カツ丼
病院で検査してもらった結果、綺麗に折れていたので、しばらく安静にしていれば元通りにくっつくだろう、との事だった。
治療費に関しては、保険証を持ち歩いていたおかげで高くならずに済んだ。そして、いつか返すことを約束に、先生が立て替えてくれたのだった。監督不行き届きで自分が悪いと言い、完全に出してくれると言っていたが、自分への反省も込め、ぜひ払いたいと申し出たのだ。それこそ、治療費分よりももっと素晴らしい事を教えてもらったのだから。
そして、先生に送られながら帰宅すると、二夕見さんが飛び出してきた。
「指、大丈夫だった?」
「はい、安静にしてれば問題無いそうです」
「それは……良かったわ。でも……」
「先生に、こっぴどく叱られました。ぼくが、バカでした」
「……うん」
「だから、今後は軽はずみな行動はしません。絶対に」
「…………。はぁ、なんだか……気が抜けちゃったわ」
「ご心配おかけしました」
「うん」
そこで、先生が後ろからぬっと現れた。
「おい、二夕見。私は腹減ったよ。晩御飯、一緒させてくれ」
「……あ」
「ん?」
一瞬、間が空き、妙な沈黙が流れた。そして二夕見さんは、どこか気まずそうに視線を落としながら、ごにょごにょと呟いた。
「……忘れてた」
なんだか、こっちが恥ずかしくなるくらい可愛かった。これは、反則だろう。空腹も一瞬で吹き飛ぶ。なんて、なんて人だ。ぼくはこの人の側に入れて幸せだ。もう、色々な意味で。
もしも、もしもだぞ。これが新婚設定だったりしたら、ぼくは、ぼくはこの後、「今夜のディナーは君だ」とか言いながら、ああああああ! ふ、ふおおおおおお!
「愛臣! なんか凄い鼻の下伸びてるぞ、キモッ! だらしない顔したサルみたいだ!」
「先生、結婚って、いいものですね」
「それは、独身である私に対する挑戦と受け取っていいのか?」
「はっはっは、ぼくも独身ですよ」
「よし、決めた。殺す」
「え、ぼく怪我人……」
「せんせ、どこか食べにいきましょう」
「待て、二夕見。まずはこのバカに天誅を下してやらんと」
「いや、他意はなかったんです。ただ、ぼくは新婚モノのエッチビデオが好……ん、ゲフンゲフン!」
「おっさん臭い趣味だな、おい」
「そ、それは偏見ですよ! まるで野球拳に生産性が無いみたいな、非道な反論だ!」
「なんでそんな必死なんだよ!」
「男の尊厳だから」
「もうちょっとマシなもんを持て!」
「……とにかく、近くの定食屋に行きましょう」
ぼくらの漫才に見切りをつけたのか、二夕見さんはさっさと歩き出してしまった。
「あ、待ってください。桜さんを呼んで来ないと」
「桜ちゃんなら、今は居ないわ」
「え?」
「今日から妹の家に行ってるのよ。少しだけ休みが取れたらしくてね」
「妹さんがいらっしゃったんですか」
「……そうよ。私と違ってお転婆で元気すぎるけど」
ほう、姉妹で性格が逆なのか。きっと、子供の頃から手を焼いていたのかもしれないな。二夕見さん、面倒見よさそうだもんな。
「ほーら、変態。さっさと行こうぜ。カツ丼だ、カツ丼」
「先生って、肉食だったんですね」
「そういうんじゃねーんだよ」
「……名物メニューがカツ丼なの。おいしいのよ?」
へえ、そんなものもあるのか。しかし、ぼくも男の子、その手のメニューにはちょっと厳しい自信がある。何せ、店屋物から定食屋に至るまで、そりゃあ何度も食ったわ食った。そんじょそこいらの食通にも負けない自信があるくらい。それも、ここよりもっと都会、激戦区で磨かれた猛者達を相手にしてきたぼくの舌を唸らせるなんて、できやしないさ。
到着から十五分後――――
「うんっまあああああああああああああああああい! 何コレ、熱々トロトロの半熟卵がごはんにめっちゃよう絡むううう! そんで、厚めに切ってある玉ねぎがシャキシャキしてるのに出汁の味がよう染みてて最高おおお!! 極めつけはカツや! しっかりと下味がついてる上に、衣もサクサク、脂身の甘いことと言ったらあああああ!!!」
完全に溺れていた。人生で初めて、昇天しそうになりながらカツ丼を食っていた。ぼくは必死でそれを口にかきこみ、思う存分堪能した。
その様子を見ていた二人は、なんだか呆気にとられたように動かない。
「先生、ぼく幸せっす!」
「あ、ああ。そりゃ良かったな」
「はい!」
ぼくは二人が半分も食べきらない内に平らげてしまった。いや、本当においしかった。
そこでぼくは、今日あった事を報告しようかとも思ったが、なんだか今の雰囲気を壊すのが惜しくて、なかなか言い出せなかった。そこで、ぼくはちょっとだけ身の丈に合わないような事をしようと決めた。
「そうそう、先生。今回の一件でちょっとだけ情報が集まって結論に近づきましたよ」
「またコイツは調子に乗りやがって……。本当に反省してるんだろうな?」
「彼女の能力がわかりかけてきました」
「ほう…………?」
「まあ、でも今日は反省の日なので、詳しい事は明日言います。今日はこのカツ丼の余韻を消したくないですしね」
そう言って、ぼくは会話を切った。人に希望持たせるなんて、なんだかとってもムズムズする。本当に慣れない事だ。
先生と二夕見さんは、しばらく何かを考えるような素振りを見せた後、少し息を吐いて食事に戻った。ぼくはてっきり追及されるかと思っていたので、ちょっとだけ寂しかった。察しの良い人は好ましいけど。
すると、二夕見さんがぼくの方にドンブリを差し出してきた。中身は三分の一ほどまだ残っていた。なんだろう、慰めてくれてるんじゃなかろうな。
「……あげる。いつもは先生に食べてもらうんだけど、今日は愛臣くんに」
違うらしい。そういえば、二夕見さんって見るからに小食そうだもんな。
「いいんですか?」
「ああ、いいよいいよ。愛臣がこんなに喜ぶとは思わなかったからな。はは、なんだかんだ言ってお前も男の子だよなぁ」
「いや、すいませんね。それじゃあ、遠慮無くいただきます。……うんんめえええ!!」
ぼくらは、陰鬱さを吹き飛ばすように笑った。それこそ、全てを忘れるように騒いだのだった。ものを食べて、こんなにも救われたのは、初めてだった。




