大樹(1000アクセス突破記念)
緩やかに過ぎる日常。
俺達は「子供」という、ある種の壁に守られて生活を続ける。
社会に出るまでに与えられた猶予。
俺達は、この壁の向こうでは、無力だ。まだ。
けれどそれは、大人でないから、ではないと考える。
肉体が耐えられるようになるまで、待っているだけだ。
では、大人になるというのはどういう事か。
俺は、年齢と成長は比例するものではないと考える。
積んできた経験と、それに伴いさざめいた感情の深さ。
それが俺達から「子供」の壁を剥いでいくのだ。
それは幸運な事だろうか。
成長とは喜ばしい事なのだろうか。
俺には分からない。
ただ言えるのは、成長する事で「視える」世界は格段に広くなっていく事だけだ。
視えた方がいい事。視えない方がいい事。
それはどちらが多いだろう。
ただ俺の意見では。
視えない所で世界が動くよりも、例え成す術がなかったとしても、目の前で世界が動く方がいい。
俺から「子供」の壁を剥いだのは、俺の唯一の肉親であったはずの、父だった。
俺の父は早くに妻……母さんを亡くし、そのまま再婚もしなかったために、父と子二人っきりで生活していた。
父の部屋に飾られた、まだ若い、大学生位であろう父達の写真。
その写真を見つめ、大学生時代の話をする父はひどく優しい眼をしていた。
それは、懐かしい過去の話というよりは、現在に続く出来事の始まりを語っているもののように思えた。
そのために、今でも父が母さんを愛しているのだと、そのために再婚しないのだと、それが誇りであるかのように思えたものだ。
そうは言っても父との二人きりの生活。寡黙な父とのそれは息苦しくも会ったが、それを不満に思った事はなかった。
何故なら、俺には二人の幼馴染がいる。
父の写真にも写っている大学時代の父の友人の、子供。
樹と琉樹という名前の、大変可愛らしい二人だ。
この場合の「可愛らしい」は「容姿」と「性格」にかかる。
俺はこの二人に激甘である。
それは当然の事だ。
どこか、ぼーっとしている樹。伏し目がちな眼にかかる、睫毛はなんと長いのだろう。あの少し痩せ気味な身体でフラフラしているのを見ると、思わず拉致監禁してしまいたくなる。
フランス人形のごとき琉樹。少し灰色がかった瞳や、口紅いらずのその赤い唇。その細身からどうして、あの朗々とした歌声が流れ出るのだろう。思わずいじめたくなる。
美しいものが嫌いな人間などいない。二人の事を考えていると思わず顔がにやけてしまう。
つまり、俺はこの二人を溺愛しているのだ。
この二人が眼に見える所にいない時、俺は自分でも信じられない位、何も出来なかった。
俺の行動の一つ一つ、どれをとってもそれは樹と琉樹のためのものであり、そうでない事には無関心だった。
俺はいっそ、三人が同じ生き物であったなら、とすら思っていた。
そんな風に生きていた、小学三年生だった頃の話だ。
その日も俺は、樹と琉樹と、琉樹についてきた琉禍と、四人で遊んでいた。
まだ帰りたくないと、ごねる琉禍をおばさんが迎えに来た。
「駄目よ琉禍。もう帰らなくちゃ」
おばさん……琉樹と琉禍のお母さんは綺麗な人だった。
父の写真と比べれば随分と年をとってはいたが、それでも若く美しくあろうとする意思があった。
琉禍はおばさんの言葉に首を振って樹にしがみついている。
樹が、表情には出ていなかったが、困惑していた。
「琉禍。大丈夫。また明日会えるからね。明日なんてすぐだよ」
俺は琉禍のためではなく、樹のためにそう言った。……嫉妬心も強かったかもしれない。
「……琉禍。また明日」
樹はそう言って琉禍の頭を撫でた。……。
「……大樹?まだ遊んでるのか?」
そこで俺は後ろから急にかけられた声に振り向いた。父だ。
「父さん。今日は仕事早く終わったんだね!」
「ああ」
父はふと視線を上げた。
「香子……」
香子。それは誰だろう。俺が父の視線を辿ると、そこにはおばさんがいた。
そうだ。おばさんは父の同級生だ。仲がとてもよかったはずだ。
「……馨君。久しぶりね?」
馨、は父の名前だ。
