたが欲した女なんてどこにも居ない。 恐ろしいでしょう? 気持ちが悪いでしょう? あなたの世界の常識なんて、こんなものよ。あなたが大喜びで尻尾をふって、自信たっぷりに持論を吐いていた時、私は心の中で笑いが止まらなかったわ! 悔しい? でも、もう取り返しはつかないわね』
何も言えない。
『私はね、この体で人助けをしない。神様じゃないもの。できるのは、せいぜい人を真っ二つにできるくらい。あなたが言った通り、私は兵器だわ』
確かに、これで一体、誰を救うというんだ。
『私はね、この体で命令どおりに敵を殺すの。そして、お金をたくさん貰うのよ。それを副業にやっているから……生きていけている』
生きるために、人を殺す……。それは、いけない事だ。絶対的な禁忌だ。しかし、それは人間でない相手にも通じる話なのだろうか?
人間よりもはるかに強い膂力を持つ捕食者相手に、禁忌など何の意味があるだろうか。
同じだ。ぼくらだって肉を食べるじゃないか。しかし、
『いつもみたいに、饒舌に語ってみてよ。まあ、そんなの無理に決まって……』
「美しい」
同じならば、まだ手はある。
『……な、何……を』
面食らったな。
「時よ止まれ、と前に付けるべきだったですかね」
たかが捕食者であるくらいで。上位の存在であるくらいで何を言う。
君が物理的にぼくを食す事が可能だと言うならば、そうではない部分をぼくが食ってやる。体格差が生物の全てだと思うなよ。
「ぼくは今、とても高揚しています。今まで信じてきたものが全て砕けてくれて、とてもスッキリしたんです! あなたのおかげです。あなたがぼくを、そちら側へ招待してくれたから、こんなにも嬉しい!」
『…………』
「取り消すなんてとんでもない! むしろ、こんな面を見れて本気で惚れ直しました。誰にも渡したくない、誰も寄せ付けたくないと思うほどに! 君だけを求めて生きていきたいと、心から思いましたよ」
嬉しさのあまり、ぼくは腕を広げて彼女に向かって叫んでいた。この時、ぼくは自分が助かる為の方便を吐いているつもりだったが、段々と胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、いつしかその情熱に似た何かがぼくの代わりに言葉を発していた。
頭のてっぺんから足の先まで、ビリビリと刺激が通り続けている。視界が広がり、クリアな姿の彼女を見て、顔が紅潮する。そんなぼくの様子を見て、彼女はその恐ろしい顔に似つかわしくない、困惑した表情を浮かべ、圧倒されたように一歩下がった。
『……わからない。わからないわ。だって、私が変身して見せた時、あなたは本当に心の底から怯えていて、忌避したいって顔をしていた。なのに、なんで今はそんなに生き生きとしているの? どうしてそういう結論が出るの!? まさか、あなたこの事を事前に知っていたんじゃ……』
「残念ながら初見ですよ、二夕見さん。まあ、証明する手段は思いつかないんですがね。いや、この態度こそが証明です! 見たままを認識して欲しい」
『やめて! 馬鹿な事は言わないで。私は、化け物なのに。どうして? 怖くないの?』
「怖いよりも、愛しい。ああ、今なら神様の存在だって信じていい気分です。どこかに人間のような形をした神様が全ての運命を操っていると、信じていい! ぼくは、今この瞬間の出会いを感謝したい! あははははは! 素晴らしい! 本当に、本当に本当に本当に素晴らしい! ああ、ぼくは二夕見さんと一緒に居たい。これが、ぼくの意志ですよ!」
『私と居るって事は、人殺しの片棒を担ぐって事なのよ?』
「人殺しは嫌ですね」
『だったら……ッ!』
「だから――――最小限にしましょう」あくまで、人らしく。「生きる為の殺人を、認めようと言っているんですよ。まあ、どうなるかはわかりませんが、とりあえずはそういう決定をしましょうか。ああ、ぼくはもちろん貴方と同じ世界に生きますよ? 決定事項です。ちなみに、それが嫌なら、今すぐ暴力で拒否して構いません」
『…………』
促してみても、彼女はまったく動かない。今は、戸惑っているというよりも、思考で頭がパンパンなのかもしれない。しかし、そんな隙はしっかり利用させてもらう。
返答が無いなら、承諾したも同然という態度で臨むのだ。
「例え、先がどんなに暗く陰惨な世界でも、貴方が居るなら行っていい」
『狂ってる』
「狂わせたのは、貴方だ」
『そんな……けど……』
ぼくは出来る限り、物悲しそうに笑って言った。
「好きですよ、二夕見さん。だから、責任を取ってくれると、嬉しい」
『…………』
彼女は姿がアレだというのに、随分と心は人間味にあふれているらしい。しかし、ある一定のラインを超えた所では修羅のような激しさも持っている。
それはとても危うい事だ。美点ではあるが、同時に弱点にもなってしまう。
ならば、ぼくが埋めよう。
あなたにできない事をやり、あなたを導き、あなたを生かし、ぼくは死のう。
いつのまにか、恐怖しているのが自分なのか、楽しんでいるのが演技なのか、わからなくなってしまった。クラクラと、頭が揺れる。
とにかくぼくは、この事を心から喜んでいるのは間違い無いようだ。