八、少女の名
湯から上がり、衣を脱いだ部屋へ戻ると、いつの間にか布が一枚と真新しい衣が用意されていた。一体いつ、と思いながらも男は布を手に取る。そして、それで濡れた体を適当に拭いた。案の定、布は瞬く間に薄汚れてしまう。男は渋面を作りながら、次に小袖を手に取った。群青色のそれに袖を通し、黒い帯を締める。すると、そこには一本の紐が残った。
(これは……?)
深い色合いの赤い組紐だった。男は手の中のそれをしばし見つめ、
(髪を結え、ということか)
と解釈する。確かにこのままでいるわけにもいかないだろう。男は紐を口にくわえると、髪を手で束ね、不馴れな手付きながら髪を一つに結った。首回りが何となく落ち着かない。
「客人」
不意に外から声がかかった。聞き覚えのある声だ。それは確か、疾風と呼ばれていた男のものだった。男は戸に手をかけ、開く。そこには予想通りの人物が立っていた。
「案内をせよと主より命を受けた」
それだけ言うと彼はすっと踵を返す。必要最低限のみ、という対応に男は思うところがなかった。むしろ、当然だろう。拒む理由もない男はその背を追って歩き出した。
玄関から屋敷の中に入り、長い廊下を歩く。屋敷の中はその大きさと不相応に人の気配がなかった。
(静かだ)
聞こえるのは廊下を歩く二人分の足音と外で小鳥がさえずり、風がゆく音ばかりだ。男は先を行く案内人の背中を追いながら、その音が遠退いていくのを感じた。どんどん屋敷の奥の方へと進んでいく。
ふと、疾風が足を止めた。どうしたのか、と男が釣られて足を止めると、彼は目の前の襖の前で静かに片膝を着く。
「主」
「疾風か、ご苦労」
中から答えた少女の声に応じるかのように襖が開いた。案内人は素早く脇へ退き、立ち尽くす男をちらりと見上げる。その目は中へ入るよう、促していた。
「……ふむ。見れた姿になったな」
前を見る。そこでは座敷の上座に胡座をかき、頬杖を着いた少女がいた。感慨深そうに呟き、つくつくと喉を鳴らして笑っている。その側に控えている緋衣は溜め息を吐いた。
「姫様」
たしなめるようなその言葉に少女はひょいっと首を竦める。しかし、その顔は悪戯のばれた子供のように無邪気だ。そんな主人に緋衣は再び溜め息を吐きながら、申し訳なさそうに男に笑いかけた。男は僅かに首を横に振ってそれに応じる。そんな中、少女はずいっと体を起こした。
「そんなところで棒立ちしておっても仕方がない。まあ座れ、客人。緋衣め、お前が来るまで酒は出さんといって聞かんのだ」
「当然です。姫様はもう少し我慢することを学んでくださいませ。……お客人、どうぞこちらへ」
むう、と頬を膨らませる少女をたしなめながら、緋衣は男に席を勧めた。見れば、上座に向かい合う場所に席が用意されている。まるで客をもてなすかのようだ。実際そうなのだが、それは男にとって初めての経験だった。
躊躇いながら踏み出した足の裏に伝わる畳の感触にぞわり、と背筋に悪寒が走る。出来る限り、その事を顔に出さないようにしながら席に付いた男に少女は言った。
「盃を持て、客人。乾杯といこう」
すでに酒で満たした白い陶器の盃を少女は掲げる。男もそれを手に取ると、側に寄ってきた緋衣がにこりと笑った。
「お注ぎします」
そう言って、白い繊手が瓶子を持ち、盃に酒を注ぐ。それは今まで社に奉られた男に与えられていた濁酒とは違う、澄んだ清酒だった。
「久々の客人に」
少女が宣言する。その表情は本当に客を迎えたことを喜んでいるようだった。目の前にいるのが穢れの鬼であるにも関わらず、だ。少女はまるで何も知らないかのような無邪気さで一気に酒を飲み干す。
「っぷはぁ! 久々の上物は美味いな!」
少女はけらけらと笑って、手酌で二杯目を注ぐ。そして、恨めしげに緋衣を見た。
「全く。客が来なければ上物を出さんとは。出し惜しみはするものではないぞ?」
「姫様に飲みたいだけのお酒を出していたら、三度の食事が汁物とお米だけになってしまいますもの。それに、良いものはたまに口にするから良いのです」
緋衣は取り澄ました様子で答える。すると少女は再びからからと笑い出した。
「三食汁かけか! それは困るな!」
そう言いながらも少女は二杯目を呷る。それから、男を見て首をかしげた。
「どうした客人。酒は苦手か?」
「……いや」
男はぐいっと盃を傾ける。喉を滑り落ちていくそれは確かに美味い。思わず一思いに飲み干していた。その様子を見て少女は、はははっと高らかに笑う。
「良い飲みっぷりだ! そうでなくてはな」
楽しげな少女を目の前に、男はしばらく沈黙した。
先程から屋敷の主はこのささやかな酒宴を楽しんでいるように見える。しかし、それ以上は何も見えない。彼女が何者なのか。その答えは霧の中で姿を隠し、ただ笑うだけだ。
男は意を決して口を開いた。
「……お前は何者だ?」
その問いかけに少女は盃を傾ける手を止める。それから、にやりと笑った。
「ああ。そう言えば、名乗っておらんかったな」
その言葉に緋衣が無言のままに主人を諌めるような眼差しを向ける。しかし、少女はどこ吹く風といった様子で微笑み、盃を置くと少し居住まいを正した。
「我が名は四季宮 梓」
そこには堂々たる威風と誇りが見てとれる。
「四神衆が筆頭、四季宮家の現当主だ」
四神衆。それは狩人を示す言葉だ。他の誰でもない少女、四季宮 梓がそう彼らを呼称した。
霧の向こうからその正体が姿を現す。それはひどく楽しげに笑っていた。
衝撃の事実! ですかね?
とりあえず、梓の名前が出せた! これから楽になるぞー。