「本当に……何年ぶりになるのかな」
「この子……琉禍が生まれてからだから、七年ぶりかしら」
「それじゃあ、彼が琉禍なのか……?」
父の目は、樹にしがみついていた琉禍に移った。
「琉禍…君。おじさんに顔を見せてくれるか?」
樹に促されて、琉禍は顔を向けた。
父は脆い物を触るかのような手つきで、琉禍の頭を撫でた。
琉禍はきょとんとしている。
「随分と……大きくなったね。……口元なんかお母さんにそっくりだ」
「目元は……父親に似たわ」
おばさんはそう呟いた。
父の仕事は休みが不定期だ。日曜は仕事をしていることが多い代わりに、平日に休みがある。
あれは確か、やはり俺が小学三年生だった、あれからそう遠くない時のことだったと思う。
俺が学校から帰ってくると、その日休みだった父が、電話で喋っていた。
父は俺が帰ってきた事にも気づかずに、こちらに背を向けていた。
耳のいい俺には、微かだが、相手の声も聞こえた。
「馨君……確かに私は不本意だったわ。でも、今は……」
「今は、何だ?香子。幸せだ、とでも言うのか?」
父のそんなに苛立った声を聞くのは初めてだった。
「そんな事……ただ、今はあの頃とは違うわ」
「何が違うんだ?俺達は昔と変わらない。今も昔も俺達は……」
「やめて馨君。言わないで……」
「俺には君だけなんだよ、香子。何も変わっていないんだ。ずっとお前の事を思っている」
「馨君……」
「そうじゃなきゃ、あんな事出来なかったさ。お前を奪い返すために俺は……」
「やめて。琉禍の事をそんな風に言わないで。琉禍はただ……私達が愛し合っていたから生まれたの。手段みたいな言い方しないで」
「……分かってる。琉禍は俺の子でもあるんだ。だが、それでもこれで君を奪い返せると思ったのも確かなんだ……まさか、君が全部隠したままだとは思わなかったがね」
「私は自分の子供を守るためなら、それ位の嘘つけるわ。あそこで離婚していたら、琉禍は……。それに、馨君……貴方だって結婚しているのよ?」
「……俺は、妻を愛してなどいなかったさ。だが結婚しなければ、今でも君を愛している事がばれていただろう」
アイシテナドイナカッタ。……愛してなどいなかった?
その言葉だけが、俺の耳を正確に捉えた。
その言葉だけが、俺の頭の中でぐるぐると回っていた。
……目の前が、赤い靄がかかったように霞んで見えた。
頭の中の、霞んだ脳裏に浮かぶ疑問。
何で母さんと結婚したのか?
何で父は大学時代の写真を大事にしているのか?
何で父はその頃の事をあんな風に、過去の事ではないように話すのか?
……電話の内容を考えれば、それはすぐに察せられた。
答えは単純だった。そして全て同じだった。
奪われた香子さん……琉樹のお母さんをずっと、今でも愛していて。
取り戻すために、父は。
父は、母さんを。
愛してなどはいなかったのだ……
その後の事は、よく覚えていない。
俺は気づくと、暗く沈んだ自分の部屋で、ベッドに突っ伏していた。
俺は自分の「子供」の壁が剥がれたのを感じた。
その後、年を得て、父を問い詰めて知った事だ。
俺の父と、琉樹の母は、かつて付き合っていた。
だが琉樹の父と、樹の母は、それを疎んでいた。
ただ、自身の恋情のために。
琉樹の父と樹の母は協力して俺の父と琉樹の母の仲を裂き、結果として琉樹の父は無理に、琉樹を孕ませる事によって意中の人を得た。
だが一方で、樹の母は俺の父に拒絶され、傷心のまま田舎の実家に戻ったところで、強引に見合い話を受けさせられ、結婚した。
樹の母は抵抗したが、傾いた実家の家業を建て直すために、まとまった金が必要だった両親に強要されて結婚した。
俺の父は、幼馴染の大人しい母さんを、疑われずに琉樹の母に近づくために、結婚相手にした。
……俺達は、望まれずに生まれてきたのだ。
だが嗚呼、琉禍。哀れな腹違いの異母兄弟。
お前だけが望まれて生まれてきたんだ。
俺達三人とは違って、お前だけが二親に望まれて生まれてきたんだ。
誰にも呪われる事なく。
誰にも疎まれる事なく。
お前だけが、望まれて生まれてきたんだ。
