七、水鏡
母家をぐるりと回り込んだ先にある、離れのような場所に案内された。中に入ると木の匂いがすう、と鼻を抜ける。四方を囲う白みがかった木肌に清潔感があり、男は何となく居心地の悪さを感じた。
「ここがお風呂場になります。脱いだ衣はこちらへ。お上がりになるまでに替えの衣を用意いたしますね」
床に置かれた竹の編み篭を示しながら緋衣は言う。それから、戸を指し示して
「こちらが浴室となります」
と付け加え、首をかしげた。
「何かご不明な点はございますか?」
男は無言のまま、首を横に振る。そんな無愛想に気分を害した様子もなく、緋衣はにこりと微笑んだ。
「それでは、失礼いたします」
すっと一礼して、彼女はその場を後にする。遠ざかる足音が消え、しんとした部屋で男はぼろぼろになった衣を脱いだ。その体にはいくつもの真新しい生傷がある。男はその内の一つである右腕の傷に目を落とした。
猟犬に喰い付かれた傷だ。もし、男が人間だったならそのまま肉を喰い千切られていただろう。しかし、男の傷は微かではあるが癒え始めていた。こればかりは穢れの鬼の体の利点と言える。
しかし、元を辿れば男が穢れの鬼であるからこそ与えられた傷だ。男は傷から目を離すと浴室へと足を踏み入れた。
そこは前の部屋と同じ木で作られた部屋だった。浴槽には澄んだ湯が満々と貯められている。男はまるで自分が白い紙に一滴落とされた墨のように思えて、ひどく居心地が悪いのと同時に罪悪感に似た何かを感じた。
浴槽を覗き込むと湯が鏡のように男の姿を映している。長らく伸びるように伸ばしたままの乱れた黒髪。その間から覗く黒い双眸は鋭く、その顔は鬼という名に相応しく凶悪だった。
(俺はいつからこんな顔でいたのだろう)
まだ自分が人間と呼ばれていた頃はどんな顔をしていたのだろう。記憶の彼方でぼやけてしまったそれは思い出すことが出来ない。それだけでなく、人間だった頃の記憶はほとんどない。むしろ、ずっと昔から自分は穢れの鬼だったのではないだろうかとも思える。
(俺は、何だ?)
耳の奥で少女の声が男にその名を問いかける。その答えは穢鬼だ。ならば、自分は穢れの鬼なのだろうか。
(あの時、人間の“俺”は死んだのか……?)
最奥の記憶の男はまだ人間だった。もう何もかも思い出すことが出来ないが確かに人間だった。
だとしたら、今の自分は一体何者なのだろう。水鏡の向こうには一匹の鬼がいる。肌は黒ずみ、いくつもの傷を抱えた鬼がこちらを見つめていた。
男は水鏡の向こうに手を伸ばす。その指先が水面に触れた瞬間、波紋が鬼の姿を消した。そして、その指先から黒ずんだ濁りが広がっていく。まるで、その身に纏う穢れが溶け出しているようだ。男は嗤った。
(何者でもいい)
頭から落ちるように、湯の中へ体を沈める。水鏡の向こうには何もいなかった。男は息苦しさに水面へと顔を出す。見れば、湯はすっかり濁っていた。久々に見る素肌は病人のように青白い。その肌に黒い髪がべったりと張り付いている。今の自分はきっとみすぼらしい見てくれだろう、と男は思った。
(どんな姿でもいい)
湯が傷口に染みる。しかし、それも生きているからこそ感じるものだ。
「……生きたい」
小さく呟いて、男は笑った。外界へと解き放たれてからこの願いが一際強くなったように思える。それ以外、何も考えていない。
男は鬼の姿を求めて水面を見た。しかし、濁った水鏡がその姿を写すことはなかった。
穢鬼様のターン再び! 短いけどね!
さて、次はついにあの子が何者か分かってきます。お楽しみに!