この事を知ったら、樹と琉樹は何と言うだろう。
ただでさえ、二人は自身の恋情に縛られて心掻き乱されているというのに。
二人は、自分達の親までも恋情のために身動き出来ず、その結果自分達を産んでしまったと知ったら、何と言うだろう。
樹はきっと、笑うだろう。
翳のある寂しげな笑みで、笑うだろう。
琉樹はきっと、泣くだろう。
ぐしゃぐしゃの汚い顔で、泣くだろう。
二人は、様々な事に歪むだろう。
そうして様々な事に疲れ果て、歪むだろう。
今の俺と、同じように。
俺は自分が歪みきっている事などとっくに気づいている。
二人のためなら何でもする。変質的で狂的なまでに。
例えば俺は、自分の生まれた経緯を知った事に感謝している。
そのために俺は、「子供」の壁から抜けだせたのだ。
そのために俺は、愛しい樹と琉樹を、彼等自身の激情に気づき、それから守るために動けるのだ。
心の傷は時間が癒すだろう。だが歪みは治らない。一生歪んだまま。
俺は自分が歪む事など構わない。
だが俺の可愛い、愛しい二人が歪む事など、俺は認められない。
例え、樹が俺を愛する事で歪むのだとしても。
例え、琉樹が俺を憎む事で歪むのだとしても。
そのためなら、俺は。
どんな悪魔にだってなれるのだ。
俺には二人の幼馴染がいる。
樹と琉樹という名前の、大変可愛らしい二人だ。
この場合の「可愛らしい」は「容姿」と「性格」にかかる。
俺はこの二人に激甘である。
それは当然の事だ。
どこか、ぼーっとしている樹。伏し目がちな眼にかかる、睫毛はなんと長いのだろう。あの少し痩せ気味な身体でフラフラしているのを見ると、思わず拉致監禁してしまいたくなる。
フランス人形のごとき琉樹。少し灰色がかった瞳や、口紅いらずのその赤い唇。その細身からどうして、あの朗々とした歌声が流れ出るのだろう。思わずいじめたくなる。
美しいものが嫌いな人間などいない。二人の事を考えていると思わず顔がにやけてしまう。
つまり、俺はこの二人を溺愛する保護者なのだ。
俺の「経験」は、二人と同じように、俺が子供のままでいる事を許してくれなかった。
だが、それには感謝しなくてはならない。
そのおかげで、俺は愛しい二人を守れるのだ。
この、神などいない現実から。
俺達の捩れた互いへの感情。それはきっと、いつか俺達を傷付けるだろう。
いつか俺達を引き裂く事すらするかもしれない。
俺はただそれを恐れ、問題を先延ばしにする事を選んだ。
それが、俺を、樹を、琉樹を傷つけることだとしても。
それで二人を歪めずにすむのなら、俺は……
それは最高の選択ではなかったかもしれない。
だがそれは俺の出来る最善の選択肢だった。
嗚呼、愛しい樹と琉樹。
どうか、歪まないで。
どうか、そのまま綺麗なままで……
しばらくぶりです。甲崎零火です。
何記念にするか迷った(人数の数える方法が変わったため)のですが、無難にアクセス数でいきました。
さて、今回は大樹編です。前回の琉禍編に微妙に絡んだお話でございます。
タイトルにもなってる大樹ですが、当初の予定では、全く「話に触れられない人物」の予定でした。
過去編の中でうっかりでてしまってるんですが、本来は「逆光になってる」みたいな感じで、ルックスも会話もほぼなしで通すつもりでした。彼のイメージは全て「神様みたいな人」で通すつもりでした。樹と琉樹で微妙にイメージが食い違う事が感じ取れる位の出演予定だったのです……出来なかったんですが。
いや、「神様」って、人によってイメージ違うじゃないですか。だからあんまり出したくなかったんですよ。
やっぱりその方がよかった気がしてきた……
というわけで、私の中でイメージゼロだったために全く動いてくれない子でした……今回凄く納得行かない。
そのうちすぱっ!と書き直す予定でございますです。過去編の方も含めて。
ところで、こんな時間(午前五時)に更新するなんて、誰も更新した事気づかないですよね……何て言いつつお暇します。呼んでくださってありがとうございます。
甲崎零火でした〜。次は本編「樹/現代」で更新します(予定)。